§
…――――― “愛しい”と。
そんな甘く、息苦しいほどの感情を教えてくれた、そのひとに出逢ったのは。
いまと同じ、
こんなけぶるような満開の桜の花の頃、だった ―――――…。
§
――― 花が舞う。ゆっくりと、密やかに。
音もなく静かに…舞い落ちる。
その淡き花弁は、かつて此処に在ったひとの纏っていた「色」と同じ…。
見開いた両の瞳に映る光景に、ふと、一つの面影が甦り ――― 喉元に込み上げる微熱と胸の疼きを堪えるように、彼は微かに瞳を細めた。
そして小さく吐息をつくと、肩に、髪に柔らかく絡む欠片をそっと手に取り、そのひとひらに双色の瞳を落とす。
その奥深くに浮かぶのは、感傷と言うにはあまりにも強く、哀しいほど澄んだ、想い。
…桜。
その色が自分に齎すものは…
かつて確かに一度は手にし、感じられた筈の…いまはこの手から零れ落ちてしまった、温もりの記憶に。
或いは、自らが招いた過ちによって穿たれ、いまもこの身を苛む傷の、灼けるような切ない痛みにも似て…
…温かく、優しく、そして…儚くも切ない…。
…――――― それはこの心の奥深くに遺され、刻み込まれた、「夢」の痕 ―――――…。
はらり、と視界をひとひらの花弁が舞い落ちる。
それは、まるで時を刻むかのように、決して絶えることなく、降り注ぐ。
――― この、花びらと共に降りゆくもの。それは。
無常に、だが緩慢に刻まれる時の流れと、
徐々に遠ざかる懐かしくも切ない思い出。
そうして、この身は留まる事の無い時の流れの中に在りながら、
何もかもが虚ろにこの躰の胎を…すり抜けてゆく。
それでも決して醒める事のない、あのひとときの幻を。
色褪せる事のない想いを。
この躰の胎に…封じ込めて。
私は、今も此処に在る。
――――― この想いに応えるひとは、もう、此処にはいないというのに。
“…――― 月やあらぬ
春や昔の春ならぬ
わが身ひとつは
もとの身にして ―――…”
ああ…そうだ。
たとえこの胸の想いは変わる事が無くとも。
時は流れ、季節は移ろい…
その微笑みは、最早遙か遠い時の彼方に。
かつて傍近く在った自分が占めていたその場所にすら、今や別の温もりが在るのかも知れない。
…そしてそれを望んだのは、
その手を離したのは。
他ならぬ、この私自身…。
…花が、舞う。
荒ぶる風に翻弄されて、彷徨うように。
何処とも知れぬ場所へと攫われてゆく。
儚きその身を憂えるように。
散りゆく運命(さだめ)に抗えず、独り、其処に在る孤独に震えるように…。
ひとひら、そしてまたひとひらと己(おの)が身を削り、散らせながら。
…彼はその澄んだ瞳をゆっくりと伏せる。何処か苦しげに。
長い睫が怜悧な容貌に蔭を落とし、それが淡い陽射しに仄かに揺れる。
――――― 他に、どうすることも出来なかった。
…判らなかった。
どれほど傍にいてほしいと願っても、
その為に総てを擲つ事になるそのひとを、幸せに出来る自信がなかった。
「ひと」とは異なる生まれ。
自然の流れから外れたこの命。
それは逃れようの無い、普遍の事実。
それ故に、
幾千の言葉を尽くして自分は「ひと」だと言われ、その言葉を信じたいと願っても、
不安は消える事が無く。
だからこそ「自分」を証す「何か」が欲しかった。
…己が「何」であるのかを…。
何故、それほどにその事に拘ったのか、今となってはもう、判らない。
だがあの時は、それがどうしても必要な事のように思えた。
或いは、私は不安だったのかもしれない。
怖かったのかもしれない。
いつの日か、欠けた自分から彼女が離れていってしまうかもしれない事が。
誰にでも愛され、誰をも愛す、そんな少女だからこそ…。
ただ…。
もしも、この身が今も「ひと」では無いのなら。
いつか、突然消え去るかもしれない。
「無」より生まれたこの身の性に相応しく、塵一つ遺さずに。
或いは自分だけが何一つ変わらぬままに、
そのひとを、淋しく逝かせる事になるかもしれない。
そんな残酷な流れに誰よりも大切なそのひとを、巻き込む訳にはいかないと。
そう、思って…。
そして、この「器」が時を重ねているのだと…
確かに、かけがえのないそのひとの手によって「ひと」と成っていたのだと知ったのは。
そのひとの姿が遙か彼方の世界へと去った後。
――――― それを悟った瞬間、込み上げたのは、己自身に対する嘲笑。
いま思えば愚かな迷い。
初めから、総てを知っていながら彼女は受け入れてくれたのに。
それを知っていた筈なのに…。
――――― その胎に湧き起こる感情に、彼の拳が固く握られる。
全身を駆け巡るのは、苦しさと嘲りの苦い衝動だけ。
…何よりも温かく、
何よりも愛したその微笑み。
だが、彼女が去った後…記憶の中で幾度となく思い返した面影は、
もう、その柔らかな微笑みを見せてはくれない。
代わりに胸を占めるのは、去り際に彼女が見せた、淋しい…微笑。
哀しげな…今にも泣きそうな澄んだ瞳で、震えるように仄かに笑んで見せたその顔が、どうしても忘れられない。
まるで、私を責めるかのように夜毎、甦るその眼差し。
…いや。
本当は誰よりも私自身が判っている。
彼女は、決して私を責めたりはしないだろうと。
…そう、たとえ私のこの弱さの総てを知ったとしても。
もしかしたらあの別れの時にも、既に悟っていたのかもしれない…。
それでも綺麗にそれを隠して、微笑ってみせていたのかもしれない。
それほどに、優しい少女だったから。
ただ、私自身の抱く罪悪感が…。
己の心の弱さ故に突き放し、傷つけておきながら、
尚その姿を、そして心を求めてしまう業の深さが、
私自身を責め立てている。
この心の奥底を深く、鋭く…抉るように。
けれどいま、どれほど自分自身を責めてみた処で、時間の流れを戻す事は出来ない。
…自分が、かけがえのないひとを手放してしまった事実は変えられない。
あの瞬間は、もう戻らない。
取り返しなどつかない。
目にするだけで心が温かくなるような、あの陽だまりのような微笑みは、喪われてしまったのだ…。
それなのにまだ、心を吹き抜ける空虚さに思い悩む自分の姿に嗤いが込み上げる。
…だが、何よりも愚かなのは、
いま、心の痛みと空虚さにこの身を震わせる己の滑稽さでもなければ、
それでも逢いたいと…その想いを向けて欲しいと望んでしまう浅ましさでもなく。
それは、あの時にお前を信じられなかった私自身…。
…彼は、ゆっくりと瞳を開く。
深く沈んでいた水底から浮き上がるように。
そしてゆっくりと広げられた掌に舞い降りた花びらを、彼は固く、しかし包み込むように握り込む。
それが、何か大切な物であるかのように。
…それでも…。
もう一度。
もう一度だけでいい。
優しい微笑みを見たい。
聲(こえ)を聞きたい。
そう、願ってしまう。
どうしようもなく。
かつて、いつも私を呼んでいた聲。
私の胎の「私」を呼び醒ました、甘く澄んだその聲。
その響きが心地よく、この心を満たしてゆくのは、私のお前への想いとお前が私に向けてくれる想い故なのだと。
他の誰にも、それを齎すことなど出来はしないのだと…
お前のいない場所などで、生きてゆく意味などありはしないのだと、
もっと早くに気がついていたなら。
いま、私は独り、此処に在る事など無かったのだろうか。
…何かを求めるかのように、双色の瞳が見上げた先には、朧に霞む淡い蒼。
音もなく吹き抜ける軟風は彼の翠緑の髪を攫い…
その風に、蒼穹の遙か彼方を目指すかのように、幾つもの透き通った桜の欠片が舞い上がる。
…そうして風の導く高みに細く、微かにかかる雲も、仄かな薫りをのせて触れてゆく暖かい風も、柔らかく、優しく…。
その総てが、遠い日に感じた少女の気配に、何処か似ていて。
或いは、そんな幻にも似た空気を湛えているかのような、いまならば。
ひとときの夢を見せてくれるのではないかと、ふと…そう思う。
…いつも「私」を呼んでいた聲。
唯の「神子」を護る「八葉」として、ではなく、
お前の傍に在った「私」、という存在自身を。
そしてそれは今もまだ、私の胎に響いている。
それは私の胎から、或いは外から。
記憶の底から、時に遙か彼方の空から。
――――― 限りなく優しく、そして時にひどく切なく「私」を訪なう、その想い。
その聲が、想いが、いまも私を「ひと」たらしめている。
この、いま風に舞う花びらの如く、散りゆくことすらも出来ないままに。
そんな彼を包み込むかのように。
緩やかな風が彼を取り巻き、その頬を撫でてゆく。
遠い初夏の日に、そっと自分に触れた少女の指先に似た、懐かしい感触と共に。
――――― これは、お前の聲なのか。
今もまだ、呼んでくれているのだろうか…私の願望などではなく。
遙か遠い時空を隔てても、その想いで、心で。
それならば、この自分の「聲」も…届くのだろうか。
届けて欲しい。
その名を呼ぶ聲を。
分かたれたあの時と変わる事の無い…
否、日に日に募りゆく想いを。
応えて欲しい。
この聲に。
この想いに。
…護るべき者として傍に在るのではなく、唯一人のひととして共に在りたいと恋い願うそのひとに。
それがどれほど身勝手な事かと知ってはいても、追い求める事を止められない。
たった一度でもいい。
それが叶えば、この身が消え去っても構わない。
――――― 空に舞い狂う桜花の誘う幻影か、
彼の胎でより一層、鮮やかに甦ったそのひとの姿に、知らず想いが溢れ出す。
思いつめたような光を宿す双色の瞳が、きらりと陽の光を弾く。
そして。
もう一度…その想い故に、彼は今こそその身に宿す総ての力を賭ける。
純粋な想いが、滑らかな輝く力の膜となって、紗のように彼を覆い始める。
その胎から溢れ出る力は、ふわりと艶やかな翠緑の髪を空に散らしつつ、その白皙の面に刻まれた影を拭い去り、同時に双色に染められていた両の瞳が琥珀の輝きを取り戻す。
…形の良い唇が、ゆっくりと愛しいひとの「真名」を刻んだ。
その音の一つ一つに、想いの総てを籠めるかのように。
夢見るような、柔らかな微笑みと共に、ただ一つの魂を…求めて。
「……」
…――――― 想いと共に、その「心」は風に乗り、何処までも何処までも飛翔する ―――――…。
淡色の花びらと共に、「彼」を連れて。
…しゃらん…
――――― 何処かで澄んだ鈴の音を、微かに聴いた、気がした…。
FIN.
2002.3.12(TUE)UP.
< Copyright(c) Yuki Kugami. 2002. / Site「月晶華」>