…ふと、頬に触れてくる冷気を感じ、穏やかな微睡みの中に徐々に意識が降りてくる。
何度か瞼を瞬かせながら、じわじわと瞳を開くのと共に、まだ薄暗い辺りの様子が視界に映り…意識が水を引くようにすうっと覚めてゆく。
花梨はもう一度ゆっくりと瞬きをすると、褥(しとね)から身を起こし、両腕を伸ばして軽く伸びをする。
時折、几帳の隙間から流れ込んでくる冷たい空気のせいか、それだけですっかり意識は冴えたようだった。
そのまま彼女は手慣れた仕草でいつも通りに身なりを整えると、その上から先程まで上掛けにしていた着物を風除け代わりに軽く羽織り、几帳で囲われた寝所から足音を忍ばせながら外へ出た。
既に蔀戸は上げられ、冬の薄日が淡く室内へと差し込んで来ている。部屋の隅の火桶にも火がくべられ、部屋の中は仄かに暖かかった。
それを横目で見ながら、花梨は御簾際まで歩み寄り、そっと指先でその端を掲げた。
…途端、真冬の切れるような鋭い空気が頬を叩き、花梨は一瞬、顔を顰める。
だがそれには構わず、御簾を巻き上げて簀の子縁まで足を運ぶと、肌から染み込んでくる冷たい空気に反射的にぶるっと震えた肩を両手で抱えながら、吐く息も白く凍る中で彼女はそのまま若草色の静かな瞳を庭へと向けた。
外は一面、純白の雪景色だった。見上げている空の上空はまだ夜が明けきらず、薄暗かったが、陽の昇り始めている辺りは茜色から蒼へと徐々に澄み渡り、雲一つない。
そしてそこに漂うのは、この世界がその胎に孕む穢れによって、いまにも滅びゆこうとしているなどとは到底思えない程に、どこか清浄ささえ感じさせる密やかに澄んだ静寂。
この分なら、今日は雪がちらつくことはないだろう。
…良い天気になりそうだった。
“…――― 今日で、最後。
全てが………終わる”
…花梨は一つ溜息を零すと、視線を庭から戻し、ゆっくりと室内を見回した。
視界に映るのは、仕切代わりにあちこちに置かれた色鮮やかな几帳。その奥にあるのは、慣れない筆と悪戦苦闘しながら、何度となく文を綴った文机だ。
その場所から書き物をしながらでも見渡せるよう造られた美しい庭は、時に紅葉に鮮やかに紅く染まり、時に煌々と照らす月影に照らされながら、くっきりとした樹影を地面に刻み、或いは降る雪や霧雨にその姿をけぶらせながら、いつも自分の心を慰めていてくれたように思う。
そして何よりも身近なのは…時折庭から流れこむ風に乗って緩やかに漂う、落ち着いた香の薫り。
その薫りは、自分が纏う衣にも、使う料紙にも仄かに焚き染(し)められている。
京へ召喚されてくるまでは香になど全く縁が無く、興味も覚えなかったのに、その薫りがいつの間にか、自分にとって最も好きな、身に馴染んだものになっていたことに、花梨は今になって気付く。
…ここに自分がいたのがたった三月ほどだったのだとは、とても思えなかった。
こうして辺りを見渡している今、胸の中に浮かぶのは、もうずっと長い間この部屋で過ごしてきたかのような、不思議な感慨。
――― それは、懐かしさと微かな痛みを伴った切なさ…。
それほどに、ここで過ごした間には多くの出来事があった、ということなのかもしれない。
考えてみれば、この世界にやってきたばかりの頃、淋しさと心細さに独りでこっそり泣いたのも、神子として在る事の不安や悩みや苦しみや…かけられる期待の重さを感じたのも、色々な人との出逢いを、そしてその人たちとの楽しい思い出を心の中で反芻したのも、いつもこの部屋だった。
これまでの出来事と思いの全てがこの場所と繋がっている、そう言っても過言ではないだろう。
…――― そしてその全ては、自分が龍神の声を聴いたあの瞬間から始まった。
突然、頭の中に響いてきた声と共に見知らぬ世界に放り出され、これからどうすればいいのか、自分が一体どうなってしまったのか判らない不安と淋しさで途方に暮れながら、ここから遠く、北山の山中を彷徨っていたのは、まだようよう山々の紅葉が淡く色づき始めたばかりの、長月の末。
そこで自分は ――― 「彼」と出逢った。
…今でもはっきりと思い出すことの出来る、あの時自分に向けられた、彼の瞳。
“…――― お前は、何者だ”
警戒する訳ではなく、さりとて、同情するのでもなく。
ただ「事実」だけを問うてきた、美しい玉石のように揺るがない、双色(ふたいろ)の瞳。
不思議と怖くはなかった。
それはもしかしたら、そこに何の特別な感情も窺えなかったから、かもしれない。
ただ純粋に目の前にいる自分を…「私」、という存在を捉えて、真っ直ぐに見つめている ――― そんな気がした。
…そして、それからずっと、「彼」は傍にいてくれた。
彼自身、自分が「八葉」というもので、「龍神の神子」であるらしい私を護るべき存在なのだと言われて、突然のことに戸惑い、半信半疑だったのに違いないのに、頭から否定したりせず、まだ全く何の自覚もない頼りない私を護ってくれた。
言葉にはしなくとも、そうしてこれまでいつも一番近くで支えてくれたひとを、絶対に護りたいと、思う。
…何故ならそのひとは、ただ、これまで護り続けてきてくれて、一緒に歩んできた仲間、というだけではなく。
何よりも今の私にとって、一番大切なひとだから…。
その為には、何としても京を滅びから救わなければならない。
この世界に澱んでいる穢れを、今日、祓わなければ。
黒龍の神子である千歳が張った、陰陽の気を分ける結界によって膨大な穢れを溜め込み、京の気は今、大きく歪められている。
その京の穢れと歪みを力として膨れ上がった数々の怨霊を呑み込んで生まれるという、強大な怨霊 ―――「百鬼夜行」。
それを止めることが、京を、仲間を、そして大切な人を護ることに繋がるのだから。
“…でも…”
心の中でもう一人の自分が、ぽつりと呟く。
“それは、“あのひと”と戦うことを選ぶ事になる…?”
自分の中に首を擡(もた)げた思考に、花梨は思わず強く首を振った。
確かに今までにしても、戦いを自分から望んだことなど、一度もなかった。出来れば誰も傷つかずに済めばどんなにいいかと、一体何度思っただろう。
しかし、そうはいってもこれほどに躊躇したことは初めてなのも、また事実だった。
ここに到るまでにも、話し合うことが出来ず、戦いを選ばざるを得なかったことは幾度もある。
その度に、たとえ気は進まずとも、京を、大切なものを護るために、自分は自分自身の意志で彼らと戦ってきた…はずだ。
それなのに、どうして脳裏に浮かぶ、凍えた瞳のそのひとと戦うことを考えるとこれほどに躊躇ってしまうのかが、自分でも判らない。
彼自身が言った通り、恐らくはそのひとは敵だと判っているのに。
シリンや和仁の目的を知りながら、彼らを唆し、力を与え、京に混乱を生じさせるよう仕向けていること、それは違えようのない事実だ。
自分達が京を護ろうとしている以上、その京を滅びへと導こうとしている彼は、やはり「敵」、なのだ。
そう解っている筈なのに、どうしても迷いを捨て切れない。何故か、戦う事を躊躇っている。
…たとえ、相手がその人であっても、自分の大切な人が傷つけられる事は許せない、と確かに思っているのに。
「鬼」と呼ばれるそのひとと「戦う」ことを選ぶ事を、自分の心の中にある何かが引き止めている。
その訳の解らない躊躇に、自分自身に対する苛立ちと焦りが募る。
“――― 駄目だ、こんな事じゃ。今は、百鬼夜行を祓う事に集中しなくちゃ…“
花梨はもう一度、勢いよく頭を振り、迷いを押し殺すように思わず唇を噛みしめる。
…と、その耳に不意に微かな鳥の羽ばたきが響いた。
音のする方へ首を向けると、雪化粧した庭の楓の大木の枝に、辺りを覆う雪にも負けぬ程、全身真っ白な一羽の梟が止まっていた。
梟は、まるで彼女が気がつくのを待っていたかのようにふわりと枝から舞い上がると、そのまま花梨の肩に降り立つ。
「…霜夜?どうしたの、こんなに朝早く…」
ほう、と答えるように鳴く梟の喉をあやすように軽く掻いてやりながら、首を傾げつつそこまで言いかけて、花梨ははっと気がついたようにもう一度庭の方を振り返った。
…霜夜は、北山に居を構える「彼」の式神 ―――…。
思った通り、庭の奥からこちらへと静かに近づいてくる見間違えようもない人影を視界に認めて、花梨は霜夜を連れて急いで高欄へと駆け寄った。
「…神子」
柔らかな翠緑の髪を片側で綺麗に結い上げたそのひとは、落ち着いたよく透る声で彼女に呼びかける。
「泰継さん。…どうして…?」
「…戦いに行く前に、お前に逢いたかった」
そう答えると、泰継は高欄にしがみついている彼女を真っ直ぐに見上げる。
その双色の瞳がふっと細められ、…気が揺れているな、とぽつりと洩らすと、泰継は花梨の方へそっと手を伸ばした。
この寒さの中を歩いてきたはずなのに、頬に触れる掌は不思議と温かく、花梨はゆっくりと瞳を伏せる。
伝わってくる心地よい掌の熱と共に、暖かいものが自分の胎に流れ込み…次第に心が落ち着いてゆくのが判る。
「…――― 何を考えていた?」
「…えっ?…」
思いだしたように唐突に投げかけられた問いに、花梨は困ったように言い淀み、視線を泳がせた。
その様子に、泰継は彼女の頬に添えていた手を離すと、小さく吐息をつく。
淡い明け方の陽を受ける白皙の顔に、自嘲気な笑みが刻まれた。
そして、形の良い唇が言葉を紡ぎ出す…。
「…ひととは…心とは、厄介なものだな。心が有るが故に迷いが、執着が生まれる。判らない事ばかりが増えてゆく。――― 私も…」
そこで泰継は視線を逸らすと、続く言葉を封じるかのように、一瞬、瞳を伏せ…軽く両腕を組む。
「だが、心を得なければ、私は「温かさ」というものを知ることは無かっただろう。そして苦しみや迷いを知らなければ、「温かさ」を感じる事は出来ない。…だから、迷う事は悪い事ではないのだろう…恐らくは」
「……………」
独白めいたその言葉は、彼自身に向けられたものであり、そしてまた花梨に向けられたものでもあった。
彼はそのまま、何も言えずに、ただ自分の方を見上げている少女に微かに微笑んでみせる。
「それでも…たとえ、お前の優しい想いが私一人に向けられているのではないのだとしても。――― 私は、お前を護りたい」
その押さえた口調と、自分に向けられている言葉に出来ない想いを秘めた双色の強い視線に、花梨は自分の迷いの内を見透かされたように感じ、どきりとした。
「そしてお前の願いを全て叶えたい。それが私の今の望みだ」
だから連れて行け、と一言だけ洩らすと泰継はそれきり口を閉ざした。
そこに漂う空気から、本当はもっと言いたい事も聞きたい事もあるだろうに、敢えて口にしないでいるのだろう事が痛いほど感じられる。
…けれど、今の自分にはその全てに答える術が無い。
自分自身の迷いの理由さえ判らない状態では、自分の想いも望みも自信を持って告げることなど出来なかった。
そして恐らく、彼はそんな自分の迷いを悟っていて、…それでも聞かないでいてくれる。
私が、自分自身で「答え」を出すのを待っている…。
花梨はもどかしげに高欄に掛けている手に力をこめる。
何か言いたいのに、喉元までそれが出かかっているのに、それがどうしても形になってくれない。
そんな自分自身がどうしようもなく情けなく感じられて、やるせない思いばかりが胸の中で渦巻く。
…どちらも口を開くことも出来ないままに、その場に重い沈黙が落ち、ただ静寂だけが辺りを支配する…。
――― そうして、どれくらいの時が過ぎただろうか。
長いような短いような沈黙の時を破るように、渡殿の向こうからさらさらと微かな衣擦れの音が聞こえてきた。
恐らく、紫姫が朝の挨拶にやって来たのだろう。
気配のする方向へ顔を向けた泰継が、僅かに眉根を寄せる。
「紫姫が来るようだな。…もう行く」
「…泰継さん!」
そのまま踵を返そうとした泰継の背に、花梨は思わず声をかけた。
たとえ、答えはまだ出せなくとも、このまま、一言も自分の想いを告げずに離れてはいけないような気がした。
自分の想いを堪えているかのような、何処か淋しげな瞳。
そんな顔をさせているのが自分なのだと思うと、どうにも居たたまれなかったのだ。
呼びかけられた声に宿る何かに惹かれるように、泰継が振り返る。
その声を待っていたかのように。
花梨は何を言えばいいのか迷いながらも、必死に自分の中から伝えたい事を拾い上げる。
「私も…絶対に護りたい。京を、みんなを ――― 泰継さんを。…でも、まだ判らないんです。本当に、戦うしか道が無いのか…」
そう、一言一言、想いをこめて噛み締めるように言葉を紡ぐ。
皆まで言わずとも、泰継には彼女が誰の事を言っているのか、伝わったようだった。
花梨が幾度もその人物に呼び出されて会話している事を、泰継は彼女から聞いて知っている。
その人物がこれまで取ってきた、一見矛盾しているとも思える言動も。
味方だと言いながら、敵になると告げ。
京も ――― 龍神の加護を受けている全てのものも、他の全てのものと等しく、皆滅びるべきなのだと嘲笑い、その為に花梨の白龍の神子の力を欲しながら、その力で京を護ってみせろと挑発する。
…そして、花梨が自分の「望み」を叶えるのだと…。
だからこそ自分は、意図が読めないその者を危険だと感じ、近づくなと彼女に何度も警告した。
その鬼の真の目的が何であれ、そんな者に彼女は傷つけられる事など、認められなかったから。
…だが、彼女が真っ向から向かい合うと決めたのなら、自分にはもう止められない。
それを自分の想いだけで無理に止めることは、いつも真っ直ぐ過ぎるほどに前を見つめ、全てをありのままに受け入れようとする少女の在り様を歪めるのと同じ事だから。
それならば自分は、前へと進む彼女を最後まで見護っていたい。こうしていま自分が「ひと」として在るのは彼女の力であり、彼女の為なのだから。
…――― そしてそれが少しでも彼女の支えとなるのなら。
それだけで、自分は ―――…。
一瞬、心に浮かびかけたもう一つの想いをそんな言葉で封じ込めた泰継の視界を、不意に吹き抜けていった寒風に乱された翠緑の髪が遮る。
――― 再び開けた視界に映ったのは、華奢な、だが強い神気をその身に纏った少女の姿。
しかしいつもは凛とした光を湛えている双眸が、今は不安げに揺れている。
…それを目にした瞬間、気がつくと泰継は口を開いていた。
「私は…私達は皆、お前を信じている。だからお前はお前自身を信じて、思う通りに進めばいい。――― そこに、路が出来る。私達は、いつもそうやってお前の創った路を歩いてきたのだから」
強く諭すように落ち着いた声を紡ぐ泰継の視線は、ただ花梨だけに注がれている。
その深く澄んだ瞳に映り込む自分の姿に、安堵のような思いが湧き起こる。
――― このひとは、いつもこうして「私」の事を見てくれていた。
初めて逢った時から。
“全てを見据える”ものの力を受け継ぐ、その双色の瞳で。
だからきっと、この誰も知る人のいない世界でも、私は「私」らしくいられたのだと思う。
そして、“心など無い”などといつか言っていたけれど、自分の事よりも私の事ばかりを心配してくれる、優しいひとなのだと私は知っている…。
胸に浮かんだその感慨が、花梨の胎で形を成さなかった想いを言葉へと変えてゆく。
「私は、知らなくちゃいけない。どうしてこんな事になったのか、どうするのが一番いいことなのか…自分がどうしたいのか。そしてちゃんと応えたい。そう思うんです。だから、私が間違えないように…見ていて下さい」
じっと真摯に見つめてくる若草色の双眸に、泰継は柔らかな表情を浮かべる。
「…お前が望むなら」
迷いの無い答えに、花梨は仄かな微笑を返した。
それでいい、と、目の前の彼女の笑顔を見ながら泰継は胸の中で呟く。
彼女がその顔を、心を曇らせずにいられるなら。
そしてその為に自分という存在が役に立つというのなら…。
――― 二人はそのまま暫しの間、互いの視線を合わせ…今度こそ振り返らずに歩み去ってゆく泰継の背中を花梨は静かに見送る。
「神子様…もうお目覚めですか?…神子様…?」
ややあって、部屋を訪れたらしい紫姫が花梨を探している声が背後から聞こえて来た。
だが花梨はその呼びかけに答えないまま、自分の肩から目の前の高欄の上へと飛び移り、黒々と澄んだ大きな瞳でこちらを見ている霜夜に顔を寄せる。
見た目よりもずっと柔らかな感触の霜夜の羽毛からは、自分が纏っているそれとよく似た香の薫りがした。
それは、たった今までここにいたひとの好む薫り…。
「…待っててね」
瞳を伏せ、花梨はぽつりとそう呟く。
心の中の面影に語りかけるように。
全てを、見定める。この自分の瞳で。そして受け止めよう。たとえそれがどんな現実でも。
自分の歩むべき路を見つける為に。
見護ってくれている、あのひとの想いに応える為に。
全ての哀しみを…苦しみを、そして絶望を終わらせる為に。
花梨はじっと大人しくこちらを見ている霜夜の頭を軽く撫でると、それまでの物思いを振り切るように立ち上がる。
「…――― 紫姫!私はここだよ。今、行くから」
そしてちらりと泰継の歩み去った方へ若草色の視線を流し、ぐっと口元を引き締めた。
そんな花梨の瞳を、中空まで茜色に染め始めた、朝の訪れを告げる明るい光が射、少女は手を翳して陽を振り仰ぎながら、眩しげに両目を細める。
――――― 最後の一日が、今、明けようとしていた…。
To be continued….
2001.12.7(FRI)UP.