《 弐 》





 その瞬間。




――― 略法!伏敵!急ぎ律令の如くせよ!」




 凛とした銀鈴のような声が空気を震わせた。
 はっと我に返り、反射的に声の主へと振り返った真弘は其処に立つ華奢な人影に目を瞠る。



( …っ、何やってんだ、あの馬鹿! )



 己の躰を敢えて敵の前に曝すように立つその姿に、一瞬背筋が凍り、ざっと肌が泡立つ。
 同時に凄まじい光と熱を纏った霊力が真弘の傍で膨れあがり、爆発した。
 珠紀の掲げた霊符から生まれた光球は、空気を切り裂きながら蛇のように突き進み、突然の事に一瞬、気を削がれたアインとツヴァイを呑み込んだ。
 そしてそのまま木々を薙ぎ、深く地表を抉りながら諸共に大地に激突する。
 その甚大な威力に思わず息を呑む真弘の前で、珠紀は間髪入れず二枚目の霊符を構える。



「略法!伏敵!急ぎ律令の如くせよ!! 」



 珠紀がそう唱えた瞬間、その双眸が黄金色に輝いた。
 同時に再度霊符から光球が生まれ、それは瞬く間に人一人を包み込める程の大きさにまで膨れあがった。放たれた光球はそのままアインとツヴァイが叩きつけられた場所を押し潰すように爆発し、大地に深い窩を穿つ。
 それを見届けた珠紀はしかし、更にとどめとばかりに三枚目の霊符を取り出し、そこでふらりと蹌踉めいた。
 だが、ぐっと脚を踏みしめて持ち堪えると、挑むように霊符を胸の前に高く掲げる。




「 …略法!伏敵! …急ぎ、律令の如く、せよ!! 」




 振り絞るような気迫を込めた叫びが周囲に木霊する。
 次の瞬間、激しく木の爆ぜるような音と共に稲妻が生まれた。
 珠紀の腕に絡みついたそれは、まるでその裡の霊力の総てを吸い上げたかのように一瞬にして眩さと光量を増し、幾筋もの光の蛇へと成長する。
 一枚目の霊符などとは比較にならない程の威力で放たれた幾筋もの光の鞭は空を裂き、再度大地に炸裂した。
 霊力の刃に薙がれ、吹き飛ばされた木々の欠片と土がばらばらと音を立てて降り注ぐ。濡れた土と下草の蒼く湿った香りが漂い、爆音が耳鳴りのように反響しながら辺りを震わせ、溢れる白光が真弘の視界を灼いた。

 そして、霊符の齎した力と光の洪水は、始まった時と同じく急速に収束し ――― 消えた。
 後に残るのは、宙を舞い、時折月光をきらりと反射する細かな土埃のみ。
 あれほど力に溢れていたアインとツヴァイの気配も、今はもう殆ど感じられない。


「 ……… 」


 茫然とその光景を見つめる真弘の視界の中、それまで真っ直ぐに屹立していた少女の姿が、不意に揺らいだ。

( ――― 倒れる! )

 反射的に身を翻した真弘は軋む手足に鞭打ちながら駆け寄り、足元から崩れ落ちる珠紀の躰を間一髪で何とか抱き留めると、ほっと息をつく。
 僅かに遅れてふっと腕に掛かる重みが軽くなり、貌を上げると彼の反対側で拓磨が同じように少女の躰を支えていた。
 互いの貌に焦りと安堵の入り交じった、何とも言えない複雑な表情が浮かんでいるのを目にし、どちらからともなく苦笑浮かべ ――― 真弘は腕の中に視線を落とす。
 月に照らされた珠紀の白い貌は、今は血の気が引いてひどく蒼ざめて見えた。閉じられた瞼を縁取る睫毛が頬に深い影を落とし、額にはうっすらと汗の粒が浮いている。
 その様子だけでも、少女の細い躰にどれほどの負担が掛かったのかが容易に知れる。
 しかし呼吸は落ち着いており、どうやら命に別状など無いように見受けられた。

 貌色の悪ささえ無ければ、まるでただ静かに眠っているかのようだ ――― そんな事を考えた時、珠紀の長い睫毛が震えた。
 ゆっくりと瞳が開かれ、現れた普段通りの優しく深い色合いの栗色の双眸に、我知らず真弘は安堵する。


「 …まひろ、先輩? …拓磨?」


 一瞬意識を無くしていたのか、疲労で思考が廻らないのか、何処かぼんやりした様子で珠紀は瞳を瞬かせる。
 それからゆっくりと真弘を、そして拓磨を見遣り、ややあって力の抜けた躰を二人に預けたまま、ふわりと笑った。


「 …よかった… 」


 心の底から安堵したように珠紀は呟く。
 その笑顔を目にしている事が何故か居たたまれず、真弘はぐっと貌を顰めた。
 こいつは何も解っていない。そんな思いが脳裏を掠めた途端、不意にかっと頭に血が上る。


――― こぉのっ、馬鹿が! 幾ら大したことない霊符でもなぁ、立て続けに三枚も使うなんざ、正気の沙汰じゃねえ!! 下手すりゃ死ぬぞ!! 」
「 ………だって」


 いきなり声を荒げた真弘に、珠紀は驚いたように瞳を瞠った。決まり悪げに少し貌を逸らすと、そうしなければ皆が危ないと思った、とまだ辿々しい口調で呟く。


「それに、ほら、だいじょうぶ…だもん」
「 …そういう問題じゃねえ」


 続けられた珠紀の言葉に一瞬、怒鳴りかけ、真弘は危うい所で押さえ込んだ。代わりに胸の裡に溜め込んだものを吐き出すように、無言で大きく息をつく。

 珠紀には大したことのない霊符だと言ったが、美鶴が何年もかけて霊力を練り込んだあれは一枚でも凄まじい威力を秘めていた。
 霊符はそもそも、術の発動を簡略化するものであって、其処に込められた力を完全な形で解放するには、扱う者にもそれなりの霊力がなければならない。
 そういう意味では、美鶴の霊符は、並の術者なら一枚発動させただけでも下手をすれば昏倒しかねない代物だった。実際、珠紀も霊符を渡された際、美鶴から忠告を受けていた筈だ。決して立て続けに使うなと。
 ところがそれをこの少女は躊躇いも無くあれだけの威力で、二枚どころか三枚も連続で発動させたのだ。今の憔悴ぶりからして恐らく、三枚目を発動させる前には自身の躰に何らかの自覚症状は在った筈だ。

 それを顧みず術を放った珠紀の行動は取りも直さず、たとえ自分が倒れても構わないと覚悟していたという事になる。
 それなのにただ自分達の無事を喜び、晴れやかな貌で屈託無く笑っている珠紀を見ていると、何故か真弘はそれ以上、何も言えなくなった。


「 …ったく、無茶しやがって」


 顰め面のままでぽつりと真弘は呟く。…と、そんな真弘の後を引き継ぐようにごつ、と鈍い音を立てて珠紀の頭に握り拳が落ちた。

「 …いた」

 本当はさして痛くなど無かったが、珠紀は思わずといった様子で小さく声を上げ、ゆるゆると上を見上げた。
 そんな珠紀に拳をくれた当人の拓磨は、両腕を組むと眉を顰めてこれ見よがしにふう、と溜息をつく。

「 …バカ。俺は逃げろと言ったんだ。何聞いてたんだよ、おまえ」
「もう…せっかく、頑張った…のに。…ひどいよ、ふたりとも…」

 拓磨の苦言に、ぼそぼそとそう珠紀がぼやく。
 だが、いつも通りのようでいながら気遣うように此方を見つめる気配を二人から感じ、ゆっくりとその貌が綻んでゆく。
 拓磨はそれに苦笑にも似た笑顔を返し、その隣で真弘もまた、何とも言えない表情のまま、微かに口の端を上げてみせた。





 ――― それは、運命を共にするもの同士の微笑。
 今、三人の心が繋がっている。そう珠紀が思えた瞬間だった。











§












 ……… その折の事を、後に珠紀は述懐する。








 その時の自分は、満足感で一杯だった。
 やっと役に立つ事が出来た、自分の力で皆を護る事が出来たという喜びと安堵に充たされていた。
 自分にも出来る事がある、これで漸く皆の仲間になれたとすら、思っていたかもしれない、と。




 その直後に齎される絶望の事など、彼女は予想すらしていなかった。
 まして“彼”がどんな気持ちでいたのかという事など、思い至る事さえ出来なかった。











 ―――――― 運命というものの、真の残酷さを思い知らされる、その時まで。










【 …To be Continued. 】





2006.9.18(MON)UP.


< Written by Yuki Kugami. 2004-. / Site 【 月晶華 】 >






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