§








あの日からふとした折に胸に浮かぶのは、いつもたった一つの鮮烈な記憶。

降り注ぐ蒼白い月光、異界の森の樹々が地上に投げかける昏い影。
草葉を揺らす秋風の不穏な気配、破壊と絶望と血の匂い。











そして ―――
ただ独り、月明の中で凛と佇む、少女の姿。











§












《 壱 》





 こうしてロゴスと対峙してどの位の時間が経ったのだろう。
 酷く長いようでいて短いような、曖昧な時間感覚の中、眼前の敵の姿を見据えながら真弘は頭の隅で考える。
 極度の緊張の連続で、真弘からはとうに正常な時間感覚は失われていた。重度の疲労が更にそれに追い打ちをかける。自分の荒い呼吸音が耳を衝き、渇いた喉は張り付くようで、彼はその不快さに無意識のうちに眉を顰める。





 ……… 勝てるかもしれないという淡い期待が覆されるのに、さして時間はかからなかった。

 彼の前には今、一人の青年が立っていた。
 その青年は細身の躰にぴたりと添った衣装を纏い、腕には不釣り合いな程の大鎌を無造作に提げている。
 色素の薄い蒼白い貌、感情の見えない赤銅色の瞳。その瞳の片方は眼帯に覆われ、残るもう一方が無機質な光を湛えて真弘に向けられている。
 しかし彼の双眸には凡そ“見る”という意志は感じられなかった。まるで空疎な虚が穿たれているかのように、底の無い鈍色の闇を湛えて、其処に“在る”。
 全身を漆黒の衣装に包まれた姿は辺りを覆う闇に溶け込み、灰色の髪が月光を受けて、それだけが浮かび上がるように鋼色に輝く。



 “死神”。



 自我も感情も抜け落ちたかのような、およそ生の息吹というものからは程遠い有様は、正にその二つ名を体現しているかのようだった。
 有り得ない異能の力、尋常でない気配。圧倒的な存在感を放ちながらも、決定的に“何か”が欠落した存在。




 ただの人間では有り得ない(・・・・・・・・・・・・)




 唐突に胸に浮かんだ言葉に、反射的にぞくりと背筋が震える。


 ――― 駄目だ、と思う。
 この相手には、決して勝てない。…少なくとも、今の自分では。


 真弘の理性は冷静にそう判断を下す。
 その傍らで、生来の勝ち気な性と自尊心、そして屈折した感情が敗北を認める事を拒絶する。
 背筋を這い登る震えもまた、決定的に己より上位に位置する存在、或いは異質な者に対する本能的な畏怖に因るものだという事を理解しながらも、真弘は自らの意志で強引にそれをねじ伏せる。
 これまで守護者として生きる事を義務づけられ、その生き方しか許されなかった。それ故の矜持が、逃げるという選択肢を排除する。
 だが。

 真弘は、ツヴァイの動きに神経を集中しながら、もう一つの気配を探る。
 そして視界の端で、先ほど居た所から殆ど動きもしないまま立ち尽くしているその気配を…彼女(・・)の姿を確認する。

( …くそ、逃げろって言ったろーが…!)

 胸の裡で舌打ちせんばかりに真弘は呟く。
 恐怖に竦んでいるのか彼女自身の意志なのか、何れにしろ、少女がその場から動く様子は全く無く、苛立たしげに彼は奥歯を噛み締める。
 彼女(・・)がこの場にいる以上 ――― このままでは全員、ただの無駄死にだ。

 秋の涼気を含んだ空気は張りつめた緊張を孕み、ぴりぴりと真弘の肌を刺す。それは一瞬の隙が命取りとなる事を如実に伝え、じりじりと額や背を伝う汗の感触がより彼の焦燥を煽る。

 この闘いは厳しい。否、自分達に勝ち目はほぼ無きに等しいだろう。
 そして今、守護者達は皆、目前の敵に相対するのに精一杯で、肝心の珠紀の守りはがら空きだった。
 自分は ――― 自分達は、もうあまり長くは敵を抑えていられない。畢竟、珠紀まで闘いの巻き添えになる。
 しかし最悪、総ての守護者が倒れたとしても、玉依姫さえ生きていればまだ手の打ちようもあるだろう。あの先代が何の策も意図も無く、このある種無謀な闘いに全員を赴かせたとは考えられない。

 だからこそ自分達守護者は、何があっても珠紀を、“玉依姫”を ――― “封印”を、護らなければならない。
 古からの契約通り、たとえこの命と引き替えてでも(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)

 だが、逃げろともう一度叫びたくとも、乾きに干上がった喉はまともに言葉を紡ぎはしなかった。絡みつく血が喉を塞ぎ、鉄錆びた味が咥内に広がる。
 後はせめて彼女が大人しくしていてくれる事を願うだけだ。
 …それもさしたる気休めにもならないが。

 真弘は掠れた荒い呼吸を響かせながら、無言で血糊を吐き捨てる。
 直接の攻撃こそ一度も受けてはいないものの、全身が既に悲鳴を上げていた。
 守護者の躰は普通の人間よりも余程丈夫で回復力も桁外れとは言え、所詮は生身。限界を超えて能力を酷使すれば到底、保つ筈も無い。
 恐らく、細い筋肉や血管が、能力の酷使による負荷に耐えきれずに切れたのだろうが、その為か気を抜くとすっと意識が途切れそうになる。
 どうやら貧血まで起こしているらしい。
 呼吸する度、胸の奥に疼痛が走るのは、内臓も痛めているからかもしれない。

 淡々と自分の状況を判断しながら、真弘はツヴァイを睨み据える。
 無表情に真弘に視線を向けている様子からは、相手にどのような思惑があるのか、窺い知る事は出来なかった。
 此方の出方を量っているのか、獣が狩りの獲物を嬲るように反応を愉しんでいるのか、或いは本当に何も考えてなどいないのか。

 ただ、冷めた瞳で真弘を見据え ――― 不意に。
 ツヴァイが、ゆっくりと死神の鎌を構えた。


( …来る! )


 大鎌の刃が地を擦る不吉な音を耳にしながら迎え撃とうと振り上げた真弘の手刀はしかし、疲労で思うようには動かなかった。

 のろのろと力無く上がる腕。
 漆黒の鎌を手に舞い降りる死神。

 一瞬のうちの出来事である筈のそれら総てが、酷くゆっくりと意識に捉えられ、真弘は頭の片隅で漠然と死を意識した。










【 …To be Continued. 】





2006.9.8(FRI)UP.


< Written by Yuki Kugami. 2004-. / Site 【 月晶華 】 >






BACK⇒NO.1緋色の欠片・御題連作INDEXNEXT⇒NO.2《弐》