――――― Requiem ―――――
〜In The Dark・U〜






§







 …不意に現れたその人影へ顔を向けたまま、花梨は声も無く、暫し茫然と若草色の双眸を見開いていた。

 そこへ、一拍おいて千歳の躰が彼女の腕の中へと倒れ込んで来、その重みに引かれるように花梨は自らの手元に視線を落とす。


 その先に、所々、朱の染みを散らした、花模様のあしらわれた袿の袂が映る。


「!?――― 千歳っ!?」


 視界を染めたその紅が血痕なのだとようやく認識すると、慌てて千歳の躰を支え直し、花梨は必死に呼びかけた。



「千歳、しっかりして!!」
「…っ」



 花梨の声に答えようとした千歳は、その途中で激しく咳き込んだ。
 口元に添えられた手が点々と鮮血に染まり、ひゅうっと喘ぐような息が洩れる。



「…まさ、か。…でも…」



 案じるように顔を覗き込んでくる気配を感じながら、瞳を伏せて顔を微かに歪めつつ、掠れる声でぽつりと千歳が呟く。



「…私達は…利用、されていた、の…?神子の力を高めて…最後に、穢す。それが目的…?」
「…穢すのが目的って…どういうことなの?」



 思わず訊ね返した花梨に咳き込む度に大きく顔を歪めながら、苦しい息の下で喘ぎながら答えが返る。



「白龍と…黒龍の神子は、陰陽の対…その司る力も…。でも、私達の力は…強く、なり過ぎた。今、均衡が崩れたら…っ」



 切迫した様子で紡がれた言葉には、明らかな焦りが滲んでいる。
 それにただならぬものを感じて、花梨は彼女の言葉の意味する所に、必死に考えを廻らせる。




 結界を維持し、京の気を止め続けていた千歳と、その気を動かそうとしていた自分。

 そして、それぞれのその目的の為に、自分達は自身の司る龍の力を用いていた。
 ――― 「止める力」と「進み、変える力」という対極を成す力を。







“いままでは、黒龍の力と白龍の力はぎりぎりの処でなんとか均衡を保っていた。それが、ここで黒龍の神子の千歳が力を喪ったら…その均衡が崩れて、反動で歪みが一気に広がる。そういうこと、なの…?“







 同じように「均衡が崩壊する」と言っても、そもそも釣り合っていた力同志が強ければ強い程、ほんの少しの均衡のずれも、相対的に大きな力となって現れる。


 そして均衡を失った過剰な力はその行き場を喪い、暴走する。
 指向性を無くしたその力は、その場にある最も強い気や力の流れに引かれて、さらに強い一つの力となるだろう。




 …今、京に存在する最も強い力は、“思念”。…人々の“絶望”。
 それがあらゆるものの在るべき姿を歪ませ、さらなる負の奔流を生む。















 ――― その先にあるものは…「百鬼夜行」、だ。















 脳裏を過ぎった想像に、花梨は眩暈にも似た感覚に襲われる。

 そんな花梨達の前で、アクラムは密やかな嗤い声と共にその形のよい唇を歪めて見せた。


「もっと早く気がついてもよかったのだがな。…まあ、多少なりとも楽しませてもらったが…」
「なっ…」



 思わず声を上げかけた花梨には目もくれず、アクラムは胸元へ握った左拳を掲げ、ゆっくりと開いてゆく。
 そこへ、ぱちぱちと微かな破裂音を立てながら闇く、澱んだ力が靄のように凝り、球状に収束してゆく。




“あれは…「穢れ」の齎(もたら)す力…?”




 彼の掌に集う、以前、時朝が“アクラムから与えられた”といって操っていた力と同じ気配に花梨は眉を顰め、千歳は顔色を無くしてはっと身を起こした。



「だめ…やめて。…私は、京を滅ぼしたくなんか、ない…!!」
「私は滅ぼしたいのだよ。そもそも、自ら滅びを願ったものを長らえさせる必要が何処にある?――― どう足掻こうと、愚かな「ひと」には、このまま滅び行くだけの価値しかない」



 冷酷に言い放たれた言葉に撲たれたように、千歳は一瞬、身を強ばらせた。
 黒みがかった深い色の瞳が瞬きを止め、大きく瞠られる。

 そしてそのまま、糸が切れたように千歳は地に頽(くずお)れた。


 …彼女の細い指先が、湧き起こる感情に耐えかねたように、花梨の衣の袖を千切れそうなほどに強く、握りしめる。








「私は…間違って、いた…のね…。…アクラムの言うこと、を…信じて…!」








 絞り出すように呟くと、力を失ったようにぱたり、と袖を掴んでいた指先が滑り落ちた。
 そのまま声もなく、ただ、項垂れる。


 ――― 途切れ途切れに響いた、千歳の泣きそうな震えるか細い声が、花梨の胸の中に言い知れない焼け付くような熱を伴って染み込んでゆく。








 いままで自分達や千歳が、自分なりに京を護るために正しいことと信じてやって来たことが利用され、このままでは自分達の力が京を滅ぼす引き金となる。



 …そして、あの鬼は初めからそれが目的だったのだと。



 その目的の為に、アクラムは京の未来を憂うる千歳に、「滅びを防ぐ方法」だと言って、京の気を歪め、穢れを溜めるものであることを隠して、京の陰陽の気を交わらせない為の結界の作り方と、それを維持してゆく力をどのように得るかを教えた。
 その一方で、千歳と対を成す自分にはそれと正反対の方法を教えて、自分達が相対し、双方が神子としての力を高めあうように仕組んだのだろう。
 自分を時の狭間から救い上げたことも、力の無い自分に幾度となく道を示したことも、恐らくはその為。


 確かに、今まで彼が自分に告げてきた事は、彼自身の言う通り、どれも偽りでは無かった。
 その点では自分は千歳とは状況が違うかもしれない。だが…。


 ――― 結局、一番重要な「真実」は、最後まで隠されたままだったのだ。自分にも、千歳にも。






 そして、その何もかもが全て…鬼の一族を滅ぼした龍神の愛でる、自分達“龍神の神子”の手によって、その守護する京を滅ぼさせるという、彼自身の望みの為に…?













“…龍神は憎しみの対象でしかない…。”















 凍える瞳で、いつかそう言っていたアクラム。













――― それほどに、憎かったというのか。
自分達を滅ぼした「龍神」と、その力を継ぐ「龍神の神子」が。















 恐怖とも烈しい怒りともつかないものが瘧(おこり)のように全身を震わせる。




「…あなたは本当に、私の敵、なの?」



 問いではなく、込み上げる感情に押されるままに、ただ唇から零れた呟きのような声音と共に、花梨はゆっくりと視線を上げると、目前に傲然と佇むアクラムを見据える。
 目の前に佇む鬼の表情は仮面に隠されて窺い知ることは出来なかったが、何の感情の揺れもない冷たい視線が注がれているのを全身で感じる。

 そんな花梨の態度に、アクラムは興味を引かれたようだった。


「そう、私は、お前の“敵”だ」


 まるでその言葉を彼女の心に刻み込むかのように、ゆっくりとアクラムは告げる。
 真っ直ぐに視線を向ける彼女の前で、その薄い形のよい唇が妖艶な笑みを刻んだ。


「尤も、お前達の望みが本当に“京を護ること”であれば、の話だがな」
「何を…」


 言っているの、と続けようとした花梨の口を封じるように、アクラムは斜から少女を見下ろした。

 その唇から、歌うように滑らかな声が紡がれる。


「黒龍の神子は京の気を止め、白龍の神子はその気を力ずくで動かそうとし、京の気を歪めた。その歪みが怨霊を喚び…京を滅ぼす百鬼夜行となる。それならば京の滅びは龍神の神子の意思…」
「違っ、それはあなたが…っ!」


 あまりな物言いに言葉に詰まりながら叫んだ花梨に、アクラムは冷笑をもって答える。


「私が何だ?私はただ、一つの標を示したのみ。その道を選んだのはお前達自身の意思。そうではないのか?」
「………!!」





 今度こそ、花梨は完全に絶句した。
 胸の中で言葉にならない激しい感情がぐるぐると渦巻く。





 …自分達の意思が京を滅ぼす?

 たとえ標を示したのがアクラムであっても、結局その道を正しいと信じて選んだのは、自分達の意思だから?
 それならば「信じた」道の先にある結果すらも全て、己の意思で選んだのと同じだと、そう言うのか。
 たとえそれがどのような結果であっても。


 そして彼自身がその道を“正しい”などと言った覚えは無い。そう信じたのは、お前達の勝手だ、と…。










 …――― 花梨の震える白い手が、溢れそうな感情を堪えるように、きつくその胸元を掴む。










 …そう…確かに、自分はその道を“自分の意思”で選んだ。
 それがきっと京を救うことに繋がると…信じて。

 アクラムの事にしても、たとえ彼自身が何と言おうと、その言葉を…或いは彼自身を信じようと決めたのは確かに自分達で…。





 それは誰よりも花梨自身が一番、よく判っている。





 だがそれでも、アクラムから突きつけられた言葉に自分の一部がもどかしげに「違う」と叫んでいる。



 何かを信じることは、結論まで選び取ったのと同じだと言うアクラム。
 だからその自分達の選んだ道の先にあるであろう「結果」を彼が導くことに、何の異論があるのかと。



 …でも、それは、違う。
 そうではない。そうではないのに。



 自分は…千歳や自分達は、その道が自分の望みに通じるものだと、ただ、信じていただけだ。

 未来の事は知り得ない以上、今の時点で何が正しく、何が間違っているのかなど、本当の意味では誰にも判りはしない。
 だからこそ、自分が少しでも望みに近づけると感じた道を信じて、進むしかない。

 だが、それは必ずしも、信じて進んだ先にある、正反対の結果までをも、何もしないまま甘んじて受け入れる事を意味するわけではないのに。



 確かに、選ぶことの出来る道は多くはないかもしれない。時には一つしかないこともある。
 けれど、その行く先は、最後の瞬間まで決まってはいない。
 たとえどんなに可能性が少なくとも、ある一つの可能性が実際に実現する、その瞬間まで、未来は決まってはいない筈なのに。

 未来を決めるのは、その道を信じて選んだそのひと自身であるべきなのに。





「…どうして、あなたが私達の「意思」を決めるの…」


 ぽつり、と低い、震える声が零れ落ちる。


「私達は…京を滅ぼしたくてここまでやって来た訳じゃない。それは私達の「意思」じゃない…!」
「それがどうした?何れにしろ…無駄だ。動き出した滅びへの流れは京の意思。最早お前達の意思など関係ない。誰にも止められぬ」



 彼女の言葉など意にも介さぬ冷たさで断じられ、花梨は自分の胎が怒りとも苛立ちともつかぬもので徐々に占められてゆくのを自覚する。








 ――― こうして話をすればするほど、逆に目の前にいるそのひととの間で、何かがどうしようもなく擦れ違ってゆくかのような気がするのは、何故なのだろう…。








 ふと頭の片隅を過ぎったそんな思いを封じ込めるように、花梨はその眼差しに強い意思を込める。



「無駄じゃない…!!まだ、何も終わってないもの!」
「ならばどうする?白龍の神子。私を倒し、自ら滅び行こうとしている京を救うか?」



 彼女の勢いなどそよとも感じぬ風情で、アクラムはそう、さらりと返してみせる。

 そうして、くつくつと声を立てて笑うその姿は、来るべき戦いの ――― 或いは滅びの予感に酔っているかのように晴れやかだった。





“ ――― 戦う?私が…アクラムと?”





 唐突に胸に浮かんだ自身の呟きに、戸惑いがこみ上げ、花梨は知らずぎゅっときつく、両手を組み合わせる。





“―――何を迷ってるの?私。あのひとは、敵。私を…千歳を、そして和仁さんやシリンを利用して、そして京に滅びを招こうとしている…。”





 いま戦わねば、全てが終わってしまう。

 だから自分は戦わなくては。
 泰継や、八葉の皆と共に。
 彼らや、自分を支え続けてくれた紫姫と彼女を案じている深苑、そして…護りたいものは自分と同じなのに、アクラムに利用され、京を混乱に陥れたことに傷ついている千歳の為に。



 そしてこの場所を、そこにいる大切な人たちを、その思いを…護るために。



 それなのに、まだ自分は戦うことを躊躇っている。…アクラムと対峙することを。
 初めから利用されていたことに、確かに今、自分は怒りを覚えているのに。京を滅ぼすという彼の目的は赦せないと思っているのに。








 どうして ―――…!?








「――― 神子」




 傍らから不意に響いてきたよく透る低い声に、花梨ははっと顔を上げる。

 そこには真摯な、だが何かを抑え込んでいるかのような複雑な色を内包した烈しい光を宿す双色の瞳があった。

 ――― その瞳から、視線を外すことが出来ない。



「あ…」



 戸惑ったように小さく声を洩らした花梨を真っ直ぐに見つめながら、泰継はそっと彼女の腕をとる。まるで支えるかのように。
 さして力が籠もっているわけではないのに、腕をとられた瞬間、花梨の心は強く、泰継の方へと引き付けられた。







 …――― その唇は、何も紡がない。ただ静かに、澄んだ深い双色の瞳を向けているだけだ。
 そのまま、いっそ穏やかなほどの沈黙が二人の間に流れる。







 だが、自分を呼んだ時の、感情を見せまいとするかのように、低く抑えられた僅かに震える声が、胸を締め付けていた。













彼は、見ている。何も言わずに。
花梨が何を見、何を考え、どう判断してどんな答えを出すのかを。
静かに見護っている。

…―――「花梨」という存在を、その心を、ただひたすらに、見つめて ―――…。















 それを認識した途端、自分が混乱した己の感情に呑み込まれかかっていたことに気付く。





 …一体、何を迷うことがあるというのだろう。

 目の前にいるこの人は、どうしても護りたい、大切な…ひと。
 そう、きっと他の何よりも。

 それだけはこれ程迷っている今もはっきりと解っている。
 そして彼を、その在る場所を護るには、戦うしかないと理性は確かに認めているのに。


 それなのに、どうしても感情がついてこない。





 花梨は、波立つ自分自身を宥めるように、固く組んでいた両手から力を抜くと、心の中を一つ一つ、探ってゆく。





 今、自分の中に渦巻いている、苛立ちとは似て非なるこの感情は何なのだろう。



 アクラムと言葉を交わす度に少しずつ降り積もってゆく、怒り。何かが食い違ってゆく事に対する焦り。
 そこから生まれる自分自身に対する悔しさ。



 それはきっと、自分の思いが伝わらない事へのもどかしさと苦しさ ―――。





 …彼女はそこでふと気がつく。





 “思い”―――…?



 自分は何かを伝えたいと思っている?
 それならば自分は、どんな思いを伝えたいと思っているのだろう?





 信じていたのに、と詰りたいのか。
 何故騙したのかと怒りたいのか。
 裏切られたと言って泣きたいのか。

 それとも…利用されたことが赦せないと、目の前のその人を消し去ってしまいたいのか。





 花梨は自ら思い浮かべた可能性にそっと瞳を伏せる。






 …どれも、違う。






 きっと自分は、裏切られたと感じ、その事実にひどく傷つくほど相手を信じ、そのひとへ心を預けていたわけでは ――― 無い。

 それはいま思えば、恐らく決して深く真意を晒そうとしない、時によって全く異なる顔を見せるそのひとを信じる事に、自分は何処かで危うさを感じていたから、なのだろう。
 …でなければ、他の皆が彼を警戒していることを知りながら、そのひとと逢った事やそのひとの告げた事を話したりはしなかったはずだ。
 そうして包み隠さず話すことは自分と彼らの間の絆を深めるだろうが、一方で、アクラムに対する彼らの警戒心を煽ることにもなるのだから。








 …――― そう、いつだって自分の心は、アクラムではなく彼ら、そして彼に向けられていたのだ。
 同じ目線で語り、互いに支えあえる暖かい人たちへと…。








 しかし、だからといって自分が利用されていた事に対して、恨みなどの烈しい感情がある、というわけでもない。
 アクラムが千歳にも手を貸し、偽りを教えていたと知った時も、利用された事に対する怒りが無いわけではなかったが、心の奥ではそれを落ち着いて受け止めている自分がいた。
 それは、彼が彼自身の為に自分すらも利用しているのだろうと、とうに何処かで判っていたからだ。








 それに何れにせよ、いまその怒りをただ単に彼にぶつけた所で、この状況が変わる訳でもないのだから。
 いまは、彼にただ怒りをぶつけることよりも、きっともっと大切な事がある、そう考えられるくらいの冷静さが、まだ自分にはある。




 ――――― 今、何よりも大事なことは、百鬼夜行を祓い、京の滅びへの歩みを止める事だと。










 だがそれなら、自分は今、どうして動けずにいるのか。
 何を、そしてどうして目の前に立つそのひとに伝えたいと思うのか…。










 視界に映る、そのひとの顔を覆う何の表情も見えない仮面が、もう少しで判りそうな自分の中にある思いの輪郭を曖昧にするようで、花梨は焦りすら覚える。





 …ただ、このまま戦いに臨むことは「何か」を切り捨てる事に繋がるような、漠然とした不安が滲んでくるのが判るだけ…だ。














“…私は、一体どうしたいの!!”

















「泰継さん…わたし…」




 何かに躊躇している、己でも理解しがたい自分自身の感情に苛立ちながら、花梨は泣きたいような気持ちで思わず彼の方を見上げる。



 そうしている間も、理由の判然としない内心の迷いと不安からどうすべきかを決めかねている事が、「何とかしなければならない」という強い思いと相まって、彼女の中の焦燥感に拍車をかける。




















 …――― 自分自身のことが掴みきれずにいる花梨は身動きすらままならず、今はただ、その胎に葛藤を抱きながら立ち尽くす他に、為す術が無かった。




















To be continued….


2001.12.24(MON)UP.







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