――――― 霜楓 ―――――

〜 弐 〜









§









 …ふっ、と、馴染んだ温かなものが遠ざかる気配。
 朧気な意識の中でそれを捉えた彼は、無意識の内にそれを追って腕を伸ばした。


 その指先に、柔らかなものが、触れる ―――…。







「…――― 継さんっ?」







 耳朶を打った、驚いたような澄んだ響きの声音に、泰継ははっと瞳を開いた。
 途端、沈黙に閉ざされていた意識に、辺りに充ちる梢の揺れるような微かな音と共に、鮮やかな紅を湛えた色彩が甦る。
 秋の涼気を湛えた微風が頬に触れ、瞳にかかる長い前髪を微かにそよがせた。

 片手で躰を支えながら、まだはっきりとしない視界に映る見慣れた景色に、泰継はぼんやりとそこが北山の庵の、庭に面した一角の房であることを思い出す。
 そうして傍らから斜めに射し込む淡い午後の陽射しの眩しさに顔を顰めながら横へと少し瞳を逸らすと、何処か心配そうに泰継を覗き込む、大きな若草色の双眸が見えた。


「花梨…?」


 泰継の声に応えるように、花梨はふわりと微笑いかける。


「 ――― ? 私は…」
「ごめんなさい、起こしちゃって」


 なかなか自分の現状が認識できず、軽く頭を振り、前髪をかき上げながらそう言いさした泰継に、花梨はすまなさそうな表情を浮かべる。

「すごく気持ちよさそうに眠ってたから、何か掛けるものをって思ったんですけど…」

 そう言いながら何となく困ったように視線を泳がせる少女を不審に思い、その視線を追った泰継は、そこで漸くしっかりと彼女の腕を捉えている自分を認める。


 …あの、温かなものが離れてゆく気配は、その時のものらしい。
 どうやら二人で御簾際から庭を眺めている内に、いつの間にか意識を飛ばしていたようだ。

 そんな自分に、泰継は内心で小さく苦笑する。





 ――― そこへ、庭から風に乗って飛ばされて来たのか、二人の頭上からひらり、と一枚の楓の葉が降ってきた。
 目の前を過ぎり、ちょうど手元に舞い降りたその一葉に気を惹かれたのか、花梨が何気なくそれを掌に受け止める。





 その姿が、つい今し方、夢に見た過去の光景と重なるようで泰継はふと、何とも言い難い感慨を覚える。
 …気がつくと、掴んでいる細い手を引いて、華奢な少女の躰を抱き寄せていた。

 なんの抵抗もなく腕の中へ倒れ込んできた花梨は、一瞬、慌てたように身動ぎしたが、しっかりと肩を包み込まれると、頬を仄かに染めたまま大人しくなった。

 代わりに若草色の瞳がそっと、泰継の貌を仰ぎ見る。



「…どうかしたんですか?」



 柔らかな声が、躊躇いがちに腕の中から響く。
 何か感じる処があるのか、気遣わしげに見上げてくる瞳に、泰継はいや、と緩やかに頸を振った。
 だが少女は言葉は口にしないまま、何かを待っているかのようにじっと彼を見つめている。

 泰継は軽く瞳を伏せると、微かな溜息を洩らした。



「…夢を、見ていた」
「 ――― 夢、ですか?」
「ああ。 昔の記憶 ―――…いや、あれが想い出、というものなのか…」



 夢現を漂うような、漠とした様子で声を紡ぐ泰継に花梨は内心驚いた。常日頃から理路整然とした物言いをする彼が、こんな曖昧な表現をする事は珍しい。
 だがそんな花梨の驚きを余所に、泰継は言葉を続ける。


「以前、お前と北山へ紅葉を見に行った時の事だ」
「北山って…? …あ、一年前、の?」
「…こうしてお前と楓を眺めていたから、思い出したのかもしれないな」


 最初は一体いつの事かと頸を傾げたが、すぐに泰継の言わんとしている事に思い至り、小さく声を上げた少女に、彼はそんな答えを返した。

 その琥珀の双眸は、紅葉の降りしきる庭へ向けられている。今は遠いようにも、或いはつい先頃の事のようにも思える過去を、見透かすかのように。
 そんな彼の横貌を見つめる花梨の脳裏にも、かつての情景が甦る。




「 ――― あの時の私には、お前の言った「綺麗」というものがどういうものなのか、判らなかった…」




 ぽつりと呟くような声が、薄い唇から零れる。



「いや、それだけではない。 お前が何を思っているのかも判らなかった。 だが、それも私がひとではないのだから当然なのだと」
「! 泰継さんっ」



 花梨はさっと貌を曇らせる。
 少し怒っているように眉根を寄せている様子に、泰継は思わず苦笑した。
 そしてそんな少女を宥めるかのように、すらりとした指先で柔らかな薄紅色の髪を優しく梳いてゆく。



「…そう、思っていた。 それなのにお前の微笑みを見て、何故か胸が痛むような…だが温かい心地がした。 そして、ずっと見ていたいと、思った」
「 ――― え?」



 途端、大きな若草色の瞳が見開かれた。
 そして俄に目元を赤らめると、戸惑ったように視線を揺らし、瞳を瞬かせる。
 そんな花梨に泰継は仄かに口の端を緩めると、腕の中の温もりを確かめるように両腕に力を籠める。








 今もはっきりと覚えている。否、たとえ、「忘却」というものが自分に訪れたとしても、忘れる筈が無い。

 自分を映す、微笑みを湛えた優しく澄んだ春の緑の瞳。
 触れた指先の柔らかさ。
 そしてそんな花梨の瞳も温かさも微笑みも…総てが、いつかはこの手の内から失われるのだと思った瞬間に過ぎった、寒々しい感覚。








 ――― あの時は、それが何なのか判らなかったが…。








「思えば、私はもうあの時に「感情」というものを知っていたのかもしれないな…」








 何かを「綺麗」だと感じる心、「淋しい」という感覚。
 そして ――― 愛おしく想う気持ち。
 そのどれもを自分は感じていたのかもしれない。

 ただ、それを理解しようとばかりした為に、その時は気づく事が出来なかっただけで。








 …泰継は腕の中の花梨を見つめる。
 口元には穏やかな微笑。
 深く澄んだ琥珀の瞳が、柔らかく甘やかな光を湛えて少女を捉える。
 その上からはらりと緩やかに紅葉が舞い落ちて、白皙の頬に淡い緋色の影を落とす様に、花梨は暫し、見惚れた。








 今こうして間近から見上げる彼の貌には、以前のような儚げな翳りは少しも無い。

 ――― たとえ、言葉には出来なくても。
 あの時の想いは、確かに伝わっていたのだ。








 花梨はことん、と泰継の胸に頭を預けた。
 彼の背中へとそっと細い腕が回される。

 …くす、と思わず小さな笑みが桜色の唇から零れた。




「花梨?」




 訝しげに問いかける声に、花梨はしっかりとそのひとの瞳を見つめながら、にっこりと笑ってみせる。




「幸せだなって、思ったんです。 泰継さんと一緒にいられて…。 一年前のあの時は…こんな風に一緒にいられるなんて、思ってなかったから」
「 ―――…ああ」




 泰継は一瞬、瞳を見開き、それからふわりと貌を綻ばせる。





 束の間の眠りも。
 そのあわいに漂う夢も。
 鮮やかに甦る想い出も。
 胸の胎を揺らす様々な想いも。

 総ては、この腕の中に在る唯一人の少女が齎らしたもの。





 決して得られはしないと思っていた ――― 大切なひとと共に在る、『 幸せ 』。





「…私が今、「幸せ」でいられるのはお前のおかげだ。 ――― 花梨。」
「泰継さん…」



 柔らかな声音で名を呼ぶと、泰継は少女の貌へ掌を添える。
 頬に触れるしなやかな指に、花梨は恥ずかしげに頬を染めながら、ゆっくりと瞳を閉じた。









 ――― 柔らかく吐息が重なり、優しい熱が少しずつ、滲み入るように互いを充たしてゆく。
 その胎にある想いと共に。








 …そっと、合わされていた唇が離れた。
 吐息も触れ合う程近くで、互いの瞳に映りこむ自分の姿に小さく微笑いあう。

 ややあって、細い指先が泰継の狩衣の袂を捉えた。





「 ――― ね、泰継さん。 紅葉、見に行きませんか?」
「あの場処へ、か?」
「そう。 一緒に見れば、きっとすごく…綺麗、ですよ」





 緩やかに紡がれる花梨の澄んだ声が、耳朶を打つ。
 包み込むようなその声音は、彼の中へ静かに滲み入ってくるようだった。

 それは彼の胸に目に見えぬ、だが温かな漣となって広がってゆく。















――― こうして、自分を鮮やかに染め変えた温かな想いは、
忘れ得ぬ想い出となって降り積もり。

虚ろだった自分の胎を、穏やかに充たしていくのだろう。





今、大気に淡い淡紅色を映しながら大地に優しく舞い降りる、
緋色の葉のように…。
















 泰継は、澄んだ瞳で見返している花梨の耳元に頬を寄せる。
 少女は一瞬、大きな若草色の瞳を見開いたかと思うと、くすぐったそうに笑った。

 その気配をすぐ傍で感じながら、泰継は瞳を伏せる。












「…そうだな。お前と共に眺める景色は、きっと美しい…」












 …――――― 耳元で囁かれた柔らかな声は、花梨の面に浮かぶ微笑をさらに深くし。
 頬を優しく撫でる秋風に、ゆっくりと…溶けていった。




















【 FIN. 】





2002.11.10(SUN)UP.

< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >










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