――― 宵の皓絲 ―――
《 ヨイノシライト 》











§








「…神子の神気に惹かれてきたか」






 ぽつりと誰にとも無しに呟き、泰明は微かに瞳を細める。






 ――― 否…それとも神子が妖の気に惹かれたのか。





 ふと、泰明の胸の胎をそんな思考が過ぎる。





 ――― 昏く、細かに蠢く異形の霧。ひとでなく、鬼でも妖でもないモノ。
 それは宿る器すら持たない、混沌とした念の塊。
 ひとの様々な念が凝ったもの。




 真っ直ぐに眼前のそれを見つめている少女に、畏れの色は無かった。
 だが、その剥き出しの念の帯びた瘴気が直に神子の意識に触れるのか、気丈な様子ながらもその貌は常よりも蒼ざめている。

 そうでなくとも日輪の没したこの刻限は、妖の影響の強まる時だ。
 出来るだけ早く神子の前から遠ざけなければ、穢れがその身に及んでしまう。





 泰明は腕に神子を庇ったまま、小刀を取り出すと、音も無く抜き放った。

 唇から小さく刻まれる呪。
 霊水で浄められたそれは、紡がれる詞(ことば)に籠められた気を宿し、宵闇に蒼白く輝く滑らかな刀身を現す。







 ――― と。

 それと同時に目の前に凝った靄が歪み、再び大きく蠢いた。
 次いで低く、耳障りな唸りが辺りの空気を震わせる。
 振動が渦をなし、空を裂く音と共に昏い霧を纏う風の刃となって泰明に向かう。




 闇を縫うように走る一瞬の閃光。
 それは彼の眼前で翳された白刃の放つ光の前で甲高い音を立てて跳ね返された。
 幾筋もの細い刃へと分かたれた力は、ざざっと辺りの枝葉を薙ぎ払い、大地を抉り、切り裂かれたような鋭い爪痕を遺す。
 その後を追うように低い轟きが地を這い、木霊となって長く尾を引いて消えてゆく。

 悲鳴にも似たその響きに、何を感じたのか、腕の中の少女の華奢な肩が微かに震えた。








◇◆◇泰明×あかね◇◆◇








 …そして辺りに濃く薫り立つ、湿った緑の薫り。
 無惨に切り刻まれた木の葉が吹き荒れる風に舞い上がり、二人の髪を荒々しく吹き乱し鮮やかな翠と淡紅の筋を散らせる。








 だが泰明はその風にも微動だにせず、視線を一点に定めたまま佇んでいた。
 琥珀と翠の双眸が朧な闇の中、鋭い光を放つ。








 その先に在るのは、霧のように薄く広がり、頼りなく漂う淡色の闇。
 泰明の力に弾かれ、散らされた筈のそれは少しずつ、しかし確実により集まり、再びその濃さを増してゆく。





(…やはり、か)





 泰明は僅かに眉を顰める。





 今、自分達が対峙しているモノは、鬼の如く、恨みや妬み嫉みといった己の強い想いに縛られるものでもなければ、妖のように自我を持つ訳でもない。
 これを祓う事は難くはないが、ひとの念が凝っただけのものであるからこそ、逆にただこの場から排除するだけでは何の意味も無い。
 そう、凝った念自体を消滅させ、或いは昇華させなければ、いずれ元の木阿弥だ。





 泰明はその相貌に僅かの揺らぎも見せず、静かに小刀を構えなおす。




 その時。
 不意に手にした小刀がふわり、と燐光のような淡い光を纏った。
 抜き身の刃から立ち上るのは、柔らかく滑らかな、陽炎の如き気。

 それを認めた双色の双眸が瞬時に見開かれる。



( ――― 神子の力、か?)



 彼は思わず腕の中の少女を見遣る。

 何処かもどかしげな貌で泰明に寄り添いながらも、案ずるような…祈るような毅い光を湛えた深緑の瞳。
 そしてその華奢な躰を覆うかのようにその胎から放たれる、淡く皓い光。





 唯人の眼には視えぬ不可視のそれは、穢れを浄め、あらゆるものを柵から解き放つ、至高の癒しの力。





 泰明は一瞬、口元に微かな笑みを刻む。
 そのまま両の瞳を伏せると、己の胎に流れ込む力へと意識を集中させる。




 それに応えるかのように、胎から新たに湧き起こる、暖かい流れ。
 浸み入るように広がりながら充ちてゆく、馴染みある皓い力の気配。




 ――― 鋭く開かれた怜悧な瞳が一点を捉え、刀を握る腕が風を切る。
 冴え冴えとした光を放つ刃が僅かに雲間から洩れる月光を弾いて煌めき、鮮やかな軌跡を描いて地面に突き立った。
 続けざまに翻ったしなやかな指が闇を切り裂くように九字を描く。








「 ―――…急々如律令!」








 空を凛と震わせる、玻璃の声。

 瞬間、楔の如く地に穿たれた小刀を中心に、カッと放たれた皓い光が襲いかかる黒い瘴気を祓う。
 同時に神子の気が輝きを増し、見る見るうちに溢れ出すように周囲に広がった。
 透明な神気は靄を包み込み、視界を眩くも優しい白へと染め変えてゆく。

 その細い躰を支え、護るように腕の中に包み込みながら、少女の放つ、羽毛のように柔らかく、暖かな気に包み込まれるかのような感覚に泰明はそっと瞳を細めた。







 …少しずつ収束してゆく、浄化の光。
 それと共に昏く凝っていた靄が周囲の空気に溶けこむようにして、ゆっくりと色を失い、消えてゆく。







 総てが霧散した後、辺りに残されていたのは、切り裂かれた木の葉の欠片と緑の薫り。
 そして、清々しく透明に澄んだ空気。
 清水にも似た冴えた空気が漂う中で、月を遮っていた淡雲がゆっくりと二人の頭上を流れ去り、柔らかな黄金色の光を甦らせる。
 柔らかく、涼やかな風がそよ、と頬を撫で、遠く、微かに響く虫の音が次第に戻り始める。


 …異質な気配が消えた事を感じ取ったのか、あかねの強ばっていた躰からゆっくりと力が抜けた。
 言葉も無く、ほう、と小さく吐息を洩らすその貌は、今、自分が何をしたのかも殆ど自覚していないのか、何処か茫然としているように見える。



 そんな少女の気配を視界の隅で捉え、泰明は細く息をつくと、あかねを腕の中からそっと解放した。
 そして先に投げた小刀へ歩み寄る。
 身を屈めて地に突き刺さったままの刀を引き抜くと、袂で刃についた土を払い、曇り一つ無いそれを鞘に収める。



 神子はその傍らに大人しく佇んだまま、淡々とした彼の様子を見るともなしに見つめていた。
 心持ち心細げな表情を浮かべた大きな瞳が、泰明の姿を追う。

 と、その翠の双眸が何かを捉えたのか、突然思い出したようにあっ、と小さく息を呑んだ。
 次いで伸ばされた少女の細い指が、泰明の腕を強く掴む。

 自分の腕にかかる柔らかな力に引かれるままに、彼はあかねを顧みた。




「 ――― 何だ?」
「泰明さんっ、さっき怪我…!」





 慌てたようなあかねの様子に何事かと柳眉を上げた泰明は、その言葉に興味を失ったようにすっと瞳を伏せた。




「…大した事ではない」
「でも」
「私の事などいい」




 取りつく島もない泰明に、あかねは迷うように言葉を呑み込んだ。
 僅かの間、逡巡し、そしてきゅっとその唇を引き結ぶ。






「…見てる私が痛いからダメです!!」
「 ―――…」






 間近から見上げる、真摯な瞳。
 怒ったように強く言い切ったあかねの剣幕に押され、泰明は一瞬、戸惑ったように口を噤んだ。
 それを見計らったかのように彼女は袂から符を取り出すと、すかさず腕を伸ばす。




 …――― 細い指先がそっと気遣うように彼の頬の傷に…触れた。


 手に持つ符がじわりと淡い光に彩られ、やがて柔らかく頬に触れる指先から生まれた優しい熱が泰明の頬へと伝わり、微かな疼きを残してすうっと痛みが引いてゆく。








「 ――― ごめんなさい…」








 瞳を伏せた神子の唇から、ぽつりと小さく声が洩れる。

 終始庇われていたという感覚しかない彼女にしてみれば、故意にではなくとも、自分独りでは身を護る術も無いのに夜歩きし、しかも居合わせた泰明に怪我までさせてしまったとあっては、やはりどうにも居たたまれない心地だった。


 伏し目がちに一言そう言ったきり、口を閉ざしてしまった神子にちらりと視線を走らせ、泰明は幾分複雑な表情を浮かべる。




 凡そ、彼女が今、何を考えているのかという事は、彼も悟っていた。

 他人の傷や痛み、思いにはひどく敏感でありながら、自分自身には何処か無頓着な少女。
 それはその力にしても同様で、自身がどれほど美しい気を纏い、どれほど稀有な力を宿しているのかも恐らく殆ど自覚していないに違いない。
 いつもその胎に抱く柔らかな心が、先程顕れたあの力のように、知らず知らずのうちに路を照らし、導き、そして自分達を護っているというのに、そんな事にすら気づいてはいないのだ。

 …それでも時折、彼女のそんな神子としての性に、その身を護っている筈がいつの間にか護られている矛盾に、そしてあらゆるものに向けられる優しさに言葉にならぬ苛立ちを覚えてしまうのは…やはり己の身勝手、というものではあるのだろう。


 それにそもそも「無闇に出歩くな」と咎めてみても、今回ばかりはどうしようもあるまい。彼女自身ですら、無意識だったのだから。

 …でなければ…。







 ――― 泰明はあかねの姿を見、知らず黙したまま一つ嘆息する。
 それを耳にしたあかねは、しゅんとした様子で項垂れた。







 間近から、何も言わないまま自分に注がれている視線。
 …多分、彼は呆れているのだ。







「…あの」







 様子を窺うように上目だけで泰明の方を見上げ、神子が恐る恐るといった声音で小さく呼びかけた。
 応えるようにす、と動いた冴えた双色の双眸と目が合って、少女は困ったように視線を泳がせる。

 その様子を訝しく思い、泰明が近づきかけた時、漸く神子が口を開いた。





「…迷惑をかけてごめんなさい。…戻ります…」





 小さく響く、常よりも沈んだ細い声。
 かなり落ち込んでいるらしいその様子に、泰明は一瞬僅かに瞳を見開いた。
 そして今度は幾分柔らかな ――― 苦笑にも似た溜息が零れる。





「 ―――…その姿で邸へ帰るつもりか?」
「…え?」




 返された予想外の言葉に、あかねは俯かせていた貌を上げる。
 どういう意味なのかすぐには解らず、困惑気味に暫し頸を傾げてから、ふと泰明の視線を辿って己を見遣り…漸く彼の言わんとした処を理解した。

 如何に無意識とは言え、一体何処をどう通ってきたのか、藤色の衣のあちこちに摺れたような汚れの跡がある。見れば足元も履物を履いてこそすれ、草で切ったか転んだか、見事に細かな擦り傷と土まみれだ。
 このまま土御門の邸に帰れば、当然の如く、藤姫は血相を変える事だろう。じっと注がれていた泰明の視線と溜息も、理由の半分はこの為だったのかもしれない。

 そこまで考えた処で、…はた、とあかねはもう一つ、ある事に気づく。



「…もしかして、今頃…」
「そろそろ土御門でも姿が見えぬと騒ぎになっているかもしれないな」



 恐る恐るそう洩らしたあかねに、泰明は至極冷静に言ってのける。
 決してきつい言い方では無かったが、嫌な予感を容赦なく肯定する、とどめとも言えるその一言にあかねはぴたりと固まった。


 日頃、「散歩」などと言って幾度となく自発的脱走を繰り返した事のある身としては、今回は不可抗力だと言ったとしても限りなく説得力に欠ける事くらいは…解る。この状況を上手く説明し、藤姫や他の八葉達を納得させる事は、あかねには恐らく不可能に近い。
 ぼんやりふらふらと独りで外を徘徊した上に、泰明に散々迷惑をかけ、怪我までさせて、挙げ句自分のこの有様。
 このまま戻れば、叱られるというよりもまず間違いなく必要以上に心配をかける事は目に見えている。

 天真あたりからは常々楽天的と評されているあかねも、流石に蒼ざめた。





「ど、どうしよう…」





 思わず情けない声が洩れる。

 …と、暫し、何か考えを廻らせるような様子でじっと少女を眺めていた泰明が、徐にその手を掴んだ。




「行くぞ」
「え?」
「此処からならばお師匠の邸の方が近い」




 一言そう告げるなり、返事も聞かずに踵を返す泰明。
 いきなり手を取られたあかねはその唐突さに慌てふためく。




「あ、あのっ…!」




 訳が判らないまま腕を引かれながら、何とか呼びかける。
 するとあかねの戸惑いを察したのか、歩き出そうとしていた泰明がくるりと振り向いた。





「…お前の傷の手当ての方が先だ。それに衣の換えくらいはあるだろう」





 当然の事であるかのように、あっさりと返される答え。
 そのまま、藤姫には式神を遣っておけば良い、などと続ける泰明の月に照らされた美しい貌を、少女は半ば呆気にとられて、言葉もなく見つめていた。








 ………てっきり、呆れられているのだと思っていたのに。
 その言葉は、確かにいつもと変わらず素っ気ないけれど、彼女を見つめる双色の双眸は鏡のように澄んでいながら、その深みに浮かぶ光は柔らかく、優しい。








「…はい」









 あかねはこくんと、一つ頷いた。
 段々と頬が綻んでくるのを感じながら、ゆっくりと触れている手に指を絡める。


 柔らかく握り返される、華奢な指の感触。
 そうして安心したように貌を綻ばせている少女の様子に、泰明は知らずふっと微笑する。





















 …――― 月を遮っていた淡雲がゆっくりと二人の頭上を流れてゆき、柔らかな黄金色の光を甦らせる。
 惜しみなく降り注ぐ月光の下、さやさやと静かに梢を揺らす優しい風声と、仄かに響く澄んだ虫の音だけが辺りに染み通るように落ちてゆく。





 朧気に辺りを照らす中天に輝く月が、寄り添うように歩く二人の影を長く大地に刻んでいた。























【 FIN.】





2003.2.12(WED)UP.
2003.3.9(SUN)加筆.
【 +++ To 来香さま +++ 】


< Written by Yuki Kugami. 2003. / Site 【 月晶華 】 >



< Illustration by Raikou. 2002-2003. / Site 【 花宮 】>












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