――――― 麗月 ―――――
《 壱 》









…――――― 総ては、儚い泡沫の夢。
そう、いま在るこの「現実」すらも。

かたち有る確かなものでさえ、「時」という絶対の流れの中で、喪われるもの。

…だからこそ、何事にも執着した事は無かった。
そして絶対的な「死」という総ての終焉が予め運命づけられている以上、
「別れ」はそもそも逃れようのない事。
 それに抗う事に何の意味があるのか、と。
そう…思っていたというのに。


――― かたちの無いもの。
曖昧で、変わりやすく、不確かなもの。
決してこの手に掴み、この目に映す事は叶わないもの。


ひとの…想い。


…それを、軽んじていた訳ではない。
ただ、永久に続く事を信じ、願うほどの「何か」が自分に齎されるなどとは思ってはいなかった。
求めても焦がれても手に入れられぬかもしれないものを
それでもなお追い求める、それほどの想いを自分が抱える事になるなどとは。












…――――― 温かな光を纏う、あの少女と出逢うまで ―――――…。












§









 ――― 眩いほどの月光が御簾の隙間から差し込むその房で、友雅は見るともなしに、美しく整えられた土御門邸の庭をただ、眺めていた。

 既に月は中天を過ぎ、日が変わった事を告げている。
 その為、辺りはしんと寝静まり、密やかな虫の鳴き声と時折、さわさわと木々を揺らす夜風の渡る音が響いてゆくばかり。
 その緩やかな風に乗り、甘く芳しい花の薫りが時折、鼻先を掠めてゆく。

 一昨日、玄武の解放と共に齎された久方ぶりの恵みの雨の為か、花も緑も生き返ったかのように、色濃く匂い立っているかのようだった。





 …そんな彼の傍…その肩に軽く凭(もた)れるようにして、一人の少女が彼に寄り添っている。

 つい先程、目醒めたばかりのその少女の大きな瞳は常のような溌剌とした光は無いながらも、穏やかな淡い輝きを灯している。
 月影に照らされるその貌は、昼間、神子としての力を使い果たしたせいもあってか蒼白く、伏し目がちな瞳を縁取る長い睫毛が頬にくっきりと影を落とす様は、常よりも大人びて…儚げに見せていた。






 …と。
 それまで庭へ目を遣っていた友雅が、不意に、安心しきったような柔らかな表情を浮かべ、無防備に自分に頭を預けている少女へとその視線を落とした。

 ――― そして緩やかに髪を掻き上げながら、ふ、と小さく息をつく。



「友雅さん…?」



 彼の洩らした微かな吐息に気がついたのか、少女はそっと躰を離すと、彼の貌を覗き込む。
 …友雅はそんな少女のほっそりとした肩を再び自分の方へと引き寄せると、淡く微笑んでみせた。








 ――― 暫しの間、夜の静寂に漂う沈黙。








「…“火鼠の皮衣”、“竜の頸の玉”、“燕の子安貝”…」








 かたちの良い指先が優しく少女の髪を梳きながら、ぽつり、ぽつりと歌うようにそんな言葉を囁く。
 彼の言葉を聞きながら少女が不思議そうに瞳を瞬かせるのが、深い碧を宿す瞳の端に映った。








 …それは、いつか少女が語った、彼女が生まれ育った遙か彼方の世界の、昔語り。
 月から降り立った姫君が、並み居る求婚者達へ求婚を承ける代わりに、と求めたもの。




 ――― 彼の姫君は、決して手に入れられぬ「物」を男達に求め、その想いを受け容れる事は無かった。




 …けれど。








 友雅は自身の胎(うち)で湧き起こった感情の波に、内心で自嘲する。
 そのまま、月の光を弾く深い蒼の瞳が何処か遠くを見据えるように、月明かりにぼんやりと照らされた薄闇の中を漂った。





 …――― 異界より来たりし斎姫。
 龍神に愛され、その儚げな身に膨大な神力を宿す娘。

 時にまだあどけなさすら覗かせるその面立ちとは裏腹に、今日、いや、もう既に昨日の事となってしまったが…自分達の目の前で怯むことなく白龍を召喚し、その力を以て、対を為す黒龍すら抑えて見せた少女。



 そんな彼女の姿に惹きつけられて、目を離せなくなったのは…何時からだったろう?



 驚くほど素直な心に。
 真っ直ぐな眼差しに。
 優しく癒してゆくかのような気配に。

 知らぬ間に目を奪われていた。



 …そしていま、彼女は自分の腕の中にいる。
 その仄かな温もりは、時に現実に感じるそれとは比べものにならぬ程の熱を彼の胎に齎(もたら)し、翻弄する。





 ――― たとえ、それが罪であろうとも、諦めきれないものがあるのだと。

 そんな想いの真意を悟ったのは、少女に接するに連れ、次第に自身を襲うようになっていった己の胎の「嵐」を自覚してからの事だった…。





「…どうすれば君を留めておけるかと…考えていたんだ」
「友雅さん…」




 囁くように告げられた言葉に、戸惑ったような貌で少女はただ彼の名を紡ぐ。
 友雅には彼女の迷いが手に取るように判った。

 彼女には、大切なものが多すぎる。
 彼女を愛するものも、彼女が愛するものも。
 たとえその中で一番大切なものがあったとしても、その為に簡単に他のものを切り捨てられる筈もない。
 それほどに、彼女は愛され、育まれてきたのだから。…彼の世界で。

 そしてその世界から、何の前触れもなく引き離されてしまったのだから…。








 友雅は静かに瞳を伏せる。
 その奥に、迷いにも似た微かな揺らぎを宿しながら。








――― 狡い、言葉を告げようとしているのだと。
その自覚はあった。


この言葉を耳にした少女が感じるほどに、
恐らく自分の想いは綺麗でも純粋でも優しくもない。








 …それでも…
どうしてもこの腕の中の温もりが…欲しかった。












 友雅は少女を抱きしめる腕に僅かに力を籠めた。
 そんな彼の行動に、少女は反射的に微かに身動ぐ。
 その躰をしっかりと腕の内に閉じ込めたまま、自分の胎に在る烈しい想いなど何も知らない、曇りのない翡翠の眼差しを、己の深い蒼の瞳で正面から、捉える。








「…月の姫」








 そっと、呼びかける。
 その声の深みに潜むものを感じ取ったのか、大きな瞳を見開いて見上げてくる少女を視界に映す彼の唇から、低く抑えられた声音が零れ落ちた。








「捧げるよ。私の「過去」を…君の為に」








 ――― ゆっくりと、月の光に透ける翡翠の双眸が瞬かれた。
 その奥に彼の姿を映し込んだまま。

 桜色の小さな唇が、微かに震える。








「…え?」
「…――― そして…私の「未来」の…総てを」








 告げられた言葉の意味をまだ理解出来ていないらしい腕の中の少女に、覆い被せるように友雅はそう続けた。
 長い睫毛を瞬かせて見上げてくる澄んだ瞳を見つめながら、何よりも強い想いと願いをその内に籠めて、彼は囁く。

 柔らかく…包み込むように。








「連れて行ってくれないか。君の還る場所へ…」








 …少女は大きく瞳を見開いた。
 真摯に見つめる深い眼差しに、すぐには声すらも出せない。




 ――― 彼は、これまでの総てを捨てて、自分と共に時空を越えると、そう、言っているのだ。





「これなら応えてくれるかな?…私の姫君」




 いつもよりも深く、心なしか熱を帯び、掠れているようにも聞こえる友雅の声。
 その腕の中、朱鷺色の柔らかな髪が、夜闇に迷うように、揺れた。




「でも、…だって」
「嫌かい?…それとも私はもう、君にとっては必要ない?」



 優しく穏やかにすら聞こえる問いかけに、少女は弾かれたように貌を上げた。



「…!そんなこと!そんなこと無いです!! …だけど…」
「何?」
「もし…もしも時空を越えたら、もう…」




 …二度と、この世界には還ってこられない…。




 それ以上口にする事が出来ずに、少女はきゅっと唇を噛む。
 だが、言葉にされなかった少女の想いをその表情から読みとったのか、友雅は艶やかに微笑んだ。




「私を生まれ変わらせたのは、君なんだよ?神子殿」
「…わたし?」


 驚いたように翡翠の澄んだ双眸を瞠る少女の柔らかな頬に触れると、友雅はそのかたちの良い指先を緩やかに朱鷺色の髪に絡める。
 その唇に刻まれた微笑が、より深くなった。


「…そうだよ。だから今の「私」には…「過去」はいらない」




 ――――― そして、この腕の中に少女を留めておけるなら、他の何を差し出しても、構わない…。



 甘やかな熱を宿した瞳が、彼の口にしなかった想いを語る。





 少女は魅入られたかのように、ただじっと、その整った貌を見つめていた。
 ゆっくりと…その愛らしい貌に花開くような微笑みが浮かぶ。



 ――― それはこれまで数多の女性を虜にしてきた彼ですら、どきりとするほどに澄んだ微笑。
 その美しさに一瞬声を奪われ、胸に衝撃にも似た震えが走るのを彼は自覚する。





「神子、殿?」





 …思わず、少女に呼びかける。
 そんな彼へ鈴の音のような、柔らかな細い声が返った。








「…名前で、呼んで下さい…」








 凛とした、毅(つよ)い意思の宿るその声音に、友雅はまじまじと腕の中へ視線を落とした。
 しなやかな指先が、何かを確かめるかのように優しい輪郭を描く少女の頬に触れる。



 月明かりの下、仄かに頬を染めた少女は恥ずかしげにそっと貌を伏せる。
 その面に、彼を惹きつけ、そして捉えた柔らかな笑みを湛えたまま。

 …ややあって、彼の耳朶を打ったのは、囁きのような声。








「だって私、もう…皆の「神子」じゃないから…」








 …友雅は、深い吐息と共にゆっくりと瞳を伏せる。
 腕の中の、華奢で柔らかな存在を包み込みながら。








「…あかね…」








 …想いが、溢れ出すかのように。
 ただ一言紡がれた艶やかなその声に、友雅の広い背中に細い腕(かいな)が遠慮がちに廻され、柔らかく彼を抱きしめる。













 ――――― それが、彼女の応え…だった。












To be continued….


2002.6.11(TUE)UP.
< Copyright(c) Yuki Kugami. 2002. / Site 「月晶華」 >










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