――― 雛 ――― 《 上巳の節句と紙人形 》 § 「じょうしのせっく?」 あかねはひとさし指で小さな餅をつまみながら、聴きなれない言葉を繰り返した。 着慣れないながらも色鮮やかな小袿をまとい、廂の間で藤姫と庭を見ながら、菓子を手にする。その風景は、どこにでもあるような、貴族の姫の一室となんら変わらない。 「桃の季節の節句といえば、きっとそうですわ。こちらでは上巳の節句というのです」 思案顔のあかねを見上げながら、藤姫は嬉しげに笑った。 事の始まりは、今日が三月三日であるということに気づいたあかねが、雛祭りについて藤姫に尋ねたことに遡る。 女の子の健康と成長をお祝いする祭りで、桃の季節にちなんで桃の節句ともいい、家の中に桃の花や雛人形を飾り、酒や菱形の餅を供えたりする、というかなり散文的な雛祭りの説明をあかねから聴いた後、藤姫が導き出したのが『上巳の節句』であった。 詳しく聴くところによると、上巳の節句では人の形に切り抜いた紙で身体を撫でたあとに、それを川へ流すとのこと。そうすることで身に降りかかる災厄を祓う、という意味があるのだという。 もしかしたら、流し雛の由来はこのあたりからきているのかもしれないな、と自己の考察を加えながら、あかねはさらに手にした餅を口に含んだ。 「ですから、当日は泰明殿を是非お呼びいたしましょうね」 「!?」 突然あかねは片手で口許を覆った。あやうく咽喉に詰めかけた餅を、慌てて嚥下して、真っ赤な顔で藤姫に向き直る。 「なんで泰明さん!?」 「なぜって、災厄を祓うには陰陽師の方のお力添えが必要なのですわ。是非、泰明殿に来ていただけるよう、あかね様から申し上げてくださいませ」 藤姫がことさら愉しげに言うと、あかねは火照る頬を押さえ、しばらく固まっていたが、とうとうがくりとうなだれた。 * そもそも、鬼との戦いが終った今もあかねがこの京に残っているのは、ひとえに安倍泰明に起因する。 それは去年の藤の花の盛りの頃。 真摯な彼の告白に応えて、あかねは京で生きてゆくことを決めた。すでにお互いの心の結びつきは、龍神の神子と八葉のそれではなく、個々の人格として、お互いをなくてはならぬ存在と認め合うほど、深いものであったのだ。 それからは藤姫の勧めもあり、あかねは左大臣家での生活を続行しながら京の習俗を学び、泰明はさらに陰陽道を極め、尊師である晴明を凌ぐ、と他者をして言わしめるほどにまで己を成熟させた。 泰明の社会的地位が確立されると、次にやってくるのは結婚問題である。 もともと泰明に出世欲はなく、あかねを幸せにしたいと思うならそれなりの甲斐性が必要だろう、とけしかけられてのこたびの栄達であったから、正式に安倍家の跡目を、と師に言い渡された翌日、とるものもとりあえず左大臣家を訪問し、すべての経緯をあかねに説明したあと、泰明は生真面目な顔でこう言った。 「というわけで、私と結婚して欲しい」 「………」 なにが「というわけ」なんだろう、とあかねは思った。 すべての準備ができたので、という意味らしいが、この一年、結婚のけの字も聞かされることもないままに恋人同士の関係を育んできたのである。いきなり結婚して欲しいと言われてもどう反応してよいのやら、にわかにはわからない。 仕方のないことではある。 あかねの価値観では結婚は恋愛の延長にあるが、この貴族が統べる京では、結婚は種と家の保存の手段であり、恋愛とは異なる次元の問題で語られることが多いものなのだ。もしこの京で生きてゆくうえで、恋愛と結婚が結びつく幸福を手に入れられるなら、それはむしろ喜ぶべきことであるのだろう。 それでもあかねはとっさに返答しかねた。 泰明は、あかねを急かしたりはしなかった。 彼はどんなかたちでも、あかねが自分の傍にいてくれるならば、形式にこだわるつもりはまったくなかったからだ。結婚、というかたちを提示してはみたものの、それをあかねに押しつける気は毛頭なかった。 言うだけ言って、泰明は帰って行った。 つい先日のことである。 * 上巳の節句は、三月最初の巳の日に催される。 春の好天に恵まれたその当日、あかねの部屋は御簾も半蔀も全開にされているにもかかわらず、むせかえるような桃の香りが立ちこめていた。藤姫があかねを喜ばせようと、ありったけの桃花を飾らせた結果である。 なにかと刺激の少ないこの世界では、こういった行事が日常の楽しみと化すものだ。だから、そのひとつひとつに様々な趣向を凝らしたり、衣装を改めたりして、非日常の雰囲気を満喫したりする。 あかねも例外ではなかった。 優しい色合いの晴れの装束を身にまとい、廂の縁に腰掛けて簀子に足を投げ出してくつろぐ姿は、どことなく浮かれているようである。 動きにくい装束の利点を、あかねの主観でひとつあげるとすれば、いくら行儀の悪い座り方をしていても、他人に知られずに済む、というのがある。正座でじっとしているのが苦手なあかねには、まさにうってつけの衣装と言えるだろう。もちろん、足をくつろがせる、という点にのみ重きを置けば、の話ではあるが。 後ろ手に重心を預けながら、あかねは室内を見まわした。 懸盤には白酒の入った銚子が供えられ、所狭しと置かれた角だらいには桃の枝だけでなく菜の花までもが飾られていて、あかねの私室は春の色に溢れんばかりである。 (これで『あれ』があったら完璧なんだけどな) 雛祭りには欠かすことのできない、あれ、である。 何気なく考えて、次の瞬間、あかねは勢いよく指を鳴らした。 「そーだ! ないなら作ればいいんだもんねっ」 生気に富んだ瞳を輝かせて立ちあがり、あかねは重い装束を引き摺って、心だけは軽やかに母屋の奥へと駆け込んで行った。 * ………どのくらい時間がたったのか。 作業に没頭していたあかねは、背後に愛しい恋人が姿を現していることに、まったく気づかなかった。 泰明の方も、母屋でこちらに背を向けて、なにやら熱心に手を動かしているあかねに声をかけようとはせず、ほとんど音も立てずに、廂の間の中央に腰を落ち着けた。 時々こめかみに指をあてたり、首を傾げて思案してみたり、かと思えば両手をひとつ打ち鳴らして、なにかを思い出したように中断した作業に再び取りかかったりしつつ、また途切れ途切れの鼻歌など歌いながら、あかねはこの上なく愉しそうである。 そんなあかねを見ているのは、嫌いではない。 泰明は時々まばたきをする以外は微動だにせず、行儀良く膝に両手を乗せて、ひたすらあかねが手を止めるのを待った。 さらに時間は過ぎる。 泰明が、あかねを見つめていると胸内が温かくなるという己の不思議を自覚し、さらに興味深く思って分析している間、あかねはやはり床に突っ伏すようにして、手許の作業に熱中していた。 それぞれの熱を帯びた視線はいっこうに交わろうとせず、無為ではないが、奇妙な沈黙が室内を支配している。 「………?」 かなりの時間が過ぎてから、ようやく泰明は、あかねがなにをしているのかということに疑問を持ち始めた。 なにに、そんなに執心しているのだろう。 こんなに近くにいるというのに。 こちらの存在にすら気づけぬほど。 あかねが、嬉しげにいじっているのは、見つめているのは、なんだ? 不意に立ちあがり、入って来た時と同じように足音も立てず、泰明は背後からあかねに近づいた。 「できたぁ!」 突然顔を上げ、両手を振り上げて、あかねが嬉しげに叫んだ。 「…なにができたのだ?」 泰明はあかねが手に持っている物体を、ひょいと指でつまんで取り上げた。驚いたのはあかねである。 「や、泰明さんっ」 「これはなんだ?」 「いつの間に来てたんですか!?」 「だいぶ前からだ。これはなんだ?」 あかねの驚愕には取り合わず、質問を繰り返し、泰明は手にしたものを、しげしげと観察した。薄紅色の紙が、掌に乗るほどの大きさに複雑に折りこまれていて、それはなにかを形作っているように思える。 泰明らしい性急な物言いに、あかねも思わず苦笑するしかない。 「それはね、お雛様です。こっちがお内裏様」 泰明の欲求に応えながら、あかねは手にしたもうひとつの紙を差し出した。こちらは浅葱色の紙で、比べてみると薄紅色のものとは多少形が違うことがわかる。 「ひとがた、なのか」 「そうです。私の世界にも上巳の節句があって、人形を飾って女の子の成長をお祈りしたりするんですよ」 にこにこと笑いながら、あかねは紙人形を指差した。 長い時間をかけて、あかねが一生懸命作っていたのは折り紙の雛人形だったのだ。久しぶりに作ったにしては、なかなかの出来だった。 満足げなあかねの目の前で、泰明は紙人形を引っ張ったり裏返したりしながら、その澄んだ大きな瞳に、純粋な探求心を募らせていった。 「ちょっ、なにするんですかっ」 あわてたあかねが、泰明の手を両手で掴んで止めさせる。 「なにって、どうしてこんな形になるのか、興味がある」 答える泰明はけろりとしたものである。そればかりか、美しく整った顔には、興味津々という文字が大きく書かれている。 意外なことでも、珍しいことでもない。 泰明は知識に対する欲求が、純粋なまでに強い性格だった。 あかねは苦笑して、泰明を見上げた。 「わかりました、教えます。だから…お雛様を広げないでください」 「わかった」 子供のように、こくりと素直に頷いて、泰明は手を開いた。 こうして無残にも半ば分解されかかった雛人形は、あかねの手に戻ったのであった。 それからしばらくの後。 泰明とあかねをふたりきりにしてあげようと、気を利かせて姿を隠していた藤姫は、時間を置いて訪ねたあかねの私室で、黙々と紙人形を折りつづける恋人同士の異様な姿を発見した。 ふたりの周りには、いくつもの紙人形が散乱している。 「…これは」 「あ、藤姫。見て見て、雛人形だよ」 無邪気な笑顔であかねが示した先には、懸盤に緋色の布を敷いたものの上に、紙人形がふたつ飾られていた。それぞれを指差しながら、これがお雛様、こっちがお内裏様、といった親切な説明がつけ加えられる。これはどうやらたくさんある紙人形のうち、一番形が整っているものを飾りつけたものであるらしい。 「いっぱい作ったから、藤姫にもあげるね」 あかねが折り紙の雛人形を差し出すと、藤姫は目を細めて素直に喜んだ。 「まあ、ありがとうございます。可愛らしゅうございますわね」 複雑に折られた紙人形は、よくよく見れば、なるほど、ちゃんと正装をした姫と公達を形取っているようであるから、面白い。 気づけば泰明は、いまだ床に貼り付くようにして、白い指で器用に紙を折り込んでいる。余程折り紙が気に入ったようである。 まもなくして室内に女房たちの手によって、料理が運ばれてきた。 いくつもの台盤には、食べきれないほどの料理が盛られており、その多彩なことに、あかねは歓声をあげた。 季節の山菜の入った散らし寿司、焼きさざえに蛤の吸物、菜の花の和え物や木の芽のおひたし、蓬で作った草餅。どれも春を感じさせる季節の料理である。 ささやかな宴の準備が整ったところで、藤姫がふと思いついたように、泰明に尋ねた。 「あかね様のお祓いはしていただけましたか?」 返答は簡潔だった。 「忘れていた」 折り紙に熱中するあまり、すっかり本来の目的を忘れてしまったらしい。 手にした新しい紙を文箱に戻し、まったく悪びれもせず、泰明は傍らのあかねの手を取って立ちあがらせた。そしてそのまま濡れ縁まで導くと、指先に、先ほど自分で折った紙の雛人形をひらめかせる。 「…泰明さん」 「問題ない」 長い睫毛を伏せ、形の良い唇で泰明は平然と言い放った。 自らで折った折り紙を、あかねの額に、頬に、全身に滑らせて、なにやらまじないを唱えながら手首を翻した。 当然、紙人形は鋭く回転しながら、建物の外へ飛び出す。 するとどうであろう。 泰明の手から放たれた折り紙は庭の土の上には落ちず、寸前で真白の鳥に姿を変え、大空へ飛び立っていったではないか。 まるで手品をみているような、あまりにも幻想的なその光景に、あかねも藤姫も目を見張り、声を失った。 「式神だ。水辺まで辿りついたらひとがたに戻るよう、まじないをかけた」 なんでもないことのように、鳥が消えて行った空を見上げながら、泰明が静かに言った。 「…いつもながら、泰明殿には、驚かされてしまいますわ」 やや放心ぎみに藤姫が呟くと、泰明は心外そうに柳眉を上げたが、口に出してはなにも言わなかった。そんなふたりを見て、ようやくあかねに笑顔が戻る。 「じゃあ、これで私の厄は祓われたんですよね? ありがとうございます、泰明さん」 あかねが泰明の手を取ると、応えるように、泰明は彼女の手を握り返した。伝わる温もりが、大切なものの存在を教えるかのようで、愛しさは波のようにふたりの胸に満ちてゆく。 「もちろんだ。あかねには、なにものも近づけさせない」 この私が、と続けて、泰明は紅を差したように鮮やかな唇を綻ばせた。 目も眩むほどの幸福感で胸をいっぱいにして、あかねは笑顔で頷いた。 三月のやわらかな春の陽と、桃の甘い香り包まれて、左大臣家の賑やかな宴は始まったばかりであった。 【 FIN.】 < Written by Asahi Toono. 2003. / Site 【 藤ヶ盛 】 > |
【 藤ヶ盛 】の遠野 淺緋さまが配布していらした 泰明×神子のフリー創作です。 「雛祭り」の原型である「上巳の節句」。 今でも地方によっては「流し雛」と言って、 やはり持ち主の厄を雛人形に代わりに引き受けて貰って、 それを川に流す風習がありますよね。 確か、和歌山あたりの方には、役目を終えた雛人形を引き取って お祓いをして浄めてくれるお寺があるそうです。 形は変わっても、今も根付いているこういう風習って面白いな、と思います。 京でならやっぱり、陰陽師の泰明さんがお祓いしてくれたんだろうなぁ…。 でも、あかねちゃんの作る雛人形に興味津々の泰明さんが 何ともらしいですよね〜〜〜!!(笑) 目をきらきらさせながら、雛人形を矯めつ眇めつしてる処が目に浮かぶようです。 ………でも分解したらダメだってば。(苦笑) 黙々と雛人形を折り紙で折る泰明さん&あかねちゃんも可愛くてv 場面を想像したら、何だかこの二人の方がお雛様みたいだと思っちゃいました♪ 泰明さんの、一つの事に熱中すると他を忘れて没頭する子供っぽい処と 造作なく厄を祓ってみせる手際の鮮やかさ、 あかねちゃんの無邪気で元気な可愛らしさと、 ほのぼのとしてて、何とも温かい雰囲気いっぱいです(*^-^*) 淺緋さん、素敵なお話をありがとうございましたvv by.陸深 雪 |