〜 月夜に遊ぶ 〜
《 壱 》






§






 ――― ある満月の美しい晩。
 脱走の得意な龍神の神子は、今日も得意の身の軽さを生かして、こっそりと左大臣家の裏の塀を乗り越えて一人邸を抜け出した。
 目的など特にあったわけではない。
 ただ、あまりに月が明るく綺麗だったので、月夜の散歩と洒落てみたかっただけなのだ。

 無論、もしも一人で抜け出したことがばれれば、邸中が大騒ぎになることは必至。藤姫は狼狽え、八葉達は血眼になって辺りを探し回る事だろう。

 …それは、よく分かっていたけれど。

 でも八葉の内の誰か二人のお目付つきで散歩をしても、気分転換にはあまりならないだろう。それどころかそもそも夜に外出など、余程のことがない限りさせてもらえるわけがない。
 だから。



「ごめんね、藤姫、みんな。すぐ帰ってくるから」



 両手を合わせて小さな声で謝りながら、あかねは軽やかに駆けだした。






++++++++++++






 ――― だが、あかねの不在がばれるまで、さほど時間は要しなかった。
 あかねが邸を抜け出してものの十分とたたない内に、夕方にあかねと話していた星の一族に伝わる伝承について調べていた藤姫が判った事を伝えようと一族に伝わる巻物を携え、彼女の(へや)を訪れたからだ。

 彼女の姿が無い事が判ると藤姫は真っ青になって大いに狼狽えたが、その実、方々へ手を打つ様は非常に迅速かつ的確だった。
 …それくらいあかねの脱走歴が積み重なっていたとも言える。

 ともあれ、邸外にいる八葉全員に使いを出し、自室に引き取っていた天真と詩紋を女房に呼びに行かせ、もぬけの殻となったあかねの部屋で藤姫が気を揉んでいると。
 そこへ何故かひょっこりと地の玄武、安倍泰明が姿を見せた。


「まあ、泰明殿。どうされたのですか」


 使いの文を見てやって来たにしては些か早すぎる到着に、現状を忘れて藤姫は思わず目を丸くする。


「こちらで気が騒ぐのを感じたので様子を見に来ただけだ。 ――― 神子はどうした?」
「それが…」


 不意に大きな菫色の瞳を潤ませた藤姫の様子に皆まで言わずとも事態を悟り、泰明は眉を顰めると細く息を吐く。
 表情に大きな変化こそ窺えなかったが、内心では「またか」と思っているであろう事は明白だった。
 何しろ彼女が脱走する度に、気を読むことの出来る泰明に必ずお呼びがかかるのだ。
 一体これで何度目になるのやら、数えるのも馬鹿馬鹿しい、とでも思っているのかもしれない。

 ――― しかしその外見上に漂う呆れたような様子と冷ややかな反応とは裏腹に、あかねがいなくなる度に何処からか真っ先に駆けつけてくるのもまた、彼であったりもする。


「他の者はどうした」
「先ほど使いの者を出したのですが、まだお見えでは…。今夜は、お父さまの警護で武士団の者も半数以上が出払っていて、頼久が代わりに警護に当たっているので、今は天真殿と詩紋殿しか…」


 困ったように口元に手を当てる藤姫を見ながら、泰明は黙ったまま、思案するように腕を組む。
 …と。


「…あれ、泰明?お前いつ来たんだよ」


 そこへちょうど女房からの報せを受けてやって来た天真が泰明へ声をかけてきた。
 藤姫同様、やはり彼が既に此処にやって来ている事に驚いているらしい。そんな天真にちらりと視線を投げると、泰明は一つ頷いた。 


「判った、私が行こう。天真、お前も来い」
「あ? ああ、いいけど」


 なんの説明もなく、突然声をかけられた天真は呆気にとられたように頷いた。
 その返事を最後まで聞くや聞かずのうちに、泰明はさっと身を翻す。



「泰明殿、天真殿、どうかよろしくお願い致します」



 すたすたと去ってゆくその後を追うように、神子の身を案ずる藤姫の声が夜の静寂を縫うように響いた。






++++++++++++






「 ――― で、どうするんだ?」 



 邸から大通りへと出たところで天真が腰に手を当てながら、泰明へ視線を遣る。


「まだそれほど遠くに行っちゃいないと思うが、手分けして探すか?」


 そう言いながら、天真は静まりかえった夜の大路をぐるりと見渡した。

 …当然の事ながら、そこには人っ子ひとり、いはしない。

 手分けして、などと言ってみたものの、この分では少々手間取りそうだった。そもそもあかねを探すにも、たった二人では効果のほどはたかが知れている。
 しかも、八葉としての力で神子であるあかねの気を捉えやすくなっているのは事実だが、高い霊力を持ち、気を探ることに慣れている泰明と違い、天真はそういう類の事はあまり得手ではないのだ。

 思わず、…ったく、しょうがねぇな、と小さく舌打ちが洩れる。
 そしてもう一度、促すように泰明を振り返る。
 天真が考えたような事は泰明も当然よく承知していたのだろう。いつもと変わらぬ冴えた表情のまま、暫し考えるように沈黙すると、いや、と軽く首を振った。


「…式神に追わせる」


 泰明はそう言うなり、袷から白い紙片を取り出し、小さく一言呪を唱える。
 するとその紙片は見る間に姿を変え ―――…。  





「…――――― おい」  





 天真はそれを見るなり、目を剥いてぴたりと硬直した。


「神子の後を追え。悪しきものを近づけさせるな」


 泰明の命に式神はこっくりと頷くと、すぐさまあかねの後を追う。  


 とてとてとてとてとてとて……………。  


 どう見ても到底素早く動けるとも思えぬそれは、しかしとぼけた足音とは似ても似つかぬ猛スピードでその先の辻を曲がって姿を消した。
 その様子を天真は茫然として見送る。

 …と、こちらは平然とそれを見ていた泰明がくるりと振り向いた。


「行くぞ、天真。 ――― どうした」


 式神の消えた方向を見たまま固まっている天真に、泰明は訝しげな視線を向ける。


「どうした、って…」  


 何と言えばいいのか判らず、ぷるぷると微かに震える指先で辻の向こうを指さしながら天真は絶句する。    





 ………アレは、一体何なのか。  

 瓜実形というよりは、加茂茄子に近い細長い顔。
 てっぺんにちょこんとついた耳。
 顔の中心に寄ったつぶらな瞳。
 ぽっちゃりとした寸胴体型に、太く短い手足。
 先っぽに申し訳程度に毛の生えた、細く長いしっぽ。

 それをふりふりと愛らしく(?)振りながら歩く、全体が淡い水色をした、あの生き物は………?





 …もしやまさか、あの生き物は「アレ」なのか。





 何とかして否定したいと思いながらも、あまりにも酷似したその姿にどうしても貌が引き攣るのを止められない。
 すると天真の視線とその指の指し示す方向を追って、その問うところを理解したのか、泰明は顔色一つ変えずにさらりと答えた。  


「式神の「むうみん」だ」  


 それがどうかしたのか、と言わんばかりに小首を傾げる泰明に、天真は驚愕を通り越し、思わず口をぱくぱくさせる。


「なっ…何なんだよ、あれは!! お前っ、どこであんなもん…!」
「何を驚いている? お前達の世界にはああいう生き物がいるのだろう」
「はぁっ!? 何だよそれ! 誰が、んなこと…っ」
「神子がそう言っていた」
「………?」
「もともとあれは神子につける為に式神にしたのだ。…始終そばに付いているのなら可愛いものがいいと言われたのだが、「可愛い」とはどういうものなのか、私には判らない。だから紙に描いてくれと頼んだのだ。その絵の通りに創ったのが、あれだ」


 どうやら泰明は、あかねが自分の好きな可愛い「生き物」の絵を描いたものと思っているらしい。


 …天真は思わず天を仰ぎながら、もう一度、先程の式神の姿を思い浮かべた。
 ――― 確かに、あれはムー○ンだった。一発でそうとわかるほど、よく似ていた。  


 そう思った瞬間、何故か「ねぇ、○〜ミン♪」と頭の中に妙な音楽まで響いてきて、天真はそれを追い払うようにぶるぶると勢いよく頭を振る。

 独り、なにやら激しく動揺している天真の様子に泰明は眉を顰めて首を傾げる。

 …が、さしたる問題は無いと判断したのか、どうやらあっさりとその疑問は放棄したらしい。
 未だ立ち直れずにいるらしい天真を余所に、泰明はその場に静かに佇んだまま、何かの気配を探るかのように彼方を見据えた。
 その色違いの双眸がくっと細められる。





 …――― と、不意に泰明は奥まった辻の向こうへと視線を投げた。  





「「むうみん」が神子を見つけた」
「…、…?」





 考え事に没頭していた天真は、その一言に一瞬反応し損なった。
 頭痛を堪えているような貌で、彼はぼうっと隣に立つ泰明を見上げる。

 その目の前で、再び狩衣の袷から取り出されたのは、先ほどと同じ数枚の紙片。
 唇から淀みなく唱えられる呪。  

 その声に、次は何が、と思わず反射的に身を固くした天真の前に現れたのは ――…。





「……………」  





 長い立派なヒゲをもごもごと蠢かしながら小山のように大きく影を投げかけるソレに、天真はもはや言葉もない。
 しかもご丁寧に大・中・小と三匹揃っている。  



(…――― あいつ、意外に絵が上手かったんだな………)



 ぼんやりとその姿を見上げながら、そんな埒もない事を考えてしまう。
 …どうやら思考は既に現実逃避の道を一直線に辿りつつあるようだった。  

 だが、そんな天真の様子には一向にお構いなしに、泰明は淡々とソレに命を下す。


「お前達は左大臣家に行け。お前と次の者は他の八葉に連絡を。最後の者は藤姫に神子を見つけたと伝えろ。行け」  


 簡潔な命令に、がぉ、と妙な声で一言、了解の意志を伝えると、ソレはふかふかとしたおなかに中くらいのとちっこいのをくっつけ、おもむろに何処からか黒いこうもり傘とコマを取り出した。
 そしてぐるぐるとコマを回すと、その上に乗っかって、ぶいーんと音を立てつつ素晴らしい速さで宵闇の空を飛んで行く。  

 …軽く腕を組んでその様子を興味深げに見送ると、ふむ、と泰明は頷いた。


「………なるほど。「ととろ」とやらは意外に役立つらしいな」
「おまえ、なぁ………」  


 体中から力が抜けていくような気分を覚え、天真は大きく息を吐く。  


 何故、あんなものをすんなりと式神として使う気になれるのか。  



 ――― 聞いてもムダだろう。



 半分諦めの境地で天真は悟る。

 何故か泰明はあかねにはとことん甘いのだ。
 それが彼女の身の危険に繋がることでなければ、口ではきついことを言いながらも、驚くほど素直に彼女の「お願い」を聞き入れてしまう。
 しかも専門的な事には博識な割に、一般的な事に関して所々恐ろしいほどキレイに「常識」というものがすっぽりと抜け落ちている部分も持ち合わせている彼は、その「お願い」を叶えるにあたって見境がないのでどうしようもない。



 ――― そう、彼の得意技「問題ない」には、大いに問題があることの方が多いのだ。    




「………なあ、あいつがお前に教えたのって、あれだけ、か?」  




 ふと、ろくでもない好奇心を覚え、そろりと天真が尋ねると、泰明はいや、とあっさり首を振ってみせた。


「他にも色々と描いてあった。「目玉のおやじ」・「すなふきん」・「にょろにょろ」・「まっくろくろすけ」…。この間は「ぴかちゅう」とかいうものをずいぶんと気に入っていたようだったが」





 …どうやら、本当にろくでもなかったようだ。 





「………あ〜か〜ね〜ええええええぇぇっ」    





 泰明の言葉を聞いた天真は、握りしめた拳をぷるぷると震わせた。
 ここまで来たらもう、ただ吠えるしかない。
 無聊(ぶりょう)の慰め、と言えば聞こえはいいが、どう考えても要は、単にあかねがそれらを「実体化」させてみたかっただけなのだとしか天真には思えなかった。    


「泰明っ! お前いいのかよ、んなミョーなもん式神なんかにして!!」
「問題ない。要は役割さえ果たせればよいのだから。形にさして意味はない」
「………そーかよ………」    


 とりあえず、訳の判らない怒りを目の前の怜悧な陰陽師にぶつけてみるが、返ってきたのは専門的かつ、求めるものとは微妙にズレた答えでしかなかった。しかも、何がマズイのか皆目分からないという、無言のメッセージ付きで。
 ………何というか、もう少し、常識というか良識というか………とにかくそういった認識に基づく答えを天真は期待したのだが。
 そもそも彼にそれを求めたのが間違いだったかもしれない。


 …はあああぁ、とこれ見よがしに深く深く溜息をついた天真の様子に、流石に泰明も何か引っかかる所があったらしい。
 眉根を寄せて腕を組みつつ、きゅっと小首を傾げて天真を見遣る。


「先ほどから何なのだ? 一体」
「何、って………あのなぁ」


 更に疲れたようにげっそりとした表情を浮かべる天真に、泰明はやはりよく解らないという貌をしてみせる。
 だが天真の様子から、これ以上訊ねても埒があかないと考えたのか ――― そのまま、むぅ、となにやら考え込む泰明。


 …ややあって、ぽつりと彼は呟いた。 





「…気になるのか」
「…は?」
「だから気になるのか、と聞いている」
「???」





 主語抜きのあまりにも唐突すぎる問いかけに、天真は訳の判らないまま、ぽかんと口を開けるしかない。
 その間の抜けた反応が見えているのかいないのか、天真の返答など意にも介さず、泰明はまた少し考える。





「…見たいのか」





 …話が見えない。





 ちんぷんかんぷんのまま、沈黙している天真を余所に、泰明はその無言を肯定と取ったのか、独りで何か納得したようだった。







「お前も神子と同じように、「可愛い」ものが好きなのか」
「…――――― はぁ!?」







 ――― 突然、くっきりはっきり、話が見えた。
 泰明が何かとんでもない大勘違いをしているという事が。

 どうやら自分が色々と問いつめた為に、「可愛い」式神に興味を持ったのだと誤解したらしい。


 …――― そういえば、興味を持ったものに対して、色々と聞きたがり、散々質問攻めにするのはあかねの癖だった。
 そしてその被害者(…だと本人が認識しているかどうかは謎だったが)の筆頭は、確かこの泰明だった筈。

 …しかしだからと言って、同じ次元で理解されては堪らない。


「いや…そうじゃなくてだな…」 


 何とか訂正を試みようとするも、何を言やいいんだよ、と思わず自分自身に突っ込む。
 そもそも、この泰明相手に何をどう説明すればこれ以上の誤解を生まずにすむやら、さっぱり見当がつかないのだ。

 考えれば考えるほど袋小路へと行き詰まる思考にどうにもひどく虚しくなって、脱力したようにずうん、と落ちこむ天真。
 …とその自分の頭をぽふぽふと叩く気配を感じ、彼はゆっくりと顔を上げる。


 ――― するとそこにはいつの間に現れたのか、目玉のおやじが立っていた。
 どうやら、妙な気を利かせた泰明が、あかね伝による所の「可愛い」式神を披露してくれたらしい…。




 …ふっと突然、天真は酷く哀しくなった。

 どうして、こうも絶望的に意思の疎通が無いのだろう?

 自分が言っていることは、それほどに理解し難い事なのか?イヤ、そんな筈はない(反語)。
 至ってフツーの常識人として、ごくごくマトモな反応を返しただけだ。
 たとえこの京が異世界だろうと、現代ではお目に掛かれない怪しげなモノが居る処だろうと、アレやソレらのような「どう見てもミョーな生き物」に堂々と大路を跋扈して欲しくないというのは、万国共通の感覚ではないのだろうか?


 そうして本気で頭痛を訴えはじめた己のこめかみを押さえて見上げる先には、いっそ懐かしく思えてしまうほど、本物にそっくりな姿の目玉のおやじ。


 天真の茶色の瞳が虚ろに眇められる。


 ………この時代の世間一般の、所謂「式神」というものに対する認識に何とか適いそうなのは、先に挙げられたものの中ではこれ、くらいだろうか?




 ――― いや、問題はそうではなく―――…。  




 ミョーに人懐こい目玉のおやじと見つめ合いながら、とりとめもなく断片的な思考だけがぐるぐると脳裏を巡る。
 目玉のおやじ、もとい泰明の式神は、そんな天真を慰めるかのように小さな掌で、ヨシヨシと天真の頭を撫でた。
 何故か、小さな子供のように目玉のオヤジに慰められる自分の姿がリアルに脳裏に浮かんで、天真は思わず…フ、とやさぐれた笑みを浮かべる。
 …既に抵抗する気力もなく、目玉のおやじにされるがままになりながらしゃがみ込んでいた天真は、フト突き刺さるような冷たい気配を感じた。

 恐る恐る、ちら、と横目で隣を伺う。  



 ――― ブリザードの吹き荒れる北極点の如き、感情の窺えない冷たい色違いの視線が痛い。    



「 ――― 楽しいのか」
「……………」    



 思いやりの欠片もない淡々とした声が、容赦なく降り注ぐ。


 …もしかしなくとも、ひょっとして自分は今、ひどく馬鹿にされているのだろうか。
 何だか、情けなくて妙に泣けてくる。
 …何が情けないのか、いまいち判然としないが。

 そもそも何故自分がこんな気分を味わわなければならないのか…。    


 思わずぐぐっと握り拳をつくってみても、目玉のおやじに頭を撫で撫でされながらでは、決まらないことこの上ない。    
 そんな天真の内心などつゆ知らず、ふい、と興味を失ったように視線を逸らした泰明は、しれっとした顔でふうと大きく息をつく。


「…それにしても、神子の世界には面妖な生き物がいるのだな。今度、あれの生態について聞いてみたい」  


 真面目に言っているらしい泰明に、がっくりと肩を落とし、ほとほと疲れ果てた様子で天真がぼそりと呟いた。  




「いるわけねーだろ………」







【 Next. 】





2004.7.28(WED)加筆.


< Written by Yuki Kugami. 2004-. / Site 【 月晶華 】 >





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