――――― 霜楓 ―――――

〜 壱 〜









§









「うわぁ、やっぱり綺麗…」


 頭上を覆うように一面に広がる紅葉の樹々を見上げ、花梨は思わず感嘆の声を上げた。
 深い紅を宿すもの、淡い朱に仄かに黄色みを残すもの、瑞々しい緑と朱の双色に染まるもの…様々な色彩が鮮やかに視界を彩り、少女の目を惹きつける。


「…紅葉が珍しいのか」


 魅入られたように佇んで樹々を仰ぐ少女に、泰継が静かに問いかける。

 彼らの今いる北山は、目の前の少女が初めてこの世界に降り立った場所。しかもその後も怨霊退治などで幾度も足を運んでいる。この場所の紅葉も見慣れたものだろう。
 それにそもそも、樹々が育ち、若葉を繁らせ、秋霜を受けて紅や黄にその葉を染め変えながら散ってゆく事は、時と共に繰り返される自然の摂理であって、泰継にとっては特に某かの感慨を齎すものでもない。

 ところが、今日は他の八葉の都合が合わなかったのか、他に同行者がいないので気分転換に散策したい、という神子に従ってやって来たのが、この北山。そして当の彼女は先程から飽きることなく散りゆく楓を眺めている。
 まるでそれを初めて目にしたかのように楽しげに。



 …別段、それがどうという訳ではない。彼女がそうしたいというのなら、その望みを叶えるまでの事。何か問題がある訳でも無い。

 ――― 無いのだが。



 泰継の言葉に、宙を見上げていた花梨がふわりと振り向いた。
 向けられる視線に問いかける様子を感じ取ったのか、小さく笑ってみせる。


「紅葉が珍しい訳じゃないんですけど。 でもこんなにたくさんの楓の木がある処って、なかなか見られないから…」
「…楓ならば紫姫の邸の庭にもあるだろう」
「それは…そうなんです、けど」


 淡々と指摘する泰継に困ったような貌でそう答えると、それ以上の説明に窮したのか、花梨は向けられている双色の瞳を避けるように僅かに視線を泳がせる。
 何故かその頬が仄かに染まっているのを怪訝な貌で見返す彼に、少女は、…ここの楓を見たかったんです!と決まり悪げに呟いた。
 そしてそのまま、くるりと躰の向きを変えると、また視線を景色の方へと移してしまう。

 そんな神子の様子に釈然としないものを覚えながらも、泰継はもう問いを重ねはしなかった。




 …その時々の感情を素直に表すこの少女は、近頃、何故か時折このような反応を自分に見せる事があった。
 そのような時にはいくら問いつめても、貌を赤らめるばかりで決して理由を語ろうとはしない。その度、気も乱れはするのだが、特に悪い影響があるという事も無い。
 かといって、自分の言動の内の何かが彼女の気に障った…という訳でもないらしい。




 ――― 故にこんな時は彼女の気が落ち着くまで見護るのが、ここの処の泰継の常だった。




 彼は小さく吐息をつくと、緩やかな仕草で腕を組み、傍らの樹の幹へとその背を預けた。
 そうして視線のすぐ先、紅葉と戯れるかのような少女の姿を、ぼんやりと眺める。












――― ひらり、と、ひとひらの葉が
あえかな風に運ばれて、少女の傍らを過ぎる。



少女は散りゆくその一葉に両手を伸ばし、
掌に舞い降りたそれを瞳を輝かせて見つめる。

かと思うとそっとその紅葉を指で取り、
大事そうに包み込む ―――…。













 …その光景を映す双色の瞳が、ふっと眩しげに細められる。


 紅葉が舞い降りる様を「綺麗」だと言って、微笑んでいる少女。
 彼女はほんの些細な、一瞬一瞬の自然の変化にさえ素直な感情を表して、その大きな澄んだ瞳を瞬かせ、嬉しそうに見つめている。












 ………このような景色を見れば、「綺麗」だと感じるものなのだろうか。
 感情が…心が動くものなのだろうか。




 ――――― ひとならば。












 …そこへ、はらり、と目の前を過ぎる、ひとひらの影が映る。
 その鮮やかな緋色は頼りなく宙を漂いながら、吹く風に攫われるように、ただ、落ちてゆく…。












「 ――― 「綺麗」、か」





 知らず、小さくそんな声が零れた。
 そんな己に、泰継は内心で苦笑する。


 すると、抑揚の欠けたその声音に引かれるように、薄紅の柔らかな髪が翻った。
 若草色の大きな瞳が、彼の姿を認めて見開かれる。








 …泰継は、視界を過ぎる紅葉をただ見るともなしに見つめていた。


 物憂げな色を宿す伏し目がちな双色の瞳を縁取る長い睫毛が、頬に淡い影を刻む。
 僅かに上向けられた彫像のように整った貌に、樹々の合間から零れる木漏れ日が落ち、辺りの紅の色を映して淡く色づいた陽の光がその輪郭を朧気に見せる。


 風の音も、息吹も、生き物の声すら聞こえない静寂に、ただ紅の葉だけが音もなくひとひら、またひとひらと降り注ぐ…。








 凛とした静謐さの中に儚さすら秘めたその姿は、その静寂の内に溶け込んでしまうかのようだった。


 確かに其処に…手を伸ばせば届く距離にいるのだと知っているのに、触れ得ざるものであるかのように、遠く、隔絶された場所。
 凪のように動く事を忘れた、閉ざされた世界。


 清澄で美しく、だが触れれば壊れそうなその光景はまるで孤独に凍りついてしまった彼の心のようで、何故か酷く哀しかった。
 胸が締めつけられるように痛むのに、どうしても目を離す事が出来ない。












 …ふ、と花梨は思わず、貌を歪める。












 ――― と。

 何も言えないままに彼を見つめて立ち尽くす花梨の気配に気がついたのか。
 不意に泰継の澄んだ双色の瞳が、少女を捉える。
 貌を覗き込むようにしてゆっくりと首を傾ける彼の、秀でた額にかかる絹糸のような翠緑の髪がさらさらと音を立てて流れる様を、花梨は間近から声もなく見つめる。



「…どうした?」



 抑えられた低く透る声。
 だがそれは常よりも穏やかに響く。

 花梨は何か口にしかけ、…すぐには言葉に出来ずにそのまま口を閉ざした。
 そうしてただ、頸を振る。


「神子」
「…なんでも、ないです」


 漸くそれだけ答えると、花梨は躊躇いがちに視線を合わせる。



 真っ直ぐに向けられている双眸。
 花梨を映す深く澄んだその瞳は、温かい気配がした。
 そこに宿るのは何処か案じるような、優しい色。



 かつて、自分はひとではないから、ひとの持つこころなど理解出来ないのだと言った泰継。
 何かを感じるという事も、ひとの思いも感情も、判らないと。



 ――― けれど泰継は、いつだって気遣ってくれている。
 ただ、自分で気がついていないだけで。

 彼が持っている優しさも温かさも、その瞳や表情をしっかりと見つめれば判る。
 …心に、伝わる。
 こうして傍でそれを感じているだけで、幸せな心地にも切ない気持ちにもなるのだから。
 そう、だからきっとその胎(うち)に在るものは、自分と何も変わらない。





 それなのに、何も感じる事が出来ないなんて事が…ある筈が無い。





 …花梨は、もどかしい心地のまま、小さく息をつく。
 じっと見つめている泰継に、もう一度、なんでもないというように小さく頸を振って見せた。
 そしてそっと彼の腕を取る。

 驚いたように少し瞳を見開いた泰継に、花梨ははにかむように微笑った。
 言葉だけでは伝えられない感情も、想いも、温もりも、 ――― 少しでもこの掌から伝わればいいと、そう、思いながら。

 その華奢な躰の胎から湧き起こるかのように浮かんだ、優しく柔らかな微笑に、泰継は一瞬、魅入られる。










 …言葉は無かった。










 ただ、彼の腕を取ったまま、寄り添うように佇む少女の傍らで、微かに胸を刺すようでいて温かい、今まで覚えた事のない言い知れぬ感慨に、そっとその双色の瞳を細める。





 泰継に向けられた神子の微笑は何処か切なげで、だが優しく…胸に染み入るようだった。

 そう、この少女の言動にはいつも何故か、惹きつけられる。これまでただ自分の胎に降り積もるばかりだった「記憶」とは違い、その言葉や表情、行動が、時に温かさや痛み、安らぎ…様々なものを伴って胸に残るのだ。




 それはまるで、躰の奥深くに眠る何かを呼び醒まされるかのような、不思議な感覚…。












――― いつか、神子が自分に齎らすこの感覚の意味を知る日が来るのだろうか。

そしてその瞳が、心が捉えているものを知り、「感じる」事が出来る時が。





………いつか、は………?













 不意に胸に浮かんだものに戸惑うように、双色の瞳が揺れる。
 我知らず、あてどなく視線を彷徨わせた泰継は、いつの間にかこちらを見上げていた花梨と目が合った。


 微笑みを湛えながらも何処か物言いたげに見つめている、澄んだ若草色の瞳…。





「………」





 何を思ったのか…自分でも判然とはしないままに、ふと泰継の薄い唇が震える。





 ――― 瞬間、ざっと秋の涼気を孕んだ風が音を立てて吹き抜けた。
 ざわりと一斉に揺れた枝葉から、風に薙がれた無数の緋色の葉が舞い上がる。
 舞い散る紅葉は辺り一面を紅に染め変え、思わず目を眇めた泰継の視界を遮るように二人の上に降り注ぐ。












少女の貌も。
その優しい微笑も。
風に翻る薄紅の髪も。
輝く若草色の瞳も。



総てがほんの一瞬、鮮やかな緋色の闇に覆い隠される…。













 ――― 誰もいない、虚ろな空間。
 ただ音も無く、時が流れゆくだけの。

 それはいつか必ず訪れる逃れようのない現実を、唐突に彼に思い知らせた。








 今は滞っている京の気の巡りも、そう遠くない未来に正されるだろう。
 「龍神の神子」は、その為に此処にいるのだから。
 そして繰り返される三月毎の眠りと目醒めを二巡りも数えれば、また同じ紅葉の季節がやってくる。

 だが、その時にはこの少女はもういない。








 …それが、理。
 常に変わることなく廻る自然の流れと、在るべき場所に在るべきものが在るという法則。

 たとえ同じ季節が巡り来ても、時は流れ、神子は在るべき場所へと還り…。












 ………そして自分は唯独り、時の狭間に残される。












 そこでふっと柳眉が顰められる。何処か苦しげに。












 ――― 「残される」?
 一体、何を考えているのだろう。

 自然の理の内…移りゆく時の流れに抱かれた者と、時から忘れ去られた者。
 そんな「ひと」と自分の彼我の世界は、決して交わる事は無い。
 初めから違う存在(もの)なのだから。
 そもそも共に在る事の出来ないものに、「残される」などという感傷など、ありはしない。


 …その筈だ。


 そして自分は、神子の微笑の意味も、切なげな瞳の奥に秘められたものも、永遠に知る事はないのだろう。

 答えを告げてくれる少女は、次の秋にはいないのだから。
 自分は、「ひと」の「感情」を理解出来る存在ではないのだから。





 まして、その思いを共有するなど…。












 泰継は、ゆっくりと双色の瞳を閉じる。
 それ以上、深く考える事を畏れるように。

 その胸には、今し方吹き向けていった秋風がまるで己の身の胎をもすり抜けたかのように、冷たく凍えた感覚だけが残っていた。















 ――― この瞬間に自身の胎に齎されたものを何と呼ぶのか。
 泰継にはまだ知る術は無かった。

 ただ、結ばれている掌から伝わる温もりを離したくなかった。












…そうして、優しく触れているその感触を、確かめるかのように。
彼はその手に力を籠める。




それに応えるかのようにそっと握り返された指先に、
少し、胸の胎の冷たさが和らいだような、気がした ―――…。




















【 To be continued…. 】





2002.11.1(FRI)UP.

< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >








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