――――― 風の宿り ―――――


《 U 》








§









 …その頃、泰明とあかねは糺の森へとやって来ていた。

 泰明に抱き上げられたまま房から出た後、何処までこの状態で連れて行かれるのだろうと何とも複雑な心地でいたあかねの心境を余所に、邸の門の辺りまで辿り着くと意外にあっさりと解放された。
 そうして邸から出た処で何処へ行くのかと訊ねると、彼自身には特に目的地は無かったのか、何処でもお前の行きたい処へ、と言うので、あかねは涼めそうな、ここ糺の森を選んだのである。






「いつ見ても、不思議な感じのする樹ですよね…」






 森の奥まった処に在る、ひときわ立派な古木を見上げながら、感嘆したようにあかねが細く吐息を洩らした。




 ――― 連理の賢木。


 別々の場所に根差した二本の樹の幹が、途中から寄り添い合うようにして一つに合わさっている、青々とした枝葉を湛えた古い大木。
 その不思議な姿から神木とされ、さらに賢木の在るこの糺の森自体も神域とされているせいか、辺りに漂う空気さえもが透き通り、涼やかに澄んでいるような独特の雰囲気を醸し出していた。

 …いつかの泰明のように、賢木の「聲」を聴く事はあかねには出来なかったが、それでも普通の樹とは違う、目には見えない力の気配のようなものは感じられる気がする。



「何だか、すごく落ち着く感じがする…」



 声も無く賢木の姿に見入っているあかねの様子を傍らで見守っていた泰明は、ぽつりと零れ落ちたその言葉に微かに目元を和らげた。
 そしてゆっくりと一つ頷く。



「 ――― そうだな。賢木の気ならば、お前の助けになるだろう」
「…?」



 不思議そうな貌で、問いかけるかのように大きな翡翠の双眸が見返してくる。
 泰明はそんな彼女の手を引いて賢木のすぐ傍まで歩み寄った。


「神子、樹の幹に手を当ててみろ」
「手? …ですか?」
「そうだ。それから心を静め、余計な事は考えず、ただ賢木に触れている事だけを意識しろ。…後は、賢木に委ねていればいい」
「…? はい」






 あかねは内心、首を傾げながらも、遙かな高みまで枝を伸ばした賢木を見上げると、素直に大樹の幹にそっと掌を添える。
 それから、ゆっくりと瞳を伏せた。









 涼気を帯びた爽やかな風が吹き抜け、額にかかる朱鷺色の柔らかな髪をさらさらと撫でてゆく。
 その風に、頭上を覆うように生い茂る深緑の梢が枝葉を揺らした。








 ――― さわさわさわ…という密やかな葉擦れの音が静かに自分の胎に染み入ってくるようで、あかねはただその音に聞き入っていた。








 …耳に届く微かなその音は、あかねを誘うかのように、優しい音色を響かせる。








 遠く…そして近く。








 その響きに導かれるように、心の中が穏やかに凪ぎ、次第に無心になってゆく。
 それと同時に、幹に添えられた掌がじわりと優しい熱を帯び、ゆっくりと指先から躰の奥へと浸透してゆくのが感じられた。


 …それはまるで、樹の鼓動と体温を感じているかのような、不思議な感覚だった。












「…上手くいったようだな」












 ――― 傍らから響いた、落ち着いた低く透る声に、あかねは夢から醒めるようにふっと我に返った。

 ゆっくりと瞼を明けると、眩い午後の陽射しが木漏れ日となって瞳に飛び込み、あかねは思わず眩しさに目を細める。
 その明るさに慣れてゆくに連れ、淡くぼんやりとした翠に色づいていた色彩が段々とはっきりとした景色をその視界に甦らせる。


 …その頃には、いつの間にか朧気になっていた葉擦れの音も、現実の音として捉えられるようになっていた。





「お前の気も充分回復している。もう、いいだろう」



 まだ夢見心地のような感覚のまま振り返ったあかねに、泰明が柔らかな表情を見せる。
 そう言われてみて、確かに冴えなかった意識がはっきりとし、気分も良くなっている事にあかねは気がついた。
 頭がどことなく重く感じられるような気怠い気配も、綺麗に消えている。



「…躰が軽くなったみたい…」



 瞳を瞬かせながら、小さくあかねは呟く。

 …その感覚は、かつて一度、上賀茂神社で泰明に気を馴染ませてもらった時のそれとよく似ていた。


 するとあかねの抱いたその感覚に答えるかのように、泰明が口を開く。



「気が澱むと、新たに気を取り込んで廻らせる事が出来なくなり、消耗する。気が消耗すれば胎内の陰陽の均衡が崩れ、穢れも呼び込みやすくなるのだ。…先程まで、お前の気は僅かだが滞っていた」
「それで、「気が消耗してる」って…じゃあ、あの時は気を探ってたんですね」


 泰明の言葉に、彼が掌を自分の額に当てていた時の事を思い出し、あかねは納得したように頷いた。
 そんな彼女に、泰明は瞳を細め、口元を和らげてみせる。


「ああ。それに話をしている時、お前の笑顔にいつものような輝きが無かった」
「………」


 臆面も無く言われた言葉に、あかねは何と答えてよいのか判らなかった。
 …そのまま何となく、視線を彷徨わせてしまう。



(う、嬉しいのは嬉しいんだけど…)



 ――― 何だかひどく恥ずかしい。



 胸の中で言葉にして意識した途端、貌が熱くなり始めるのを感じる。




 気を読むばかりでなく、そんな表情までしっかりと見られているとは思わなかった。
 けれどそれは裏を返せば、それだけいつも自分の事を気にかけて、見つめていてくれるという事で…。


 そう思うと、言葉にされない泰明の優しさと気持ちが伝わってくるようで、くすぐったいような感覚を覚える。




「もしかして、急に外に連れてきてくれたのもその為…?」



 ふっとあかねは貌を上げ、泰明の方を見上げる。


 …と、何故か彼は一瞬、口を噤んだ。
 琥珀色の視線が僅かに逸らされる。



「…それもある」
「も?」



 いつもはっきりとものを言う彼にしては珍しく、何やら言い淀む様子にあかねは訝しげに眉根を寄せた。
 …が、泰明は何でもない、と緩く頭を振り、それ以上の事は口にしなかった。


 そのまま、陽に透ける双眸を賢木の方へと向けると、その深い色を宿す緑の梢を仰ぐ。



「 ――― 龍神の神子の務めを終えたとは言え、お前の胎の神力も万物に愛される性も少しも変わりはない。望めばいつでも、自然に宿る五行の力もこの賢木のように神性を持つものも、皆、お前に力を貸すだろう…」



 静かな響きの声が零れる。
 まるでそれを肯定するかのように、緩やかな風がさらさらと涼やかな音を立てて、泰明の長く艶やかな翠緑の髪を靡かせてゆく。

 その様をじっと視界に映しながら、語られた言葉の意味を染み込ませるかのように、あかねは大きな翡翠の瞳を瞬かせた。




 自分の胎に在るという神力がどれほどのものなのか、はっきりとはあかね自身には判らない。ただ、其処に清浄で強い力の気配を感じる、それだけだ。
 けれど、泰明を始めとして八葉や星の一族である藤姫は、神子である自分の力が上がるに連れて、自分達の力も上がってゆくのを感じると言っていた。
 その事からすれば、あかね自身よりも彼らの方が彼女の持つ神子の力、というものをはっきりと感じ取っているのかもしれない。




「…あ、だからまだみんな、私の事を「神子」って呼ぶのかな…」
「…?」


 ふと思いついたように洩れたあかねの声に、泰明は振り返ると意味を量りかねたように眉根を寄せた。
 見つめる先の翡翠の瞳は、考えを廻らせているらしく、くるくると動いている。


「だって、私、もう神子じゃないのに、泰明さんも他のみんなも「神子」って呼ぶでしょう? …だから」


 今も自分の事を「神子」と呼ぶ彼らに、名前で呼んでくれて構わない、と言った事はある。
 けれど、初めから「あかね」と呼んでいた天真や詩紋、イノリはともかく、他の面々に至ってはそつなくさらりと「あかね殿」などと呼んでみせたのは友雅くらいで、後は皆、何処か戸惑ったような貌をしていた。
 そんな様子から、初めから自分の事を「神子」と呼んでいた彼らは、すぐに呼び方を変えるのは躊躇われるのかもしれないと思い直し、あかねはそれ以上のことは言わずにいたのだ。



 ―――― と、そんな事を考えていた彼女の視線を琥珀色の瞳が真っ直ぐに捉えた。



「…名を呼ばれぬ事を気にしていたのか?」
「えっ?」



 思いもかけない質問にあかねは一瞬、きょとんとする。
 だが、じっと注がれる眼差しの奥に僅かに揺れる色があるのを目にして、慌てて首を振って見せた。


「…ううん、気にしてたってほどじゃないですけど。でも名前を呼んでもらえると嬉しいし、何だか特別な感じがするから。…そのひとを近くに感じるっていうのかな…」


 言いながら照れてきたのか、言葉の端は恥ずかしげな笑みの中へと消える。



 …無理に、とは言わない。
 「神子」と呼んではいても、今はきちんと「あかね」を見てくれている事は知っている。

 けれど自分の大好きなひとが、大好きな声で呼んでくれる自分の名前を、いつかは聞きたい…とも思う。



「…そうか」



 胸の胎だけで囁かれた想いを知ってか知らずか、泰明はただ一言、そう呟いた。
 その瞳がすっと伏せられる。



 ――― 名を呼びたいと、思わなかった訳では無かった。
 自分が必要としているのは、総ての存在に微笑みかける「神子」ではなく、「彼女」だから。

 その一方で、「名」という詞の齎す力を思うと、その想いのままに名を呼ぶ事が躊躇われたのだ。





 …――― だが考えてみれば、きっと彼女の何よりも自由な魂は、そのようなものには縛られまい…。





 湧き起こった感慨に、泰明は微かに苦笑する。
 それは安堵のようであり、同時に微かな焦燥を覚えさせるものでもあった。




 …そう。
 自分が彼女に囚われているのと同じくらいに、捉えられるものなら捉えてみたいと、心の何処かで確かに思ってもいるのだから。




 そんな想いを秘めたまま、泰明は目の前の自分を見上げて佇む少女の瞳を、陽に透けて金にも見える琥珀色の瞳で ――― 捉える。








「…あかね」








 そっと、囁くように真名を紡ぐ。












 ――― その、瞬間。

 あかねは驚いたように、その澄んだ翡翠の瞳を大きく見開いた。
 ゆっくりと瞬かれる長い睫毛が白い頬に影を落とす。

 …そして仄かに頬を染めながら、少女は零れるような微笑を浮かべた。
 幾重もの花びらを持つ真白の花が、綻ぶかのように。








 目にしたその微笑みに、泰明は一瞬、目を奪われる。












「泰明さん?」








 柔らかな声にふとはたと気づくと、呼びかけたきり、こちらを見つめたまま無言でいる様子が気にかかったのか、あかねが何処か落ち着かなげな風情で小首を傾げていた。


 …泰明は瞳を軽く伏せながら、小さく嘆息する。
 そして徐に自分を見上げている少女の背へ腕を回し、抱き寄せた。


「や、泰明さん…?」


 不意を衝かれて戸惑いながら身動ぎする彼女へ視線を落とし、泰明はやや不機嫌そうに眉を顰める。



「…他の者には、お前の名を呼ばせるな」
「な、なんで?」



 訳が判らずにおろおろと見返してくる少女を抱きしめる腕に力を籠めると、泰明はその滑らかな頬に貌を寄せる。


 そのまま、暫し躊躇うかのような僅かな沈黙が落ち…そして。








「…「あかね」を呼ぶのは、私だけでよい」








 …ぽつり、と。
 抑えられた声音が返る。

 見上げている先、視界に映る端正な容貌に仄かに赤みが差しているのを見て取って、その深意を悟ったあかねが一瞬、きょとんと翡翠の瞳を見開いて絶句した。

 それからまだ赤みの残る貌を俯けると、口元を押さえて肩を震わせ始める。



(や、泰明さんてば、可愛い…)



 ひとを惹きつける魅力を存分に持っているのに、そういった事には何処か疎い観のある泰明。
 そんな彼に自分がやきもきするならまだしも、まさかあの泰明から、そんな事を言われる日が来ようとは。


 ――― 本当に、勝てない。




 …藤姫や他の八葉達が聞いたなら何も判っていないと嘆息しそうな事を考えつつ、あかねは何とか笑いが洩れるのを堪えようと必死になっていた。

 一方、そんなあかねの内心など露とも知らず、泰明は面白くなさそうに眉を寄せると、ふいっと視線を逸らしてしまう。




 理性では、愚かな事を言っていると解っている。
 だが、あのように無防備な微笑を他の者にも向けるのかと想像しただけで、一瞬、堪らない心地がしたのだ。

 …この分では今日の事にしても、友雅の気配を感じたから邪魔をされるのが嫌で連れ出したのだなどと判れば、今以上に笑い出すに違いない。




「…いつまで笑っているつもりなのだ」
「ご、ごめんなさい」




 なかなか笑いの衝動の治まらないらしいあかねにさすがにむっとしたのか、はっきりと顔を顰めたまま、じろりと泰明が少女を見遣る。
 そんな彼に慌てて謝ると、あかねは目尻に浮かんだ涙の雫を指先で払った。



「泰明さんがそんな事言うなんて思わなかったから、ちょっとびっくりして…」
「………」


 更に憮然とした表情になった泰明に、重ねるようにあかねが続ける。


「でもね、嬉しかったんです」



 それを聞くと、泰明は何か言葉を探すように視線を揺らしたまま、黙り込んだ。

 そんな泰明の背中へ不意にほっそりとした腕(かいな)を伸ばし、あかねはそのままきゅっと彼に抱きつく。
 戸惑ったように華奢な彼女の躰を抱き留めた泰明が自らの腕の中に視線を落とす中、柔らかな表情で彼の胸に顔を埋め、あかねはそっと呟いた。








「…他のひとが呼んでくれない分、泰明さんがちゃんと名前で呼んで下さいね?」








 …その言葉に、不意を衝かれたように泰明が琥珀色の瞳を瞬かせた。

 ややあって、その整った怜悧な容貌に、ふわり、と辺りの空気も和らぐような微笑みが浮かぶ。





「…判った」





 あかねの願いを噛みしめるかのように。
 瞳を伏せたまま、吐息のように柔らかな声が零れ落ちる。

















真名を音にして紡ぐのは、この世で最も短く、強力な呪。
その一言で、相手の存在そのものを縛る事が出来る。

――― その奥底に籠められた想い、そのままに。




…だが、その名を呼ぶ度に、
囚われているのはむしろ自分の方なのだろうと思う。




自分が紡ぐ彼女の真名に、少女は極上の微笑みを返す。
他の誰にも見せる事のない、自分にだけ向けられる、微笑。
そして自分の胎に齎される、柔らかく優しい熱の漣。


それを自覚する度、より強く、深く心が囚われる。

















 …泰明はゆっくりと瞳を開く。
 琥珀の双眸に映るのは、仄かに頬を染めたまま、はにかむような微笑を浮かべ、輝く瞳で見つめ返すあかねの姿…。

























――――― そして。


互いの真名へと籠められた想いは、微笑みと共に唯一人の元へと還る ―――――…。




























【 FIN. 】









2002.6.7(FRI)UP.
< Copyright(c) Yuki Kugami. 2002. / Site 「月晶華」 >





このお話は、実は先日「Milk Cafe」の美永 綺羅さまから戴いた
「五月のデート」のイラストを見て思いついたものだったりします。

…と言っても、イラストのイメージそのままではなくて、
その時に感じた気持ち…のようなものを書いてみたくなったのです。
(…だから京編…。(苦笑))

拝見した時にすごくほっとしたというか…癒されるような優しい気持ちがしたので、
そういう気持ちになれるような「笑顔」はどんな感じなんだろう、というのと
そんなほっとするような空気を読んだ方に感じて戴けたらな…
というのを実は狙ってみたりしたのです。


…が。

本当にそれは成功したのでしょうか…(涙)。


このお話は、思いつくきっかけになった素敵なイラストを
快くお持ち帰り&UPさせて下さった美永 綺羅さまに差し上げますv


2002.6.10(MON).
TO. 美永 綺羅さま。
(お誕生日おめでとうございますvv)


FROM. 陸深 雪







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