――――― 静寂の囁き ―――――


《 壱 》












§









 …そよ、と。
 微かに頬に冷えた空気が触れる。

 その気配を感じたのか、目元に影を落とす長い睫毛が震え…あかねはゆっくりと瞼を開く。




 翡翠の瞳を開いた瞬間、その視界に飛び込んできたのは、一面に広がる仄暗い闇だった。




「…?」




 一瞬、自分が何処にいるのか判らず、眉を顰めたあかねは、霞がかって見える瞳を幾度か瞬かせると、そろそろと横たわっていた場所から躰を起こす。
 少女はそのまま首を廻らせると、周囲を見回した。





 ――― 既に陽は沈み、辺りは次第に濃い闇に覆われつつあるようだった。


 辺りの暗さに目が慣れてくると、そこが自分が普段から身を置いている土御門邸の房であり、その奥に設えられた御帳台に横たわっていた事が判る。
 …視線を落とすと、見慣れたいつもの藤色の水干の袂が見えた。





「………」





 貌に落ちかかる髪を掻き上げつつ、なかなか冴えない意識をそれでも何とか廻らせていたあかねは、ここに至って漸く、自分が昼間、散策から帰った後、急に疲れを覚えて横になった事を思い出す。





「私…本当にあのまま寝ちゃったんだ」





 そう小さく独りごちると、彼女は吐息と共に緩く頭を振った。

 と、微かにこめかみの辺りに攣るような痛みが走る。
 少し熱を持っているかのような、重い気怠さを訴える頭に細い眉が顰められ、細い指先が痛みを抑えるかのように額へ添えられた。










 ――― 自分ではさして自覚してはいなかったが、どうやらかなり疲れが溜まっていたらしい。


 そろそろ三月を数えるとは言え、全く見も知らぬ世界へと召喚された上、毎日、殆ど休む暇もなく京中を散策しては、怨霊を祓い、土地の力を上げる事を繰り返しているのだから、それはある意味当然の事と言えた。
 さらに最近は、雨が齎されないせいもあってか、連日、じりじりと焼け付くような暑さが続き、どうしても余計に躰に負担がかかる事は否めない。

 …ふと考えてみれば、ここの処、夜もあまり熟睡できた記憶が無かった。
 眠っている間に何か夢でも見ているのか、朝、目覚めても、頭がぼんやりとしていてすっきりしないというような日が続いている。





 物思いに耽りながら、見るともなしに庭の方へと視線を向けていたあかねの唇から、小さく一つ、溜息が洩れる。





(…そう言えば…。今日、帰り際に泰明さんにも、最近気が乱れがちだから無理をするなって言われたっけ…)





 …房の中に微かにたゆたう菊花の薫りに、ふとそんな事を思い出す。
 時折、御簾の合間から柔らかく流れ込む微風に乗って仄かに薫るそれは、あかねにとっては今は馴染みのあるものだった。



 しかし今、房に残る薫りは、自分が燻らせたものの残り香。
 「彼」が身に纏うものとよく似ているようでいて、やはり微妙に違う。








 …それが何故か少し、胸に痛い…。








 ぼんやりとそこまで考えて、あかねは感傷にも似た想いを振り切るように、一度ぎゅっと瞳を閉じた。
 そうして寝所から抜け出すと、外からの明かりの差し込んでくる方へと近寄ってゆく。





 ――― こうして端近まで来てみると、辺りには女房はおろか、藤姫のいる気配すら無い事が判った。まるでこの房の在る一角だけが忘れ去られてしまったかのように、しんと静まりかえっている。
 …或いは、今まで休んでいた自分の為に、あの優しい幼い星の姫の気遣いで敢えて人払いがなされているのかもしれない。


 そのせいなのだろうか。
 まだ陽が沈んで間もないというのに、御簾の合間から透かし見ている庭のそこここから、微かな虫の声が響いてくるのが聞こえた。

 そんな中、時折、吹き抜けてゆく夜風は涼気を孕み、渇いた手触りであかねの頬を撫でてゆく。
 日照りが続き、干涸らび始めた大地を覆う細かな砂埃を風が巻き上げているのか、降り注ぐ月影も、月明かりに照らされる庭の景色も、どこか朧に霞んで見えた。





 …そう、雨はまだ齎されてはいない。
 それもその筈、四神の一つである、水を司る玄武は、今だ鬼に囚われたままなのだから。

 だがそれも、恐らくは今宵限りの事…。
 この夜が明ければ「子(ね)」の日がやってくる。





 ――― 最後の四神を解放する、その時が…。





「最後…か」





 ぽつり、と澄んだ響きの声が宵闇の静寂に零れ落ちる。

 御簾際に座り込み、ぼんやりと庭を眺めていたあかねは、細い両腕で膝を抱えると、貌を膝頭の上に載せた。








 ――― つらつらと色々な事を思い出しながら、こうして夜の闇の中にいるせいだろうか。
 周りに人の気配が欠片も感じられない事もあってか、いま、自分がたった独りでいる事を強く意識してしまう。



 …すると、何故か取り残されたかのような…此処にいる「自分」という存在がひどく異質なものであるような気がして、無性に落ち着かない気分になった。


 それはまるで胸の中がざわざわと波立つような、奇妙な感覚…。












 ――― この分では、どうやらすぐには寝付けそうもない…。












 すっかり目の冴えてしまった自分を自覚し、あかねは瞳を瞑ると、もう一度、深々と吐息をつく。

 …微かに虫の鳴き声が響く中、そっと開かれた翡翠の双眸が庭の方を暫し見つめ、彼女は不意に何か思い立ったかのように音もなく立ち上がる。

 その面に浮かぶのは、何処か悪戯っぽい微笑。

 少女はそのまま細い指先で御簾の端を掲げると、周囲の様子を窺うように視線を廻らせた。




 数呼吸ほど逡巡し、ややあって足音を忍ばせて、静かに房の外へ出る。












 ――― そうして、少女の華奢な後ろ姿は、朧な光の降り注ぐ闇の中へと滑るように歩み出していった。



















§


















 …房を抜け出し、階(きざはし)からそっと庭に降り立つと、朧な月影の放つ光の粒子が、包み込むかの如くにあかねの上に降り注ぐ。
 その明るさに引かれるように夜空に浮かび上がる月を見上げた彼女は、掠めていった仄かな藤の薫りに翡翠の瞳をそっと細めた。





 …――― と。








「…何処へ行く」












 深い、胸に染み入るような声が朧な闇を縫うように響く。

 少女は、不意に傍らから響いてきた声に驚いたように振り返った。


 彼女の瞳が捉えているのは、数歩先、この庭にあるものの中でも一際立派な、遅咲きの藤の大樹に半ば背を預けるようにして佇んでいる、すらりとした長身の影。
 柔らかな弦月の光を全身に受け、辺りに溶け込むかのように自然でありながらも、闇の中でなおはっきりとその輪郭をうかびあがらせるその姿は清冽な気配を漂わせ、凛として美しい。



「 ――― 泰明さん? …どうしてこんな処に…」



 あかねは翡翠の双眸を大きく見開いたまま、そう呟いた。

 …散策の後、土御門邸まで送ってもらってから、少なくとも一刻以上経っている。
 当然もう邸の方へ戻っているのだろうと思っていたのだ。




「…神子の気の乱れが治まるまで、様子を見ていただけだ」




 あかねの疑問に、泰明は僅かに間をおくと、軽く腕を組みながらそう言った。
 そしてじっと彼女の貌を見据えてくる。



「お前こそ、このような刻限に何をしている」



 いつも通りの、淡々とした口調。

 だが視線や声の様子から察するに、どうやら少々、機嫌を損ねているらしい。
 …昼間注意されたというのに、もうすっかり陽も暮れ、月明かりも眩くなり始めている頃合いに出歩いている今の状況を思えば、それも仕方のないことではあるのだが。



 あかねは気まずそうに居住まいを正すと、小さく首を傾げて見せた。



「…なんだか、眠れなくて。気分転換でもしようかなって思って」
「駄目だ。躰を休めなければ明日に響く」



 厳しい貌つきで、だから早く戻れ、と言外に促す泰明に、あかねは今度は困ったような笑みを零す。



「解ってます。でも…ほら、今日はせっかく月も綺麗だから、なんだが近くで見たくなって」



 答えになっているとは言い難い答えを返しながら、あかねは彼の傍まで歩み寄る。
 少女の行動に泰明ははっきりと眉根を寄せた。


「神子 ―――…」
「ちょっとだけ、だから」


 泰明がそれ以上言葉を紡ぐのを遮るように強い口調で言い切ると、あかねは自分も同じように藤の樹の幹へと背中を凭せかけた。
 憮然とした表情でそれを見遣った泰明は、ややあって仕方がないとでもいうかのように、軽く瞳を伏せるとふっと小さく息を吐く。





 ――― どうやら泰明は、彼女の気が済んで大人しく房へ帰るまで、傍についている事にしたらしい。



 樹の幹へ背を預けたまま、泰明は夜空を仰ぐかのように、僅かに頸を擡(もた)げる。
 彼の動きに合わせて、綺麗に結われた翠緑の髪がさらさらと肩口を流れ落ちてゆく。






 ひとひら、ひとひらと零れ落ちる藤色の花片を映す伏し目がちのその瞳は朧気で…彼方を見つめているかのように、何処か遠い。





 …そんな彼の姿を、あかねは口を噤んだまま隣で視界の端に映しながら、そっと窺っていた。

 ゆっくりと…その翡翠の双眸が細められる。





 ――― きっと、自分は少し甘えているのだろうと思う。


 八葉は神子を護る為に在るのだと言う泰明。そしてそれは確かに、初めて出逢った時から今まで、違えられた事は無かった。

 そんな彼なら、ここで我が侭を言って我を通せば、恐らくまだ此処にいてくれるだろうと…何処かで思っていたのかもしれない。
 そうと知りつつこんな方法で引き留めるのは、自分勝手な甘えでしかない…。








 そんな事を思いながら、少しの乱れも感じさせない風情で佇んでいる泰明へと目を遣っていた少女は、ややあって静かに瞳を伏せる。

 大きな瞳を縁取る長い睫毛が、その白い頬に淡い影を落とした。








――― 本当は、
きっとそんな形で傍にいて欲しかった訳ではなかったけれど。


それでも。
今はただ、こうしていたかった…。









 あかねは胸に浮かんだ想いに内心で自嘲すると、深閑と広がる深い闇と月影を眺めるように緩やかに夜空を振り仰いだ。
 …そんな彼女の横貌を泰明もまた先程の自分と同じように静かに見つめている事にも、気づかないまま。










 …ざっと涼気を孕んだ夜風が佇む二人の間を吹き抜け、月光に艶やかに煌めく翠緑の髪と柔らかな朱鷺色の髪が鮮やかに靡いた。
 風に揺れる薄紫の花房と共に、いくつかの花びらを乗せて藤の芳しい薫りが漂う。





 上空を足早に過ぎる流雲の影が月を遮り、不安定な翳りを辺りに振りまいていく ―――…。





 その光景に何故か心をかき立てられるような感覚を覚え、あかねは思わず両腕を自身の躰に回すと、ぎゅっと力を籠めた。
 自分自身でも説明の付かないその感情の波を堪えるかのように。


 その少女の行動を目にした泰明は、ふっと眉根を寄せる。








「…何かあったのか」








 ぽつりと。
 不意に小さな一言が洩れる。


 …視線を合わせるでもなく、それぞれに佇んでいる二人の間に横たわっていた、いつ終わるともしれぬ沈黙を破ったのは、泰明の方だった。


 傍らから響いた固い声音に、朱鷺色の柔らかな髪が翻る。


 ――― 振り返った先にあったのは、案ずるような色を湛えた双色の澄んだ瞳。
 何故、彼がそんな表情を見せるのか判らず、あかねは視線を合わせたまま、その貌を見上げる。



「…泰明さん?」
「お前の気は昼間から乱れたままだ。…まだ落ち着いてはいない」



 泰明の言葉の意図を掴みきれていないのか、不思議そうにこちらを見つめているあかねに彼はそう語りかけた。





 普段と変わらぬ、素直な屈託のない表情を見せるあかね。
 それとは対照的に、何処か不安定に揺らいでいる、彼女の気。




 それはいつもの少女のそれに比べて何処か朧気で、儚くすら見えた。

 月影に透けるその輪郭の如く、そのまま空気に溶け込んでしまうのではないかと…思うほどに。





「何故、それほどに心を乱している…?」



 問うような口調とは裏腹の、何もかも見透かすかのような双色の瞳があかねを射抜く。
 偽りも、口を閉ざす事も赦さないと思わせるその強さに、少女は戸惑ったように視線を彷徨わせた。



 …泰明が、今の自分の様子をとても気にかけてくれているらしい事はあかねにも判る。
 だが、そもそも泰明の言う「気の乱れ」というもの自体、殆ど自覚していなかった状態では、何が、と聞かれても、これといってはっきりと形の掴める原因は見つからなかった。




 …ただ、言われてみれば、少し情緒不安定だった…ような気もする。




 房の中、仄かに射し込む月の光と静かな虫の音を夜の静寂の中で感じていた、あの時。
 そしていま、夜空を駆け抜けてゆく雲の合間から零れ落ちる、細かな光の明滅を目にした時。


 知らず躰を震わせるように湧き起こった、重く、締め付けられるかのような胸の胎のざわめき。






 それを思い出した途端、あかねの眉根がふっと寄せられた。






「…はっきりとは、判らないけど…部屋の中に独りでいると、落ち着かなくて…」






 ぽつり、ぽつりと言葉を選ぶように一言ずつ紡ぎながら、あかねは考え込むように口元へ指の背を添える。

 そんな彼女の様子を、何を思っているのか泰明は僅かに瞳を細めながら黙って見つめていた。





 ――― ゆっくりと辺りに廻らされる翡翠の瞳に映るのは、朧な闇に沈む、藤姫の手によって美しく整えられた広大な庭。

 少しずつ濃さを増してゆく闇に溶け込むように、其処に在るものの輪郭が淡く霞んでゆく様を、そして乾いた土の匂いを捉えながらそれを独り、眺めていたのは、ほんの少し前の事。





 …そして、その大地の乾きも明日になれば癒されるのだと、そう思ったあの瞬間に過ぎった思い。





 それは…。





「…ただ、もうすぐ最後なんだなって。そう思ったんです。…そうしたら、なんだか…」
「………」





 それ以上言葉が見つからないのか、あかねの声がふつりと途切れた。
 その面にもどかしげな色がちらりと過ぎってゆくのを認め…泰明は、ゆっくりと瞳を伏せる。




「…不安なのか」




 暫しの沈黙の後、静かに洩らされた言葉にあかねは瞳を瞬かせた。



「…不安…?」



 独り言のように小さく泰明の言葉を繰り返し、少女はふっと俯いた。
 その面に浮かぶ表情を隠すかのように、朱鷺色の柔らかな髪が揺れる。





 …不安…なのだろうか。
 この先、どうなるかが判らない事が。





 ――― 最後。



 そう、何もかもが終わる。恐らく後数日の間に。

 「鬼」と呼ばれる彼らには、もう、後がない。
 手にしていた四神の内、三柱を喪い、力ある一族の者も最早、殆ど残ってはいないのだから。

 だがそれでも、鬼は恐らく決して退く事はないだろう。

 …彼らには戦う他に術は残されていないのだと、今は…自分にも判る。
 彼らがこれまで進んできた路を変える事が出来るのならば、とうに変えていた筈なのだから。








 ――― そうしてその戦いは、これまで以上に激しいものとなるだろう。
 そこでは恐らく、一瞬の油断や些細な判断の誤りが、大きな危険を招く事になる。


 そしてその時に、本当に危険に晒されるのは、自分ではなく ―――…。








 そこまで考えが至った瞬間、微かに背筋に冷たい震えが走る。

 あえかな月明かりの元、少女は心許なくも見える表情を浮かべ、佇んでいた。
 ふっと顰められた細い眉の下で、澄んだ色の瞳が迷うように彷徨う。















自分の判断が、もしかしたら護りたいものを…
大切なものを喪わせる事になるかもしれない。








それが、今更ながら恐ろしくなったのだろうか ―――…?
















 思い浮かんだ答えに、あかねは思わず固く瞼を瞑る。
 …反射的に握り込んだ指先は、いつの間にか凍えたように冷たく冷え切っていた。




















【 To be continued…. 】



2002.7.7(FRI)UP.
< Copyright(c) Yuki Kugami. 2002. / Site 「月晶華」 >


 Music by < Antique Shop!! > [ MIDI :“北極星” ]







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