§
…――――― その一瞬、空に描かれた、瞳に染み入る程に鮮やかな紅の軌跡を。
決して、忘れられる事は無いだろうと…思った。
目に見えぬ深い処の訴える、
息も止まるほどの…
まるで自分の胎(うち)の何かが引き裂かれるかのような、
激しい幻の痛みと共に。
‡ ――――― かそけき聲 ――――― ‡
《 壱 》
§
…――― ザッ!と風を切るような鋭い唸りが耳朶を叩いた。
はっと振り向いた先、双色の双眸に映るのは、怨霊の放った風の刃。
不意を衝かれ、僅かに反応の遅れた自身に内心で舌打ちしながら「彼」は身構える。
…と、次の瞬間、「彼」の前を過ぎるように影が差した。
それは、見間違えようもない華奢な人影…。
その姿を認めて瞠目した「彼」の目前で。
自らに襲いかかる筈だった風の刃が、翳された細い腕を現実の刃物の如き鋭さで深く切り裂いてゆく。
…何故か、躰が動かなかった。
瞳を見開いたまま、凍りついたように佇む「彼」の頬に、駆け抜けた刃のその余波が微かな痛みを刻んで擦り抜ける。
――― 一拍置いて、緋色の飛沫が鮮やかに視界に散った。
「…っ!」
「………神子っ!?」
切られた、と思った瞬間、息も詰まるような痛みに襲われ、声もなく呻いた少女は目の前が紅く染まるような感覚を覚える。
その様子に、暫し茫然としていた「彼」が我に返ったように彼女を呼んだ。
だが、切迫した響きを宿した低く透る声を間近で耳にしながらも、少女はすぐに答える事は出来なかった。からからに渇き、引き攣れるような痛みと熱をもった喉は、上手く声を紡いではくれない。
焼け付くようでいて、時折、刺すような鋭さも伴った痛みを訴える腕に手を遣ると、堪えかねたように少女の華奢な躰が頼りなく揺らいだ。
殆ど自覚もしないままに、反射的に腕を伸ばした「彼」の見開かれた視界の端で、藤色の衣が風を孕んで鮮やかにはためき、その袖がふわりと翻る。
風の刃に薙がれた柔らかな鴇色の髪が幾筋か宙を舞うのが、その瞳に刻み込まれるかのようにゆっくりと見えた。
――― そして腕にかかる、柔らかな重みと温もり。
「神子…!」
「…だい、じょうぶ」
自分を抱き留めた腕の主に、少女はそろそろと貌を上げると、今度はぎこちない微笑みを浮かべて途切れがちに言葉を返した。
ともすれば力の抜けそうになる躰をなんとか自力で支えながら、少しずつ視線を上げる。
…見上げた整った怜悧な容貌は、常になく強ばり、少し蒼ざめて見えた。
その澄んだ双色の双眸が、真っ直ぐに彼女を見下ろしている。
瞬きも忘れ、喰い入るかのように見つめている ――― その瞳。
初めて目にする表情に思わず少女はその身を起こしかけ…瞬間、腕から肩にかけて走った貫くような痛みに声を殺して微かに呻く。
傷は思っていたよりも深いのか、既に藤色の水干の袖をじわじわと紅く染め始めていた。
衣を染め、ぽつりぽつりと地面へと滴り落ちる鮮紅色が次第に視界いっぱいに広がるかのような錯覚に我知らず躰が震え、彼女はくらりと眩暈を覚える。
…ああ、あのひと達は…
――― あのひとは、いつも。
こんな ―――…。 自身から流れ出る血を深い翠の瞳に映している少女の胎に、そんな断片的な思考が浮かぶ。
…その瞬間に、思考と共に脳裏に走った冷たい戦慄は、何に対する「畏れ」、だったのか。
しかし胸を過ぎった感情は、はっきりとした形を成す前に、繰り返される現実の腕の痛みの狭間に泡のように弾け、消えてゆく。
…――― 力を失い、為す術もなく緩やかに崩れ落ちる少女の躰。
その背中を支える力強くしなやかな腕に、しっかりと強い力が籠められるのを彼女はぼんやりと感じる。
頬に感じるのは、安堵にも似た心地を抱かせる、柔らかな温もり。
だが、脈打つように疼く痛みの為か、或いは傷を負った衝撃の為か…紗が掛かったかのように滲み、霞んだ視界に映る双色の瞳に、鋭く、烈しい煌めきを宿した光が過ぎるのが見えた。
――― それは、一瞬の、間。
次の瞬間、翻った長くしなやかな指先が鋭く虚空に符を放ち、流れるように宙に光の星を描き出す。
そして迸り出る、一切を灼き尽くすかのような皓(しろ)い力。
大気を引き裂く一筋の光芒と、彼方で炸裂する、視界を灼く眩い閃光。
「彼」の全身から立ち上る熱気に煽られ、絹糸の如き翠緑の髪が流星のように長く尾を引いて靡く。
その光景が、何故かひどく少女の胸を締め付けた。
「…や、す…き、さ…」
…もう………。
次第に薄れゆく意識の中で、血の気の失せた唇が声も無く、ただそれだけの言葉を、密やかに紡いだ。
§
…土御門の邸は、辺りを次第に染め上げてゆく朧な夕闇の中、耳の痛むような張りつめた緊張を湛えて佇んでいた。
既に陽も落ち始め、普段であればとうに邸内のひとの姿は疎らになっていようかというこの刻限に、時折、渡殿を忙しなく行き交う女房達の姿が見える。
静かであるようでいながら、其処に充ちる小さくささめく声音を感じるのにも似たその様子は、周囲の浮き足だった気配を如実に伝えるようで、焦りとも苛立ちともつかぬ感覚を起こさせる。
美しく整然と整えられた庭に植えられた樹々さえも、その梢を風に大きくざわめかせ、大気は低く唸りを轟かせているようだった。
そんな邸の奥まった場所に位置する西の対 ――― 京ではその存在を秘されている稀有な存在の住まう一角を見渡せる庭の片隅に、泰明は独り、立ち尽くしていた。
――――― 「龍神の神子」が負傷した。
その事実に、邸の者は疎か、星の姫も八葉も…周囲に充ちる気までもが動揺しているかのようだった。
怨霊、ひいては鬼との戦いという危険にその身を晒す日々。
まして彼女は五行の力を操る「神子」であるとはいえ、その本来は生身のひと。
いつか、このような事態が起こるだろう事も、それを完全に避ける術など無い事も、判りきっていた筈なのに。
――― 頭ではそう冷静に判断していながらも、自分自身もまた激しく動揺している事を、彼は認めざるを得なかった。
ほんの微かなあたりの気配の変化すら捉えてしまい、気が落ち着かない。
敏感になりすぎているのだ。
邸の其処此処に早くから灯されている篝火が、淡い茜色を漂わせ始めた大気に陽炎のように紅い残像を残してゆらゆらと揺らぐのを双色の瞳にぼんやりと映しながら、泰明は静かに嘆息する。
…と、その時、彼の感覚が何かを捉えたのか、…ふ、とその双眸が細められた。
やや遅れて、微かな風に乗り、落ち着いた深みのある香の薫りが漂う。
「…友雅か」
「さすがに鋭いね」
後方から響いてきた艶やかな声に、泰明は特に興味を覚えた様子も無く、ちらりと視線を投げただけだった。
だがそんな彼の態度には慣れているのか、友雅も気にも留めずに近づいてくる。
「神子殿の具合は?」
「…大事は無い。傷は既に符で塞いだ」
僅かな沈黙の後、短く答えを返す泰明の横貌は常のように硬質に整い、傍目には何の感情の乱れもないように見受けられた。
「傍についていなくていいのかい」
「神子は今、身の穢れを清めている」
柔らかく重ねられた問いに、視線を動かす事もしないまま、淡々とした答えが返る。
友雅はその言葉に…ああ、と思い至り、微かに眉を顰めた。
――― 彼女は、その半身を朱に染めていたのだった。
凛とした中にも何処か張りつめた気配を漂わせ、静かに其処に佇む泰明の姿を目にしながら、友雅は伝え聞いた、傷を負ったあかねを彼が運んできた時の様子を思い出す。
傷そのものについては「大事は無い」と泰明が言った処からして、確かに大きな心配は無いのだろう。
たとえ深刻な状況であったとしても、彼が案ずる必要は無いと断言した以上、既にそう言えるだけの充分な手を打っている筈だ。
…しかしそうは言いつつも、彼らが邸へ戻った時の状態はかなりのものであったらしい。
流れ出した深紅は少女の纏う水干の片袖も、そんな彼女の傷を庇うようにして抱きかかえてきた彼の狩衣も鮮やかに染め上げ、その姿を目にした藤姫は色を失い、倒れかけたという。
――― 京において、血の穢れは不浄のもの。
少女の負った傷は怨霊から受けたものであったが為に、陰陽師である泰明がともかくもその場で一応の手当を施していた。
その後、少女の身の血の穢れを雪ぐという事で、女房達に預けて房から一旦、退出してきたようだが、彼もまたその間に神子の血に染まっていた己の身を清めてきたのだろう。
今は真白の浄衣を纏い、その白皙の貌を硬く凍らせたまま、じっと少女の住まう対の辺りへ視線を向けながら佇んでいる様は、清冽で近づき難い感さえ抱かせる。
少しずつ落日の色を宿し始めた空の下、赤みを帯びた陽の光にその輪郭を染めつつ在りながら、その横貌はいつもよりも更に白々と透き通っているようで、何処か寒々とした印象を覚えさせた。
…――― 一瞬、ざっと荒々しい風声が響き、吹き抜ける風に乱された翠緑の髪が、その横貌を朧気に隠す。
「………神子は愚かだ」
唐突に、ぽつり、とその薄い唇が抑えられた声を紡いだ。
それはさながら独白のようでもあったが、それまで何を言うでもなく庭の何処かを見遣っていた友雅は、視線を彼の方へと返しながらゆっくりと眉を上げる。
「 ――― 何故?」
「八葉など、龍神の神子の道具に過ぎない。………捨て置けばよかったものを」
柔らかな問いかけに、低く、感情の見えない声音で、泰明はそんな事を口にした。
しかしその素っ気ない言葉とは裏腹に、眉宇に僅かな苛立ちと痛みを堪えているかのような色を漂わせている。
そんな彼の胎に生じた揺れを表すかのように、風に攫われる艶やかな前髪がさらさらと零れ落ち、その横貌に幾重にも淡い影を落とした。
それを認めた友雅は、肩にかかる髪を優雅に払うとゆったりと腕を組む。
――― 泰明が何故そんな言葉を洩らすのか、その意味を彼は既に知っていた。
どんな事実であろうと、彼は偽る事はしない。…いや、出来ないのか。
たとえそれが自身にとって酷なものであったとしても。
そしてその場で今、己の為すべき事へと意識を切り替え、やり遂げる。
だが、その泰明がこれほどにその胎の動揺を感じさせたのは、凡そ初めての事ではないか、と友雅は思う。
…普段の彼であるならば、己が最善を尽くした後は既に過ぎてしまった事を振り返ったりはしない筈。
友雅は静かに瞳を伏せる。
「…そうかい? けれどそれを今、耳にしたなら、神子殿はきっと泣くだろうね」
いや、それとも泣きながら怒るかもしれないな、などと、彼は淡い微笑と共に独りごちる。
隣に立つ泰明は彼の言葉に真っ直ぐに神子のいる対へと向けていた瞳を一瞬、微かに細めて何か言おうとし、…押し黙った。
今の自分の言葉を聞けば、神子が泣く。それは判る。
――― 何故泣くのかは、解らないが。
あの感情の豊かな少女は、恐らく酷く傷ついた貌をして泣くのだろう。…或いは友雅の言うように、貌を真っ赤に染めて怒るのかもしれない。
その大きな瞳に必死な、限りなく真摯な色を浮かべて。
それはこれまでにも幾度となく繰り返された、見慣れた光景。
自分が彼女を庇い、手傷を負う度に、彼女は怒り ――― 時には泣きそうな瞳で訴える。
初めのうちは理解出来なかったそんな神子の言動も、時が経つにつれ、戸惑いや微かな痛みと共に仄かな温かさをも覚えながら受け容れるようになっていた。
…かと言って、そうそう自分の行動が変わる筈も無かったが。
――― だがまさか、自分が少女に庇われるとは、思ってもみなかった…。
泰明はそこで深く嘆息する。
静かに瞳を伏せると、躰の奥、目に見えぬ深い処にいまだに残る微熱と共に、鈍く緩慢な痛みが在るのが判る。
気がつけば、まるで干上がったかのように喉は渇ききっていた。
知らず知らず力を籠めていたのか、指先は固く強ばり、冷たく冷え切っている。
そのような感覚を経験したのは初めてで、胸の胎にざらざらとした言い様の無い不快感を覚える。
――― 血の気の失せた、蒼ざめた貌。
苦痛の色すらも見えない、静かな、無防備にすら見えるその面影。
いつも毅(つよ)い意思を湛えて真っ直ぐに向けられる瞳は閉ざされ、
長い睫毛が柔らかな頬に色濃く影を刻む様からは、
その身に宿る甚大な力を操る「神子」の面影は微塵も見受けられない。
其処にいたのは、華奢で頼りなげな、一人の少女でしか無かった ―――…。 ――― 腕の中で気を失った少女のその様子を目にしたあの瞬間、自分の胎に湧き起こったものが何だったのか…それは判らない。
ただ、躰の内側を氷塊が滑り落ちてゆくような感覚と、それと入れ替わるようにして目も眩む程の、烈しく、胸を焦がすような衝動が突き上げてきた事は、今もはっきりと覚えている。
そうして片腕に力を失った神子の躰を抱き留めながら、その身に染みついた本能のままもう一方の腕で呪符を翳し、唱えられた呪言と共に一撃で怨霊を屠る己の様を、何処か遠く、醒めた心地で見つめていた事を。
…微かに震えている掌をゆっくりと押し広げると、不意に半刻ほど前にその手を濡らした紅の鮮やかさとその感触が甦るかのような錯覚を覚えた。
それを打ち消すかのように、泰明は手に力を籠めるときつく指先を握りしめる。
――― 神子の躰から流れ、この身を染めた紅。
それは彼の為に流されたもの。
苦痛に貌を歪めながらも、微笑んで「大丈夫」だと答えて見せた、彼女の…。
…神子が傷つくくらいなら、自分が代わりになれば良い。
その命を護る為なら、自分の身を…そう、この器に宿るものが真実「命」と言えるものであるのなら、それを差し出す事に躊躇いなど無い。
神子である少女の身を護る事は八葉として当然の使命だと、単なる事実としてのみ受け容れていた筈が、いつしかそれほどに強く「護りたい」と思いはじめていた。
――――― なのにいま在る現実はどうだ?
「…!」
不意に湧き起こった訳の判らない衝動を、泰明は奥歯を噛みしめるようにして押し殺す。
それはただの怒りでは無かった。
歯痒く、もどかしく、…そして微かな恐怖もがない交ぜになった、複雑なもの。
何かを心のままに叫びたいのか、それとも拳を振り上げ、力任せに何処かに打ち付けたいのか…かたちに出来ないまま自分の胎に蟠(わだかま)っているそれを、彼は扱いかねていた。
そしてその衝動が何に対するものであるのかすら、掴めない。
不甲斐ない己自身へのものなのか、自分などを庇った神子へのものなのか。
それとも。
…泰明は、我知らず色を失った唇を噛みしめた。
その指先が狩衣の胸元を引き絞るかのように強く、掴む。
そんなその胎の微妙な変化を顕すかのような無意識の彼の仕草を、友雅は深い蒼の瞳で捉えながら、ただ静かに見つめていた ―――…。
【 To be continued….】
*註:「かそけし(幽けし)」…光や色や音が薄れ、消えてしまいそうな意。
微かである事、消え入るようである事。(旺文社・古語辞典より)
2002.9.8(SUN)UP.
2002.9.30(MON)加筆.
< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >
* MUSIC by TakeP.【 TakeP Music Room. 】 〔 MIDI :“冬神殿” 〕
*壁紙提供…【 Crimsonさま 】
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