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「何だか、暑くなってきたな〜…」
綺麗に晴れ上がった空を見上げつつ、可愛らしい澄んだ響きの声が、誰にともなくそう呟いた。
視界いっぱいに広がるその色が眼に染み入るようで、「抜けるような青空」の「青」とは恐らくこういう色を言うのだろうなどと、何となく考える。
…遠くを見透かすかのような澄んだ色合いの瞳が、降りかかる陽の光に眩しげに細められ、ほっそりとした華奢な指先が、首筋にまとわりつく朱鷺色の柔らかな髪を風に流すように掻き上げた。
――― 時は卯月。現代で言うなら五月も半ばにさしかかり、そのせいか近頃の陽射しはかなり強くなってきている。
日によっては今日のように、軽く汗ばむほどの陽気になる事も少なくない。
これほど良い天気になると、山の中と言えども日中はやはりそれなりに気温は高いようだった。
そして彼女のそんな感覚を証明するかのように、翡翠の瞳に映る鮮やかな青い空にはくっきりとした雲が浮かび、季節がもう春から夏に近づきつつある事を教えてくれている。
…あかねはふうっと小さく息をついた。
そのまま、ゆっくりと息を吸い、少しずつ静かに清々しい空気を躰の胎へと充たしてゆく。
軽く湿り気を帯びているようにも感じられる前髪を散らすように、山間特有の涼気と緑の薫りを含んだ風がさあっと軽やかに吹き抜ける。
草木を揺らし、さやさやと涼やかな音を立てるそれが火照った肌を冷やしてゆくかのような心地に軽く瞳を伏せると、あかねは風を感じるように空を仰いだ。
辺り一面を取り巻く木々の若葉が、頭上を覆う程に生い茂る中、その梢の合間から洩れる木漏れ日が風に揺れながら、光の欠片をちらちらとあかねの上に投げかけてゆく。
…こうして自然のただ中に佇んでいると、躰の胎側から、少しずつ、澱んでいた何かが浄められ、澄んでゆくような不思議な心地がした。
それは固く、凝っていたものが緩やかに解かれ、この場に在る空気に抱かれているかのような、不思議な感覚。
――― 気分転換と称して、野草を摘みにゆくという詩紋とこの北山の麓までやって来たのだが、近頃は以前に比べると外出する機会がかなり減っていた為、こうして直に緑の薫りや風を感じるのは、随分と久しぶりの事だった。
神泉苑で総てを終えた後、この地で自分の在処を見つけた三人は、今も京に留まり、それまでと同じように左大臣邸に住まいながら、それぞれが日々の生活を送っている。
だが、今の生活はその頃とはまた違った意味で、色々と忙しい。しかも「京」のしきたりとやらと、あかねを取り巻く心配性な人々の諸々の思惑が相まって、そうそう気楽に散策になど出られないのだ。
…尤も一年前もいまも、どちらにしろ、この地へ召喚される以前の自分なら想像すらしていなかったような生活である事だけは確かだけれど。
そんな事を思いながら、あかねはさわさわと渡ってゆく風の音に耳を澄ませる。
桜色の唇から、安堵にも似た小さな吐息が自然に零れ落ちた。
(…――― そう言えば、ここに来たばっかりの頃、気を馴染ませろって言われた事があったよね…)
考えてみればあれはこういう意味だったのだろうと、いま改めて解ったような気がした。
あの時は実際の所、“そういえば少し、躰が軽くなった…ような気がする”、といった程度で、「気が馴染んでいないから消耗する」などと言われても、あまりぴんと来てはいなかったけれど。
不意にそんな事を思い出し、あかねは思わずくすくすと小さく笑みを零した。
…何故か、妙に懐かしいような気がしたのだ。
ほんの一年ほど前の事でしかないのに…。
そしてそんな事を感じたのは、今の自分がそれだけこの場所に馴染んでいるからなのかもしれなかった。
――― 自分達…あかねと天真と詩紋の三人がこの京に召喚されて、既に一年以上の月日が経とうとしていた。
いま思えば一年前のあの頃は、まだ右も左も判らなくて、毎日が悩む暇も無いほど目まぐるしく過ぎていって、目の前の事をどうにか片づけてゆくので手一杯だった。
…自分の身に突然に降りかかってきた「龍神の神子」という役割を…そこに籠められているものの意味や重さを、あの時の自分がどれほど理解し、納得して受け容れていたのか、自分自身でもあまりよく判らない。
ただ、突然に身に宿った力と周囲の期待を感じ、当時の京の有様を見ていく内に、知らず知らずのうちに「神子である事」を受け容れざるを得なくなっていた。
加えて、「神子として務めを果たさなければ還れない」、という思いにも半ば追い立てられるようにして、ひたすら毎日のように散策を繰り返し、怨霊と戦って土地の穢れを祓ったり、土地の力を高めたりと京の至る処を東奔西走していたのだ。
その時の事を思い出し、あかねは苦笑にも似た柔らかな笑みを湛えたまま、微かに瞳を細める。
――― 自分はあの頃、確かに疲れていたのだろう。
そしてはっきりと自覚してはいなかったが、不安だったのだろうとも思う。
自分が「龍神の神子」という存在である事、それ自体は思っていたよりもすんなりと呑み込む事が出来た。
…自分の胎に在るものが、正しく「龍神の力」と呼ばれるものである事だけは、何故か判っていたから。
それは或いは、龍神との繋がりが知らせる、本能的なものだったのかもしれない。
時折響く鈴の音を、いつの間にか龍神の呼びかけだと思うようになっていたように。
けれどだからといって、初めから「神子」として、迷う事無く進んで行けた訳でもない。
何をどうすればいいのか、自分がどう在るべきなのかもあまりよく判らないまま、ただただ駆り立てられて。
夜、たった独りで暗い房の中にいると、何やら取り残されたような気がして、訳も判らず無性に泣きたいような、大声で叫きたいような気持ちになった事もある。
…とてもそんな事は出来なかったけれど。
あかねはそこでふと貌を動かすと、辺りを見回した。
視線の先、そう遠くない場所に、優しい蒲公英色の巻き毛を風に柔らかに揺らしながら、生い茂る草花を背を屈めて覗き込んでいる、詩紋の姿がある。
――― 詩紋とも、そして天真ともそれぞれ互いに色々な悩みを相談し、励ましあったりはしたけれど、二人が「還りたい」というような泣き言を洩らした事は、一度も無かった。
胎に抱えている不安や淋しさはきっと同じだった筈なのに、何も言わなかった。
だからこそあの時は挫けずに頑張れたのだと思うし、そしてだからこそ逆に、弱音は吐けないとも思っていた。
…きっとあの時、自分達三人は皆、相手の事を思ってそんな同じ気持ちに囚われていたのだろうと判ったのは、ずっと後の事だ。
――― そうして自分でも気づかぬうちに張りつめた毎日を送っていた時、そのひとは唐突にあかねの元を訪れた。
鋭さと繊細さを秘めたとても綺麗な顔立ちに不思議な呪を施した、何処か無愛想で殆ど表情を動かす事の無い陰陽師。
藤姫から伝え聞いていた噂のように、その姿や態度を怖い、と思った事は無かった。
ただ、自分の事を語らないそのひとがどんな事を考え、何を思っているのかが判らずに、戸惑っていた事は確かだった。
理由も告げず、ただついて来いと言う彼の後に従って、期待半分、不安半分で辿り着いた先の上賀茂神社で、彼は自分の気を整えて、馴染ませてくれた。
曰く、異なる世界から来た自分はこの世界の「気」に完全には馴染めておらず、消耗している為、身を清めたのだと。
「為すべき事をしただけ」と淡々と言っていたけれど、あの時、何故かとてもほっとしたような…何とも言えない嬉しさを感じた事を、今でもはっきりと覚えている。
…きっとそれは、それまで捉える事の出来なかった「彼」の姿を、その時に垣間見たからだと思う。
色々と話をしたいと言った自分にふと見せた、困ったような、戸惑っているような貌。
それは彼の口から発される言葉の率直さとは正反対の、微妙な変化。
抑揚の乏しい口調の中にも、気遣ってくれている温かいものが確かに在ったと感じられたのだ。
――― そう、恐らくはその頃から、自分はこの世界の事も、京の八葉の事も、そのひとの事も、身近に感じられるようになったのだと思う。
それと共に、自分の中で「神子」として此処にいる事の意味が少しずつ変わっていったのだ。
そして…。
上空を過ぎてゆく風に綿のようなふんわりとした雲が流されてゆくのをのんびりと仰ぎながら、あかねはゆっくりと記憶を辿る。
少しずつ…一年前の「今日」へと向けて。
(去年の今頃は…そうだ、確か朱雀の解放をしてた頃、で…)
暫く考えを巡らせていたあかねは、思い至った一つの記憶に、ふっと眉を寄せた。
その記憶を思いだした瞬間、微かに…ほんの小さな痛みが胸を過ぎったのだ。
切ないような苦しいような感覚と共に。
それはかつてのそれに比べればずっと小さなものとは言え、一年前のこの日に感じたものと、同じ疼きだった。
「今日は、「あの日」だったんだ…」
懐かしい、何処か胸の奥を締め付けるような感覚に、あかねはその大きな瞳を細めた。
同時に、目交(まなかい)がじんと熱を帯びるのを感じる。
…桜色の唇が仄かに綻んだ。
一年が経った今でも、あの日の事は自分の心の奥深くに刻まれて残っているらしい。
もう、とうの昔に過ぎてしまった事、気にする必要など無い事なのに、
やはり忘れられはしないのだ。
――― 喪いかけて初めて気がついた、大切な想いを。
それを悟った日の事を ―――。
…もしもあの時、あの出来事がなかったら…
自分はきっと、いま此処にはいなかっただろう。
一歩を踏み出す事が出来ないままに、
やりきれない想いを抱えたままで現代で過ごしていたかもしれない。
或いは現代に還り、
総ての取り返しがつかなくなってしまってから喪ったものの大きさに気がついて、
茫然と立ち竦んでいたかもしれない。
今は誰よりも近く、傍にいてくれて、
依然よりもずっと柔らかな表情を見せてくれるようになったそのひとと、
もう二度と逢う事も出来ない場所で。 そう思うと、切ない感傷と共に、温かい想いが胸の中に広がってゆくのが判る。
それは現実の温もりにも似て、優しくあかねの胎を充たしてゆく。
…今の自分は、幸せなのだろうと。
ふと、そんな感慨が胸の中を過ぎった。
…その時。
(………?)
不意に、ふわりと鼻先を掠めたものに、あかねは思考を中断された。
――― それは「薫り」。
いままでは全く気づかなかった、けれど自然に胸に染み入ってくるかのような、不思議な薫り…。
あかねは思わずぐるりと辺りを見回した。
しかし見渡す景色には、そのような薫りの元となりそうなものは見当たらない。
その薫りを捉えた時、某かの花を連想したのだが、それらしきものどころか花の姿自体、目にする事は出来なかった。
考え込むかのように、彼女はその場で立ち止まったまま、暫くの間、首を傾げる。
…いま薫った薫りの事が、何故か気にかかるのだ。
もしかするといまは見えないだけで、この辺りの何処かに花でも咲いているのかもしれない。
そう思い、あかねはちらちらと辺りに目を向けながら歩き出す。
…そうして一体、どれほどの距離を歩いただろうか。
あちこちに視線を遣りつつ歩いていたあかねの前でふっと視界が開け、その瞳に、奥まった辺りに在る腰を越すほどの高さの低木の生け垣と、そこに咲いている一輪の花が飛び込んできた。
生い茂る新緑の枝葉の中に、ぽつん、とただ一つ、取り残されたかのように花開いているその姿にひどく惹きつけられるものを感じて、あかねはその傍まで歩み寄る。
繁みの中に咲くその花に貌を近づけると、覚えのある香気が匂い立ち、辿ってきた薫りの元がそれである事が判った。
…それは、何処か懐かしいような、奇妙に心惹かれる薫り。
甘く、それでいて芳しい…。
あかねはそのまま、引き寄せられるようにその花へと手を近づけた。
そっと伸ばした指先に触れるのは、瑞々しい咲き初めの花びらの感触。
五つに分かれた少し肉厚の花弁は、透き通るように白い。
(この薫り…この花…。私、何処かで見た事が、ある…?)
そうは思いながらも、それが何だったのかはっきりとは思い出せないまま、あかねはじっとその花を見つめる。
「…あかねちゃん!」
そこに唐突に背後から響いてきた声に、目の前の花に見入っていたあかねははた、と意識を引き戻された。
「良かった、ここにいたんだね」
「詩紋君…」
振り向いた視界に、あかねは腕に籠を抱えた詩紋が急ぎ足で駆け寄ってくる姿を捉えた。
軽く息が上がっているその様子に、突然姿を消したあかねの事を心配して探させてしまっていたらしい事が判る。
この時点になって、あかねは漸く、自分が元いた場所からは随分奥まった場所まで移動してきてしまっている事に気がついた。
…どうやら花の薫りを辿って、知らない内に詩紋とはぐれてしまっていたらしい。
そうこうしている内に、詩紋は彼女の前までやって来ると、ほっ、と一つ息をついた。
困ったような貌でごめんね、と小さく謝るあかねに、詩紋は苦笑すると、ううん、いいよと軽く首を振る。
恐らくは半分くらいは仕方がないと思っているのだろう。
その身に危険が及ぶ事は見過ごす事は出来ないが、自由に、そしてその思うが儘に在る事こそが、彼女らしいのだから。
それでなくとも日頃、かなり行動を制限されているのだから、こんな時くらいは羽を伸ばしたくなるのも判る。
…ただ、そのお転婆も過ぎると、後で散々にお小言や泣き落としを喰らう羽目になるのだが。
「それより、何かあったの?急にいなくなっちゃったりして」
「う…ん。何だかね、すごくいい薫りがしたから」
「薫り?」
「うん。ほら、何だかお花みたいな…」
きょとんとしている詩紋にそこまで言いかけて、あかねはふと言葉を切った。
先ほどまで、あれほどこの場所に満ちていた薫りが、今は全く感じられなくなっていたのだ。
(…あれ?)
訳が判らないまま、あかねは何かに引かれるように背後の繁みへ視線を移す。
――― その翡翠の瞳が、大きく瞠られた。
「………」
其処には、先ほどまで確かにあった筈のあの純白の花の姿は無かった。
ただ、青々とした濃い緑の葉が生い茂っているだけだ。
あかねは信じがたい思いで、ただ目の前に広がる緑を見つめる。
(…そんな。確かに咲いてた筈なのに)
あれが見間違いだとはとても思えない。
あの甘い薫り。
今でも鮮やかに思い出せる、花の色。
何より触れた時のあの瑞々しい感触は、到底、幻などでは無かった。
「どうかしたの?」
不意に脇から声をかけられ、反射的にそちらへと貌を向けたあかねは、隣に佇む詩紋が何処となく気がかりな面持ちでこちらを見ている事に気がついた。
そんな彼を取り敢えず安心させようと、あかねは慌てて笑みを浮かべてみせる。
「何でもないよ。この辺りに花が咲いてるのかと思ったんだけど…風で何処かから薫りだけ運ばれてきたのかもしれないね」
何とか取り繕おうとそう言ったあかねに、詩紋は暫し考えていたが、やがてそれならいいんだけど、と少々気にした様子を残しながらも頷いた。
…あの花が何か、現実のものではないものだったとしても、特別、嫌な気配は感じなかった。それならば、何の確信も無いうちから下手に喋って、余計な心配をかけるのは得策ではないだろう。
つい先ほど詩紋にいらぬ心配をかけてしまった事も手伝ってか、そんな事を考えるあかねの脳裏に、少々心配性の気のある人々の顔が浮かぶ。
中でも一番堪えるのは、可愛らしい義妹姫の泣きそうな貌と、厄介事ばかりに首を突っ込むなと容赦の無い口調できっちりと釘を差してくれる誰かさんの貌。
しかも後者に至っては、他の者に言わせればあまり表情に出ていない…ようでいながら、琥珀色の綺麗な瞳を僅かに翳らせているのがあかねには判ってしまう。その度、思いっきり心配をかけていた事を悟ってしまうだけに、何とも居たたまれない気持ちになる。
…実際、情けも遠慮もないきつい言葉の数々よりも、じいっと真っ直ぐに自分を見つめてくる心配そうなその瞳の方にあかねは弱かった。
(…帰ろう)
ふるふる、と小さく首を振って、あかねはその花の事を頭の中から追いやった。
そして気を取り直すように隣の詩紋ににっこりと笑いかける。
「そろそろ行こっか、詩紋君。ほら、陽も暮れてきたし」
「うん、そうだね」
あかねの声に、いつもの柔らかい笑顔で詩紋も頷いた。
そして二人は並んで歩きながら帰り道を辿り始める。
――― と。
…すうっ、と不意に温かい風があかねの傍らを擦り抜け、朱鷺色の髪を撫でていった。
その何処か重く、絡みつくような感触に、彼女は奇妙な生々しさを覚える。
しっとりとした、なま暖かく柔らかい、人肌に似た感触。
その奥に微かに感じた、自分に“触れよう”とする ――― 「意思」。
それはまるで、何か…いや、「誰か」に触られたかのような感覚だった。
――――― そして。
“………”
( ――― 呼ばれた?)
思わずあかねは背後を振り返る。
だが、その視界に映るのは、頭上を覆うように枝葉を繁らせた大木の連なりとまだ花の蕾すら見えない丈の低い樹々の織りなす垣根のみ。
「…?」
先ほどと何ら変わらぬ景色に訝しげに眉を顰めたあかねの前を、ざっと強い風が通り過ぎ、彼女の視界を遮るように朱鷺色の髪を靡かせてゆく。
(気のせい、だったのかな…)
あかねは釈然としない思いで内心で首を捻る。
何故か、そうだとは言い切れないものを感じていたのだ。
…しかし耳を澄ましてみても、同じものが再び彼女の耳に捉えられる事は無かった。
「…あかねちゃん?」
少し先で立ち止まっている詩紋に再び声を掛けられて、あかねははっと意識を引き戻される。
「ごめん、いま行くから!」
よく透る声でそう答えると、あかねは自分の感じた奇妙な感覚を振り切るように身を翻した。
そして今度こそ、振り返ることなく軽やかにその場から駆け去ってゆく。
…――――― その背中を見送るかのように。
或いは、見つめるかのように。
濃い緑と新緑の若葉に彩られた垣根がいつまでも、吹く風に音もなく、揺れていた。