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…不意に腕を握る指に込められた、痛い程の力の強さに、あかねは驚いて思わず泰明を見上げる。
そこには瞳を伏せたまま、怜悧な容貌に何処かもどかしげな気配を滲ませている彼の姿が在った。
逸らされたその横貌を掠めた苦しげな色にあかねは戸惑う。
…と、向けられる視線を感じたのか、彼の双色の双眸がふっと開かれた。
細い吐息と共にゆっくりと指先の力が緩み、きつく掴まれていた腕はあっさりと解放される。
仄かな温もりと痛みを残して。
「…もう、いい」
ぽつりと紡がれた言葉に、深い翠の瞳が瞬く。
「…えっ?」
「謝る必要はない」
「泰明さん…?」
不安そうな澄んだ細い声音。
耳を打つそれに苦い感慨が過ぎるのを自覚し、泰明は我知らず眉を顰める。
その様子に少女が唇を固く結んでそっと俯いたが、己の胎に囚われていた彼がそれに気づく事は無かった。
「 ――― もう、このような事はするな」
「…はい」
「八葉は神子の盾となり剣となるものだ。それなのにお前自身が進んで傷つくような真似をしていては意味が無い」
「はい」
「神子には神子の役割がある。それを忘れるな」
「……はい」
…淡々と響く低く抑えられた自分の声が、何処か他人事のように遠く聞こえた。
意味も無く、ただ滔々と紡がれるだけの泰明の言葉に、神子は神妙な様子で一つ一つ、素直に頷いている。
だが、膝の上できちんと組まれた両の手は指先が白くなるほどにきつく握りしめられ、瞳は何かを堪えるように、忙しなく瞬いていた。
それと共に伝わってくる微かに震えるような神子の気配に、泰明の胸に不意に何やらひどくやるせない心地が広がってゆく。
…そのような貌をさせたかった訳ではないというのに。
自分は一体、何をしているのだろう。
こんな事を言いたかったのだろうか。
「龍神の神子」たる者がその身を損ねるような軽々しい真似をするな、と?
否。
そうではなかった筈だ。
自分はただ、この目の前の華奢な少女を護りたかった。傷つけられたくなかった。
だからこそ、彼女が自分などを庇って傷ついた事に怒りすら覚えた。
――― 何故、と。
だが、これまでその思いの意味など考えた事も無かった。
いや、本当は何処かでとうに気づいていたのだろう。だが、恐らくは無意識のうちに避けていた。考える事を。
…それは彼我の境を思い知らせるだけのものだから。
知らず、彼は両の手の拳を強く握りしめる。
「…すまない」
唐突に零れ落ちた押し殺されたように掠れた声音に、神子はゆっくりと俯けていた貌を上げる。
「どうかしているのは私の方だ。…己の事すら判らないとは…」
「…え…?」
まだ彼の言葉をよく理解していないのか、微かに頸を傾げた神子の唇から有るか無きかの声が洩れる。
泰明は柳眉を寄せたまま額を押さえると、吐息と共に力無く口を開いた。
「神子を、責めるつもりは無かった。………だが私は、お前が関わると冷静ではなくなる。今まで覚えた事のない熱さや衝動に囚われて、自分自身を制御出来ない」
「冷静じゃなくなる、って…」
「 ――― あの時もそうだ。お前の躰から流れ出る血を見た瞬間、何も考えられなくなった…」
少しずつ言葉を押し出すかのようにそう呟くと。
迷うように綴られていた声が、ふつりと途切れる。
上手く応えを返せないまま、戸惑った様子でただ彼を見上げている神子の前で、泰明は固い表情を浮かべ、唇をきつく引き結んだ。
透き通るような蒼白さを湛えた指先が、額に落ちかかる翠緑の髪をもどかしげに掻き上げる。
――― 八葉は「神子の為」に在り、神子を護るもの。
そして自分は単なる「道具」でしかない。
そう、主に在るがままに使役されるだけの「モノ」である自分が、神子に仕え、その身を護る事は己のその性故の命(めい)であり、事実でしかない。其処に己の「意思」や「感情」など存在しない。
…その筈だった。
それが何時の頃からか…少しずつ変わってしまった。
自分に向けられるその瞳を見つめるうちに胸の胎に温かなものを覚え、
命は意思となり、
そして ―――…。
そこで彼は、神子が傷を負った時に自分の胎に湧き起こった烈しい「感情」を思い出す。
…同時に、ふと、あの瞬間に脳裏を過ぎった「思い」の意味に思い至り ―――…泰明は愕然とした。
――――― 「感情」。
己の「心」の訴える「聲」を、伝えるもの。
…ならばあの時の「思い」は、今、自分が望んでいる事の顕れだという事か。 ……………愚かだと、思った。
ひとのように「心」を得、「感情」を、「想い」を持ち、そうして私は…何を望んだのだろう。
それは、叶う筈も無い望みだ。
ひとではないもの、まして世の理を曲げて在るものが、ひとと同じものを求めてどうなるというのか。
たとえ神子が自分を恐れなくとも、或いはこの空の器に「心」が芽生えようとも、ひとではない事実が変わる訳ではないのに。
きっとこの少女が自分に向ける優しさや温かさも、他の総ての生命(いのち)に注がれるそれと、同じものでしかないのに。
…そして、欠けているが故の渇望が己の胎に在る事さえも、知らずにいた時ならば。
時折過ぎるこの胸の痛みも、眠らせておく事が出来たのに。
――――― それならば…いっそ、「心」になど気づかなければ良かったのだ。 不意に苦しげに大きく貌を歪めた泰明に、あかねははっと澄んだ翠の瞳を大きく見開いた。
思わず腰を浮かせかけ、そこでその面に危うくすら見える気配を滲ませる彼を目にして、一瞬、気を呑まれる。
何か言葉をかけようにも、声が出なかった。
…茫然とその大きな瞳を見開いている彼女の前で、泰明はその視線から逃れるようにすっと瞳を逸らした。
瞬きを忘れたかのようなその双眸が宙の何処ともつかぬ場所を漂い、蒼ざめた唇が微かに震える。
「…お前を、喪いたくないと、思った」
そして、奪う事など「赦さない」、と。
――――― 「自分」から。 深い翠の双眸が、大きく瞠られた。
それを視界の端で捉えながら、泰明はゆるゆると、細く、深い吐息を洩らす。
そうして胸の奥に蟠(わだかま)るものを少しでも吐き出さなければ、息が詰まりそうだった。
傍らから射し込む鮮やかな夕陽に照らされた、緋色に染まった辺りの空気に溶け込むような朧な輪郭を湛える泰明の白皙の貌に、仄かな笑みが浮かぶ。
…それは壊れそうに張りつめた、玻璃のように脆い微笑だった。
「…浅ましい、な…」
躰の奥から絞り出される、烈しい感情を堪えているかのような、低く掠れた声。
それはこれまで耳にした事が無いほどに深く、昏い響きをもって静寂を震わせ、あかねは返す言葉を失った。
それでもぎこちなく、二度、三度と頭を振る。
「っ、そんなこと…!」
ただそれだけの言葉を紡ぐのに、渇いた喉が引き攣れるように痛んだ。
どんな貌で、何を言えばいいのか…何を伝えればいいのか。すぐには思い浮かばなかった。
何かを伝えたい気持ちは溢れているのに、自分の中で渦巻くそれをかたちにする言葉も見つからない。
泰明の告げた言葉が今の彼の想いなら、自分達の心はきっと、互いにほんの少し手を伸ばせば触れ合える処に在る筈なのに。それは心の奥で密かに願っていた事の筈なのに。
目の前にいるそのひとの瞳を、目にしてしまったせいなのだろうか。
今はただ、どうしようもなく ――― 苦しい。
困惑と迷い、畏れと苦悩…そして、深い諦念。
それらよりも尚強く、烈しく、何かに焦がれるような、その瞳。
けれど、昏い瞳で微かに微笑って見せた泰明の姿は、まるで逃れられない事実を自分自身に突きつけて、必死に何かを諦めようとしているかのようで。ひとならぬ生まれであるという事が、どれほど深く、彼自身を縛っているのかを改めて思い知らされたような気がした。
そして自分の想いにばかり囚われて、その事にここに至るまで気づかなかった、己自身の浅はかさも。
――― けれど、それでも…。
躰の芯をきつく、握り絞められるのような痛みに襲われ、あかねは思わず唇を噛む。
「…どうして、ですか」
細く、あえかな声が響いた。
聞き落としそうな程に小さなそれに、泰明がゆっくりと視線を上げる。
あかねはもどかしさを堪えながら、膝の上で硬く握りしめられている彼の手へそっと両手を伸ばす。
このまま、何も伝えずに距離を置いてはならないと思った。
…それは何かの直感だったのかもしれない。
今まで、自分とは気持ちがすれ違っているのだとばかり思っていた泰明が自分に投げかけた幾つもの言葉、表情、そしてその声。
ひとではないからと、心も感情も否定していたひとが投げかけた、微かな ――― 「聲」。
今、それに応えられなければ、総てを喪ってしまう気がした。
自分の想いも、そのひと自身も。
包み込むように添えられた掌の柔らかさと熱さに、ぴくりと泰明が肩を震わせ、身を引こうとした。
思わず引きかけた手を、あかねはしっかりと捉えて引き留める。
…泰明は、それ以上無理にその手を振り解く事はしなかった。
代わりに何かを堪えるように細められた双眸が、少女を見返す。
いつもは玉石の如く澄んでいる双色の瞳は、様々な色のない交ぜになった不安定な光をその深みに宿して、僅かに揺れているようだった。
あかねは彼の手を握ったまま、自分自身を鎮めるように、小さく息を吸う。
「…私だって、同じです」
「 ――― 同じ…?」
「神子だから、八葉だからとか、ひとかどうか、とか…そんな事とは関係なくて。ただ、護りたかったから。だからあの時も…」
そこであかねは一度言葉を切る。
僅かに躊躇うように、その大きな瞳を縁取る長い睫毛が揺れた。
ややあってそっと吐息をつくと、あかねは頬が次第に熱く火照り始めるのを感じながら、泰明を真っ直ぐに見上げる。迷いの無い瞳で。
「私は、泰明さんの事、大切だって…想ってます。だから傷ついてほしくないし、なくしたくない」
「…何を…」
「泰明さんの事が、好きだから。他の誰より大切だから、だから…っ」
僅かに狼狽えた様子で反駁しかけた泰明に覆い被せるように、あかねは強く一息に言い切る。
告げられた言葉に泰明は思わず口を噤んだ。
そこに込められた少女の想いと向けられる眼差しの強さが、泰明の胎の琴線を掻き乱す。
…その胎に生じた揺らぎもそのままに、双色の澄んだ瞳が少女を見返した。
胸の胎に入り乱れる幾つもの感情が、淡い影のようにその面を過ぎる。
そのような事など有り得ないと否定している側から微かに湧き起こる、温かなもの。
その温かさを受け容れたいと、…信じたいと何処かで強く願う自分。
だが泰明はそれを無理矢理抑え込むように、唇を噛みしめた。
「…私は、ひとではない」
「知ってます」
低く、絞り出すように紡がれた声に、静かに少女が答える。
…と、揺るぎなく泰明を見据えていた澄んだ瞳が、彼を捉えたまま不意に揺らいだ。
「同じ生まれ方じゃなかったら。…大切に想っちゃ、いけないんですか…?」
「 ―――…」
――― 瞬間。
衝かれたような表情が、泰明の面を過ぎった。
そのまま言葉を継げずに瞠目する彼を、深い色を湛えた双眸が見上げる。
どうしても言葉に出来ない想いを伝えるかのように、手を握る指先にぎゅっと力が籠もる。
…込み上げてくる熱いものを堪えようとして、喉が、震えた。
「………わたし、は、泰明さんが「喪いたくない」って言ってくれて…嬉しかった、のに ―――…!」
あかねはとうとうそこで声を詰まらせ、言葉が途切れた。
横たわる静寂の内に、細く、だがはっきりと耳朶に残る少女の声が、少しずつ泰明の胎に滲み入ってくる。
――― 無防備なまでに真っ直ぐに向けられる心。
毅い、想い。
在るがままの自分を映すかのような、深く澄んだ、濡れたような大きな瞳。
それを間近に目にして、泰明は一瞬、眩暈にも似た感覚を覚える。
今まで、自分にこれほど真っ直ぐに想いをぶつけてきた者など、誰一人としていなかった。
無論、ひとを想った事も無かった。
そして自身の不自然な在り様を知っているからこそ、己の感情に気づいても愚かな望みだとしか思えなかった。
それなのにこの少女は、生まれ落ちたその時から定められていた、決して逃れる事の出来ない自分の過去も、自身の抱く想いを畏れ、突き放そうとしてその心を傷つけた事も、総て受け容れ、それでもまだ手を差し伸べて…。
…そして、言うのだ。
誰よりも自分が「大切」なのだ、と。
――― 泰明は、胸の胎に込み上げる想いのままに、あかねの方へと手を伸ばす。
いまは、想いを抑えようとは思わなかった。否、抑えきれなかった。
ただただ、自分自身の抱いている想いの行方を確かめたかった。
そっと、躊躇いがちに伸ばした掌が、細い肩を捉える。
だが、触れた指先から、少女が躰の奥から溢れようとする感情に必死に耐えるかのように全身を強ばらせているのを悟った途端、不意に堰を切ったように烈しい衝動が押し寄せた。
それに駆り立てられるように、泰明は華奢な躰を堪らず引き寄せ、包み込むようにしてそっと腕の中に閉じ込める。
…さしたる抵抗もなく腕の中に倒れ込んできた細い躰は儚げなほどにたおやかで柔らかく、…だが温かかった。
泰明の俯けられた頬を掠めながら、艶やかな翠緑の髪があかねの細い肩を覆うようにさらさらと微かな音を立てて零れ落ちる。
「 ――― 何故…お前は」
苦もなく、異質なものを受け容れてしまえるのだろう。
そして…優しく温かいものをくれるのだろう…。
「………」
胸の胎から押し出すように呟いたきり絶句した泰明の気配を感じながら、あかねは暫し茫然と身動きも出来ずにいた。
ただ…自分をしっかりと包み込むひとの腕から伝わる微かな震えと温かさが、触れ合っている場処から少しずつ滲み込んでくるようで、まるで自分の胎が解れてゆくような…泣きたいような気持ちを覚える。
――― 今ならば、想いをかたちにして泰明に伝えられるような、気がした。
あかねは握りしめていた彼の手を放すと、そっと貌を擡げた。
そして彼女の貌を覗き込むように視線を落とした双色の瞳に、泣き出しそうな、だが優しい陽射しにも似た微笑みを浮かべてみせる。
「だって、泰明さんは温かくて優しいひとだって、私…知ってます。…それだけで、充分だから…」
一言ずつ、大切なものを確かめるかのように、桜色の唇が言葉を紡ぐ。
仄かに頬を染め、真っ直ぐに自分を見上げている、濡れたように輝く澄んだ瞳。
それはその深みに彼の姿を映し、柔らかな光を湛えている。
…泰明は魅入られたかのように、ただ、彼女の姿を見つめていた。
胸元を震わせるようにして伝わってくる声を聞いているその胎から、ゆっくりと…何か熱いものが込み上げてくる。
「泰明さんと一緒にいたかったから、私も護りたかった…。――― こんな気持ちは、泰明さんだけがくれるものだから。他のひとじゃ、駄目なんです。だから ―――…」
――― 緩やかに綴られていたあかねの言葉は、そこでふつり、と空に消えた。
微かに寄せられた眉の下、夕陽を受けて頬に淡い影を落とす睫毛に縁取られた大きな瞳が、仄かに揺れる。
「…泣いてる…の…?」
「泣いて、など ―――…」
細く耳朶を打つ、少女の声。
否定しようとしたその時、濡れた感触が眦に生まれた。
それは彼の頬に一筋の軌跡を描き、緩やかに伝い落ちる。
…ぽつり、と己の手の甲に滴ったそのひとしずくを、泰明は茫然と両の瞳を見開いて見つめた。
「………泰明さん?」
「 ――― いや…」
腕の中から案ずるように見上げてくる少女に、泰明はただ首を振る。
そんな彼の流す涙を受け止めようとするかのように、あかねは細い指をそっと伸ばした。
柔らかく触れてくる温かな指先を感じながら、双色を宿す瞳が、ゆっくりと伏せられる。
――― 自分の胎から生まれた涙もまた、これまでに彼女が流したそれと同じように…熱い。
その思いに、言葉では言い尽くせない何かが、少しずつ湧き起こる。
…胸の奥深い処に押し寄せる、漣。
切なく、胸を締め付けるような微かな痛みと、
それすらも包み込み、温かなものへと変えてゆく優しい熱。
目には見えない場処に宿るそれらに、
確かに其処に「心」が在るのだと改めて知る。
…――― そして胸の内に灯った熱は、
零れ落ちた一滴の雫が水面に波紋を描くように、
緩やかに自分の胎に広がってゆく。
奥底に凝っていた苦しみも憤りも迷いも焦燥も…
総てがその優しい波に解かれ、透明な流れへと昇華されるかのように ―――…。 …ふ、と、微かな吐息が零れ落ちる。
気がつけばいつの間にか、胸を締め付けるようだった苦しいばかりの痛みは無くなっていた。
ただ、腕に抱いている神子の温かさに、包み込まれるような安堵にも似た心地と、胸の奥が震えるような感覚が次第に湧き起こる。
その心を顕したかのように温かな、少女の気。
向けられる想い。
それをありのままにかたちにしたかのような言葉。
そして…柔らかな微笑。
そのひとつひとつに触れているだけで、
今、この身を潤し、充たしてゆくものを。
時に針のように微かな、熱く切ない痛みと共に、
甘く、穏やかな安らぎをも齎すこの「想い」を…
――――― 「感情」を、何と呼ぶのか。 …不思議と、「それ」は自然に彼の胎に思い浮かんだ。
その音の齎す温かな感慨に、知らず泰明の口元が仄かに和らぐ。
庭から射し込む夕陽にその輪郭が次第に茜色に染まる中、少女へ向けられた双つの瞳が、一瞬、その深みで黄金色の光を返した。
(…え?)
自分が目にしたものに驚いて、あかねは思わず泰明の方へと貌を近づけた。
その翠の双眸が、大きく見開かれる。
「神子?」
「……やすあき、さん…」
訝しげにこちらを見つめる泰明の左の頬に華奢な掌を添わせ、あかねは茫然と呟く。
「痣、が…―――…」
…信じられない、というように瞬きもせず見入っている彼女の目の前で。
片頬を彩っていた白い翳りが、まるでこれまで抑えられていたものが胎から解き放たれてゆくかのように、ゆっくりと…消えた。
そして異なる色を湛えていた双色の瞳は、二粒の澄んだ琥珀へと還る。
「…――― “呪”が、解けたのか…」
ぽつり、と吐息のように泰明が呟く。
あかねは何が起こったのか判らず、戸惑ったような表情を浮かべたまま、彼を見上げていた。
泰明はそんな少女を見返すと、ぐっと抱きしめる腕に力を籠める。
…その腕の中へ少女を繋ぎ止めるかのように。
――― 「想う」事を知れと、そう告げた自分の師。
それを知れば呪は解け、ひとになれると。
そして今、自分を縛めていたその呪いは、解かれた。
この胎に眠っていた「感情」を目醒めさせた、ただ一人の少女の手によって。
…実際の処、自分でも本当に「ひと」となり得たのかどうかは、判らない。
自分には自身が「ひと」であるか否かを量る基準も、そうであると証す術も無いのだから。
――――― だが…それが何だというのだろう…?
…泰明は、その想いを噛みしめるように、瞳を細めた。
彼の頬に触れているそれよりも一回り大きく、長い優美な指先が少女の手を軽く包み込む。
「この想いが赦されるなら…私も、お前だけが大切だ。他の誰にも渡したくはない」
「…泰明さん…」
深い嘆息と共に低く通る声が零れる。
その唇が象った言葉に、あかねは戸惑いも忘れてただそのひとを見つめ返した。
泰明はそんな彼女の柔らかな頬へ徐に指先を滑らせる。
そして、艶やかな鴇色の髪を梳きあげると、そのこめかみにそっと唇を寄せた。
不意に齎された柔らかな熱さに、驚いたように澄んだ翠の瞳が瞠られ、ややあってその白い頬が鮮やかに染まった。
「お前を ――― 誰よりも愛おしいと…想う」
吐息すら触れ合いそうなほどの距離から彼女を見つめる、真摯な光を宿す琥珀の瞳。
その視線に縫い止められてしまったかのように身動きも出来ないままに、あかねは柔らかく囁かれる声を聞いていた。
「ひとを想う事など、有り得ないと思っていた。 ――― お前と私とは違う存在(もの)。ひとではない私にはひとの心など理解出来る筈もない。たとえ…心や感情を得られても、過去の事実は変わらない。…想いをかけるだけ、虚しいと。だが…」
――― この身が、ひとになり得てはいなかったとしても。
たとえどのような存在であっても、“「私」という存在自体が大切なのだ”と、そう言ってくれた彼女を、護りたい。共に在りたい。
その温もりに触れ、その息吹を感じられる場処で。
「お前が私を想ってくれるというのなら…傍にいて欲しい。私の持つ、想いの総てはお前の為にある。だから…」
一言ずつ噛み締めるように紡ぎ出される、低く透る声が耳朶を打つ。
あかねは仄かに頬を染めたまま、包み込む優しい体温を感じながら、自身の胎に響く艶やかなその声を心の中で繰り返す。
…胸の奥が、熱い。
忙しなく刻まれる自分の鼓動が耳に鳴り響く。
そしてもう片方の耳朶を打つ、鼓動。
少し早く刻まれるその確かな音が、彼女を安心させた。
それを意識の遠い処で朧に捉えながら、触れている温もりの齎す、心が浮き立つような、それでいて穏やかに充たされてゆくかのような感覚に意識を委ねる。
自分の意識すら曖昧になりそうなその感覚は、夢現を漂うのにも似ていて…けれど心地よかった。
…あかねは紅く染まった貌を隠すかのように、そっと彼の胸へと頬を寄せた。
その大きな瞳が静かに閉ざされる。
「一緒に、いて下さい。…離れたくないから…」
彼の胸元に抱きしめられたまま、澄んだ声がちいさく答えを返した。
そうして縋るかのように強く、その背中に細い腕が回される。
…自分へと向けられた言葉が、これほど優しく、胸を震わせた事があったろうか。
泰明はふわりと微笑むと、無言でそんなあかねの温もりを確かめるかのように、更に深く抱きしめる。
――― 叶うならば…総てが終わっても。 その一言は、いまだ互いの胸の奥深く、封じ込めたまま。
§
…――――― だが、そう遠くないいつの日にか、導くだろう。
微睡むかのように瞳を伏せた少女と
大切そうに彼女をその腕に抱く青年の、
それぞれの想いの先に在るものを。
今はまだその胎に眠る ――――― 「聲」が。
【 FIN.】
2002.11.27(WED)UP.
2002.11.29(FRI)加筆.
【 Happy Birthday Yasuaki!! 】
< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >
* MUSIC by TakeP.【 TakeP Music Room. 】 〔 MIDI :“冬神殿” 〕
*壁紙提供…【 Crimsonさま 】
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