‡ ――――― 風の宿り ――――― ‡
《 T 》
§
(…暑い〜…)
ぽつり、と胸の中でそう零すと、あかねは目の前に座しているひとに気取られぬよう、綺麗に背筋を伸ばしたまま、こっそりと御簾越しに外の様子を窺った。
――――― 時は既に皐月の頃。
現代の感覚で言うなら既に六月の初旬を迎え、そろそろ梅雨の気配も感じられるようになっている。
とは言え、視界の端に映る、午(ひる)過ぎの霞んだような筋雲の漂う淡色の空は晴れ上がり、雨の気配など欠片も無かった。
加えて、風と呼べるほどのものは先ほどからそよとも吹かない。
その為か、辺りにはじっとりと湿り気を含んだ空気がたゆたっていて、ただ座っているだけでもじわじわと汗ばんでくるようで、実際の気温よりも暑苦しく感じられた。
…現代に比べれば、この時代の建物は風通しが良いように出来ているとは言っても、四方を御簾や壁、衝立代わりの几帳に囲われていてはそれで凌げる暑さにも限界がある。
ここの処一週間ばかり続いているこんな蒸し暑さのせいで、暑気当たりとまではいかなくとも些かぐったりとした様子のあかねを見かねて、藤姫は夏用の装いであるという、羅や生絹(すずし)の衣を取り出して勧めてくれたりもしていた。けれどいくら薄織とは言ってもどうにも重ね着をする気になれず、結局それは遠慮していたのだ。
その代わりに何とか薄織の水干にスカートといういつもの出で立ちを許してもらったのだが、…それもこうも蒸してくると、あまり意味が無いような気がしてくる。
(…こんなことならいっそのこと、外の木陰にでもいた方がずっと涼しいかも…)
思わず埒も無い事を考えて、あかねは小さく息をつく。
いまや仮にも左大臣家の姫として迎えられている自分が、そうそうおいそれと外を出歩く事を許してもらえる筈もない。
無断で外になど出ようものなら…後々、耳に痛いお小言を片手の指では足りないほど多くの面々から頂戴するだろう事も目に見えている。
…京が現代に比べればずっと不便な事は承知していたつもりだったが、こう、鬱々としてくると何だか少しめげそうな気分になった。
…が。
そこまで考えて、あかねはそっと先ほど訪ねてきてくれたばかりの「彼」の様子を窺う。
元々、そういった事が苦にならない質なのか、それとも慣れてしまっているのか…翠緑の艶やかな髪を綺麗に結い上げた「彼」 ――― 泰明は、常と変わらぬ一部の乱れもない涼しげな風情で円座に座っている。
そんな様子は凛と澄んだ空気を纏っているようで、いつ見ても少し羨ましいと思う。
その半面、そこに彼がいてくれるというだけで、自然に貌が綻んでくるのも事実だった。
今日は特別に逢う約束をしていた訳ではなかったが、忙しい仕事の合間を縫って、いつもこうして逢いに来てくれる。そんなさりげなさがとても嬉しかった。
――― そう、だからこそ、せっかくの時間を暑さくらいの事で無為に過ごしている場合ではないのだ。
(駄目だ、こんな事で音を上げてちゃ。この程度の暑さくらい、どうってことないんだから! 判っててそれでも京にいたくて残ったんだし…!!)
そう思い直し、あかねは心の中で気合いを入れ直す。
そうでなくとも気配に聡い彼の事、この調子でぼうっとしていては、大した事もないのに却って余計な心配をかけてしまう。
…とそこへ、あかねの方を見据えたまま、今までずっと沈黙していた泰明が声をかけてきた。
「…神子」
「はい?」
「大事ないか」
…やはり、ぼんやりとしていた事には気づかれているらしい。
向けられる瞳の奥に探るような気配を感じ、あかねは慌ててこくこくと頷いた。
「大丈夫です。元気ですよ、私」
だが、その返答を聞いた泰明は、眉を顰めると溜息をついた。
どことなく呆れたような、だが案ずるような、微妙な気配が漂う。
「…無理をしているだろう」
泰明の指摘に、笑顔を浮かべたまま、あかねの貌が固まった。
…鋭い。
いや、よくよく考えてみれば、気を読む事の出来る泰明を誤魔化そうという方が、大それた考えだったのかもしれない…。
「ええっと…最近ちょっと暑かったから…。でも、別に具合が悪い訳じゃ…」
琥珀色の双眸が、じっと自分へと注がれているのを感じながら、あかねは俯き加減で決まり悪げにぽつぽつと言い訳をする。
そしてちらりと泰明の貌を見上げた。
――― こんな曖昧な理由で泰明が納得してくれるかどうかは、かなり怪しい…とこれまでの経験が訴えている。
けれど嘘をついている訳ではないし、他に言いようもないのだが…。
…案の定、と言うべきか、泰明は難しい貌をすると、不意にあかねの方へと腕を伸ばした。
そのままきょとんとしている少女の朱鷺色の柔らかな前髪を掻き上げると、額に掌を当てる。
「泰明さん?」
「…気が消耗しているな」
「え?」
独り言のように洩れた声に、思わずあかねが問い返す。
それに答えようとした泰明が、ふと何かに気がついたかのように急に口を閉ざした。
すっとあかねの額から手を離し、濡れ縁の方へと貌を向けると、流麗な弧を描く眉が更に顰められる。
…やがて引き結ばれていた唇から、小さな吐息が洩れた。
「神子、出られるか?」
するりと音も立てずに立ち上がり、あかねへと視線を戻すなり泰明がそう問いかける。
突然の質問に一瞬戸惑いつつも、その言葉の意味を捉えると、彼女は小首を傾げた。
「外へ? 今すぐですか?」
「ああ」
「…もちろん行きます!」
降って湧いたかのような言葉に、あかねはぱっと嬉しそうに笑って、一も二もなく頷いた。
それから、あ、でも藤姫にも訊いておかないと…と言いつつ自分も立ち上がり、くるりと少し離れた位置に控えている藤姫の方を振り返ろうとする。
…と。
不意に腰を強く引かれ、躰の重心が揺らぐのをあかねは感じた。
かと思うと、ふわり、と躰が軽くなったような感覚を覚える。
(…あれ…?)
何が起こったのか理解する間も無く、気がつくと柔らかな陽射しを映して輝く琥珀色の双眸が間近にあった。
あかねは驚いて、声も無く、ただ翡翠の大きな瞳を瞬かせる。
「藤姫、暫しの間、神子を借り受ける」
半ば茫然と硬直しているあかねを腕に抱き上げた泰明が、急いで傍までやって来た藤姫に振り向きざまに一言、断りを告げる。
その姿を目にした藤姫は、呆気にとられたように瞳を瞠っていた。
だが、これまでの経験で泰明の些か唐突とも思える言動に慣れているのか、心得た様子であかねの履物を女房に持って来させ、泰明へと手渡した。
そしてにっこりと可愛らしく笑う。
「神子様、泰明殿、どうぞお気を付けて」
その声が届くか届かぬかの内に、泰明はあかねを抱き上げたまま房を出、階を降りると、大路に面した門とは逆の方向へすたすたと歩いてゆく。
…その時になって漸く、はた、と自分の状況を悟ったあかねが真っ赤に貌を染め、焦って抗議し始めた。
「や、泰明さん! なんで…」
「黙っていろ。行くぞ」
「あのっ、私、自分で歩けますっ」
だから降ろして〜、と身動ぎしつつ必死に言い募るあかねにちら、と泰明が視線を投げる。
「大人しくしていないと落ちるぞ」
「………」
抗議など全く意にも介さぬ様子でさらりと切り返されて、あかねは貌を赤らめたまま、ぐっと詰まった。
何やら泰明が気が急いているらしい事は雰囲気や口調の端々からあかねにも見て取れるのだが、その理由はというと全く思い至らない。
それに、今すぐには理由を話してくれそうな様子でもない。
しかし正直な所、こうして抱え上げられているのはかなり恥ずかしい。
…が、かと言ってまさかこれ以上、降ろして欲しいと言って暴れるのも躊躇われるし、せっかくの二人での外出の機会をふいにしたくはないし…。
……………。
あかねはどう反応すべきか悩みつつ、あれこれと考える。
そんな内心の葛藤を見透かすかのように、琥珀の瞳がくるくると変わるあかねの表情を見つめる。
その真っ直ぐな視線に気づき、戸惑ったような貌をする彼女に、泰明が駄目押しのように再び口を開いた。
「それとも、外出は止めるか?」
「……………行きますっ」
僅かの沈黙の後。
まだ何か言いたげな様子ではあったが、少し頬を脹らませながらあかねが小さくそう答えた。
――― 途端、間近に映る泰明の貌がふっと柔らかく綻ぶ。
その滅多に見る事の出来ない全開の優しい微笑の前に、あかねは不覚にも見惚れてしまった。
(…――― 負けた…)
あんなに綺麗な笑顔を向けられて、勝てる訳がない。
あかねは嬉しいような気恥ずかしいような複雑な気分のまま、とうとうそう観念する。
…そして結局、彼女は訳の判らないまま、それ以上何も言えずに大人しく泰明の腕の中に収まっているしかなくなったのだった。
§
「 ――― まあ、友雅殿。いつこちらへ?」
泰明に抱き上げられたあかねの姿が、土御門邸の広大な庭の端を横切って視界から消えてから、暫くの後。
こちらもまた、何の前触れもなくあかねの房を訪れた友雅に、藤姫が菫色の瞳を見開いて小首を傾げた。
そんな藤姫の問いには答えないまま、友雅は緩く波打つ緑髪を背に流し、いつものように柔らかな微笑を湛えて佇んでいる。
「ここの所、神子殿が沈んでいるようだったから、慰めになれば…と思ったのだけど」
そう言いつつ、優雅に前髪を掻き上げる友雅の片手には、琵琶が携えられていた。
…が、その口調から察するに、藤姫の表情や辺りの状況から既にあかねの不在を悟っているらしい。
すっ、と少しばかり前に二人の消えていった庭の奥の方を見渡すと、彼はその端正な貌に艶やかな、だが面白がるような色の混じった表情を浮かべた。
「どうやら、一足先に特効薬が来たようだね」
「…え? ええ。つい先ほどまで泰明殿が…」
一瞬、友雅の問いかけの意味を量りかねたらしい藤姫が僅かの間の後にそう答えると、友雅は、これは逃げられたかな?と呟く。
だが、その口調とは裏腹に、彼は愉快そうにくつくつと忍び笑いを洩らしていた。
「やるね、泰明殿も」
「友雅殿…」
そんな感想を洩らす彼の様子に大きな菫色の瞳を瞬かせた幼い姫君は、ややあって手を頬に添えながら、ほう、と小さく溜息をついてみせる。
…泰明が急にあかねを連れ出した理由に、何とはなしに見当がついたのだ。
「友雅殿はいつもお二人をおからかいになるのですもの。お戯れが過ぎますわ」
「おや、人聞きの悪い。あれは単なる親愛の情、というものなのだけれどね」
「…そのお言葉、泰明殿に聞かせてさし上げたいですわね…」
一体どんな貌をなさるかしら、と吐息混じりに零す藤姫。
姉とも慕うあかねと一日の大半を共に過ごしている藤姫は、何かというとあかねを赤面させたり、泰明に煙たがられたりするような言動をとる友雅の姿を幾度となく目にしているだけに、知らず知らず窘めるような反応を返してしまう。
確かに友雅には別段、悪気は無いのだろうが…真っ直ぐな二人の反応を楽しんでいる節があるのは、どうにも否めないように思える。
――― 幼いながらも実年齢以上に大人びた星の姫に、自分の対の八葉のような生真面目な口調と非難の色の混じる瞳を向けられ、友雅はようよう、笑いを治める。
そしてまあまあ、と小さな少女を宥めると、その場に優雅な仕草で腰を下ろした。
肩口から零れ落ちる髪を払うと、長くかたちの良い指先が、一つ二つ、と琵琶の弦を爪弾く。
「では、今日は星の姫君に一曲、奏しましょうか」
…穏やかな微笑と共に告げられた言葉に、藤姫は今度は年相応の可愛らしい無邪気な笑みを浮かべて見せた。
【 To be continued…. 】
*註:「風の宿り」…風をひとに喩え、風が留まる処を指す表現。(旺文社・古語辞典より)
2002.6.7(FRI)UP.
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