天から降り注ぐ黄金色の光と共に、真晧(しろ)き龍が空高くたなびく雲を割り、神々しい姿を現す。
輝く清冽な光を纏った優美な肢体が舞う度に、細かな眩い光の粒子が辺りに飛び散り、降り注ぐ一粒一粒が恵みの雨のように、黒く淀んでいる穢れを流し去ってゆく…。
「…応龍…」
視界を灼かんばかりの神々しい情景に、誰もが半ば呆然と魅入られたように立ち尽くす中、ぽつりと千歳が一言、呟いた。
――― 応龍。
「陰」の黒龍と「陽」の白龍の合わさった、「龍神」の全き形。
総ての穢れを浄化し、まっさらな姿へと還すもの。
…――― それは、「彼女」の願いが龍神へと届いた証 ―――…。
だが、そこには願いを紡いだそのひとの姿は無い。
…泰継は、我知らず湧き起こる胸を締めつけるような感情を宥めるように、一瞬きつく、瞳を閉ざす。
――― 信じている。
彼女の言葉を。その想いを。
そして、自分自身の想いを。
「呼んで欲しい」と。
自分が呼べば、「きっと還ってこられる」と言った、その言葉を。
次第に開かれる双色の瞳に映るのは、光と共に天を舞う、龍の姿。
それを喰い入るように視界に捉えながら、泰継はその中に一心に花梨の気を探る。
…微かな、手応え。
清く澄んでいながらも、ひとの持つ柔らかく優しい温もりを湛えた、その気配。
研ぎ澄まされた自らの感覚の先に触れる、細く頼りない糸のような花梨自身の放つ神気を感じ取り、彼はそれに自身の気を沿わせ、導くように心の中で呼びかける。
想いの総てを、ただ、一言に込めて。
…あの時のように。
――――― 神子!!
…と不意に空を舞う応龍の携えている龍玉に、淡色の光が灯った。
そしてそれは次第に形を変えながら、少しずつ大きくなってゆく。
丸く形を成す珠から、ゆっくりと…人形(ひとがた)へ。
声も無くただひたすらに見つめる彼らの前で、その光は一つの優しい面影を形作り…すうっとその姿の胎に吸い込まれるようにして、やがて、消えた。
そして、応龍の掌(たなごころ)に抱かれていた華奢な躰はその腕を離れ、風に支えられるようにして、ゆっくりと地上へと近づいてくる。
真っ直ぐに空へと手を差し伸べる ――― 泰継の元へと。
…まるで、初めからそこにいる事を知っていたかのように。
すうっと開かれた、澄んだ若草色の瞳が迷うことなく泰継の瞳を捉え、仄かな微笑と共に細い指先が伸ばされる。
互いの指先が触れ合う。
そして、宙からふわりと降り立った花梨の躰を、泰継は両腕でしっかりと抱きとめた。
そのまま、彼女を抱きしめる彼の腕に、力が籠もる。
「…神子。良かった」
半ば花梨の肩に顔を埋めるようにしながら、耳元で吐息のように零れ落ちた囁きに、花梨は思わず彼の首筋に両腕を回した。
身に馴染んだ落ち着いた菊花の香の薫りが、何故か懐かしく感じられる。
「…ただいま。泰継さん…」
柔らかく澄んだ声で答え、二人は顔を見合わせるとその瞳に映る互いの姿と触れあっている温もりに安堵の笑みを浮かべる。
「 ――― 聴こえました。泰継さんの、「声」」
だから還って来られたのだ、と続ける花梨に、泰継は黙ったまま、淡く微笑を返す。
「呼んでくれて…ありがとうございます」
「礼などいらない。私が、神子を離したくなかった。それだけだ」
「うん。――― でも、嬉しかったから…」
誰よりも強く、自分を呼んでくれた事が。
その声が、想いが、自分の元へ届いた事が…。
心の中でそう呟いて、そっと花梨は瞳を伏せる。
「…そうか」
一言答えると、泰継はそのまま口を閉ざした。
何かを口にすることを躊躇っているかのような雰囲気に、花梨は首を傾げて、その双色の瞳を覗き込む。
「泰継さん?」
「…お前は、それで…良かったのか?」
低く洩らされた声に花梨は一瞬瞳を瞬かせ、ややあってようやく彼の言わんとしている事に気がついた。
彼女は回していた両腕を解くと、泰継の手を取り、大事そうに両手でそっと包みこんだ。
そのまま、こくり、と一つ頷き、彼の顔を見上げる。
「まだ、総ての事が判った訳じゃないですけど」
花梨は一度そこで言葉を切ると、その手を離さないように握りしめる両手に力を込める。
「でも私は、ここへ戻りたかったんです…」
金の髪のあの人の元ではなく。
無論、龍神の元でもなく。
泰継が自分を呼んでくれたように、自分もこの場所へ ――― 彼の傍へ、還りたかったのだ。
だからこそ、彼の声が自分の心へと届いたのだろう。
「呼んで欲しい」と心の何処かでずっと願っていた、自分の元へ。
そしてそれがあの時、自分とアクラムとの間を分かつものとなったのだ。
そう…恐らくは、彼の立っていた「この世ならぬもの」の在る世界との間を。
少女は、躊躇いがちに視線を地へ落とす。
「…あの人の事が気になったのは、本当です。それがどうしてなのか判らなくて…自分の事もよく解らなかった。それが苦しくて、怖くなった事も…」
言葉を紡ぎながら感情が昂ぶってきたのか、次第にその若草色の瞳が潤みはじめた。
そんな彼女を、泰継は微かに揺れる眼差しで見つめている。
…と、不意に花梨は、振り切るように真っ直ぐに顔を上げた。
少女の優しい瞳の奥に宿るのは、痛みと哀しみを呑み込んだかのような、朧気な光。
「でも、さっき漸く…解ったんです。私は、あのひとを助けたかったんだ、って」
泰継の双色の瞳が、花梨の瞳を捉える。
もの問いたげな彼の様子に、花梨は小さく笑ってみせた。
そして、そっと握っていた彼の手を離して腕を降ろすと、そのままぎゅっと固く両の指を組み合わせる。
「 ――― 私が感じたあの人の心は、何もかも諦めきっていて、闇くて、淋しくて、とても…哀しかった」
そう言うと、花梨は不意に苦笑した。
「でも、私も何処かでそれと同じ思いを知っていたから。…だから」
…だから助けたいなどと思ったのかもしれない…。
ぽつん、と少女はそう続ける。
視界の端に映る泰継は、彼女の言葉に驚いたように瞳を大きく見開いている。
「同じ…だと?」
「あのひとも、私も、それから千歳も、みんな、何処かで孤独だったんじゃないかって。そう思うんです。私は、違う世界から京へたった独り、飛ばされてきた。千歳は貴族のお姫様で家族とは離れて育ったし、黒龍の神子として頼れる人は誰もいなかった」
「………」
「そして…アクラムは…鬼としてずっと、迫害されて生きてきた…」
花梨は、細く息を吐く。
…それはこうして改めて考えてみて、いま漸く思い至った事だった。
ひとと鬼、両者の間の争いの起こったそもそものきっかけが何だったのか、それは花梨には判らない。恐らくは京の人々も、そして鬼と呼ばれた彼らにも、もう判らないのだろう。
だから、京の人々が彼らを鬼と呼び、嫌ったからと言って、単純にひとばかりが悪いとも言い切れない。
ただ、それはいつの間にか深刻な溝となり、数で勝るひとの側からの、一方的な侵害になってしまった。
そしてそれが鬼の一族を傷つけ、追いつめ、消える事のない恨みと憎しみと孤独を彼らに…アクラムに植え付けた事も、また事実なのだ。
――― そんな彼がその胎に抱える孤独は昏く、自分などには恐らく理解し得ないほどに深かった。
それは、その孤独を導いているものが、数え切れないほどの「鬼」と呼ばれた者達の「思い」を孕んでいるから。
何十年、或いはそれ以上の、気の遠くなるほどに長い年月をかけて、積み重ねられた「思い」だから。
それでも、その孤独には、何処か自分たちと通じるものがあったのではないかと…今はそう思う。
“「ひと」とは異なる力を身に宿し、その力を以て他を導く者。”
それは陰陽の龍神の力を与えられた「神子」である自分達であり、突出した異能を持ち、「鬼」という一族を率いる者として在った彼の事でもあったから。
だからこそ、自分たちはアクラムを完全に敵視することが出来なかったのかもしれない…。
しかし、そこで彼女はゆるゆると、淋しげに首を振った。
「でも、私じゃダメだったんです。…ううん、他の誰にもどうすることも出来なかったのかもしれない。だって、「誰かを救う」なんて、本当はそんなに簡単に出来る事じゃないから。…そんな事…解っていた筈なのに…」
「…神子」
「私…何処かで自惚れてたのかも。「変える力」を持つ白龍の神子なら、どんな人の心もいつかは解る、きっと救えるって…」
花梨は、それ以上瞳が潤むのを堪えるように、ぐっと息を詰める。
“…――― お前は絶望を知らず、これから先も知ることは無い ―――…”
不意に脳裏に響いたのは、いつか聞いたアクラムの声。
あの時の自分は、確かに「絶望」というものを知らなかった。
けれど今、自分は ――― 知っている。その言葉の持つ意味を。その重みを。
助けたいという気持ちも、理解したい思いも拒絶する、「否定」という意思の力を。どんなに願っても伝わらず、受け入れられない、“隔絶”という名の絶望を。
…それらの齎す孤独と無力感を。
自分には、独りで絶望に囚われずにいられるほどの毅さも力も無かった。
それでもここまで歩んでこられたのは、紫姫や八葉の皆や…何よりも泰継がいて、支えてくれたから。
自分はいつも、八葉や星の一族に護られ、そんな彼らと心を通わせる事が出来た。
そして…黒龍の神子である千歳は、八葉こそいなかったが、最後には花梨に心を開き、応えてくれた。
自分が決して「独り」ではない事を知ったからこそ、自分達は「絶望」と「孤独」を乗り越える事が出来たのだ。
――― そう。
自分達は絶望を知らなかったのではない。
孤独を知らなかった訳でもない。
ただ、差し伸べられる優しい「思い」に支えられて、「絶望」と「孤独」に呑まれなかっただけ。
けれど…あのひとは、それがさも当然のことであるかのように、私は「絶望」とは無縁なのだと言い切った。
龍神の神子とは全てを護り、癒すほど毅い存在なのだと。
それは、違う。
それがアクラムの胎の「白龍の神子」の姿であるのなら、それは自分ではない。
――― それならば、彼が本当に何かを求めていたの、は…。
「もしかしたら、あの女性(ひと)なら、もっと違う答えを選べたのかな…」
「 ――― “あの女性”?」
「…先代の龍神の神子だったひと…です」
独り言のように小さく洩らされた言葉に訝しげに眉根を寄せる泰継に、花梨は躊躇がちにそう、答えを返す。
「何を…。“先代など関係ない”と、お前は私に言った。それはお前も同じだ。何も恥じる事など無い」
強い口調で諭すように言い切る泰継に、花梨は何処か困ったような曖昧な笑みを浮かべてみせた。
「比べてる訳じゃないんです。…ただ、アクラムは本当は私じゃなくて…私の中の、私に似た「誰か」に、逢いたかったんじゃないかと思うから…」
「それが、先代の神子だと?」
こくりと、薄紅色の髪が揺れる。
同時に花梨の胸に氷のように凍てついた、蒼氷色の瞳が思い出された。
いつも真っ直ぐにこちらを見つめているようでいながら、その瞳は、いつも自分を通して別の誰かの面影を見ているのではないかと…少しずつそんな事を感じ始めたのは、何時だったろう?
自分へと語られた言葉、自分の言動への反応…アクラムは常に、自分が毅い意思を持って、「白龍の神子」として、迷うことなく真っ直ぐに前を見つめている事を求めているような気がしていた。
そしてそのどれをとっても、彼が「こう在るべき」と思い描いている「私」の姿は、何処か微妙に「花梨」の姿とは違っている、とも。
――― 何故なら、「花梨」は、それほど毅くはないから。
いつもいつも迷って、助けられてばかりだったから。
そう、だから恐らく自分を見つめる彼の、その視線の先にいたのは「花梨」ではなく…毅い意思を持ち、決して彼の手を取ることの無かった、女性(ひと)。
「絶望」に囚われることの無かった人。
それが百年前にこの地を救った白龍の神子なのではないかと、そんな風に感じたのは、あの不思議な空間での最期の会話の時だった。
そして、もしあの人が自分にその人の面影を重ねていたのだとすれば…初めて出逢った時の、そして神泉苑での最後のあのひとの言葉の意味も解る。
“…龍神の神子、再びお前に見(まみ)えようとはな…”
“…昔から変わらぬな”
あの言葉は、きっとあのひと自身も気付かぬ思いの現れだったのだと…。
To be continued….
2002.3.31(SUN)UP.