〜 夢見草 〜









§







 ひらり、と。
 宵闇を縫って、淡色のかけらが舞い落ちる。



「………雪か?」

 師から言付かっていた務めを終え、家路を急いでいた彼は、ふと足を止め、宙に目をやった。
 まだ少し肌寒い早春の風に乗って、ひらひらと舞うそれに心惹かれて、彼はそっと手を伸ばす。


 ………吸い寄せられるかのように、ゆっくりとその薄桃のかけらは彼の掌に収まった。

「桜か………」

 小さな花びらに僅かに頬をほころばせ、彼は風の吹いてくる方へと視線を流す。
 彼の今いる通りから脇道にそれ、少し奥まった処にある開けた場所。背後に遠く連なる山々へと道が繋がっているらしいそこには、夜空に浮かび上がるようにして、一本の桜の古木が今を盛りと満開の花を咲かせていた。
 その様子に惹かれるように桜の木の側まで歩み寄った彼は、暗闇に白くけぶる淡い花を静かに見上げる。

 ――― このようなところに桜の木があったか?

 彼はこれまでの自分の記憶を辿り………やがてちょうど今頃の時期に咲く早咲きの桜が、この辺りにあったことを思い出した。
 いつから生えているのかはわからないが、内裏からさほど遠くないとはいえ、京の北端に当たり、貴族の邸があるでもなく荒れ果てたこの場所にあるのだから、誰が植えたというわけでもないのだろう。しかし毎年見事な花を咲かせているという話も、どこかで聞いた覚えがあった。

 ………もっとも、その話を聞いたのは確か内裏に出仕し始めたばかりの頃で、その時はさして興味も持たなかったのだが。



「桜とは、美しいものなのだな………」

 唇から自然に零れた言葉に彼は苦笑する。



 ………桜は、今の彼にとっては思い入れの深いものだった。
 なぜなら………。




――― あの日。
遙か彼方の異世界から
たった一つの「運命」が、
彼の前に降り立ったのだから ―――…。





 それは、今も彼の胸の中に残る、忘れ得ぬ一つの光景 ―――…自分が初めて何かに目を奪われ、「美しい」と感じた瞬間。
 あれからもう三度季節が巡ったが、その記憶はいつまでも色褪せることなく、鮮やかに蘇る。
 ――― 一 つの面影と共に。


 彼はその記憶に思いを馳せるように、ゆっくりと瞳を伏せる。





§






 ――― 「美しい」という言葉の意味は知っていた。


 だが、「美しい」と「感じる」ということの意味は分からなかった。
 そして、その時々で同じ対象に対して、異なる美を感じるということも………。

 私にとって「美しい」とは、色や形、旋律…そういったものの均衡や調和という、単なる事実を指すものであって、それに対して何らかの特別の思いを抱くということがわからなかったのだ。


 だから、私は「美しさ」にさして興味もなく、それを感じない己に対しても特別な感慨も無かった。



 ――― そう、あの時までは。


 ………彼女に出会って、私は初めてひとが美しさに惹かれる理由を理解した。

 ひとが何かに特別な美しさを感じる時………それは、そのものの中に、自分の思いを事寄せて感じているのだ、と。
 そのものの「美しさ」の中に、自分にとって大切な「何か」 ――― それは思い出であったり、安堵や喜び、愛しさといったその時々の心情であったりするのだろうが ――― との繋がりを感じて、その美に特別な思いを抱くのだろうと。





『ものを愛でるには心の余裕が必要だ。
美しさとは感じようと思って感じ取れるものではない。
周囲や自然と己の心が触れあった、ふとした瞬間に、心に「伝わる」ものなのだから。

だが、それ以上の本当の美しさを ――― 「心に響く美」を感じ取るには、
相応の「情」を傾けねばならないのだよ………』






 いつだったか、お師匠はそのように言っていた。
 初めてその言葉を聞いたとき、私にはその意味をくみ取ることが出来なかったが、それは私が「美しさ」というものを理屈で理解しようとしていたからなのだろう。



――― 私は知らなかったのだ。
何かを「美しい」と感じる瞬間というものは、不意にやってくるのだということを。
この世には、己の意志などとは関係なく、心を惹きつけるものがあるということを………。


そして己がそのものに対して特別な感情を抱いているからこそ、
その美しさが更に心に響くのだということを。




 それは自分に心など無いのだと瞳を閉ざし、感情を凍えさせていた以前の私には、どうしてもわからなかったこと。
 だが彼女と出逢い、様々な感情を知ってから、目の前に映るものがそれまでとは全く変化していることに驚いた。



 …――― 世界が息づき、色付いてゆくかのような鮮烈な感覚。
 それは、世界がどれほど鮮やかで様々な色彩と薫りに満ちているのかを知った瞬間。

 私がこれまで知識として「理解」してきたものが、全て覆されてゆく ―――…。



 しかしそれは決して不快ではなく ――― 新鮮で心地よい驚きに満ちていた。
 そしてその時初めて私は…かつての自分の瞳が何も「見て」はいなかったのだと気がついた。


 …確かに、これまでの私の中にあったのは常に自分の果たすべき目的のみで、他のことには注意を払っていなかった。
 何故なら、使命を果たすことだけが、私の存在価値だと思っていたから。
 使命とは関わりのない物事に関心を持つこと ――― 先のお師匠の言葉を借りるなら、「ものを愛でる」必要があるなどとは全く考えてはいなかったのだ。


 まして、唯一つのものに心を傾けるなど ―――…。



 ………もしかしたら、かつての私は無意識のうちに周囲と関わることを拒絶していたのかもしれない。
 ひとならぬ自分は、ただの道具である自分は、誰かと心を通わせる必要など無いと。


 そんな私の目を初めて引いたのが彼女だった。
 ――― 出逢った瞬間から、私にそれまでどうしてもわからなかった、「美しい」という感覚を抱かせた少女。
 もっともその時は、そうとは知らずにいたのだが…惹きつけられて視線を外すことが出来なかった。
 そうして、気がつくと「理解できない」と言いながら、いつのまにか彼女の一挙一動に関心を持つようになっていた。


 絶えずくるくると表情を豊かに変える少女。
 ほんの些細な出来事や、景色や言葉に敏感に反応し、微笑みを返す優しい少女。
 そう、私のどうということのない言葉や行動にすら…。


 そんな少女と接するうちに、私は次第に彼女の目に何が映っているのか、何を感じているのか、知りたいと思うようになっていった。
 ――― 叶うことならば、彼女と同じものを見て、感じてみたいと。



 それは、私が使命とは関わりのないものに初めて強い興味を抱いた瞬間。





――― そして ―――…。








全てはあの時、唯一人のかけがえのない少女によって、もたらされたのだ。





§






 ………彼は伏せていた瞳を開くと、夜風にはらはらと花びらを散らす桜の木を再び見上げる。
 瞳に映る薄桃の花びらの淡い色彩が、音もなく頭上から降り注ぎながら、温かく優しく、そして穏やかに彼の心へ染み込んでゆく………。





 世界が ――― 自分を取り巻くものが美しく感じられるという感覚。


 今思えば、それは彼女と共に在るその時々の私の心の昂揚が、周囲のものに更に美しさを加えている。そういうことなのかもしれない。
 まるで、その時々の心の色に景色が染め変えられるかのように。
 だからこそ、同じものに対しても、時によって違う心情を抱くのだろう。



 ――― そう、彼女は言っていた。






『「美しい」っていう気持ちで心が満たされる時はね………
心の中が暖かくなったり、ほっとしたり、嬉しくなったり、惹きつけられたり、どきどきしたり………。
その時によって感じることは違うけど、
でも、「幸せ」を感じている時なのは間違いないと思うんです』






 「幸せ」 ――― それならば、今の私にはわかる。
 確かに彼女の言葉は正しかったのだから。







私にとって、彼女といる時は周囲のものが特別に「美しく」見えた。
樹も花も鳥も ――― 様々なものが、いつもよりも鮮やかに、輝いていた。

――― そして、彼女と共にいる時、私は確かに「幸せ」だったのだから………。









 ……………彼は見上げていた桜の古木から視線をはずすと、ゆっくりと踵(きびす)を返し、その場から立ち去った。
 そして、再び先程まで辿っていた道を歩き始める。



 ――― 彼の在るべき場所へと。





§






 …それから間もなく、彼は師の邸へと辿り着いていた。


 門をくぐり、自らの部屋を与えられている西の対へと渡殿を渡る。 ――― すると。
 いつから待っていたのか、明るい月の光の下、部屋の前の簀の子に腰を下ろし、庭を眺める風情でそのひとはいた。
 近づいてくる気配を感じたのか、ふと顔を上げたそのひとは、彼の姿を認めると立ち上がり、腰まで届く艶やかな絹の如き髪を夜風にゆるく靡かせながら、軽やかに駆け寄ってくる。
 その愛らしい面には、輝くような明るい微笑が浮かんでいる。

 彼は僅かに瞳を見開くと、自らも足早にその人に近づいてゆく。


「ずっと待っていたのか?」
「うん。だって今日は早く帰る、って言ってたでしょう?」

 心から嬉しそうに微笑んでそう答えたそのひとは、不意に何かに気がついたように、あっ、と小さな声をあげる。
 そしてそのまま彼の方に白い指先を伸ばすと、綺麗に片結いされたその翠緑の髪からそっと何かを摘み取った。


「桜の花びら………?」


 不思議そうに見つめる様子に、彼は柔らかく微笑する。

「ああ…。帰り道に、早咲きの桜が咲いていたのだ」
「帰り道に? そんなに近くに今、桜が咲いてるの?」

 そう言うと、興味津々といった表情をありありと浮かべた、澄んだ色の瞳を彼に向ける。


「見たいか?」


 見たいというのならすぐにでも連れていってやろうと思い、彼が問いかけると、そのひとは一瞬ぱっと顔を輝かせたが、すぐにふるふるとかぶりをふった。


「うん ――― ううん、いいの。今日は。せっかく久しぶりに早く帰ってこられたんだもの。お話もしたいし………。桜は、また今度。ね?」

 疲れているであろう彼をそれとなく気遣っているとわかる言葉が、胸に優しく響く。

「………そうだな。そうしよう」

 穏やかに頷く彼の腕をとると、そのひとはじっと彼の瞳を覗き込むようにして花のように微笑んだ。

「おかえりなさい、泰明さん」

 澄んだ甘い声音がそっと囁く。



 ――― 自分の「幸せ」の全てが、今、ここにある。



 確かな実感と言い表せない幸福を感じながら、泰明はそのひとだけに見せる極上の笑みを湛えた。そして華奢な暖かい躰を抱き寄せると、優しく答える。



「ただいま、あかね」







【 Fin. 】





2001.6.5(TUE)UP.
2001.7.15(SUN)加筆修正.


< Written by Yuki Kugami. 2001. / Site 【 月晶華 】 >





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