――― 風が吹く。
頬に触れるそれは、今はもう真冬だというのにどこか生暖かく、まるで雨が降る前の湿気を含んだ空気のように、重く、絡みつくように躰にまとわりついてくる。
その上空からは暗雲が低く垂れ込め、時折、闇を裂くように鋭く稲光が走る。
…早朝のあの青空が、まるで嘘のようだ。
“…息苦しい…?”
じっとりと張り付いてくる不快な空気に眉を顰めると、花梨は思わず喉元に手を添える。
頭上から何か重たいものがゆっくりと迫ってくるかのような、奇妙な圧迫感。
耳鳴りがしそうなほどにピンと張りつめた空気の中で、切れ切れに響く地を這うような風の唸りに、こめかみがぴりぴりと疼くのを感じる。
――― これが、京の気の歪みと溜め込まれた膨大な穢れから生じるという…「百鬼夜行」の気配なのだろうか。
そんな事を思いながら、毅然と顔を上げている彼女の目の前には、儚げでありながらも瞳から凛とした輝きを放つ、長い黒髪の少女が立っている。
その隣に控えて険しい顔をこちらへ向けているのは、紫姫の双子の兄、星の一族の深苑だ。
そして自分の傍らには、厳しい眼差しの泰継と八葉達、そして紫姫がいる。
「私達の邪魔をしないで。…早く、ここから立ち去って」
決して大きくはないが、強い意志を感じさせる声が黒髪の少女の唇から紡がれる。
「お前の為している事はこの世界を歪めるもの。見過ごすことは出来ない」
厳しい表情のまま、そう答える泰継の隣から、花梨はさらに一歩踏み出した。
その気配を察したのか、黒髪の少女は泰継から花梨の方へ、ゆっくりと顔を向ける。
「千歳、あなたはどうして百鬼夜行を起こそうとするの!? 京を護りたいんじゃなかったの」
ひたひたと迫り来るものの気配を全身に感じ、焦燥感を募らせる自分の心を抑えながら、花梨は自分達の前に立ちはだかっている千歳を見据えた。
深い色合いの眼差しが挑むようにその視線を真っ向から受け止める。
…その瞳が一瞬、細められた。
「私が百鬼夜行を起こすのではないわ。あなたが起こすのよ」
それを聞いた花梨の面に、戸惑いが浮かぶ。
――― 自分達が百鬼夜行を起こす…?
「…私は、私達は百鬼夜行を起こしたりしない。私達は京を救いたいと思ってるんだから。その為にここまで来たんだから…」
「いいえ、あなた達のしている事が百鬼夜行を起こすのよ。だから、私はそれを止めに来た」
「…――― 何を、言っているの?」
黒髪の少女が向けてくる、迷いのない視線と確信に満ちた口調に、花梨は困惑したようにただ一言、そう洩らす。
――― 訳が分からなかった。
自分達からすれば、京に気の流れを止める結界を張り、その結界を維持する為に怨霊と四神を用いて京の気を奪うなど、千歳の行動は敢えて京の気を歪め、穢れを増幅させようとしているようにしか見えない。
…そう、あの金の髪の鬼 ――― アクラムも言っていた。
黒龍の神子が京の気を結界によって止め、歪めた為にこれまでに無いほどの穢れが溜まり、「百鬼夜行」が起こるのだと。
だが千歳は、その行動が正しいと信じている。“京を護る”為に。
そして京を滅びに導くのは、白龍の神子である自分と八葉なのだと…。
――― でも、何故?
どうして千歳と自分は互いに全く正反対の事を正しいと信じているのか。
どう理解すればよいのか判らず混乱し、言葉に詰まる花梨の背後で、不意に低い地鳴りのような音が響き、一瞬の閃光と共に彼方で雷鳴が轟いた。
その音に、はっと深苑が頭上を振り仰ぐ。
同時に、その幼い面に焦りの色がちらりと過ぎるのが見えた。
「千歳殿、時間が無い。歪みに力が集まって来ておる…急がねば」
「…そうね」
「待って、千歳!!」
深苑に一言答えて踵を返そうとする千歳の背に花梨が呼びかける。
千歳の言った、“京を護りたい”という言葉が本心ならば、自分達はもっときちんと話をしなければならない。
何が自分達の間で食い違っているのか、そしてどうすることが一番よいことなのか…それを知るために。
だが、そんな花梨の思いとは裏腹に、千歳は背を向けたまま、すげなくただ短い言葉だけを返した。
「もう、話すことは無いわ。言ったでしょう?私達は違いすぎるのだと。――― 急がなければ百鬼夜行が始まってしまう…私は、どうしても止めなければ」
理解し合うどころか、初めから自分達と話し合うことすら考えてもいないかのような千歳の様子に、花梨は唇を噛みしめる。
…千歳は、今までもずっとこうだった。
自分達は何もかもが違いすぎる。だから話しても無駄なのだと。
深苑もいつか言っていた。
“自分達は互いに違う道を歩いている。そして自分達の選んだ道は、「京の絶望を見ることの出来ない」花梨には、解らない道なのだ”、と。
――― けれど、いまここで、このまま互いのことを何も知らずにぶつかり合えば、何か取り返しのつかないことになるのではないか、という予感がする。
確信にも近い、嫌な予感が。
「どうして…?どうしてそうやって、私には解らないって初めから諦めてしまうの?全部独りで背負おうとしないで…。言ってくれなきゃ解らない、聞いてくれなきゃ伝わらないよ!!」
思わず必死に言い募ったその言葉に、千歳がびくりと肩を震わせ、振り返った。
見開かれた深い黒みがかった瞳が迷うように頼りなく、揺れる。
それはほんの一瞬のことで、千歳は固く瞳を瞑ると花梨の方へと向き直り、もう一度、その顔を真っ直ぐに見つめ直した。
だが、その表情の微妙な変化に、花梨は今初めて千歳と自分が向き合おうとしているかのような感覚を抱く。
…これまで、自分の信じる事を実行するという意志の他は、凪のように感情の揺らぎを見せなかった千歳。
しかし今、その視線からはどこか真摯で切実な、訴えるような気配が窺える。
「あなたも知っているでしょう…? ひとは皆、絶望しているわ。生きてゆくことに。このままでは、その闇い思念が滅びを呼んでしまう。全てを巻き込んで、無へ帰する流れが生まれてしまう…!そんな事は嫌なの。もう、これ以上の苦しみは見たくない」
「それは私も同じだよ。私だって、京の人たちが苦しむのを見たくない。大切な人がいるこの場所を、護りたい。だからその為に、怨霊を封印したり、穢れを祓ったりしてきた。結界を壊したのだって…」
「――― あなたの壊したその結界こそが、京を滅びから護る為に必要だったのに」
「…どういうこと?」
不意に口惜しげに顔を歪めた千歳に、花梨は静かに訊き返す。
黒龍の力を司る少女は、強い意志の陰に苛立ちと焦り、そして微かな不安を覗かせながら、ぎゅっと固くその両手を握りしめた。
「この世で最も強い気は、人の心よ。今、人々の心は絶望に囚われている。このまま京の気が廻り続ければ、その人々の強い心…絶望の“想念”も動き出してしまう。それは京の気を歪めて滅びを呼ぶ。…だから、止めたかった…!」
「じゃあ、あの結界は…?」
想像もしていなかった答えに戸惑いながら、躊躇いがちにそう問いかける。
そんな彼女の傍らで、泰継が小さく吐息をついた。
「…京の気の流れを止めたか…。気が廻らねば、ひとの意志は廻らず、思念の流れも止まる。だが、そうして自然の流れを止めることそのものが、新たな歪みを生むとは思わなかったのか」
「……………」
千歳はきゅっと唇を引き結んだまま、答えなかった。
人々の“生きてゆくこと”に対する不安、諦念、恐怖…そんな数々の「絶望」がこれ以上育つことの無いように、彼女は人の思考そのものを止めようとしたと、そういうことなのか。
京の陰陽の気の廻りを結界で隔てることで、人々を取り巻く気の流れを…その胎に流れる“時”を止め、人の意志や思考が進まぬようにしたと。
確かに、こうして話を聞いてみれば、彼女の言い分も解らなくはなかった。
けれど、花梨にはそれはひどく哀しく思えた。
全てを止める以外に、彼女は術を見出せなかったのだろうか。
「…でも、それじゃ何も変わらないよ…」
他に何と言っていいのか判らず、ただ小さくそう洩らす花梨から、千歳はふい、視線を逸らす。
「あなたは、簡単に「変える」と言うけれど、皆が皆、あなたのように強い訳では無いわ。流れを変える力は ――― 白龍の力は、強く、烈しい。「滅び」へと向かっている今の京の人々がそれに耐えられると思うの? …強すぎる力は、逆に京を滅ぼす」
「陰陽の力の偏り…その歪みが百鬼夜行を生む。我らはそれを正しに来ただけだ。…世の流転を止めるという理の歪みこそが京を滅ぼすのだと何故、解らない?」
脇から投げかけられた言葉に、千歳はその瞳を眇めた。
握られている両手が何かを堪えるようにさらにきつく合わされ、白く血の気を失ってゆく。
「この世のものは須(すべから)く、陰陽の両極より成り立っている。一方の力のみで動かすことなど叶わぬ。お前のしている事は万物の理を歪めることと同じだ」
口調を荒らげるでもなく、落ち着いて響く声音は、その言葉に無視し得ない重みを与えて胸に届く。
そんな泰継の声に、一瞬、沈黙が返った。
「…理を歪めても、それで京を護れるなら、いい…」
ややあって千歳は吐息のように細く、そう呟いた。
洩らされた声には、強い意志の裏に隠しきれない悲壮さが滲んでいる。
“口では何と言っていようと、それが本当に千歳の「意志」であるかどうかは疑わしい。
シリンのように黒龍に意識を支配されているかもしれぬぞ?”
それきり口を閉ざしてしまった千歳を見つめる花梨の脳裏に、愉悦を湛えながら、惑う彼女を試すかのように金の髪の鬼から投げかけられた言葉が不意に甦る。
だが…。
花梨は甦った声を振り払うように、一度きつく瞳を瞑ると、見開いた視線に力を込めて、自分と対を成すという黒髪の少女を見据える。
これまで話をしていても、千歳にはシリンのような矛盾が見えず、その言動は一貫していた。
今、発された言葉の根底にも、京と京に住まう民が救われること、彼らがこれ以上の苦しみや哀しみを感じずに済むようになることをひたすらに願っている彼女の強い思いが感じられる。
だから千歳の京を護りたいという気持ちは本物なのだと、今は確信できた。
…ただ、それを実現する為に信ずるものが花梨達とはそもそも異なっている。
願いを実現する為に取ろうとしている術が。
しかし彼女が何故、その方法を取ろうとしたのか…その事に花梨は強い引っかかりを覚える。
考え方の違い、「止める力」と「変える力」という、司る力の違い…確かに自分達の間の見解の相違の根本的な理由は、そこにあるのかもしれない。
しかし、ではその見解を現実にするための具体的な手段…千歳が信じている、「京を滅びから救う」というその方法を、彼女はどうやって知り得たのか。
…そもそも、かつて京を救ったという、白龍の神子の力についてすら、詳しい事を知る者はいなかった。
黒龍の神子に到っては、星の一族である紫姫も、そもそも黒龍というもの自体、白龍以上に判らない事が多いため、「神子」が存在するのかどうかも判らないと言っていた程だ。
――― それなのに…。
「いま、京に蔓延(はびこ)っているのは、人々の“絶望”の思念。それが、京の気を滅びへと向かわせる…。だから、京の気の流れを止めれば ――― 陰陽の気を交わらせなければいいのだと。その為に結界が必要なのだと言われたわ。結界があれば絶望の気が育って百鬼夜行が生まれるのを防ぐことが出来る、と教わったから。だから、私…」
まるで花梨の心を読みとったかのように、ぽつりと千歳がそう言った。
その言葉に花梨の若草色の双眸が瞠られた。
「教わった…?」
…先の泰継の言葉に動揺した事からしても、千歳自身、自分の行為が大きな危険を伴うものであることは、薄々判ってはいたのだろう。
今も教わったとおりの事をしたのだと言いながら、その口調からは逡巡と微かな不安が感じられるようにも思える。
それならば、そんな千歳に、黒龍の神子の力の使い方を教え、京の陰陽の気を分ける結界の作り方を教えたのは、誰なのか。
そして、その方法でしか京を滅びからは救えない、と思わせたのは…。
どきん、と心臓が大きく波打つ。
引き攣れるような痛みすら伴って、激しく脈打つ鼓動に、細い指先が強く、胸元を掴む。
…自分は、恐らくもう、判っている。それが誰なのか。
かつて、千歳と初めて会った、あの時…。
院に憑いていた怨霊が再び復活したと聞き、それを祓う為に駆けつけたぬえ塚で、自分達の前からその異能の力を用いて、千歳と深苑の二人を遠くの地へと送った人物。
そして度々、紫姫の館の庭先に現れては、まるで自分を導くかのように、他には誰も知らなかった京の気の廻りと結界の事について洩らしていったひと。
それは。
「…千歳。あなたに、その事を教えたのは…」
自分でも意識しない内に、そんな言葉が唇から滑り落ちる。
…躊躇うかのような僅かな沈黙が二人の間に横たわり…そして。
「――― アクラムが。私に教えてくれた。京の気の事も、結界の事も…」
「……………」
――― 何も、言えなかった。
やはり、という思いと、何故、という思いが胸の中で交錯する。
それと共に、躰の深い処から湧き起こる言い表しようのない感情に、鼓動が次第に早くなり、頭の中に響くかのように大きく音を立て始める。
まるで、何かの警鐘のように。
それは恐らく、これ以上踏み込めば、自分が抱いている、これまで朧気な輪郭しか見えなかった“何か”が明確な形を成してしまうような直感に対する不安と、それが実現する事への、恐れ。
――― そうしてはっきりと姿を現した現実は、きっと自分と千歳を打ちのめす…。
だが花梨は、自身の感情が昂ぶるのを無理やり押し留めるかのように、ぐっと歯を噛みしめた。
…自分は決めたのだから。“全てを自身の目で見定める”と。
「…待って。結界を壊さなければ京を滅びから救えない…私にそう言ったのも、アクラムだよ。結界の要の怨霊が京の気を奪っているから、京は滅びようとしているんだ、って」
そう告げる努めて抑えられた花梨の声に、千歳は目に見えて動揺した。
向けられている瞳が、一瞬茫然としたように大きく瞠られる。
「そんな…そんなことは知らない…。あのひとは、京を滅びから救うには、怨霊を使った結界で気を分断して止めるしかないって…」
信じたくないというようにぎこちなく首を振りながら、千歳は口元に手を当てると、肩の震えを抑えようとするかのように片腕を華奢な躰に回した。
零れる声は細く、その瞳は落ち着かなく辺りを彷徨い、その奥にありありと不安と戸惑いを映して揺らいでいる。
その様子を見れば、彼女が本当に何も知らなかった事は火を見るよりも明らかだ。
――― 京を滅ぼしたいのだと言っていたひと。
確かにその言葉通り、そのひとが千歳に教えた事は、当の彼女に対しては何と言っていようとも、京を救うのではなく、その滅びを早めるものとしか思えない。
しかしそれなら何故、自分をここまで導いたのか。まるで敢えて千歳と対峙させ、互いにぶつかり合うよう仕向けるかのように。
その目的は一体何なのか。
…判らない。
判らないことばかりだった。
唯一つ、いま、花梨に判っていることは、自分達は恐らく利用されたのだろうという、その事だけ。
いまだ判然としない、そのひとの目的の為に。
「京の陰陽の気を分ければ、歪みが生じる…それは解ってた。でも、京を滅びから救うにはそれしか方法がないと言われたから、だから…」
「千歳…!!」
茫然と見開かれた黒目がちの瞳が不意に歪む。
その傷ついた瞳の前に、花梨はもどかしげに立ち尽くす。
哀しいのか、悔しいのか、込み上げてくるものが利用された事に対する怒りなのか、切なさなのか…もうそんなことすら判らないままに、ただ、自分の心が軋むような痛みを訴えるのを感じる。
だがその一方で、そんな現状をどこか冷静に受け止めている自分も確かに存在している。
――― 花梨は細く息を吐きながら、一瞬その双眸を固く閉ざした。
“…私、本当は気付いてたのかもしれない。あのひとが、何の意味もなく私に逢いに来る筈がないこと…。利用されているのかもしれないことに…”
いつだって、そのひとの考えていることは、自分にはどうしても知り得なかった。
だからこそ、ひとは皆、愚かだと言いながら、京を救う術を説く、時に禍々しいまでの気を纏うそのひとを完全に信じきることは出来なかったのかもしれない。
そして何より、和仁やシリンに対するそのひとの冷酷な態度が、たとえ信じたいと思っていたとしてもその自分の心に歯止めをかけていたのかもしれない…。
それならば、もしかしたらこの胸の痛みは、千歳の痛みをも感じてしまっているからなのだろうか。
貴族の姫として育てられ、外界のことを知ることもままならなかった千歳。
その神子としての能力故に、ただただ絶望へと向かってゆく人々の思念をひしひしと感じながら、どうすればよいのかも判らないままに。
自分のように八葉や星の一族がいるわけでもなく、たった独りで焦燥を不安を抱えながら、ただ、日々を過ごして。
そこへ差し伸べられた手を、不安を抱きながらも取ってしまったからと言って、どうして責められるだろう。
…――― 自分だとて、たとえ八葉を集めることが出来たとしても、もしその信頼を得ることが出来ていなければ、彼女同様、孤独の中に置き去りにされていたかもしれない。
そうして自分へ向けられた手を、淋しさと不安からただ闇雲に掴んでしまったかもしれないのだから…。
花梨はそんな思いに突き動かされるようにして黒髪の少女に歩み寄った。
そうして自分の信じてきた事を突き崩されて茫然としている彼女の肩に、手を伸ばそうとする。
――――― 瞬間、彼女の頭上でカッと鋭い閃光が轟音と共に闇を切り裂いた。
「――― っ!?」
耳を劈くように鳴り響く音に、花梨は反射的に腕を掲げて顔を庇い、全身を固くする。
一瞬とは言え、暗雲に鋭く走った視界を焼くほどの眩さに、すぐには目を開けることすら出来ない。
…そして僅かに遅れて背筋をぞくりとさせる激しい悪寒が這い上がる。
「な、に…?」
思わず自身を護るように両肩を掻き抱く花梨を脇へ庇うように移動した泰継が、北東の空を見遣り、くっと眉を寄せた。
「百鬼夜行か…!」
緊迫した様子に、花梨もまた闇く濁った空へ若草色の視線を向ける。
そんな彼らの視線の先で、それまで辺りにうっすらと漂っていた、黒い靄のようなものが急速に集まり始め、まるで雷光の通った雲の裂け目を中心とするかのように盛り上がり、だんだんと一つの大きな形を成すように収束してゆく。
その様子から、恐らく完全に形を成すまでにそう時間はかからないだろうことが見て取れる。
二人につられるようにゆるりと顔を上げた千歳は、その光景にすぐには言葉が出ないようだった。
ややあって、青ざめた唇からそんな、と喘ぐような吐息が漏れる。
「どうして…?もう、駄目なの?止めることは出来ないの?…じゃあ、いままで私がしてきた事、は…。――― 私達は、全て、喪うの…?」
そう譫言のように発される震える小さな声は、最早これまで見せていた毅然とした「黒龍の神子」のものではなく。
肩を小刻みに震わせながら紡がれる、自身のしてきた事への怯えすら感じられる声音に、花梨は思わず振り返る。
「…しっかりして! まだ何も終わってなんかない、だから諦めないで!!」
その声は、辺りの重苦しい空気を払うように凛と響いた。
「百鬼夜行を祓えれば…封印することが出来れば、なんとか出来るかもしれない。…だからお願い、千歳も一緒に力を貸して?」
「一緒、に…?」
思いもかけないことを聞いたかのように目を瞠る千歳に、花梨は頷きと共に仄かに微笑する。
「ここにいる人たちは、――― 私達はみんな、あなたと気持ちは同じだから…」
黒い、大きな瞳がゆっくりと瞬かれ、じっとひたむきに花梨の顔を見つめた。
「…まだ、私にも何かが出来るの?止めることが出来るの…?」
どこか縋るように細い声でそう呟いて、千歳がゆっくりと花梨の方へと歩き出しかけた、その時。
「――― それはどうかな?」
不意に聞き覚えのある冷たい響きの声が、背後から響いた。
「神子!!」
「!? ――― やめてっ、駄目、穢れが…!! …――― っ!」
鋭い泰継の呼びかけに、はっと花梨が声のする方へと振り返ったのと、何かに気付き、悲痛な叫びを上げてそちらへ駆け寄ろうとした千歳の躰が、衝撃を受けてぐらり、と揺らぐのとは殆ど同時だった。
そのまま、口元から赤い飛沫を宙に点々と散らしながら千歳が自分の腕に倒れ込んでくるのが、まるで幻か何かのように、ひどくゆっくりと若草色の瞳に映る。
そしてその躰を支えようと反射的に手を伸ばした花梨の視界に、力無く上体を揺るがせる黒髪の少女の背後に立つ、一つの人影が否応なしに飛び込んでくる。
――― その面を覆うのは、陶器のように滑らかな面を持つ、白い仮面。
整ったなだらかな弧を描く、僅かに笑みを含んだ、薄い唇。
…そして額に幾筋か零れ落ちる、目にも鮮やかな ――― 金の髪。
それは、その声を聞いた瞬間から判っていた…いや、恐らくは、千歳と話をしていた時からきっと現れるだろうと心の何処かで予感すらしていた、忘れようもない面影。
「…――――― アクラム…」
若草色の双眸を瞬きもせず大きく瞠ったまま、目の前の光景に凍りついたように身動き出来ずにいる花梨の桜色の唇が、そこに佇む人影の名に、微かに、震えた…。
To be continued….
2001.12.20(THU)UP.