――― と。
「怖じ気づいたか。…口ほどにもない…」
不意に凍りつくように冷たい声がその場に投げ込まれた。
はっと振り向いた花梨の前で、金髪の鬼は凍てついた湖面の如き気配を漂わせながら、仮面の下の瞳を彼らへと向ける。
その視線から庇うかのようにすっと花梨の前へ躰をずらした泰継に、アクラムは不快げにふんと鼻を鳴らして見せた。
鋭角的な輪郭を描く白い顎が二人の方へ向かって反らされる。
「よく仕付けてあることだ。――― それにしても、まこと龍神の神子とは慈悲深いものだな。一度ならず二度までも、お前如きひとならぬものに情けをかけるとは…」
そう言って口元に手をやると、ただ瞳を見開いてこちらを見上げる花梨の前で二人を睥睨するように斜に見下ろし ――― 不意にアクラムは皮肉気に頬を歪める。
「…それとも、その造りものの美しい器で神子を惑わせたのか?」
「…っ!?」
投げつけられた言葉に花梨は大きく瞳を瞠り、頭から冷水を浴びせかけられたかのようにその場に凍りついた。
…何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
その言葉の意味も、その裏に潜むものも。
判るのは、発された言葉が鋭く、深く心を抉り、激しい痛みを齎す事だけだ。
そしてその痛みが躰中の感覚の全てを支配する ―――…。
何か、言葉を紡ごうとした唇がそれを成し得ないままに微かに震え、花梨は一瞬、息を詰まらせる。
「酷いっ、なんでそんな事…!!」
一拍の後、かっと頬を怒りに染めて前へと身を乗り出し、振り絞るような声で言い募ろうとした花梨の肩を泰継が手で制した。
「…言わせておけ。鬼如きの戯れ言など気にするな」
「でもっ」
「鬼が何と言おうと私は私だ。…お前がそう教えてくれた。あのような言葉、何と言うこともない」
そう言うと、まるで自分が傷つけられたかのような怒りを滲ませている花梨に優しく微笑する。
…その微笑みに花梨は口を閉ざすと、両手を握りしめた。
確かに、誰が何と言おうと泰継は泰継だ。それは変わらない。
その人自身の価値や自分の想いが、その言葉に左右されるわけでもない。
けれど、アクラムの言葉を聞いた瞬間、自分の大切なものを無遠慮に踏み躙られたかのような気がした。
…或いは、自分自身が。
彼は何故、何もかもをこうも貶める様なことばかりを言うのか。
その言葉に自分が動揺する事を、恐らくはよくよく知りながら…。
これまで何度か出逢った時も、何処か他人を見下しているような所は見受けられた。だが、そこにはちゃんと感情があり、今のように平然と蔑んだりはしなかったのに。
それなのに。
顔の半ばを覆う仮面で表情を隠し、本心の見えない冷めた声音で、敢えて傷つけようとするかのような言葉を紡ぐアクラムの姿は、何故か酷く…哀しい。
そのせいなのだろうか。花梨はまた同時に漠然とした違和感を覚えてもいた。
目の前に対峙しているひとは、何かが、自分の知っているそのひととは違っている、そんな感覚。
初めは微かだったそれは、こうしている間にも次第に強くなってゆくような気がする。
しかも、そうして自分達が喰い違ってゆくよう、そのひと自身が敢えて追い立てているかのような…。
言葉を交わし、考えるほどにそのひとの事が解らなくなる…そしてそんな自分自身すら解らなくなりかけている花梨の耳を、唐突に短く低いアクラムの嗤い声が打った。
大きく瞳を見開いてその場に縫い止められたように身動きできずにいる少女の前で、ゆっくりとその口の端に浮かぶのは、ぞっと底冷えのするような酷薄な微笑。
「――― 成程。白龍の神子などといっても、皆、要はただの愚かなひとの子に過ぎぬ、という事か。そのような見せかけと一時の感傷に囚われるとは」
表面上は笑みを浮かべていても、全く笑いの気配すらないその口調に花梨は反射的にびくんと躰を震わせた。
薄い唇に微笑の形を刻んだまま、アクラムはそんな少女をただ、見下ろしている。
「そうしてお前も、その愚かな感情故に、滅びを望む京を救おうとするということか。――― お前自身の為だけに」
その全身から漂わせている斬りつけるような寒々しさに、何も言えないままに立ち尽くす彼女の心を更に打ちのめすかのように、冷ややかな声は容赦なく降り注ぐ。
…目の前に佇む者の揶揄も露わな口調。尊大な態度。
そしてその視線が宿す、まるで卑賤なものを見下ろすかのような気配。
――― 所詮、お前のしようとしている事はただの自己満足。
それを「誰かの為」だと綺麗事を言うお前も、愚かな「ひと」の一人に過ぎぬのだと、突きつけるように。
彼女の抱いている想いも意思も信念も…これまでしてきた事の全てを、そして「彼女」というその存在すらも、くだらない無価値なものと切り捨てるかのような…。
…それは、「モノ」を眺める視線…。
それらが今、自分達に向けられていることをはっきりと認識した瞬間、花梨の中でそれまで彼女を縛っていた何かが、音を立てて砕けた。
…――――― このひと、は、いったい、だれ…?
冷たく心が凍りついてゆくかのような感覚と共に、他人事のように花梨の胎にそんな言葉が降りてくる。
…こんなひとは知らない。
これほど冷たく、自分以外のものを否定するひとなんて、私は知らない。
今、目の前にいるひとは、ここにいる誰も「見て」なんかいない。
…それならば。
…――― 「私」の言葉も、届いてなんか、いない ―――…?
花梨の中に芽生えた恐怖にも似たその思いは次第に苛立ちに変わり、それまで心の中に残っていた迷いと躊躇が、熱い熱の塊となってじわじわと込み上げてくる、烈しい怒りとどうしようもないやりきれなさに塗り替えられてゆく。
「…っ、どうして…!!」
何を言いたいのかも判然としない中で、ただ昂ぶる感情のままに、花梨は呻くように呟く。
彼女はもう、どうすればいいのか、判らなくなっていた。
いま目の前にいるひとが何を考え、そして自分が何を伝えたいと思っているのかも未だに判らない。
味方であると言ったその口で、いまは敵だと言い、京を滅ぼしたいと言いながら、京を護って見せろと言う。
“滅び”を願った京の「混乱」と「絶望」が欲しいと言いながら、“嵐”を鎮める平穏が望みだと言う。
…そしていま、彼は花梨の前に佇んでいる。
花梨の言葉や思いを受け止める訳でも、自身の胎を見せる訳でもなく。
“お前には何も解りはしない。お前達と自分は“違う”のだから”と言わんばかりに、初めから全てを拒絶して。
ただ、その真意の読めない冷たく鎧われた言葉ばかりを投げつける。
だからこそ、花梨は戸惑わずにはいられなかった。
何度も自分に逢いに来たアクラム。
そして交わされた言葉と、その中に微かに秘められた感情。
その某かの思いの存在に気付いたその時、確かに、彼は何かを求めていると、そう感じた。
それは彼自身が言った、自分の白龍の神子としての力だけではなく、もっと別の ――― 穏やかなもの。
――― 内なる心の“嵐”を鎮める、“静寂”…。
そこまで考えて、花梨はふっと顔を上げる。
今、それまで判らなかった自分の思いの一端に触れたという確信があった。
…――― そうだ。きっとその時に感じたその思い故に、自分は彼の本当の心、その望みを知りたいと思い、そしてその気持ちを伝えたい、と思っていたのではないか。
彼が本当に望んでいるもの、それが自分に叶えられるものならば、力を貸したいと。
………自分でもおかしな事だとは思う。
相手は自分の目的の為には、時と場合によっては他人を利用し、偽り、その心を傷つけることも厭わない。
そうやって、自分達も何も知らないまま、これまで利用されてきた。それなのに助けたいと思うなど…。
――― もしも…自分がそう思っていることに何か理由があるのだとしたら。
それはいつも彼のその言葉の端々に消えることのない深い闇を感じていたから、かもしれない。
自分では抜け出す事の出来ない、彼を強く縛り付けているもの。
それがいつも最後の最後で彼を捕らえ、彼は自らその心を覆い隠してしまう。
そして伸ばそうとした手は届かないまま、空を切る。
…きっとそれがとても…歯痒くて淋しかったから。
けれど、どんなに助けたいと思っても、今の自分にはどうすることも出来ない。それが現実だ。
表情を隠す、冷たく凍りついた仮面の下で紡がれる言葉と、何処か諦念をも含んだ、静かな碧い瞳と共に零れ落ちた言葉。
そのどちらもが、今、目の前にいるひとの口から発されたものであるのに、二つが意味するものは全くかけ離れている。
どちらが真実なのか、どちらも偽りなのか、或いは…どちらも真実なのか。
それすらも判らないのだから…。
「“死”と“滅び”は全ての終焉。何ものにも避けようのない運命。それ故“死”と“滅び”の前には全てが平等だ。――― 鬼の一族は滅びた。ならば龍神の加護を受けし者と言えども、“滅び”への流れが生まれた以上、皆等しく滅びるべきなのだ」
その時、まるで彼女の内心の思いに答えるかのように、ふとアクラムが口を開いた。
これまでとは違い、微かに苛立ちのようなものが混ざるその言葉に微妙な引っかかりを覚え、花梨は眉を顰める。
「そのようなものを敢えて護る必要など無い。…だがそれでも“あれ”もお前も、うわべだけの儚く滅びゆくしかないものに心を預け、己自身を喪ってもその力を振るい護ろうとする…それが愚かだというのだ」
「え…?」
引き結ばれていた薄い唇から零れた小さな呟きに潜むものにつられるように、気がつくと少女は声を洩らしていた。
…だが、答えは無い。
その沈黙と共に、一瞬、掴みかけたように思った心に引っかかった「何か」も、曖昧なまま、あっけなく霧散してしまう…。
花梨はそのもどかしさに内心で歯噛みしながら、思わずきつく手を握りかけ、そこで自分の掌がじっとりと汗ばんでいることに気がついた。
――― そこへ、これまでよりも大きな、悶えるような風の唸りが響く。
密度の濃い重い空気が、少しずつ辺りに広がってきている。
掌の汗と、空気を通して全身に感じる張りつめた緊張感が、澱んだ強大な力がすぐそこまで迫っていることを告げる。
…もう、あまり時間は無い。
ここで自分から一歩踏み出さなければ、何も判らないまま中途半端に全てが終わってしまうかもしれない。
それだけは絶対に嫌だった。
今のような半端な気持ちのままでは、きっと自分は何も出来ない。
何かを護ることも。そして…戦うことも。
花梨はその気持ちに押されるようにして若草色の瞳でひたとアクラムを見据えた。
「――― 私は…あなたと戦いたくないと思ってた。出来ることなら、こんな事、やめて欲しいって…」
そう言いさした花梨に、アクラムは感情の見えない声でいつかと同じ言葉を返す。
「言ったであろう。私はお前の敵になると。お前が私を倒すか、私が京を滅ぼすか…そのどちらかしかない」
「京を滅ぼすことがあなたの望み?私にはそうは思えない。――― 本当は、何が欲しいの?」
「求めているものなど無い。一族も何もかも、全ては遠い過去に既に喪われた。最早この身に在るのは一族の憎悪と復讐の念…それだけだ。我が身はそれによってのみ、生かされている」
揺らぎのないその口調に、花梨は一瞬、口を噤んだ。
…復讐?
その為だけにアクラムは自分達を利用した…?
それは、何処か違うような気がした。
素顔を晒したアクラムが時折見せた、あの瞳。
全てを遠く離れた処から独り、眺めているかのような…穏やかさすら感じる“傍観者”の瞳。
――― あれはとても復讐の念だけに囚われている者に浮かべられる色では無かった。
「嘘。京や龍神への復讐が本当の目的なら、どうして最初に白龍の神子の私を助けたりしたの…!」
深い意図もなく、ただ感情の赴くままにそう言い放ってしまってから、自分が発した言葉の意味に花梨ははっとする。
ただ京を滅ぼす事だけが目的だというのなら、自分を助け、わざわざ千歳と対峙させなくとも、あのまま放っておけば、気を止められた事による歪みが広がって、そう遠くない日に恐らく京は自滅しただろう。
そして、彼の思惑通りに京が滅びれば、それは京を守護する龍神への復讐ともなる。
それなのにわざわざこんな手の込んだ手段を取ったのは、千歳と自分がそれぞれの意思で選んだ路に従って振るう、龍神の神子としての力の相剋によって京を滅ぼす…ため。
京を護るはずの二人の神子の“救いたい”という思いが逆の結果を導く…そうすることで彼は龍神に意趣返しをしたかったのか。
――― 初めはそうなのかもしれないと思った。けれど…。
自分の“想い”と“力”で「願い」を叶えろと言ったアクラム。
それが、自分の帰路となり、彼の往路となるのだと。
そして、白龍の神子である自分は、たとえ滅び行くことが京の真の望みであったとしても、必ず救いたいと願い、滅びを止めようとするだろう、とも。
――― それならば、アクラムにとって一番重要だったのは、花梨がその願いを叶える為に神子の力を使うこと…即ち、彼女が持つ、「白龍の力」を振るうこと…?
しかしそれなら、花梨の「救いたい」という願いが叶った先にあるという、アクラムの往路の行き着く先は、何処なのか。
「…復讐なんかしたって、何も戻らない。誰も幸せになんかなれない。…あなたも、それを知っているはず…」
桜色の唇から、そんな言葉が滑り落ちる。
だから何か他に理由があるのではないか、と若草色の双眸が暗に問う。
しかしアクラムは、その視線にも何の変化も見せなかった。
「ほう、この有様を見てもまだそのような事を言うのか?京に仇為す者であっても相応の理があれば無下に排除は出来ぬと?――― 白龍の神子の“慈悲の心”には際限がないと見える」
仮面の下から覗く薄い唇が紡ぐのは、必死に問いかける花梨を嘲笑うかのような口調。
「龍神の神子はあらゆるものに情けをかける…昔から変わらぬな。だが、私には神子の慈悲など不要なもの…所詮、この身はかつて滅びた鬼の亡霊にすぎぬ。求め、護るべきものなど有りはしない。全てはあらかじめ喪われているのだから」
「……………」
花梨はそれ以上何も言うことが出来ず、視線を地に落とした。
淡々と告げられる言葉は、自分がどうする事も出来なかったという現実を…自身の力の無さを突きつけているかのようだった。
彼女はそのまま、不意に大きく顔を歪めると、何かを振り切るかのように強く、奥歯を噛みしめる。
組まれた両手が小刻みに震え、爪が食い込むほど固く、握られた。
“――― お前は、私のものだ。お前が私の望みを叶えるのだ。その力で”
何故かその時脳裏に甦ったのは、いつだったか、彼が度々逢いに来る理由を訊ねた自分に向かって発した言葉。
あの時の、突き放した口調。
しっかりと見開かれていながら、目の前にいる存在を対等な意思あるものとしては認識せず、自らの胎にしか向けられていなかった瞳。
そう、花梨のことを「自分のもの」だと言いながら、彼が見ていたのは「花梨」ではなかった。
口にしている言葉の意味そのものは、自分を必要としているかのようなのに、その言葉を告げた時の彼の様子は、いま目の前にいるそのひとのそれと寸分違わない。
それは何かを強く求めていながら、差し伸べられるものを受け入れることを拒絶する ―――…。
そしていま、あの時一瞬感じた隔たりが、現実のものとなって自分達の間に広がっているのをひしひしと感じる。
それも恐らくは、彼自身の意思によって。
やるせない思いと共に、花梨はその瞳を瞑る。
それと共に、寒々とした感情がひどい脱力感を伴ってじわじわと心の中に降りてくるのを感じる。
“結局、最後まで私とあなたの路は交わらなかった。…あなたは最後まで、ただ、自分を貫いてゆく…たった独りで”
重苦しいその思いは、花梨の中で燻るようにして、鈍い熱と痛みを彼女に齎した。
“そして私は…あなたを理解することも、その心の奥を知る事も…出来なかった…”
胸の中で言葉という形になった思いに、花梨は今漸く、自分が何故彼と対峙することを躊躇い、恐れたのか、そして何がそうさせたのかが解ったような気がした。
…きっと自分は薄々気が付いていたのだ。
もしも彼と戦うことになれば、それはこれまでのシリンや和仁たちと戦った時とは違い、どちらかを完全に滅ぼすことになるだろうと。
自らを「鬼の亡霊」と言い、「個」としての己の存在に価値を見いだしていないかのように振る舞う彼は、自身の命にすら、強い執着を抱いてはいないようだった。しかしその一方で、常に己の意思を強く出す彼のこれまでの言動から、決してそれを曲げようとはしないだろうと、そんな予感がしていたから。
けれど、たとえ相手がどれほど酷い冷酷な存在だったとしても、滅ぼすことなどしたくはなかった。
それはきっと、百年前と同じ事を繰り返すことに他ならないから。
出来ることならその心を救いたかったのだ。
もうこれ以上の憎しみや苦しみ、哀しみの連鎖が続かないように。
そして自分は。
誰もが必ずしも分かり合える訳ではないのだと解ってはいても、それでも、信じていたかったのだ。
思いは、いつかは通じる、と。
…それは恐らく…自分がいつも心の何処かで、彼の凍りついた視線の中に、淋しげな…まるで何かを求めているかのような色が時折混じるのを、そしてそれが自分しかいない時にだけ、表面に現れるのだという事を感じていたから。
だから、自分になら何かが出来るのではないかと思ってしまったのかもしれない。
「私」は、助けを求められているのだと。それだけの力がきっとあるのだろうと自惚れていたのかもしれない。
“でも…”
花梨は心の中で小さく呟く。
もしかしたらその一方で、自分達が解り合うことは出来ないのだと…最早どうしても、近い将来にこうして対立することは避けられないのだということも、悟っていたのかもしれない、と 。
…――― そしていま、その予感は確かに現実となって、自分の目の前に広がっている ―――…。
To be continued….
2001.12.28(FRI)UP.