〜 《 弐 》 § その頃。 頭上高く広がる空一面を溢れるような鮮やかな朱色に染めつつ、次第に夕闇の色を濃くしてゆく陽の光の下 ――― 泰明はとある場所に、まるで縫い止められたかのように佇んでいた。 時折、肌を撫でるように吹いてくる微かな風は酷く乾いていたが、生い繁る樹々の枝葉を揺らすさわさわという音は、彼の居る人気の無い静かな通りに涼やかに響く。 その中に仄かに混じる、覚えのある甘い花の薫り。 恐らく、何処かに花が咲いているのだろう。 数日前、神子が好きだと言っていた…あの花が。 そんな事を思う泰明の脳裏に、自分が差し出した真白の花にはにかむように頬を染め、柔らかく微笑んだ少女の貌が浮かぶ。 ほんの少し前に目にしたばかりのその光景に、ふっと双色の瞳が細められる。 §
――― 玄武の封印を間近に控え、此処の処、神子は少々不安定になっているように見受けられた。 既に怨霊は総て封印し終え、龍脈は復活し、土地の力も充分に上がっている。四方の札は勿論の事、四神も青龍、朱雀、白虎とこれまでの三柱は総て無事に解放し、既にその助力を得てもいる。 他方、対する鬼は悉く部下を失い、残るはランという名の、天真の妹でもあるという黒龍の神子のみ。そのランですら、幾度かの神子との邂逅を経てアクラムに施されている封印も弱まり、自我を取り戻しかけているという。 決して相手を侮ってなどいなかったが、それらの事柄から玄武は無論の事、鬼の首領に対しても今の自分達が不覚を取る要素はほぼ無きに等しいと泰明は冷静に確信していた。 しかしそんな現実とは逆に、主として彼ら八葉を率いる神子たる少女の憂いは日に日に増してゆく。 初めのうちは、最後の四神の封印、そして鬼の首領との決戦を前にして気を昂ぶらせているのだろう、などと考えていたのだが…。 ひどくはしゃいだ様子で元気に振る舞って見せたかと思えば、不意にふっと沈んだ様子で黙り込む。そんな時、深い翠の瞳は物想いに囚われているのか、遠くを見つめているかのように茫洋として暗く翳って見えた。 どうかしたのかと気遣う八葉や藤姫達に何でもないと答えるその微笑みさえも、何処か淋しげに見えるようで。 …――― そんな姿を目にする度、いつもどうすれば良いのか、判らなくなる。 そして、あの時も ―――…。 その瞬間、胸を過ぎったものを押し隠すように、長い睫毛に縁取られた瞳がそっと伏せられる。 微かな夕風が、背に流されたままの翠緑の髪をさらさらと揺らす。その感触に促されるようにゆるりと貌を上げると、風に乗り、再びふわりと甘い花の薫りが頬を掠めた。 彼の視線の先に静かに佇むのは、その主の誇る権勢に相応しく、見渡す限り続く高い塀に囲まれた壮麗で広大な邸。その内に泰明と永泉の霊力によって編み上げられた強靱な結界に護られて、神子たる少女は今頃、その身を休めている筈だった。 ――― そう、神子が無事、土御門邸まで帰り着いた事を泰明は式神を通して既に知っていた。後こそ追わなかったものの、彼女に守護の式神を付けたのは自分自身なのだからそれも当然の事だろう。 今更、それもわざわざこうして出向いてくる必要など無いのだ。 泰明は其処で苦く溜息をつく。 自分が如何に非合理的で無駄な事をしているのかという事を、今、彼の理性は明確に理解していた。 …だが、此処に辿り着くまではそのような事など欠片も考えてはいなかった。 別れ際に神子が見せた表情が、いつまでも泰明の脳裏から離れない。まるで深く、自身に刻み込まれてしまったかのように。 誰よりも他人の痛みや心情に敏感でありながら、自身の事で涙を見せる事は嫌う少女の両の瞳から零れ落ちた…透明な雫。 それを目にした瞬間に覚えた胸の奥をきつく締め付けられるような痛みが彼を苛み、今も消えずに燻り続けている。 ………そして、あの言葉。 ( …――― 泰明さんの心が…想いが、聴きたいんです!! ) 真っ直ぐに翠の瞳で自分を見つめ、絞り出すように苦しげにそう叫んだ神子。 自分を捉えるその眼差しがあまりにも強すぎて、視線を逸らす事すら出来なかった。 ただ、向けられる少女の瞳と言葉に、胸の奥から何かが溢れそうになるのを必死に抑えつけ否定する他、術が無かった。 この胸の裡は、ただの虚である筈なのに。 「神子」という存在…否、 それの齎す困惑を、泰明は密かに恐れていた。 深く突き詰めてしまえば…そして其処に在る、在り得ない筈のものの存在を認めてしまえば、戻れなくなる。 そんな漠とした、だが確かな恐れにも似た予感が泰明の裡には在る。 考える事すら禁じるように、“それは赦されぬ事”なのだと、聲無き聲で見知らぬ何かが囁く。 …恐らくそれは己の理性、或いはこの世界を司る理の告げる警鐘なのだろう、そう泰明は思っていた。 裡なるその聲に従うのなら、これ以上、神子の内面に関わるべきではない。 神子の心を理解しようとする事は、己の裡にたゆたう不可解なものと向き合う事に他ならない。其処から生じる逡巡と混乱は、泰明から自身を律する術すら失わせるだろう。今の自分のように。 それでは八葉としての務めを充分に果たす事は出来ない。 ならばたとえ神子が何を思い、何に傷つこうとも、自分はただ“八葉”として“龍神の神子”である少女のその身だけを護っていれば良いのだと、これまでに幾度となく己に言い聞かせてきた。 ――― だというのに。 顰められた眉の下、常ならば凛とした光を湛える双眸が僅かに揺れる。何処か苦しげに。 自分の言葉を聞いた彼女が見せた、酷く傷ついたような表情。激しい動揺。 一度も振り返る事無く駆け去ってゆく、華奢な後ろ姿。 あの瞬間の光景を思い出す度、何故か身の竦むような心地がする。 …――― そうして神子の気配は泣いている。あの時から、ずっと。 たとえその姿を見ずとも判る。…自分には、神子の感情が伝わるのだから。 そして少女の感情は時に彼女が裡に抱く痛みや熱さえも伴って、驚くほど鮮明に泰明の裡に響く。 だが、その理由は感情を持たない自分には理解出来なかった。 泰明にとって、それはあくまでも 故に自分がその意味を理解出来ないという事実をこれまで気に留めた事も無く、何某かの強い感慨を覚えた事も無かった。否、その筈だった。 ――― それなのに何故、今はこれほど胸が痛むのだろう。まるで、 そうして知らず知らずのうちに自身の奥深い処の訴える痛みに翻弄され、結局、左京一条の自邸に戻ったものの、何故か気は乱れるばかりで落ち着かず…。 …気がついた時には此処に足を運んでしまっていたのだ。 だが、こうして土御門邸の門前までやって来ていながら、どうしても邸内に足を踏み入れる事が出来ないでいた。 ――― 自分は、神子に拒絶されている。 数刻前の上賀茂神社での出来事が彼にそんな感慨を抱かせていた。 そしてそれこそがあの時、泰明が少女の後を追えなかった理由であり、今、彼を躊躇わせている原因でもあった。 神子に必要とされない八葉。 護るどころか逆に傷つけ、それを癒す術すら判らない。 ………そんな自分が、神子の元へ赴く意味があるのだろうか。 ふと浮かんだ言葉は思いの外、重く泰明の裡に沈み込む。 同時に覚えた胸に詰まるような息苦しさに、袂の内で握り締められていた手にぐっと力が籠められる。 ――― このような事は初めてだった。 己が欲している事が判っていながら取るべき行動に迷い、立ち尽くすなど。 「………………」 自分でも制御しきれない矛盾を抱え、彼はその重苦しい感覚を噛み締める。 困惑と苛立ちの色の混じる瞳が、聳え立つ塀を見据える。 ――― が、ややあって振り切るよう頭を振ると、その場に立ち尽くしている強ばった躰を引き剥がすように踵を返そうとし。 …其処でぴたり、と動きが止まった。 不意に右手に視線が流されたかと思うと、すっとその柳眉が顰められる。 沈みゆく陽の光と迫り来る夜の翳の混じり合う黄昏時の薄闇の中、双色の双眸が映すのは、邸の傍の塀に寄りかかるようにして立つ一つの人影。 斜に構える横貌もその全身も総てが朱に染まり、その輪郭は夕焼けに溶け込むように朧に彩られている。 普段ならば茶色がかって見える色素の薄い髪は、今はまるで燃えるように赤い。 そして茜色に滲む陽の、朧な照り返しの中に在ってさえ一際強い光を放つ、濃茶色の双眸。 「 ――― よう」 真っ直ぐに泰明を見据え、待ち構えていたとしか思えない様子で短く声をかけてくる。 …――――― その人影は、天真だった。 【 続. 】 2004.10.28(THU)UP. 2005.5.24(TUE)転載. < Written by Yuki Kugami. 2004-. / Site 【 月晶華 】 > |