…――― 初めに微かに感じたものは、「私」を包み込むかのような、
懐かしい澄んだ光と力の気配。
まるで、護り、抱くかのように。
そして。
…誰かに、名を呼ばれたような気がした。
低く透る、優しい、声で…。
§
ふと気がつくと、花梨は独り、その場所に佇んでいた。
視界に一面に広がるのは、漂う空気までもがきらきらと金色の光を放つ、暖かく、不可思議な空間。
足元には淡く透きとおる花びらを持つ純白の花が咲き乱れている。
髪を優しく撫でてゆくかのような緩やかな風が時折吹き抜け、その度に幾つもの淡色の花弁が舞い上がる。
その風に乗り、甘く胸に染み通る、心を落ち着かせるような薫りが仄かに漂ってくる。
「ここは…」
ぐるりと辺りを見回しながら、花梨は小さく呟いた。
自分を取り巻く風景は、思わず見とれ、目を惹きつけられるほど美しい。
だが、其処に在るもの…その景色も、咲き乱れる花々も、今、確かに踏みしめているはずの大地すら、何故か現実味が乏しかった。
まるで眠りに落ちた自分が、意識や感覚は目醒めたままで、夢の中を彷徨っているかのように。
しかし、その総てのものを包み込むかのような穏やかな空気は、何処かで覚えがあるような懐かしさと安堵を花梨の胸に齎していた。
その空気は…そう、最後の物忌みの日、龍神の声を聴いた、あの空間に似ている…。
花梨はまだぼんやりとしている頭を軽く振ると、額に掌を当てる。
確か…自分は龍神を喚んだ筈。
百鬼夜行を祓い、大切な人達を護る為に。
そして…その怨霊の胎に取り込まれた人々の想念を浄化する為に。
自分の想い。
泰継の想い。
千歳の願い。
そして八葉達や紫、深苑の願い。
それが力となって光の柱を創り…天から応龍が現れて、そして…。
“…――――― そなた達の祈りは我に届いた。叶えよう、神子。その願いを…。”
花梨の耳に、意識を失う寸前に聴こえた龍神の声が甦る。
“「私の願いを叶える」…?じゃあ、もしかして…”
思い浮かんだ一つの答えに、掌を額から降ろすとふっと頭を上げ、瞳を瞬かせる。
…途端、花梨は自分の心に、切ないような優しい何かが漣のように押し寄せるのを感じた。
まるで、自分を呼んでいるかのように。
…それは確かに、かつても一度感じた覚えのあるもの。そして…。
花梨は惹かれるように天を見上げる。
細い指先が、呼びかけの気配に応えるかの如くに何かを訴える胸に伸び、その鼓動が次第に早まってゆくのをはっきりと感じ取る。
もしも自分の願いが叶えられたと…自分が、龍を喚んだというのなら。
いま、自分の心に響くものは。
「花梨」を呼び醒ました、この波は…想いは。
「泰継さん…?」
応えるかのように、ふわりと吹いてきた風が、花梨の頬を優しく撫でる。
…その時。
「…百鬼夜行を祓ったな。さすがは白龍の神子、と言うべきか」
不意に響いてきた硬質な、「現実」の声に、花梨ははっと振り返る。
「またしても、私は龍神に負けたか。…いや、それとも白龍の神子に、と言うべきか…?」
背後から届く「声」は、呟きのようにそんな言葉を洩らす。
少女は辺りを満たす光に眩しげに瞳を眇めながらも、その声の主の名を呼んだ。
「アクラム…」
若草色の瞳の数歩先に在る人影は、辺りを舞う光を受けて眩く輝く金色の髪を、緩やかな風に流した、美貌の鬼。
その顔を覆う白い仮面は無く、いまは素顔を晒しているようだったが、逆光でその表情は定かには見えない。
つい今し方まで対峙していた時に漂わせていた澱んだ気配も薄れ、静かに、辺りの空気を乱すことなく佇んでいる。
何処か自嘲げに紡がれた声でさえ、口惜しさも怒りも憎しみも、およそ感情を激した様子は微塵も感じられず、落ち着いていて穏やかだった。
その気配に心の奥で安堵したのか、花梨は何気なくアクラムの方へ近づこうとし…ふと、足を止めた。
何故か、それ以上進んではならないような気がしたのだ。
まるで、目に見えぬ何かが其処に存在する事を知っているかのように、ぴたりと立ち止まったまま、躰はいっこうにそれ以上動こうとしない。
“行ってはならない”…“違う”のだ、という自分の「声」がする。
それは理性的な判断というよりも寧ろ、某かの直感。
或いは「心」の告げる、自分自身の「想い」のようなもの。
「…どうして…?」
戸惑ったように見返す少女の瞳に映るのは、辺りの景色に溶け込むように佇むそのひとの姿。
視線を彷徨わせる自分とは対照的に落ち着いて其処に在るアクラムの姿はしかし、自分よりもずっと朧気に見えた。
手を伸ばしたその先に触れるものが在るのかといぶかしむほどに。
其処に存在していることは、確かに判るというのに。
…それを目にした瞬間、花梨は本能的に自分の感覚の意味を理解した。
自分の全身が伝えるものが、何であるのかを。
――― 恐らくそれは、自分とそのひとが今在る「場」の…「世界」の違い。
二人の間に横たわってしまった、何らかの境。
それは単なる自他の境か。
「人」と「鬼」という、相争わざるを得なかった自分達の、拠って立つ場の差異か。
最後まで解り合えなかった「自分」と「そのひと」の隔たりか。
互いがその胎に抱く、「想い」の違いなのか。
或いは ―――…
其処まで考えた所で、まるで陽炎のように時折揺らぐアクラムの姿が再び視界に映り、花梨は思わずぎゅっと両手を握り締める。
…今、この瞬間に自分が感じ取っているものこそが、自分が選んだことの答え、なのだろうか。
静かに目の前に立っているアクラムの様子からは、そんな花梨の動揺を感じ取っているのかどうかは、判らなかった。
だが、神泉苑での時のように憑かれたように花梨の力を求める事も無ければ、それ以上自分から近づいてくる気配も無い。
…そうしてただ、穏やかなほど落ち着いた風情で彼女を見つめている。
或いは彼もまた、少女同様、自分達の間にあるものを、感じ取っているのかもしれなかった。
「…どうした?浮かぬ顔だな」
ふと、花梨の様子を面白がっているかのような、笑みを含んだ声が掛けられる。
「お前の願いに龍神が応えた。百鬼夜行は祓われ、京もひとも滅びを免れた。それなのに何が不服なのだ」
「不服、なんて…」
何と答えればいいのか判らないまま、花梨は困惑した顔で緩く頭を振る。
不服…不満?
いまあるこの現実が?
――― 判らない。
大切な人を護りたかった事も京を護りたかった事も事実なのだから。
それが叶った、というのなら…。
迷うようにきゅっ、と唇を噛みしめて視線を落とした花梨に、重ねて問いが発される。
「では、これ以上何を望む?」
望み…?
奇しくも先ほどまでの自分と同じ事を訊ねるその言葉に、少女は僅かに目を瞠る。
…大切な人たちを護ることと、アクラムが自分に求めていた何か。
そのどちらかを選べと言われれば、自分は間違いなく前者を選ぶだろうと今なら判る。…けれど。
けれど、確かに「何か」を ――― そう、「救い」の様なものを自分に求めているかのような薄碧の瞳に、応えられないかとも思ったのだ。
その望みが何なのかは、最後まで判らなかったけれど。
「…あなたは、どうして私に逢いに来たの?本当は…何を望んでいたの」
「…そのような事を聞いてどうする。所詮、お前はひと。私は鬼。互いに相容れぬ存在。お前はまだ鬼とひとが分かり合えるなどと思っているのか?」
問いに問いで答えるかのような花梨の言葉に、呆れとも苦笑ともつかぬ吐息が返る。
求める答えが返ってくるとは思っていなかったが、あまりにも想像通りのそれに少女は一瞬、眉根を寄せた。
アクラム自身、自分が本当は何を求めていたのか、自覚していないのか。
それとも彼の中では、既に全ての結論が導かれてしまっているのか。
…だからもう誰の力も、語る言葉も必要無いと…?
「あなたは、いつも自分以外のひとの事を見ようともしないんだね…」
小さな吐息と共に呟かれた言葉に、彼は何も答えなかった。
肯定とも否定とも取れる沈黙だけがその場に落ちる。
「どうしてあなたは…自分から孤独になろうとするの」
ぽつり、と呟かれたその言葉に、薄碧の瞳が不意に細められた。
「――― お前も、あれと同じ事を言うのだな」
「…えっ?」
大きく瞳を見開いた花梨に、アクラムは口を閉ざしたまま、微かに口の端を歪める。
“…――― あなたは、ひとを物のようにしか扱えないんだね。蘭も…私も。”
“あなたの気持ちは、何処にあるの?あなたを思ってるひとたちの気持ちは…?”
“あなたには大切なものはないの?無くしたくないもの、護りたいものは…”
“そうしてあなたは、いつも自分から、独りに…”
脳裏に甦るのは、目の前の少女とよく似た神気を纏う、凛とした面差し。
風に舞う朱鷺色の艶やかな髪、翡翠の澄んだ双眸。
――― 黒龍の甚大な瘴気の渦巻く中、少しも乱れず毅然と佇みながら、何故か哀しげに見つめ返していた、その瞳…。
そして、龍を喚んだ。
鬼である自分がかけた術によって、己が神子の心を封じ込められた為に狂った黒龍をも鎮める程の力を以て。
…その後の事は、黒龍の意識に呑まれ、はっきりと記憶してはいない。だが。
恐らく、彼女も還ったのだろう。
彼女を護り、彼女が護った者の元へと。
…アクラムの結ばれていた薄い唇から、細く、息が吐き出される。
そうしている間にも、その意識は自らの記憶の過去からの軌跡を辿り続ける。
“我が神子の心を傷つけ、神をも支配せんとした己が愚かさを
その身を以て知るがいい ―――…”
百年前のあの瞬間、時の狭間に呑まれる意識に、最後に響いたのは黒龍の思念。
そうして飛ばされた先で見たものは、内なる恐怖に囚われ、生に絶望したひとの“想念”の渦巻く、滅びに魅入られた京の都。
かつて百年の昔には、彼らに害を為すとして自分達鬼の一族を屠っておきながら、いまや自ら滅びへの路を歩む京。
それを見た瞬間に湧き起こったものが何だったのか…己にも判らない。
怒りではない。
憎しみでもない。
その様な生易しいものではなく…もっと昏く烈しく澱んだ「何か」。
そうしてただ、冷たく自分の胎が凍りついてゆくのが感じられた。
たった百年の時の流れの中で、自ら滅びを選ぼうとしているひとの都。
一度は生き延びる為に、神の力で一族を消し去っておきながら…。
…今の京の姿がひどく滑稽だった。そして、同時に闇い炎が躰の奥底でじわじわと燻り始めた。
いずれ滅び行くとあらかじめ定められているものが、
生き延びる為に他を駆逐するなど、何と愚かしいことか…。
たとえ、百年前のあの時、自分達が抗わずとも
こうして滅びの時が来るというのなら…。
自分達は何のために存在し、何故に滅びなければならなかったのか。
ただ、その容姿と能力故に「鬼」と虐げられ、
「京に仇為すもの」として謂われなく迫害を受け続けてきた一族は。
百年前の一族の滅亡が、何人も抗えぬ“運命”だったと言うのなら…。
滅びへの意思を生じた“ひと”がいま滅びゆく事もまた“運命”であって、
その流れに“逆らってはならない。”
運命はあくまでも等しく訪れねばならないのだから。
ひとは“滅びなければならない”のだ。
だが逆に、かつて鬼の一族が滅びたのは運命などではなく、
純粋に、種としてひとの方が鬼に勝る存在だったというのなら。
そして自らが生き残る為に一族を滅ぼしたというのなら…。
ひとは決して“自らの意思“などで“滅びてはならない。”
ひとが自ら滅びる事は、
彼らに滅ぼされた鬼という存在を無意味たらしめるのと同じ事だ。
他を犠牲にした勝者が生き続けてこそ、
初めて、犠牲に意味と価値が生まれるのだから。
…だが。
もしも全てが運命だったというのなら、
百年前、自分が滅びに抗った事は全て無意味だったという事なのか。
この自分という存在すらも。
或いは逆に、ひとが種としての勝者だというのなら…。
自分達一族は、この愚かなひとなどに劣る存在だというのか。
…そこに生じる、どうすることも出来ない矛盾と相剋。
…認められない。
そのような事があっていい筈がない。
ひとに自分達一族が劣ることなどあるはずがない。
自分という存在が、その行為が、そして意思が
「運命」という天の意思の前では、須く無意味であったなどと、
認める訳にはいかない。
それを認めるくらいならば、いっそ…。
そこで自らの胎に湧き起こった、暗く凝った幾つもの“思念”。
底が見えないほどに深く、絡みつくような、「闇」。
――― 定められた穏やかな滅びなど迎えさせはしない。
愚かな「ひと」と「鬼」の亡霊である自分の「意思」で、龍という「神」の「意思」を覆す…。
京を守護すべき双龍の力を司る、陰陽の神子の「意思」によって、
穢れと絶望にまみれた全てを無に帰す「滅亡」をこの地に導く。
「鬼」と呼ばれた一族の亡霊である、この自らの手で。
そうであってこそ、自分の ――― 一族の在った証となるのだから。
…――― 滅びる価値しかない、愚かな「ひと」を、滅ぼした、という ―――…。
…だが、いま自分の前にいる新しい白龍の神子と八葉によって、かつてと同じくその念は砕かれ、共に黒龍の意識に呑まれて時を超えたシリンすら、何処かへと姿を消した。
――― あとに残ったのは、時の流れに忘れ去られた己のみ。
…彼はふっと形のよい薄い唇を歪めると、小さく声を洩らす。
「…百年の時を経ても変わらぬ愚かしさ、か」
「………?」
自嘲気に零れた独白に、花梨が意味を量りかねたように眉根を寄せる。
向けられるアクラムの視線は、花梨を見つめているようでいながら、何処か、遠い。
まるで、花梨の胎の懐かしい「何か」を見据えているかのように。
それはこれまでにも目にした覚えのある表情…。
…ふ、とその若草色の瞳が何かに思い至ったかのように、揺れた。
「…あなたは、あの女(ひと)を探していたの?…私の中に」
何処か頼りなげに、しかしはっきりと紡がれたのは、問うのではなく、確かめるかのような響きの声。
そして、じっと若草色の瞳が薄碧の双眸を捉える。
「逢いたかったの…?」
瞬間、虚を衝かれたようにぴんと気配が張りつめたのが判った。
暫しの間、横たわるのは、僅かな緊張を孕んだ沈黙。…そして。
「さあ…どうだろうな」
微かな吐息と共に、ややあって返ってきたのは、そんな一言。
何故か柔らかに響いたその言葉をどう解すべきか判断に迷ったように、花梨は口元に指の背を添えながら首を傾げている。
そんな少女の顔を見遣る彼の胸に、いまは遠く思える記憶がゆっくりと浮かび上がる。
こうして現実に自分の前にいる「白龍の神子」は、記憶の中の面影よりも幾分幼く、頼りなげな風情がある。
面立ちも当然違う。
それでも、その心根、胎に秘める魂の在り様、瞳の輝き…どれもが何処か、“彼女”に似ていた。
それが「白龍の神子」として選ばれた者の持つ資質なのか…それは判らない。だが…。
黒龍を抑える程の力を持ちながら、自分を滅ぼしはしなかった“彼女”。
そして利用されていたと知りながら、ただ排除するのではなく、龍の力で浄化しようとした、この目の前にいる少女。
…確かに自分達の進む路は、最後まで交わることは無かった。
互いの抱く意思を認める事も。
しかし、今のこの自分の胎の穏やかな静けさをもたらしたのが、その二人の白龍の神子であるように思えるのは、何故なのだろう。
最早自分は、意思すらもない数多の塵芥へと帰すばかりだというのに。
…百年前のあの時。
哀しげな翡翠の瞳で見つめながらも、
決して振り向こうとはしなかったあの少女に自分が抱いたものは、
単なる京の民とは違う、神の力をその身に宿す存在に対する興味だったのか、
思うようにならぬ事への苛立ちや憎しみだったのか、
それとも…
迷うことなくまっすぐに「自分」を見つめ、対峙するその存在への
「愛しさ」のようなものだったのか…。
今や、全ては曖昧で、朧気だった。
だが、目の前にいる白龍の神子という存在に、記憶の底を揺さぶられたような気がしたことは、確かだった。
…恐らく、かつても最後まで彼の神子を護っていた者のように
その心を求めたのでも、焦がれたのでもない。
だがそれでも惹かれ、嫉妬していた。
その身の胎(うち)の光に。
絶望も諦念も知らぬかのような毅さに。
全てから自由に解き放たれ、光を放つその魂に。
…そしてその光を躊躇い無く受け入れられる者に。
私は知りたかったのかもしれない。
絶望を知りながらなお、光を喪わずにいられるのかを。
その光が、真に全てを照らすことが出来るのかを。
「鬼」と呼ばれ、絶望よりもなお昏い、数多の想念に取り憑かれたこの身すら、
その光で救えるというのならば、救って見せろと。
――――― この身の胎に巣喰う、荒れ狂う“嵐”を鎮める“静寂”を、喚べと…。
…そして、ゆっくりと向けた視線の先には、こちらを見返す一対の大きな若草色の瞳。
そこに在るのは哀れみでも憎しみでも怒りでも、同情でもなく。
ただ…ひたすらに真っ直ぐな眼差しを向けている。
――― それは、自身の命を賭けてまで、全てを護り、赦そうとするその心そのもの…。
そこまで考えて、彼はゆっくりと薄碧の瞳を伏せ、視線を落とす。
「…もう、いいだろう。何もかも、とうに済んだ事」
「でも!私は、こんな風に、あなたが…!!」
静かな口調でそう言い切ったアクラムに、花梨は思わず反駁しかけ…不意にその唇を閉ざした。
――― 彼の命を絶つつもりなど無かった。
自分に出来る事なら、救いたかったのだと。
そう、いまいくら説いた所で、空言のようにしか聞こえないという事に思い至ったのだ。
そのまま、苦しげに黙り込んでしまった少女に、アクラムは和らいだ淡く透ける瞳を向ける。
「全てのものが光の中で生きてゆけるわけではない。…生が死よりも重い責め苦となることもある。そのような存在にとって「死」とは…「解放」だ」
――― そう、それによってこの身を縛る総ての「想念」から解き放たれる事が出来るなら。
「解、放…?」
胸の中だけで語られた思いなど知る由もない少女が、訝しげに眉根を寄せ、首を傾げるのが見えた。
…この少女には解らないだろう。恐らく、永遠に。
――― 生まれながらにしてその身の胎に光を持つ、龍に愛でられし娘。
神の憑人(よりまし)でありながら、尚、神の意思からすら解き放たれた、自由な心を持つ者。
その存在は、「陽」を司る白龍の神子に相応しく、常に「生」と「光」へ向かう力に満ちている…。
「 ――― お前は還るがいい。「現」の世界へ。私は千尋の彼方へ赴く。お前が見た私は幻。百年前の…泡沫の夢だ」
アクラムの言葉に花梨の肩が驚いたように大きく跳ね、その目が瞠られる。
「そんな…!」
思わずそう叫んだきり、花梨は絶句する。
忘れられる筈がない。
たとえこのひとが、自分や大切なひとを傷つけようとした事が事実でも、その心の奥に在る某かの「思い」に心が引かれた事も本当の事なのだから。
それはきっと、自分の胎に、何かその思いに感じるものがあったという事なのだから。
だから何も無かったかのように…夢のように忘れてしまう事なんて、出来ない。
「 ――― 私は、忘れないよ」
細く、だが芯のある声が少女の唇を震わせる。
「あなたが此処にいなかったら、私もきっと此処にはいなかった。――― 逢う事も無かった筈だから」
アクラムがこの時代へと飛ばされた事は、確かに彼自身の意思ではないかもしれない。
だが、彼が千歳を利用しようとしたりしなければ、そしてそれによって京の滅びが早まる事になっていなければ。
そもそも自分は、この地へ喚ばれる事すらなかったかもしれない。
そして、花梨がこの地へと召喚されたあの時、彼が自分をあの闇の檻から助け出していなければ…。
こんな風に相対する事も、言葉を交わす事も無かった。
それならば此処に在る「現在(いま)」は、決して運命でも、神の意思でもなく。
紛れもなくアクラムの、そして自分達の意思の導いた現実なのだ。
顔を歪めたまま、真摯にこちらを見上げてくる少女の言葉に、そしてその瞳に宿る毅さに、アクラムは一瞬、魅入られたように動きを止めた。
…それから、ゆっくりと、瞳を細める。
――― 或いは自分は、幸運だったのだろうか?
この命が潰える前に、この瞳と魂に、もう一度、出逢う事が出来たのだから。
「ひと」も「鬼」もなく、其処に在る「存在」総てを、ただ一つの「生命(いのち)と捉える、その瞳に…。
アクラムは、少女の顔へゆっくりと長い指先を伸ばす。
と、不意に目の前に立つその人の姿が、紗が掛かったようにぼやけ、輪郭が次第に霞み始めた。
…アクラムは伸ばしかけた指を止めると、透き通るように現実味を喪ってゆく己の腕に、ふと視線を落とす。
そして…彼は微かに微笑んだようだった。何処か、満足げに。
「…時が来たようだな」
広い空間にただ一言、そんな呟きが零れ落ちる。
そのまま、アクラムは花梨に触れることなく、ただ吹く風に流れる美しい金髪に手を添えると、一瞬、風の流れゆく方向を眩しげに双眸を細めながら眺めやった。
…遠く、心を馳せる様に。
――― そして再び向けられる、波の無い湖面のように凪いだ視線。
「…もう、お前と逢うこともない。――― さらばだ。出逢う筈の無かった…新しき白龍の神子」
静かな声が響き、花梨の前に佇むそのひとは、風を招くかのように優雅にその長い指先を翻す。
途端、視界を覆うように、一面に真っ白な花びらが舞い上がった。
それは二人の間を隔て、消えゆく姿を隠すかのように舞い狂う。
…まるで、それが彼の意思であるかのように。
「待って、アクラム、あなたは…!」
咄嗟にその姿へと伸ばしかけた手は風に阻まれ、花梨の声もまた、花弁の渦に呑み込まれ、消えてゆく。
…――――― あなたは、本当にそれで良かったの…?
薄れ行く姿に投げかけた問いが届いたのかどうかは、判らなかった。
いや、そもそも届いていたとしても、彼のひとが答えたかどうかも判らない。
そして、ただ彼の起こした花嵐の名残の花弁だけが、雪のように静かに舞い降りる…。
「……………」
結局、自分がどれほどのことが出来たのか…それを思うと、微かに刺すような胸の痛みを覚える。
だが、その答えを持つ存在は、最早ここにはいない。
花梨に何も答えを残さないまま、去ってしまったのだから。
ただ、その心の胎は量れなくとも、去り際のそのひとの気配がとても穏やかだったことは、自分にも感じ取れた。
それが、最期まで全てを語らなかったそのひとの「声無き答え」なのだと…いう事なのか。
…何かを振り切るようにぎゅっと瞳を瞑った花梨の心に、再び暖かく切ないあの響きが触れてくる。
――― それは、呼び声。
自分が選んだ場所へと導く、大切な声…。
必ず還ると、約束した。
だから、「私」を「呼んで欲しい」、と…。
花梨は漸く、その瞳に明るい光を湛える。
「還らなくちゃ。私も…」
そう、自分を待ってくれている、誰よりも逢いたい人の処へ。
其処が、自分の在るべき場所だから。
…――― そして花梨は、たゆたう暖かい気配の呼ぶ彼方へと、意識を投じた。
To be continued….
2002.2.18(MON)UP.
2002.3.28(THU)加筆修正.