――― 宵の皓絲 ―――
《 ヨイノシライト 》











§








 …――――― 不意にざわり、と梢が…揺れた。








 遠い山の端から姿を現し始めていた月の齎す清かな光が、何かに遮られたかのように唐突に翳る。
 それと共に周囲の闇が肌に触れるかのようにじわりと密度を増したのを、泰明はその鋭敏な感覚で捉える。
 漂う空気は重く澱み、大地にすらりとした影を落とす彼の身に纏いつくかのようだった。


「………」


 泰明はその場でぴたりと足を止めると、何処ともつかぬ闇へ怜悧な眼差しを投げた。

 振り仰ぐ双色の瞳に映る空は、宵の口という刻限にしては闇が深すぎる。
 上空で微かな唸りを轟かせて駆け抜ける天風に朧な雲の切れ端が押し流されてゆき、頭上の遙か高みまで伸びた竹の枝葉がざわざわと擦れあう葉音が次第に高くなる。
 雲間から切れ切れに降り注ぐ不安定な月影の欠片に照らされ、地に伸びる樹影が忙しなく揺らめいた。


 …その闇の裡に潜むのは、明らかに尋常ならざるものの、気配。








 ――― 近頃、頻繁に囁かれるようになった噂。
 それは夜陰に紛れ、不意を衝いてひとを襲うという、姿無き「妖」。








 確たる気配を捉えた訳でもなく、ただ、僅かに感じられる気の変異を辿って此処まで来てしまったのだが…。
 本当に此処で出くわすとは、「神出鬼没」との話もあながち誇張でもないらしい。

 しかもこの辺りは左京北辺。…土御門の邸にも近い。
 見過ごす訳にはいかない。


 だが、この辺りの何処かにいる事は判っても、件の妖の気配は酷く散逸していて、他の雑多なものの気に紛れてしまいそうなほどに弱かった。その姿が目に見えぬのと同じように、その気もさながら漂う空気の如く、時に集まり、或いは散るように蠢き、「核」がなかなか掴めないのだ。








(姿を現すまで待つか)

 それともこちらから誘い出すか ―――…。








 なま暖かい、絡みつくような風が翠緑の髪を散り乱してゆくのを気にも留めず、周囲に鋭く視線を廻らせながら、泰明は神経を研ぎ澄ます。



 …と、その時、ほんの微か、別の「何か」が意識の端に触れた。
 その感覚にふっと柳眉を顰めた泰明は、次の瞬間、弾かれたように振り向いた。










 ――――― 見開かれたその双眸の先、僅かに遅れて現れたのは、華奢な人影。
 その後を追うかのように、一瞬、頭上を覆っていた薄雲が切れ、その合間から射し込む一条の細い光が人影の半身を淡く照らし出す。


 まるで月に導かれたかのように、大地に長く伸びる影。
 皓い月光に透ける、柔らかな輪郭。
 ざわめく風に翻るのは、月明かりを仄かに弾く、夜目にも鮮やかな、桜色 ―――――…。










 それを認めた途端、間髪置かずその人影に駆け寄ると、泰明は細い肩を掴む。



「神子!?」
「……?」



 低く抑えられた、だが鋭い呼び声に少女はゆっくりと俯かせていた貌を上げる。
 水底を漂っているかのようにぼんやりとした表情で、あかねは間近から泰明を見上げた。


 …ややあって、緩やかに瞬かれる、長い睫毛。
 その下から、澄んだ森の翠の瞳が顕れる。



「 ――― 泰明さん?」
「何故、こんな処に居る?」
「え? こんな処って………あれ? 私…」



 僅かに苛立ちの滲む問いに、少女はまるで今、夢から醒めたかのようにきょとんとした貌をすると、徐に辺りをぐるりと見回した。
 訳が判らないといったようにあちこちへ彷徨う瞳の奥に、微かに不安の色が過ぎる。



「神子」
「わ、判りません。気がついたら此処にいて…」



 何も覚えていないのか、戸惑った様子で頸を振りながらそこまで言いさして、…あかねはふっと口を閉ざした。
 思案するようにその細い指先が口元に添えられる。



「…ただ…聲、みたいなものを聞いた、ような…」
「聲?」
「いえあの、何となく…そんな気がして」



 朧気な感覚だったのか、あかねはぽつぽつと心許ない口調でそう洩らす。











(…その聲とやらのせいで無意識のうちに逍遙したというのか?)











 それも今、「この」場処へ。











 …そう思い、知らず訝しげに眉根を寄せた、その時。



 何かを捉えたのか、不意にぐっと双色の双眸が険しく細められた。
 同時に彼の手が傍らの少女の腕を掴む。



 それを待っていたかのように、ふっ、と周囲の樹々のざわめきが止んだ。















  ――――― 瞬間。















 ビシッ!、という鋭い音と共に、泰明の貌の間近を一陣の風が駆け抜けた。
 その軌跡を残すように、すうっ、と一筋の鮮やかな朱線が彼の白皙の頬を伝う。




「っ!?」




 強い力で引かれるまま、泰明の胸に倒れこんだあかねは、包み込むように被せられた腕の合間から慌てて貌を上げた。
 そこで目にした光景にはっと瞳が見開かれる。



 泰明の頬に刻まれた一条の傷。じわじわと滲み出る緋色。
 その直前に唐突に湧き起こり、掠めていった旋風。



 瞬間的に庇われたのだと悟り、あかねは思わず身を引きかけた。
 が、それを抑えこむように背中に腕が廻され、きつく彼女を抱き寄せる。




「やす…!」
「離れるな」




 静かに、だが有無を言わせぬ毅さで泰明が囁く。
 鋭く前方を見据える視線とすっと張りつめた彼の気配に、あかねはちらりと貌を歪めたが、上げかけた声をぐっと呑みこみ、身動ぎを止めた。
 そして自分もそろそろと深い翠の瞳を前へと向ける。




 …二対の瞳が見据える先で、昏い影が凝り始めた。
 淡く、漂うように稀薄だった気配が、急速にそれまでとは比べものにならぬ密度へと集束してゆく。




「なに…?」




 本能的に何かを感じたのか、あかねが小さく声を洩らした。









 ――― 恐ろしくは、ない。
 だが、それを見つめている内に、不意に何故か哀しいような苦しいような奇妙な心地が胸の奥を掠めた。
 それは自分のものではない「誰か」の…「何か」の幾つもの感情と鈍い痛みが少しずつ肌から滲みこみ、それに浸蝕されてゆくような、奇妙な感覚。
 ざわざわと躰の胎を撫でるように押し寄せるその波に胸が詰まるようで…ひどく息苦しい。









 あかねはその感覚に、知らず微かに眉根を寄せた。
 何かに惹きつけられたかの如く、大きな深緑のその瞳を其処に漂うモノから逸らす事も出来ないままに。












 …ややあって、泰明の腕に添えられた細い指先に、縋るようにぎゅっと力が籠められた。















【 To be continued….】





2003.2.2(SUN)UP.

< Written by Yuki Kugami. 2003. / Site 【 月晶華 】 >









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