――――― 想花 ―――――
《風花と共に舞う聲、降りしきる想い》
〜あかね〜










§








…――――― その日、あの場所へと足を運んだのは、ほんの気まぐれだった。

そう…
この世界へと戻ってからは、
一度も足を踏み入れた事の無かった、その場所に。








あれは、もしかしたら予感、だったのかもしれない。












…――――― 彼方からのあのひとの「聲」が、
「私」を、呼んでくれたのかもしれない ―――――…。












§








 …少女はただ独り、其処に佇んでいた。

 何処か、彼方を見透かそうとするかのような光を湛えた翡翠の瞳を、彷徨わせながら。





 少女のいる辺りを取り囲むように、一面に生い茂っているのは、桜。
 しかし、それらが芽吹き、薄桃の花に彩られるには一足早い事が、剥き出しの幹や枝から見て取れる。





 …そう、今はまだ、早春の風に揺れる乾いた梢のざわめきが、時折辺りに響くだけ…。
 だが、その風に感じる微かな暖かさが、もう春はすぐそこまで来ているのだと…あの時から一年が経とうとしているのだという事も、彼女に感じさせる。





 髪を乱してゆく風の温もりに、一瞬、少女は眉根を寄せる。

 だが、その表情はすぐにかき消え…彼女はぼんやりと辺りを見回した。
 その瞳が、其処にある一つのものに、ふと、止まる。





 …双眸に映るのは、奥まった場所にある、底も見えないほどに深い、忘れ去られた古井戸。
 還ってきた「あの日」から、一度も訪れた事の無かった、場所。








 ――― 何故なら其処は、少女にとって総てが始まった場所であり…
もう手にする事の出来ない大切なものを無くした場所でもあったから…。








 少女は迷うような素振りながらも、ゆっくりとその井戸の傍へと歩み寄る。

 間近まで近寄ると…一瞬、息を詰めるようにして、足を止め。
 ややあってそうっと井戸の底を窺い…少女は、細く吐息をついた。




 そして力無く、井戸の縁へと腰を落とす。












――― 突然、奇妙な力で飛ばされた異世界から還って来た、あの夏の日。
その時の記憶は、靄がかかったようにぼやけていて、
どうしてもはっきりと思い出す事は出来ない。





還ってきた喜びも、想っていた人と別れた辛さも何も感じられず、
ただ、力が抜けて ―――…。





糸の切れた人形のように、為す術もなく座り込んでいた事しか、もう、覚えてはいない。














 …――― けれど、時が過ぎれば過ぎるほど、
 離れてしまった事への後悔と逢いたいのに逢えない苦しさがじわじわと…染み出すように溢れて、胸の奥を昏く染め変えて。
 心は逆に、次第にからからに渇き…ひび割れてゆく。



 それなのに、あの日から泣けた試しは一度も無い。
 胸の中には、幾つもの想いが…淋しさ、苦しみ、恋しさ…そんな数え切れないほどの複雑な衝動が、渦巻いているのに、それを言葉にすることすら出来ず。

 代わりにいつも顔に浮かぶのは、取って付けたかのような、作り物の笑顔。


 …あれからもう、半年以上も経つというのに。
 両親も、一緒に還ってきた友達も、こんな自分をどれだけ心配してくれているのか…それも胸が締め付けられるほど、よく判っているのに。





 それでも今は、そんな痛みすら、何処か遠くて。
 本当に「笑う」ことも「泣く」事も出来なくて。


 ――― あのひとが好きだと言ってくれた笑顔さえも、どうすれば浮かべる事が出来るのか、もう、判らなくて…。





 …泣いて泣いて、この胎に燻っている想いを吐き出す事が出来たなら、少しは楽になれるのだろうか。
 時にそんな事を思いながら、どうする事も出来ないままに、ただ、日々を重ねて。






 それでも、忘れる事の出来なかったこの想い。






 ――― そしてその想い故に、これまではこの場所へ足を踏み入れる事も出来なかった。





 其処に在るものが、深く水を湛えただけの、ただの古井戸なのだと…。
 もう、あの場所へと通じる道は永久に閉ざされてしまったのだという事を、目の当たりにしてしまう事が怖くて。
 その現実を知ってしまったら、自分の想いが幻であったかのような錯覚に陥りそうな、そんな気がして。












…けれど実際は、こうしてそれを目にしても、自分の中の想いは変わる事は無かった…。














 …くす、と小さく少女は笑う。
 その瞳に宿るのは哀しげで切なげな、痛みを堪えているかのような光。



 そのまま、微かに俯いた横顔に、さらりと朱鷺色の柔らかな髪が滑り落ちる。




 ――― そこに浮かぶ表情を、覆い隠すかのように。








 …あのひとに護って欲しかった訳じゃない。
 私もあのひとを護りたかった。
 誰だって、大切なものは自分の手で護りたいのだから。


 そして、幸せにして欲しかった訳でもない。
 ただ、一緒にいたかった。
 いつも私を真っ直ぐに見つめてくれていた、あの透明な眼差しを。
 心まで澄んでゆくような、あの綺麗な微笑みを。
 その隣で感じていられたら。
 それだけで私は幸せだったから…。












…そう。
それがたとえ儚い夢のように短い時間であっても。


こうして離れ離れに…姿さえも見られない世界に隔てられてしまうより。
きっと少しでも長く、一緒にいられた筈なのに。

…幸せを、感じていられた筈、なのに…。














 でも…。












 彼女はゆっくりと井戸の縁に手をかけると、もう一度、小さく溜息をついた。

 その白く細い指先が、そっと井戸の石組みの溝を辿る。
 自分の胎の記憶を…そして想いを、一つ一つ、辿ってゆくかのように。








 ――― こんな事になったのは、きっと…あのひとのせいだけじゃない…。





 あのひとが別れを告げた理由を、恐らく私は…知っていた。





 それなのに、どうする事も出来なかった。

 あのひとの心を癒す事も出来なければ、
 それでも一緒にいたいと…自分の気持ちを伝える勇気も無かった。





 ――― どうしてあの時迷ってしまったのか、自分でもよく判らない。


 覚悟が足りなかったのかもしれない。
 急に不安になったのかもしれない。

 生まれ育ったのとは違う世界に、いつか、たった独り残されてしまうかもしれない…未来に。








…それはもしかしたら、信じているつもりで、そのひとを信じ切れていなかったから、なのかもしれない…。










 そう、その時、一緒に生きて行く事を、何処かで諦めてしまったのは…私も同じ、なのだ。








 …けれど。

 たとえ此処にいても、やはり私は「独り」なのだと…こうして還ってきてみて初めて、思い知らされた。








だって此処には、何も無いから。

姿も、息吹も、一緒に過ごした思い出も。
 貴方が生きていた痕跡すらも…。





もしもあの時、残ると言えたなら。

たとえ…一緒にいられる時間がほんの一時だったとしても。
二人で眺めた景色や、過ごした場所の風や…総ての中に貴方を感じながら、
それでも生きてゆけたかもしれないのに。














 …現実に今、此処に在るものは、自分の胎のそのひとへの「想い」だけ。

 それすらも忙しなく過ぎてゆく時の流れに攫われて、あの世界で過ごした記憶と共に、薄れていってしまうような気さえする。


 まるで、波に浚われる砂のように。
 或いは、逆光に佇むものの輪郭が朧気に霞むように。


 この心の奥に深く刻み込んだ筈のそのひとの面影までも、ゆっくりと、霞がかかってゆくかのようで…。












 ――― 振り仰ぐ、優しい筈の春空の蒼が、何故か眼に染み入るようで、少女は思わずきゅっと瞳を閉じた。
 その光が、自分の胎を真白に染め変えてしまうのを、恐れるように。








…でも、私は、忘れたくない。
どんなに苦しく、辛くても、忘れたいと思ったことはない。


護ってくれる人なんていらない。
一緒に歩んでいきたい人は、他には誰もいないから。





…だから。





あなたがいた空間を、その温もりを、そっと閉じこめるように。
どんなものも、その空間を壊すことがないように。







今も私は…独り、此処にいる。
あの時のまま…心を止めて。










「でも…」








 時々、どうしようもなく淋しくなる。

 あのひとはいない。
 代われる人もいない。

 そんな事は知っている。嫌というほど。

 それなのに、瞳が、懐かしい面影を探してしまう。
 ふとした瞬間に。

 まるで…埋まる事のない、心に空いた空洞の訴える鈍痛を紛らわせようとするかのように。
 どんなに探しても、その姿が在る筈もない事は判りきっているのに。








 細い腕が無意識のうちに、きつく、自分自身をかき抱く。その指先が白く変わるほどに、強く。





――― いま、自分は此処にたった「独り」なのだという事が、
唐突に身に迫って感じられたのだ。







 …それを自覚した瞬間、熱く苦いものが喉元まで込み上げ、彼女は息苦しさを堪えるように唇を噛み、俯いた。












「…さ、ん…」












 堪えかねたようにぽつりと、震える唇からそのひとの名が零れ落ちる。















…――――― 逢いたい ―――――…

















 …その時。












…しゃらん…














 不意に、懐かしい澄んだ音が、少女の胎に響いた。





「…え?」







 その音に少女ははっと顔を上げ、驚いたように伏せていた瞳を開く。




 …そこへ、淡く晴れ渡った青空を切り抜くように、雪のような小さな欠片がひとひら、ゆっくりと、彼女の頭上から降ってきた。

 それを翡翠の双眸に捉えると、少女は何かに惹かれるかのように、ほんのりと光を弾くあえかなものに、そっと、しなやかな腕を伸ばす。…と。

 まるでその場所こそが求めていた処ででもあるかの如く。
 優しい薄桃の欠片は羽のように柔らかく、少女の掌へ舞い降りる。





「桜…?」





 少女は微かにそう呟く。





 まだ、桜の花開く時期ではない。
 彼方の世界へと飛ばされた「あの時」は、満開の桜に覆われていた此処も、今はまだどの木も堅い蕾ばかりが目に付き、綻んでいる様子すら見えない。





 …それなのに。
 一体、どこから…?





 その時、突然にざぁっと音を立てて吹いた暖かい風が、少女の視界いっぱいに淡色の花弁を舞い散らした。


 視界を遮り、或いは彼女を包み込むかのように流れる風に舞い、春霞む空に踊るのは、無数の桜の花びら。
 そしてあるはずのないその光景に翡翠の瞳を細めた少女の耳朶に、やや遅れてふわりと柔らかな響きが触れていった。

 それは、吹き抜ける風の音に混じる、微かな、「聲」…。












 ――― これまで一度も紡がれた事の無い、その「音」。
 けれど決して聞き間違える事のない、その響き。



 心を震わせる、胸に刻みつけられたその深く透る聲を。
 …知っている。












 心を過ぎったその思いに、鼓動が一つ、大きく波打った。
 細い指先が落ち着かなげにその胸元を押さえる。












 …聴こえる筈がない。
 ここは、あの懐かしい世界ではない。
 そのひとが在るべき場所ではない。



 もう、遙か昔の事のようにも思えるあの日。
 自分たちは確かに還ったのだから。
 各々の場所へ、と…。












 ――― 鼓動は、次第に早くなる。
 少女の胎を占め、その中で鳴り響くように。













 …けれど、そのひとがいる。
 今、ここに。

 風の伝える聲が、
 その気配に澄んでゆく空気が、
 何よりも鼓動を刻む自分自身の心が、それを伝える。その総てで。





 少女が求め、少女を求めるその存在を。















…――――― あのひとが…いま、ここに、いる ―――――…

















 まるで少女の心に応えるかのように。
 突然の風と共に現れ、乱れ舞っていた花びらの渦が、不意に分かたれる。






 …其処に現れたのは、目にも鮮やかな、一筋の「翠」の流れ…。
 決して忘れる事の出来なかったもの。






 込み上げる想いに霞んでゆきそうになる瞳を必死に細い指先で擦り。
 少女は風に靡く艶やかな朱鷺色の髪に手をやりながら、瞬きすら忘れて真っ直ぐに前を見つめ続ける。

 ほんのひとときでも目を離せば、一言でも言葉を発すれば、そのひとの姿が消えてしまうのではないかと…恐れるように。
 幻のようなその姿が壊れる事を、怯えるように。








 ――― 証が欲しかった。
 自分の視ているものが、春の朧の見せる幻影ではないという、証が。
 確かに其処に在るのだという確信が。


 だからこそ動けなかった。


 温かな温もりすら纏っているかのようなその気配が、
 もしもいま…この手を伸ばし、触れた途端に霞のように消えてしまったら。

 きっと、自分の心は壊れてしまう。
 …耐えられない。





 もう逢えないと知りながらも、これまでの間ずっとずっと、一瞬も忘れる事が出来ずに想い続けてきたのだから。
 もう一度、逢いたい…と。












…その夢ですら、「叶った」と思ったその瞬間に壊れてしまったら、もう…。














 期待と怯えに烈しく揺れる心を抱いたまま、少女はただ、立ち尽くす。








 …ゆっくりと、歩み寄って来る、影。


 流れるように艶やかな、翠緑の髪。
 春の柔らかな陽差しに透ける伏し目がちのその双眸は、揃いの琥珀。






 それはまるで、風に舞い踊る、視界一面に広がる淡色の欠片の中で、そこにだけ色を置いたかのような鮮やかさ…。






 けぶるような陽に霞んでいた輪郭が、近づくにつれ、少しずつ、懐かしくも切ない面影を形作る。








 …すっと開かれた、光を映す澄んだ瞳が、少女の姿を捉えた。
 あらかじめ其処にいることを知っていたかのように、迷う事無く…真っ直ぐに。












「……」














 零れ落ちた囁き。






 少女はぴくんと肩を震わせた。
 吐息も触れそうな程近づいたそのひとに、彼女はおそるおそる手を伸ばす。

 喰い入るように大きく見開かれた翡翠の瞳は、少しも逸らさないままで。


 目の前に立つそのひとは、ふっと瞳を細めるとゆっくりと伸ばされる、その白く華奢な指をそっと握った。
 そのまま…自らの頬へと引き寄せる。


 指先に触れる滑らかな、そして温かい感触に、少女はその意味を感じ取ろうとするかのように、ゆっくりと瞳を瞬かせた。



 じわじわと…染み入るように伝わってくる熱と共に、少女の胎で戸惑いと恐れが、喜びへと変わる。





「…泰明…さんっ…」





 小さく、途切れ途切れな声での呼びかけに、目の前の顔がゆっくりと綻ぶ。


 それは今まで見たどの微笑よりも優しく、綺麗な…。





 ――――― 次の瞬間、は身を投げ出すようにして泰明にぎゅっと抱きついていた。





 それを優しく受け止めた腕が、そっと彼女の背中に回される。
 その腕の温かさと力強さに、少女の胎に安堵のような思いが湧き起こる。








…――――― 確かに今、此処に、彼がいるのだ、と ―――――…










 その想いとゆっくりと染み通る温もりに、そして触れている頬に感じる鼓動に、固く凍りついていた心が解けていくかのような感覚を彼女は覚える。





 すると、まるでそれを待っていたかのように。
 もうずっと長い間、ある事すら忘れ去っていた温かなものが、その翡翠の瞳に見る間に滲み始めた。
 それは緩やかな軌跡を白い頬に描きながら透明な珠を結び、陽を弾くように零れ落ちる。




「…――― っ…」




 声もなく嗚咽を洩らすの華奢な躰を、泰明は包み込むように抱きしめた。




「お前に、逢いたかった…」




 吐息のように洩らされる言葉。




「どれほど身勝手な、浅ましい想いかは知っている。…それでも、たとえひと目なりとでも、逢いたかった。…聲を聞きたかった」




 とつとつと告げられる想いに、少女は勢いよく頭を振る。




「…私も、逢いたかったの。ずっとずっと、どうしてあの時、残るって言えなかったのかって、そればっかり…」




 は、そこで言葉を切ると、そっと泰明の顔を見上げる。
 その面に浮かぶのは、彼を捉えた、愛しい微笑み。

 陽射しのように柔らかな微笑が、その心に降り注ぎ、温めてゆく…。








「でも、泰明さんは、いまここにいるんだよね?…逢いに来て…くれたんだよね…」








 確かめるかのような、呟き。


 そして…。












 ――――― ずっと、一緒にいてね…。












 柔らかな風に溶けるように小さく囁いたの聲に、泰明はこれ以上ない程幸せそうに、甘く微笑んだ。





「約束する」





 ふわり、と腕の中のひとの微笑が深くなる。












――― もう決して迷わない。
離れない。





そう、このひとの他に望むものなど、自分には無いのだから…。















§

















 …――――― 決して交わる筈の無かった、二つの世界に分かたれた想い。





 彼方より、一つの想いを運んだ名残の花びらが、それが夢ではない事を示すかのように、ひらり、とひとひら、舞い降りていった。















FIN.


2002.3.14(THU)UP.
< Copyright(c) Yuki Kugami. 2002. / Site「月晶華」>











‡COMMENT‡


10000HIT記念フリー創作、後編です。


後編は、時間的には前編の中程から始まっています。
こちらで少しは甘い幸せな雰囲気が出ているといいのですが…。
本当にこれは甘いのか…謎。(←最近感じる、大いなる疑問。)

そして此処まで来て漸く、「王子様的お迎え」の意味が判明する、と(笑)。
(本当に判明したのか、かなり怪しい。。)

泰明さんがかなり力技を使っている(苦笑)上、
設定としてはありがちな形になってしまった気がしますが、如何でしたでしょう?

少しでも楽しんでいただければ幸いですv

まだまだ拙いサイトですが、これからも仲良くして戴けると嬉しいです。
ここまでお付き合い下さった皆様にも、良い事がありますように…。






BACK…《 ― 想花 ― 》・〜 泰明 〜




泡沫の和書top



HOME