――――― かそけき聲 ―――――

《 参 》









§









 …――――― 高く晴れ上がっていた空を照らす、その日最後の陽の光が遠く西に連なる山の端へと落ちてゆくにつれて、辺りには少しずつ宵闇が迫り始めていた。

 夕陽の残光を受けて淡い樹影を其処此処に刻む土御門の美しい庭の纏う色も、陽が沈みゆくに従って、鮮やかな朱から藍へとゆっくりと移り変わってゆく。





 そんな中、友雅や天真達と別れた泰明は独り、神子の房を目指して歩いていた。
 すらりとした、綺麗に結われた翠緑の髪を流して黙々と歩く姿は、傍目には普段と何ら変わらぬようだった。…だが、その足取りは、何処か性急なようにも見える。

 自身のそのような変化を知ってか知らずか、泰明は茜色の陽の落ちる階を上り、権門の邸らしく見渡しの良い長い簀の子縁を歩いてゆく。
 そうして暫くの間、風を切るようにして歩を進めていた彼は、横から射しかかる夕影に、不意にふっとその澄んだ色の瞳を細めた。
 そのまま何かに惹かれたかのように、何気なく自身へと視線を移す。

 …と、その白い狩衣の袖が、降りかかる夕焼けの陽の光を浴びて、仄かに赤く色づいているように双色の瞳に映った。



「………」



 彼は無言のまま、ゆっくりと周囲を見渡す。

 其処に広がっていたのは、大気までもが染め変えられたかのように、自分を、そして辺り一面を包み込む華やかな朱。
 その色が何故か胸に迫って感じられ、彼を奇妙に落ち着かない気分にさせた。

 ――― 形の良い眉がほんの僅か、顰められる。





 …ややあって、知らず立ち止まっていた事に気がついた泰明は、自分自身でもよく判らないその感慨を振り払うかのように軽く頭を振ると、神子の房へと歩みを早めた。
 広々とした土御門邸の寝殿を越え、次に西の対へと続く透渡殿を通り抜けるが、先程まで忙しなく行き交っていた女房の姿は疎か、そもそもひとの気配というものが感じられない。




 ――― 或いは、神子が静かに休めるようにと星の姫が配慮して、人払いしてあるのかもしれないが。




 漠然と、そんな思考が泰明の脳裏を過ぎる。
 だがそれ以上深くそれを追求する事もなく独り足を進め…それから程なくして彼はあかねの房へと辿り着いた。

 いつものようにすぐに声を掛ける事が何故か躊躇われて、泰明はそこでぴたりと歩みを止める。




 簾中からは微かなひとの話し声が聞こえていた。

 …神子は、どうやらもう目醒めているらしい。
 気配と声から察するに、恐らくもう一方は星の姫だろう。


 それを確かめるように更に御簾際へと近づくと、暮れなずむ夕陽が御簾の合間から房の中へと射し込み、その奥に坐しているらしきほっそりとした少女の淡い輪郭が見えた。





「 ――― 失礼する」





 一言断りを告げ、御簾を絡げてその内へ足を踏み入れる。
 それを待っていたかのように、ふわりと鴇色の髪が翻った。


 話し相手との間を遮られる事を嫌う少女の為に、いつも通りに脇へと几帳の払われた房の中程に神子はきちんと姿勢を正して座っていた。
 恐らく、前もって藤姫から泰明の来訪を告げられていたのだろう。突然の彼の来訪に特に驚いた様子もなく、房の奥に延べられている褥も綺麗に整えられている。

 そして神子の隣には、僅かに気遣わしげな表情を湛えた星の姫がいつものように控えていた。

 が、泰明の姿を認めると、藤姫は心得た様子で、それでは私は失礼いたしますね、と言い置くと緩やかに一礼し、後を泰明に託してゆっくりとその場から立ち上がる。
 去り際に、ちりん、と涼やかに冠の飾りを揺らしながらあかねを見遣る藤姫に、彼女がありがとう、と声をかけると、藤姫は可愛らしい微笑を浮かべてみせた。
 そうして微かな衣擦れの音と共に退出していく星の姫の姿を、神子は目で追うようにして見送る。



 …その様子を、泰明は房の入り口に佇んだまま、何を言うでもなくただ見つめていた。

 綺麗に背筋を伸ばして座る、淡い朱の夕陽に半身を照らされた神子の姿は、単衣に袿を重ねているせいか、常よりも何処か大人びているようで、泰明は僅かに戸惑いを覚える。
 だが彼は努めてその感覚を追い払い、それを面に顕す事無く、黙したまま少女の正面に腰を落とす。


 泰明が傍に近づいた気配に慌てて振り返ったあかねは、袿の裾を軽く引っ張るようにして居住まいを正した。
 その合間にちらりと様子を窺うと、何処か硬い面持ちで彼女へ視線を向けている泰明の姿が視界に映る。


 白い狩衣を纏い、身動き一つせずに其処に端座している彼は、いつも以上に静かに見えた。
 しかし普段は容易にはその内面を量れない筈のその貌は、今は僅かながらもはっきりと眉宇が顰められているのが判る。
 その双色の瞳を真っ直ぐに少女の方へ向けてこちらを見据えている様子からは、泰明の周囲に漂う、張りつめるような空気までもが感じられるようだ。

 …沈黙が、耳に痛い。




( ――― 怒ってる…)




 あかねは思わず身を小さく竦め、俯いた。



 考えるよりも先に行動してしまって、「思慮が足りない」、「軽率だ」と泰明に咎められた事は一度や二度ではない。
 だがそれでも、これほどぴりぴりとした様子を見せた事は無かった筈だ。

 …尤も泰明にしてみれば、短慮の挙げ句、自身を庇って神子が怪我をしたともなれば、その腹立ちも当然の事なのかもしれない。






 ――― そう、自身を「神子」の盾となり剣となる「道具」だと言い切って憚らない、彼にとっては。






 不意にそんな想いが胸を過ぎる。
 あかねはそこでそれ以上、考える事を押し止めるかのように、そっと翠の双眸を閉じる。


 …と、正面に座っている泰明が、ふっと吐息を洩らしたのが聞こえた。
 その気配に、はっと眼を開いたあかねは彼の貌を見上げる。

 澄んだ双色の瞳は、先程と変わらず真っ直ぐにあかねを捉えていた。







「 ――― 腕を」







 引き結ばれていた唇が動き、低く抑えられた声音が響く。
 視線の強さに比べて淡々と聞こえる声に、あかねは戸惑った表情で袿の袂を押さえると、言われるままにおずおずと腕を差し出した。
 その腕を泰明がそっと取り上げる。


 袖の下から顕れたのは、陽に晒されていない白く細い腕。その肘から手首へ向かって走っていた掌ほどの長さもある切り傷は、先に泰明の符によって癒され、まだうっすらと紅い筋のような痛々しい痕を残しながらも出血自体は既に止まっていた。

 しかし急に多くの血を失った事、そして恐らくは初めて大きな怪我を負った事への精神的な衝撃が大きかったのだろう。
 その気は常よりも乱れ、腕は血の気に乏しく、静かにこちらを見ているちいさな貌も蒼白く、何処か透けるように頼りない色を感じさせた。


 その様子に彼はすっと瞳を細める。









「…何故、あのような事をした?」









 低く押し出されるように響いた声に、神子は意味を取り損ねたのか、…え?と小さく問い返した。

 そんな彼女に向けられる、双色の双眸。
 じっと、自分の胎まで見透かすかのような強い光を宿すその瞳に恥じ入るように、少女は視線を頼りなげに揺らすと、長い睫毛を幾度か瞬かせる。



「それは ―――…ええと、気がついたらそうしてた、から…」



 曖昧な表情のまま貌を僅かに逸らして、所々口籠もりながらあかねは言い淀む。




(…気がついたら、だと?)




 少女の言葉に泰明はすぐには二の句が継げなかった。
 無意識のうちに、神子を見据える双色の眼差しが強くなる。




 目の前に座っている神子の面からは、どう答えるべきか困惑しているような、決まり悪げな雰囲気しか窺えなかった。貌色が蒼ざめている事さえ除けば、傍目には何ら普段と変わりのないように見える。




 だが、腕に傷を負い、頽(くずお)れたあの時の少女の表情を、自分ははっきりと目にしている。
 その身を苛む痛みと溢れ出る血に一瞬、怯えたように貌を歪ませて、微かに震えてすら、いた。

 抱き留めた腕に伝わったその震えも、蒼ざめた貌も、掌を濡らした血の熱さも、何もかもを ――― 覚えている。

 その総てに身の竦むような思いがした事も。





 それなのに彼女は、それは無意識の行動だったのだと、何の衒(てら)いもなくさらりと言ってのける。
 …まるで、彼女自身の怪我の事など気にも留めていないかのように。








 ――――― 解らない。








 そうまでして八葉を ――― 否、自分などを庇う意味が何処にある?

 そもそも神子が八葉を庇うなどという事自体、本末転倒だというのに…この少女は自分がどれほど稀有な存在であるのかも、未だに全く解っていないとしか思えない。

 けれど彼女は何度注意をしようと、他人にばかり気を回して危険に足を踏み入れる事を止めはしない。誰かが傷つく事を嫌い、時に他人の痛みをもまるで自分の事のように感じてしまう。
 そしてその為に怒り、傷つき、温かな涙すら流す。



 ――― それが、この少女の性(さが)なのか。
 総てに注がれる、その優しさが。

 「神子」の為に、誰かが傷つくのは嫌なのだとそう言って…。
 いつも自身の身を省みようとはしないのだ。無防備な程に。

 たとえ、それが自分のような「道具」でしかないものの為であっても。








 ………何故………。








 ――― 知らず、しっかりと神子の腕を捕らえていた手が僅かに震えた。
 泰明のその仕草に引かれるかのように、あかねはもう一度、彼を見上げる。





 …不意に、その秀麗な白い貌にちらり、と痛みにも似た色が走るのが、見えた。





( ――― ?)





「…恐ろしくは、なかったのか」




 責めるでも、咎めるでもなく。
 静かな、だが何処か苦い声音と共に、泰明は重ねて問いかける。
 訪れた時の彼の表情からてっきり厳しい叱責が降ってくるものだと思い込んでいたあかねは、瞳を僅かに見開いた。





 微かな揺らぎを湛えた双色の双眸が、彼女を見つめる。





 ――― いつもとは、違う。ただ問いつめられているのではない。
 その声の奥にも向けられている瞳にも、気遣わしげな気配があったと…そんな気がした。





「 ―――…」





 …何故か、すぐに答える事は出来なかった。

 視界の端で泰明がふっと表情を動かすのが見える。
 普段よりも、その内面の機微をはっきりと顕す彼の様子に、胸が疼くのをあかねは感じる。

 恐らく、彼にはもう答えが判ってしまったのだろう。ひとの気持ちなど解らないと言いながら、そんな処には聡いひとなのだ。
 それにいつも見ているのが辛くなるほど真剣に、時に捨て身で護ってくれるひとだから…責任も感じているのかもしれない。





 あかねは、内心で自分自身に深い溜息をつく。
 膝の上に載せられた手が落ち着かなげに袿の裾を手繰り、そっと衣の端を掴む。
 握り締められた掌は僅かに露を滲ませ、指先だけがひどく冷たく感じられた。




 あの瞬間を思い返すと、今はもう泰明の手で癒された筈の腕の傷が、じんと痛みを甦らせるような錯覚を覚える。


 怖くない ――― 筈がない。


 今までにあんな怪我を負った事など無い。それどころか戦う事は勿論、誰かが傷つき、血を流す事も、直に目にする事すらまず有り得ない世界に生きていたのだ。

 だからこそなのだろうか。
 現実にその痛みを知った今になって、自分がどれほど危うい立場にいるのかが身に迫って感じられるようで、本能的な恐怖を今更ながらに覚える。
 今までは何処か遠く感じられていた、自分の生命が常に危機に晒されているという現実を、唐突に目に見える形で突きつけられた心地だった。





 …そしてまた、これまでどんなに自分が、「彼」や「彼ら」に護られていたのかも思い知らされた心地だった。
 そう、いつ喪われるか判らない立場にいるのは、自分だけではないのだという事を…。





 口を閉ざしてこちらを見つめている、恐らく答えを待っているのだろう泰明に、あかねは何と言えばいいのか判らないまま、困っているような表情を浮かべて、ただ緩やかに頭を振った。





「自分でもよくは…判らないんです。でも、その時は怖いなんて気持ちも思い浮かばなくて、ただ、危ないって思って。そうしたら ――― 躰が動いてたから…」
「………」





 ぽつぽつと、心に思い浮かぶままにあかねは言葉を連ねる。まるで言い訳のようだと思いながら。





 確かに、咄嗟の時にひとが何を思い、どう行動するかなど、その瞬間まで誰にも判らない。 ――― 恐らくは自分自身にも。
 それは、ひとが理性的な判断ではなく、感情に突き動かされ、心のままに動いてしまう事があるから。

 …理屈ではないのだ。
 だからこそ、「何故」と問われても、彼を納得させる事が出来る程の答えを返すことは難しい。





 そして、あの時の自分の行動はまさにそれだった。
 泰明を庇おうとして飛び出したあの時、自分には躊躇いも恐怖も…何も無かった。
 そもそもそんな事を考える心の余裕など無かったのだから。





 ――― けれど本当は、そうさせるだけの彼に対する想いが確かに有る事を、今、自分は知っている…。








 そんな事を思いながらそっと泰明の方を窺うと、彼は険しい表情で彼女を見据えていた。
 それまで以上にはっきりと眉を顰め、彼女を見つめたまま黙り込んでいる泰明は、常になく、何かにひどく苛立っているような気配をありありと漂わせているようで、あかねは思わず唇をきつく引き結んで視線を落とす。





 …とは言え、いくら自覚は無かったとしても、自分でも馬鹿な事をしたかもしれない、とは思う。

 自身を「神子の道具」と言い、それぞれの負うべき分を果たす事を当然の事と考えているだろう泰明から見れば、自分のした事は神子としての立場を忘れた愚行、と言われたとしても反論の余地は無い。



 また「思慮深くない」と咎められるならまだしも、いつもとは違う泰明の様子やあの険しいほどの表情からするに、今度こそ本当に呆れられた…のかもしれない。



 脳裏に浮かんだ泰明の反応に、あかねは胸が冷えるような感覚を覚える。

 「龍神の神子」というものが、今の京にとってどれほど必要なものであるのかは、あかねにも解ってはいる。
 たとえそれだけが理由でなくとも、「神子」という意味が自分に無ければ、そもそも八葉と呼ばれる彼らに護られる事も無かったのだから。
 そして現代のような技術も知識も無いこの世界で、怪我や病を負うという事が、恐らくは自分が今まで思っていた以上に危険な事だろうという事も知っている。












 ――― それでも無意識のうちに、咄嗟にあんな行動を取ってしまった自分。
 そしてその理由を、泰明はきっと知らない。












 膝の上で袿を掴んでいた手にぎゅっと強く、力が籠もる。












 初めのうちこそ泰明の、自分が気に留めている事でなければ時にそれを省みすらしないような態度を、ひどく冷淡だと思った事もあった。
 だが今は、折を見ては様子を見にやって来てくれたり、口にはしなくとも気遣ってくれたりしている事を知っている。
 「心」や「感情」など無いのだと言うけれど、そんな筈は無い。本当は、ただ無器用なだけでとても優しいひとなのだと。

 …そして、ほんの時折見せてくれるようになった綺麗な微笑が、どんなに嬉しかったか。















 ――― いつも「神子」の為に自分が在るのだという泰明。
 ならばその優しさも気遣いも「八葉」としての務め故と、「神子」としての自分を認めてくれるようになったからなのかもしれない。

 「神子」ではなく「あかね」を見て欲しいと思わなかった訳ではない。その胎に秘められた澄んだ心に僅かにでも触れ、強く惹かれている今では、尚更。

 だがそれでも、省みられないよりは良かった。
 軽蔑される事は、辛い。
 あの澄んだ双色の瞳に冷ややかな光が浮かぶのは、見たくない。















 「神子」としてすら、見てもらえなくなったら、どうすればいいのか、判らない ―――…。















 ――― ずきり、と深く、胸が痛んだ。





 痛みを自覚した途端、唐突に情けなくて泣きたいような、衝動的な気持ちが込み上げてくる。
 今、泰明がどんな貌をし、どんな眼で自分を見ているかと思うと、すぐには貌を上げる事も出来なかった。

 …喉元が熱い。

 それを堪えるように、あかねは唇を噛みしめた。
 俯いている少女の、その面に浮かぶ表情を隠すかのように、鴇色の柔らかな髪が揺れる。







「…ごめんなさい」


 唐突に紡がれた言葉に泰明は訝しげに貌を曇らせた。


 何故、彼女が謝らなければならないのか。
 自分がいつものように咎めていると思っているのだろうか。
 …だが赦しを請わなければならないのだとしたら、それは寧ろ自分の方だろう。


 確かに、神子は他に代わる事の出来ない唯一人の存在。安易に危険にその身を晒していいものではない。
 だが、だからといって彼女を護る事の出来なかった自分が神子を責めるのは間違っている。




「何故、謝る?」




 神子は答えない。
 ただ、微かに頭を振っただけだった。


 しかし微かに揺れる鴇色の髪の合間から垣間見える伏し目がちの深い翠の瞳は翳り、頼りなげに瞬いている。
 いつもその時々の感情を映し、自分にすらありありとその響きを感じさせる、少女の身に纏う気配さえも、ひどく乱れ、沈んでいるのが手に取るように判った。


 それを認めただけで、自分の胎の何かが締め付けられるような鈍い痛みと共に揺れ動くのを泰明は自覚する。








 ――― いつも、こうなのだ。








 彼女の言葉、行動、表情…その何もかもが、常に自分の胎に様々な波紋を引き起こす。

 柔らかな微笑。
 怒り、喜び、哀しみ…その時々の感情を映して、真っ直ぐに見つめてくる瞳。
 畏れもせず触れてくる温かな指先。

 …今までに向けられた事のないもの。

 初めは神子の投げかけるそれらのものから、次第にその存在自体から何故か目が離せなくなった。
 そして傍近く在り、その存在に触れれば触れる程、自分は動揺を、苛立ちを、戸惑いを…或いは温かな何かを覚え ――― 時に自分自身すら、見失う。

 ――― そう、冷静な判断も何も無く、ただ躰の奥底から込み上げてきた何かに引きずられるようにして力を放ったあの時も。
 “赦し難い”、と、ただそんな怒りとも畏れともつかぬ思いのままに解き放たれたそれは、一瞬で怨霊を消し去っていた。凡そ容赦の欠片も無い、過ぎた程の力で。





 いつから、こんな風に変わってしまったのかは判らない。
 だがそんな自身の変化に、己の足元が崩れていくかのような微かな恐怖を覚えつつも、少女の傍を離れる事は出来なかった。

 …ただ、何の屈託も無く自分に微笑みかける様を目にし、彼女の包み込むような温かな気配を感じる事は、心地よかった。
 真っ直ぐに自分に向けられる、怒りや哀しみの感情も決して不快ではなかった。

 そして次第に覚えるようになった、胸の奥深い場処に不意に生じる締め付けられるような、或いは貫かれるような痛みすらも、その苦しみの中に何処か熱く陶然とさせるものを孕んでいるかのようで…。















“…その胎に響くものがあるなら、
其処には確かに「何か」が在るという事だ”
















 …ふと、友雅の告げた言葉が甦る。















ならばこれが…。
時折、不意に胸に押し寄せる、波にも似た様々なものがそれだ、と言うのか。



これがこの創られた身の胎にも響くものが在ると、
…――― 「心」、そして「感情」というものが在ると…いう事なのか ―――…
















 不意に胸を過ぎった思考に、泰明は微かに眉根を寄せ、貌を逸らした。
 淡く朧気な泡のようなそれをかき消すように一瞬、強く瞳を閉じる。





















――― そんな筈は無い。
「モノ」に「心」や「感情」が在る筈が無い。




………ひとならぬ身が、今更、何を思うというのか。
今まであり得なかったものが、この空の器に宿る筈も無いというのに ―――…。


























 自分を「仲間」と呼ぶ者達が。
 そして自分のひとならぬ生まれを知る翠の瞳の少女が、「心」ある者だと言い、この胎なるものを「感情」だと言う度に、これまでに幾度、そう思ったかしれない。

 だがそうして否定する側から胸の胎に湧き起こるもの。そこから生じる、温もりと痛み。烈しい衝動と熱。
 時に己の理性すら凌駕する ――― 何か。

 それこそが「心」であり「感情」…もう一つの己の「聲」だと言ったのは友雅だった。
 そしてその感覚を否定するなと。









 …確かに、最早、自分の胎に在るそれを否定する事は出来なかった。
 しかしその理解し難いものに戸惑い、苛立ち、為す術もなく翻弄されている自分が、ひどくもどかしい。

























――― ひとであれば。
この胎に次々と生まれ、止めようもなく募りゆくものが何であるのかも解ったのだろうか。








或いは、今、少しでもそれをかたちにし、伝える事が出来たなら。


…答えてくれるのだろうか。
その総ての源である ――― この少女が。


























 …胸の胎に渦巻く動揺を鎮めようとした、彼のその心中を表すかのように。
 ――― 少女の腕を掴んでいたしなやかな指に、ぐっと強く、力が籠められた。




















【 To be continued…. 】





2002.9.30(MON)UP.
2002.10.8(TUE)加筆.

< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >

 MUSIC by TakeP.TakeP Music Room. 】 〔 MIDI :“冬神殿” 〕
*壁紙提供…【 Crimsonさま 】







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