希求(のぞみ)
《 壱 》






§






 …――― 上賀茂神社から逃げるようにして土御門の邸へと帰り着いた後。
 あかねは何をするでもなく、西の二の対の奥に設えられた自分の(へや)で独り、鬱ぎ込んでいた。


 邸へ帰り着いた彼女を、普段と同じく可愛らしい微笑みと共に出迎えてくれた藤姫は、まずは常ならば送り届けてくれる筈の八葉の姿が無く、あかねがたった独りでいる事に小首を傾げ ――― 次いで彼女の様子を見るなり、驚いたようにその大きな眸を見開いた。

 あかね自身としてはいつも通りに振る舞ってみせたつもりだったのだが、どうやらひどく蒼ざめた貌をしていたらしい。
 それ故、幼いと(いえど)も、京に来てからというもの常にあかねの傍近くに居、共に過ごしてきた藤姫にはすぐに様子がおかしい事は判ってしまったようだった。
 だが、心優しい星の姫は何か感じる処があったのか ――― まるであかねの気持ちを読み取ったかのようにそれ以上詮索する事はせず、房の傍から人払いまでしてくれている。
 邸に戻った折にちょうど居合わせた天真と詩紋もその時にやはり何か気がついたのか、今日に限っては此処まで訪ねてくる様子もない。


 房の奥で射し込む夕陽を避けるように暗い片隅に腰を下ろしたまま、あかねは眉を顰めて細く息を吐く。


 …皆のそんな密かな心遣いは、確かに有難かった。
 あの時はまだ彼女自身、ひどく感情が昂ぶっていたし、到底人と話をする気分にもなれなかったのだから。

 だが、日暮れ時の薄闇の中、しんと静まりかえった房の中にこうして独りでいる事が、あかねには次第に苦痛になり始めていた。
 痛いほどの静けさと人気の無さが、何故か今は取り残されたかのような心地を覚えさせるのだ。
 散策から持ち帰ったあの花も、彼女を慰めてはくれなかった。
 白く、透き通るような瑞々しい花弁を持つ美しく可憐な花は、確かにあかねの心を捉えはしたが、同時にそれを目にするにつけ、酷く切ない気持ちにさせる。
 噎せ返りそうな程に房の中に充ちる花の薫りが、余計に自分の裡の何かを追いつめるかのようで。



 ………息苦しい。



 あかねは折り曲げた両膝をぎゅっとその細い腕で胸元へ抱え込む。

 そうして何かを拒絶したかったのか、それとも溢れ出しそうな何かを抑え込みたかったのか…自分でも判らない。
 ただただ、固く、躰を縮こまらせて。
 それで何が変わる訳でもなかったが、あかねはそうして裡から湧き起こる震えるような感情の波をやり過ごそうとする。

 …だが、薄暗い房の中、何故か其処だけ浮かび上がるかのような白さを湛えた花が、どうしてもそれを手渡されたあの時の事を思い起こさせる。


 ――― いつか自分が好きだと言った、あちら(・・・)の世界の思い出の花。



 そう思った途端、あの時に交わした会話が少女の胸に蘇り、不意に訳の分からない衝動が湧き起こる。
 その衝動に駆られるままにあかねは思わず片手に握ったままだった花を手荒く払い除けかけ、はっ、と手を止めた。
 何かを堪える様子で一瞬、奥歯を噛み締め…少女は代わりにそっと抱きしめるようにその花を腕に抱えあげると、花びらに頬を伏せるように俯く。

 …途端、再びふわり、と匂い立った濃く、甘やかな薫りに少女は苦しげに貌を歪めた。不意に泣きたいような心細い気分に襲われ、固く両の瞳を閉ざす。



 ( ――― どうしてあんな事…言っちゃったんだろう… )



 痛いほどの後悔が今になってじわじわと胸に込み上げる。
 房に立ちこめるあの花の薫りは、そんな想いを余計に駆り立てる。


 …少女は自分の裡の堂々巡りから逃れるように、徐にふらりと立ち上がった。
 そのまま、御簾の外へと歩み出る。

 雨の恵みを失って久しい乾いた空へ広がる一日の名残の朱はあまりにも鮮やかすぎて、眸を刺すかのようにさえ感じられた。



 空も草木も、辺りの空気も ――― 少女自身さえも染め上げ、総てを呑み込んでしまうかのような茜色。



 眩しげに瞳を細めつつ、彼女は片手を翳しながら遠い山の端へと沈みゆく落日を暫し見つめる。
 ………紅から藍へと、次第に夜の気配を漂わせ始める夕陽の中に佇む少女の瞳には、思い詰めたような頼りなげな光がたゆたっていた。










【 続. 】





2004.10.21(THU)UP.
2005.5.24(TUE)転載.


< Written by Yuki Kugami. 2004-. / Site 【 月晶華 】 >





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