――――― 去りゆく時の為に ―――――










§








――― ゆるやかに。
そして密やかに。


触れてくる、もの。





…近くから。
そして遠くから訪なう、柔らかな…。
けれど何処か切ない、その空気。


それは時に彼女を誘い、
時に彼女を呼び求める。


…まるで、寄せては返す、波のように。
捉えようとしても、指の合間をするりと擦り抜ける。





そして。





…――― ぽつん、と。
伸ばした指先に温かなものが零れ落ちるような感覚を残し。








総てが、靄の彼方へと消えていった…。








§










《 第壱章・〜 囁くもの 〜 》
― 壱 ―









§









「 …――― 様、お義姉様!」








 普段はおっとりと言葉を紡ぐ、けれどいまは幾分強い調子で響く鈴の音のような声に引き上げられるように、あかねははっと瞳を開けた。


「 …―――…?」


 瞬間、飛び込んできた白く眩しい光に、反射的に目を眇め…二度、三度とその明るさに慣らすようにゆっくりと瞬きをする。

 少しずつ、はっきりとし始める視界に映るのは、綺麗な年輪を描く板張りの見慣れた天井。
 既に掲げられた蔀戸から、細かく編まれた御簾越しに陽の光が房の中程までも差し込んで来ている。

 辺りの明るさから、日が昇ってから既にそれなりの時間が経っているだろう事を悟り、一瞬、眉を寄せたあかねは、不意に自分を起こそうとしていた声の幾分慌てた響きを思い出し、勢いよく飛び起きた。
 そのままぐるりと周囲を見渡し、彼女は自分のすぐ傍に控えている小さな人影に目を留める。


 …向けられているあどけない貌は、唐突に跳ね起きたあかねに驚いたのか大きな瞳を見開いていて、彼女は苦笑を浮かべると決まり悪げに視線を泳がせた。


「あの…もしかして私、すごく寝坊しちゃった…?」


 ぽつり、と呟くと、額に指を添えながら、あかねは自分に声をかけた幼い少女 ――― 藤姫の方を振り返る。


 こちらの世界は、朝の目覚めが早い。
 京に来たばかりの頃は、初めて訪れた地のそんな習慣に慣れずにいたのと、神子として毎日、歩き回っていて疲れていたのとでなかなか起きる事の出来ないあかねを起こすのは、朝の挨拶にやって来る藤姫の仕事だった。
 そしてあかねが神子としての務めを終えた今も、藤姫の朝の挨拶はそのまま習慣となって続いている。

 とは言え、流石にそんな暮らしにも慣れてきていて、近頃は彼女が房にやって来るまで目が覚めない、などという事は、滅多になくなっていたのだが。


 そんなこんなでなんとなく恥ずかしいような心地でいたあかねに、藤姫は何処かきょとんとした貌をし、大きな菫色の瞳を瞬かせた。
 そして、くす、と小さく笑う。


「いいえ。そんな事はありませんわ。いつもよりも少し早いくらいですもの」
「え?そうなの?」
「ええ」


 …それにしては、起こす時の呼び声が慌てていたように聞こえたのだが。


 首を捻るあかねの内心を余所に、藤姫は続けて何か言おうとし…不意に小さな片手を口元に当てると、先を口にする事を躊躇うように言い澱む。
 普段の朝とは違うその様子に、あかねは今度こそ首を傾げた。


 先ほどの事といい、今のこの表情といい…何か、口にし難いような困った事でもあるのだろうか。


「藤姫? どうかしたの?」


 優しく促すかのように、目の前の星の姫…今は義妹となった幼い少女の顔を覗き込む。
 すると藤姫は、もう数呼吸分ほど逡巡した後、心配げな面持ちであかねの顔を見上げた。
 その小さな両手は胸元できゅっと握られている。


「…あの。お義姉様、何かお悩み事がおありなのですか?」
「え?」


 予想外の藤姫の言葉にあかねは唖然として瞳を見開いた。

 …確かに「悩み」というものが全く無い、などとは言えない。
 しかしそれはどれも、ちょっと退屈、だとかそういった類の些細なものだ。藤姫にこれほど深刻な表情をさせるほどの悩みなど、思いつかない。


「何も無いよ。どうして?」


 小首を傾げ、訳が判らないという顔をするあかねに、藤姫は表情を曇らせる。


「何か…魘(うな)されていらっしゃったでしょう?それに…」


 そこで藤姫は言葉を切ると、気遣わしげな様子であかねの貌を見上げる。
 その菫色の瞳が自分の顔、というよりは目の辺りをじっと見つめている事に気がついた瞬間、あかねは目尻のあたりに、僅かに攣れるような違和感を感じた。

「…?」

 その奇妙な感覚を不審に思った彼女は、そっとその場所に指をやる。
 指先に触れるのは、何かが乾いた後のようなざらりとした感覚。それを少しずつ辿ってゆくと、頬の辺りにまだ確かに濡れた感触があった。

 あかねは頬に指を当てたまま、不思議そうに首を傾げる。


「涙の、痕…?」


 思わずそう呟いてから、あかねは漸く藤姫の問いかけの理由を理解した。
 そして、少女が何故、それを深く問いつめる事を躊躇ったのかも。

 ――― だが、昨夜からこれまで、泣く事はおろか涙というものを流した事自体、全く覚えが無い。
 それとも、ただ自分が覚えていないだけで、何か恐い夢か悲しい夢でも見たのだろうか。


「夢…」


 ふと自分が口にした単語に何か引っかかりを覚え、あかねはぽつりとその言葉を繰り返す。





 ――― 夢、だとはっきり言っていいのかどうかはわからない。
 そもそも見ていたとしても、内容自体全く覚えていないのだから。

 だが、夢現のような感覚の中で、微かな…消え入りそうな気配を感じたような気がする。
 心に染みいるような…胸が詰まるような、そんな空気を。
 そして指先に温かな濡れた雫が零れる感触を…。





 あの時、自分の指に触れたと感じたものは、現実に流した自分の涙だったのか。それとも…。





 …そこまで考え、あかねは思わず眉を顰める。

 今し方思い出したその感覚をもっとはっきりと思い起こそうにも、頭の中は霧に霞んだようにぼんやりとしていて、どうにもままならないのだ。朧に漂う、記憶…というにはあまりにも頼りない何かを掴もうとしても、泡のように弾け、消えてゆく。




 どことなく頭が重いような感触にあかねは眉根を寄せると、それを振り払うかのように、両の瞳を閉じて掌を額に押し当てた。
 桜色の唇から溜息にも似た細い息が零れ、少女はゆるゆると小さく頭(かぶり)を振る。



「…お義姉様?」



 先ほどよりもずっと近くで響いた声に、はっと貌を上げたあかねは、その時になって藤姫がすぐ傍で自分を見つめている事に気がついた。
 それ以上、小さな義妹姫の貌を曇らせたくなくて、心配そうな色を宿して向けられている大きな菫色の瞳に、大丈夫、と頷いてみせる。

 しかし藤姫は、それ位では納得出来なかったらしい。
 これまでにも周囲に心配をかけない為に、とあかねが無理をしていた事がままあった事を、藤姫はよく覚えているのだ。
 恐らくは今回もそうなのでは、と思っているのだろう。



「大丈夫、と仰られても…お義姉様、夢をご覧になったのですか?」
「…うん、多分…ね。よく覚えてはいないんだけど…」



 ゆらゆらと…意識が緩やかに寄せては返す、波の合間を漂っていたかのような、不思議な感覚。

 自分が目醒める前に感じていたものは、夢現の中で夢を見ている、そんな感覚だったのだろうと思い、あかねは小さく頷いた。

 しかし、そうは言ってみたものの、自分自身、はっきりとした確信を持てない為、あかねの口調は何処と無く歯切れの悪いものになる。



「では、魘されていらしたのもそのせいかもしれませんわね…。もしや、何か良くない夢想だったのでは…」



 あかねの答えに余計に憂いを深めてしまった藤姫が、ふう、と溜息をつく。
 そんな心配性な小さな義妹姫をどうやって宥めようかと、あかねは頭を悩ませた。




 ――― 「夢を見た」、という事に藤姫が拘る理由自体は、判らなくもない。
 この世界では、「夢占」などという言葉もあるように、夢はその内容によって吉凶を判断する、重要な要素とされている。実際、悪夢を見れば「夢違へ」という呪いを施し、災いを避けようとするほどなのだ。

 しかもあかねは神子であった頃から、時折、予知夢のようなものを視る事があった。
 それに加えて、自覚は無かったとは言っても夢を見ていたらしい状態で、涙を流しながら魘されていた、とあっては、藤姫が心配するのも致し方ない事とも言える。




 …けれど。




「でも、見たかどうかもあんまりよく覚えてないくらいだから、何てこと無いよ、きっと」
「…そうだと良いのですけど…」
「藤姫、本当に大丈夫だから、そんなに心配しないで。それに特に嫌な感じはしなかったし」


 ね?と駄目押しのように笑いかけるあかねに、藤姫は少し困ったような貌をする。



「お義姉様がそうまで仰るのなら…。でも、何かありましたら必ず、教えて下さいませね」



 それ以上の事は訊ねないながらも、そんな風にしっかりと釘を差されて、あかねは思わず苦笑する。



「判ったよ、藤姫。その時は必ず相談するから」



 あかねの答えに、藤姫は漸く、可愛らしい笑みをその小さな貌に浮かべた。



















【 To be continued…. 】




*註:「夢想」…夢の中で神仏の諭しを受ける事。夢のお告げ。(旺文社・古語辞典より)




2002.6.1(SAT)UP.
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