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「…――― 君のそんな様子は、初めて見るね…」
不意に、柔らかく傍らから投げかけられた声に思考を断たれ、泰明はふっと視線を上げた。
いつの間にか握りしめられていた指先から力を抜くと、細く息を吐きながら一瞬、瞳を伏せ…そして緩やかに振り返る。
その面は既に、それまでの動揺の影を綺麗に消し去っているようだった。
そんな彼に、友雅は仄かな微笑を返す。
と、その微笑に某かの含みを感じ取ったのか、泰明はすっと柳眉を顰めた。
鋭い視線を投げてくるその様子は、微かに苛立ちの色が混じっているかのようにも見える。
「…何が言いたい」
「随分と張りつめた貌をしている。 ――― 流石の君も、胸が痛むかい?」
「痛みなど ―――…」
「自覚が無い訳じゃないのだろう?」
「 ――― 」
自分の胎を見透かしているかのような友雅の口振りに、泰明は答えを返さないまま、今度は如実に苛立ちを表した。
双色の瞳の放つ光が鋭さを増す。
しかしそれを意に介する様子も無く、吹く風に緩やかに緑髪を靡かせながら、友雅はその場に佇んでいる。
――― そうして自分の言葉に苛立ちを見せる事自体がこれまでには無かったもの、彼自身の胎に生じた変化を無意識のうちに感じ取っているからなのだと…泰明は気づいているのだろうか?
「…目に見えない場処に宿る痛み…それはもう一つの君の「聲」だよ。泰明殿」
飄々とした態度のまま、向けられる視線をさらりと受け流していた友雅が、不意に思いついたかのような風情で徐にそんな事を言った。
その意味を量りかねたのか、綺麗な弧を描く眉根が訝しげに寄せられる。
「 ――― もう一つの私の、「聲」…?」
美貌の陰陽師は抑揚に乏しい低く透る声音で、ただ言われた言葉を繰り返す。
だが、常は温度を感じさせないその透徹した眼差しが、いまは僅かに翳りを帯びつつ微かに揺らいでいる事を、深い蒼の瞳は違えることなく読みとっていた。
その様に、友雅は仄かに口の端を和らげたまま、彼を見返した。
そして鷹揚に頷く。
「そう。「かたち」にならない、ね」
「………」
穏やかな声が、ゆっくりと諭すかのように響いた。
常ならば何処か捉え処の無い風情を漂わせている筈のその貌も、いまはその声音と同じように柔らかい。
…泰明は返す言葉も無く、ただ友雅の声を聞いていた。
彼の言葉は、いつも幾つもの含みを持たせて泰明の耳に届く。
それが会話の機微を楽しむという事なのか、それとも相手がどのように受け取るのかとその反応を見て楽しんでいるのか…それは彼には判らない。
だが少なくとも今は、ただ言葉遊びを楽しんでいるのだとは思えなかった。
それ以上、何かが判る訳でも無かったが。
泰明は小さく吐息をつくと、自分へと向けられている深い色を宿した蒼の瞳を真っ直ぐに見据える。
…口を閉ざしたまま、暫しその場へ佇んでいる二人の間を風が吹き抜け、衣装の裾をはためかせてゆく。
問うような視線をこちらへ投げかけている泰明の前で、友雅は暫く手にした檜扇を手遊びにしていたが、やがて不意に何気ない風情で、すっと彼へ向けてその扇の先を優雅に返した。
――― その胎に在る「何か」を、指し示すかのように。
「…よく、耳を傾けてやるといい。「言葉」という「かたち」をとらないからこそ、その聲は何よりも純粋で強い。…ある意味君そのもの、と言ってもいいかもしれないね」
「 ――― お前が言っているのは、ひとの「感情」の事か?」
「いいや。「心」の話さ」
「…よく解らない。何が違う?」
「「心」はそのひとの根本。「感情」はそれに付随するもの…といった処かな。「心」の響きを「感情」が伝える。それを形にすれば「言葉」になる」
「…?」
まるで謎掛けのような友雅の答えに、泰明はますます柳眉を顰めた。
友雅が何を意図してそのような事を言っているのかが、理解出来ない。
…ややあってその形のよい唇から、半ば押し殺されたような細い吐息が洩れる。
「…私には「心」など無い。故に感情もある筈がない」
「それは君が「龍神の神子の「道具」」だから?」
「そうだ」
「その胸に、確かに「目に見えない痛み」を覚えているのに?」
「………」
泰明は今度こそ、完全に答えに窮したようだった。
彼が困惑している事が、漂う気配から今ははっきりと窺える。
「ひと」というものは複雑なもの。
己自身を相手に晒す事を畏れ、心の感じ取ったもの、その胎なる響きを、意思が、感情が、そして言葉がその本来の形とは違えて顕してしまう事も少なくない。
――― けれど彼の「心」や「感情」というものは、驚くほど「透明」で純粋なのだ、と。
泰明の様子を目にした友雅は今更ながら改めてそう思う。
妖や怨霊、呪といった「目には視えない」ものに近く接し、それらを捉える感覚に秀でた泰明が、否定し続けているもの。
――― そう、「心」や「感情」など、己にはある筈が無いという思い。
それがどのような理由から齎されるものなのか、その真意までは友雅は知らない。
しかし泰明は今も頑なにそう信じながら、同時に、知らず痛みを訴える胸を押さえようとしている自分自身に愕然とし、それを隠す事も否定することも出来ずに戸惑っている。
その仕草こそが、感情を堪えようとするものなのだとすら、知らないままに。
…友雅は柔らかく瞳を細めた。
「目に見えないもの、形の無いもの…それは理屈でばかり捉えられるものではないよ。…その胎に響くものがあるなら、其処には確かに「何か」が在るという事だ。君はただ、その聲を否定しなければ、それでいい」
「………」
「心」とは…そう、言うなれば琵琶のようなもの。
弦が在り、爪弾く存在(もの)が在れば、必ずその音を…「心」の「聲」を聴く存在がいる。
――― そしてその「聲」を聴き取った存在が、いつか彼に教え、導くだろう。
胎なる「聲」を顕す術を。
そしてその「聲」の告げる「感情」の名を ―――…。
そう、たとえば…月の姫君が。
残りの言葉を胸の胎だけで呟いて、友雅は泰明の方へと再び視線を流す。
歌うように滑らかな声音で答える友雅の貌を見据えている泰明は、どうやらさらに困惑を深めたようだった。
往々にして、その心の琴線を爪弾く存在は、その「聲」を聴き、応える存在にもなる。
彼の前に今、佇んでいるのは、人目を惹きつけずにはいられない端麗な容姿と、稀代の陰陽師と言われる師・晴明に比肩するとまで噂されるほどの力を持つ陰陽師。
その美貌に添えらえた痣と強すぎる陰陽の力、そして感情の見えない、冷たくひとを拒絶しているかのような風情とが相まって、口さがない者達からは「ひとならぬ妖」、「安倍晴明の式神」などと言われていながら気にも留めない。いつも、その胸に痛みを覚えることすら知らぬかのように凛然と佇んでいる。
そうして、「八葉は神子の道具」と淡々と言い放つ。
だが。
そのあまりの冷淡さに「さながら氷輪の如く」とすら評されてきた美貌の陰陽師に、これほどの感情の波を齎したのは、まだ幼さすら感じられる、その大きく澄んだ瞳で真っ直ぐに彼を見つめる少女。
…恐らくは、初めて彼の胸の奥深い処に隠されていたものを感じ取った、たった一人の。
そして彼女と関わるようになってから、彼の凍りついていたが如きの面は次第に和らぎ、表情が顕れ、時に烈しく、時にひどく危うく、脆くすら思える不安定な様子をも垣間見せるようにもなった。
自分自身を扱いかねているかのようなその風情は、不用意に触れれば砕け散りそうにも思われる。
(全く。…恐れ入ったよ、神子殿)
溜息とも苦笑ともつかぬものと共に、友雅は内心でそう零す。
…――― 龍神に愛でられし斎の姫と未だ目醒めぬ真白の心を持つ青年。
まるで何かに導かれるかのように、互いに惹かれあっている二人。
もしもその想いが重なったなら、
恐らく、「彼ら」はどんな者の目をも惹きつける、美しい一対となるだろう。
…其処へと至る様を、間近で見守るというのも…悪くない。 ほんの僅か、疼くような痛みを訴えた胸を頭の内から追い払うようにして、友雅はそんな事を思う。
こんな風に、他人事に自らわざわざ口を挟むなど、これまでの自分ならば考えられない事だった。
某か、気を惹かれる事が在ったとしても、それは凡そ刹那のもの。ただ遠くから眺めているだけのものであったのに。
だが、何故か何よりも「彼ら」の在り様に強く興味を惹かれてしまったのだから、仕方がない…とでもいう処か。
そんなことを思う友雅のその口の端に、苦笑にも似た笑みが刻まれる。
…その整った面立ちに浮かぶそれを隠すかのように、長い指先が艶やかな緑髪を掻き上げた。
それから指先に髪を絡めつつ、友雅はふと泰明の方を見遣る。
すると彼は何か思う処があったのか、まだ何事か考え込むような様子で、沈黙したままその場に立ち尽くしていた。
――― と。
「…悪い。ちょっといいか」
微かに床板を軋ませる足音が響いたかと思うと、脇から張りのある、だが低く抑えられた声が割って入った。
声のした方へと貌を向けた友雅が彼らの傍、神子の対へと続く透渡殿のあたりに差す人影に、おや、と小さく声を上げる。
同時に泰明もすっと視線を上げた。
二人の視線の先に立っていたのは、天真だった。
心持ち強ばった貌つきのまま、手近にあった庭へと続く階を降り、彼らの方へ大股で近づいてくる。
程なくして二人の傍まで辿り着くと、彼のその濃茶の瞳が辺りをぐるりと見回した。
「他の連中はまだか。…って当たり前か」
そう口にしてから、天真は僅かに貌を顰める。
今日の散策に同行していた彼が、負傷したあかねを抱えた泰明と共に土御門邸へ戻ってからまだ一刻と経っていない。しかも武士団の所用で邸を空けていた頼久に代わり、詩紋と共に他の八葉への連絡などに追われていて、自身もつい今し方、邸へ戻ったばかりなのだから、それは当然の事とも言えた。
「まあね。私はたまたま此処に居合わせただけだから。それよりも何かあったのかい?」
「あ? ああいや、そういう訳じゃない。怪我の方はもう心配は無いらしいし、…清めって言うのか? それもさっき終わったって聞いた」
尋ね返す友雅にそう言いながら、天真は汗で額に張り付いた前髪を鬱陶しげに掻き上げる。
そうして額に片方の掌を当てたまま、ちらりと視線を流した先には、先程から黙して佇んでいる泰明の姿。
…天真は泰明の方へ向き直り、呼びかけて彼の注意を惹くと、後ろ手にあかねの房を指差した。
「泰明、藤姫が念の為にもう一回、あかねの様子をお前に見て欲しいらしい。行ってやってくれよ」
「…判った」
余計な言葉は挟まず、泰明は常と変わらぬ淡々とした様子でそう一言だけ答えを返した。
そして言うなり身を翻し、乱れを感じさせない歩調で足早に去ってゆく。
…次第に遠くなるすらりとした後ろ姿を見送ると、天真は緊張を解くかのように何処となく硬く張りつめさせていた表情を緩め、ややあって…ふう、と深く溜息をつく。
「珍しいね」
「…ああ?」
「君が泰明殿に噛みつかないなんて珍しい、と思ってね」
腰に手を当て、怪訝な表情で振り返った天真に友雅が柔らかい口調でそう重ねる。
だが、其処には僅かに面白がるかのような色が混じっていた。
敏感にその気配を感じ取った天真は眉を顰め、小さく鼻を鳴らしてみせる。
「…悪かったな。喧嘩っ早くて」
「おや、そんなつもりでは無かったんだけどね」
…どうだか。
しれっと言ってのける友雅にそう心の中でだけ返しておいて、天真は勢いよく頭を上げ、空を仰いだ。
一瞬、雲の端に瞬いた、残り陽の光の欠片の眩しさに目を眇めながら見上げるそれは、幾筋かの雲をたなびかせながら、清々しく高く晴れ上がっている。
夕焼けの気配を湛え、次第に茜色へと染まりゆく名残のその蒼が、あまりにも澄んで目に滲み入るようで、いまは何処か憎らしい。
彼の気性を表すかのような、はっきりとした弧を描く眉がふっと寄せられる。
確かに、いつもの自分なら、かっとなって泰明に喰ってかかっていただろう。
――― あの瞬間、彼女に庇われるままに身動きもせず立ち尽くしていた彼に。
…が。
「…俺はあの時、一緒にいたからな。…判るんだ」
あの時、「彼」がどのような気持ちを抱いていたのかを。
そして「彼」を責められない自分自身を。
ぽつん、と呟くと天真は瞼を伏せ、何かを振り切るように貌を俯かせる。
…不意に、その時の光景が脳裏を過ぎったのだ。
――― 視界を染め抜く、鮮やかな紅。
反射的に振り向いた先、華奢な躰を抱き留めながら、きつく唇を引き結んだまま、声も無く見開かれていた双色の瞳。
その奥に一瞬閃いたように見えたもの。それは言い表すならば、動揺、怒り、強い苛立ちと………恐怖。
そして瞬きの間に放たれた、その胎に在るものの総てが溢れ出したかのような、嵐の如き力の奔流。
一撃で怨霊を消し去った光。
つい今し方目にした、「静か」とすら言える立ち姿が、いっそ信じられない程のその苛烈さ。
――― それも恐らくは無意識の。
泰明の、あれほどにはっきりとした「表情」を目にした事は、どれほど深く考えてみても彼の記憶には無かった。
「あいつは…ちゃんとあかねを護ったよ。あかねが泰明を庇った後、怨霊を倒したのはあいつだ。…俺は、すぐには動けなかった」
訥々と言葉を紡ぎ…天真は苛立ちを紛らわすかのように、髪をぐしゃりと掻き上げた。
…は、と何処か苦い溜息が洩れる。
――― あかねの事は、確かに自分も大切だと思っている。
自分の手の届く限り護ってやりたい、傷つけさせたくないとも。
だからこそ、あの瞬間に何も出来なかった自分の無力さが、どうしようもなく腹立たしい。
…その思いは、彼女が「神子」で、自分が「八葉」だからでは無論無い。
そして、これまで探し続けてきた妹を思う気持ちとも勿論違う。
しかしそれならばその思いは一体何なのかと問われれば、彼自身にもまだ判然としない…というのが正直な処だった。
だが泰明は違う。
当人が何処まで認めているかは別として、彼は確かにあかねを見つめ、大切に想っている。
恐らく、その眼差しは誰よりも深い。
…そう、今日、自分の目にしたものこそが、紛れもない彼の心の胎の顕れだというのなら。
――― そして恐らくは、彼を庇って傷ついたあかねも…。
それに気がついた時、心に微かな痛みを覚えはしなかったと言えば嘘になる。
或いは昨日までの自分なら、本来なら異なる世界に在る者同士なのだから、想いだけでどうにかなる筈も無い、などと…そんな事を感情のままに言い募っていたかもしれない。
――― けれど。
「いいのかい?」
何処か優しげにも聞こえる艶やかな声が、天真の耳に滑り込む。
天真は頬を歪めるようにして、微かに笑った。
「あかねが笑ってられるなら、それでいいさ」
「それはどうかな? 神子殿はこれから袖を濡らす事になるかもしれないよ。 敵はあの通り、まだまだ自覚薄のようだしね」
「そうでもないだろ。 ――― 確かに、あいつも大概鈍いけどな」
言いながら、天真は小さな吐息を洩らす。
…そこに宿る気配は仄かに柔らかい。
――― 先程までこの場に佇んでいた泰明の、必死に何かを押し殺しているかのような、ひどく思いつめた気配。
静かながらも見ている方が胸に痛みを覚えそうな、その姿。
それほどの想いを抱えながら、その感情の意味に少しも気づかないままにいる事が出来るとは、天真には到底思えない。
「…意外によく見ているね」
「あのな。………そういうあんたこそいいのかよ」
感心したような口振りの友雅に一言余計だと思いつつも、ちらりと天真は探るような視線を友雅へ投げる。
悠然と構えている風情からは、いつもの如く、その内面を窺うことは出来そうにも無かったが…。
「さあ、ね」
果敢に切り返してきた天真を友雅はいつものように軽くいなすが、今日ばかりはその程度で誤魔化されるつもりはないらしい。
声を荒らげる事もなく、じっとこちらを見ている彼の様子に、ややあって友雅はその蒼い瞳に苦笑を閃かせる。
とかく感情的になりやすく、周囲も見ずに走り出すようでいて、時折、この少年はこうして鋭い処を突いてくるのだ。
…尤も、その思いに差はあれど、彼女に惹かれていない八葉などいないだろうが。
「 …――― うつくしいものはそっと見守りたいと思うのがひとの常、というものだろう?」
そんな言葉で答えると、天真は軽く眉を上げて見せた。
「…案外、損な性分だな」
「君ほどではないけれどね」
…――― けれど、心の胎で想いを掛けるのは自由。
艶やかな緑髪をその指先で優雅に梳くようにして散らしながら、違うかい?と軽やかな声音が確かめるように問いかける。
彼の複雑な心中など見透かしているかのような友雅の悪戯っぽい様子に、天真は大きく貌を顰めた。
そのまま、ふい、と横を向く。
「…前言撤回。やっぱ、あんたヤなヤツだよ」
何処か拗ねたように唸る天真に、くつくつと艶やかな笑いが応えた。
【 To be continued….】
2002.9.14(SAT)UP.
2002.9.30(MON)加筆.
< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >
* MUSIC by TakeP.【 TakeP Music Room. 】 〔 MIDI :“冬神殿” 〕
*壁紙提供…【 Crimsonさま 】
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