――――― 予感 ―――――










§









「何やら物憂げな風情だね、神子殿」



 御簾越しにぼんやりと外を眺めていると、不意にそんな声をかけられた。

 反射的に振り向いた先にいたのは、長く艶やかな緑髪をゆるい風に靡かせた、匂い立つように華やかなひと。
 ふわりと流れる風が、やや遅れて品のある落ち着いた侍従の香の薫りを運んでくる。


 あかねは声の主の姿を認めると、笑みを浮かべて挨拶を返した。

「友雅さん…。おはようございます」

 友雅はそれに鮮やかな笑みで応えると、室内に入り、彼女の傍へ腰を下ろす。







 今日はあかねの物忌みの日。
 この日は、龍神の神子である彼女との属性の相性が悪く、その外気はあかねに悪影響を及ぼすとして外出を固く禁じられていた。
 その外気の悪影響から神子を護るため、物忌みの日は必ず八葉が一人、傍へ控えることになっている。

 あかねはその付き添いを友雅に頼むために、昨夜のうちに文を出していたのだ。



 …友雅は傍らの脇息に身を預けると、あかねの顔をじっと見つめた。
 その視線に、何となく居心地が悪そうにあかねが身じろぎする。


「どこか、心ここに在らずというように見えたのだけどね。それともまた退屈の虫が騒ぎ出したのかな?」
「いえ、あの別に、外に行きたいとかそういう訳じゃなくて。ただ、空があんまり綺麗だったから、なんとなく見入っちゃっただけで…」


 どことなく悪戯っぽい口調の友雅の言葉に、あかねは慌ててそう答える。



 どうやら彼は、前回の物忌みの時に「物忌みの日は絶対に外に出てはいけないのか」と訊ねたことをしっかり覚えているらしい。
あの時は別に外出したかったわけではなく、ただ、穢れの影響を受けやすいという「清らかな」龍神の神子が自分である、ということの実感が乏しくて何とはなしに聞いてみただけだったのだが。





 ………それとも余程、ぼんやりとした頼りなげな顔でもしていたのだろうか。





 そんなことを考えて、僅かに頬を赤らめたあかねを見ながら、友雅は柔らかな微笑みを浮かべた。


「…それなら良いのだけれど。さて、では今日のご機嫌はいかがかな?私の月の姫君は」
「友雅さん…。そういう風に呼ばれると、なんだか恥ずかしいんですけど…」
「そう?私は気に入っているのだけれどね。では「花の君」とでもお呼びしようか」
「…それも恥ずかしいです…」



 何となくからかわれている気がしなくもなかったが、頬を真っ赤に染めながら、あかねはかろうじて反論する。
 そんなあかねの可愛らしい様子に、友雅はとうとう小さく笑い声を洩らした。




 ――― やっぱりからかわれてる…。




「もう。すぐそうやってからかうんですから」

 さすがに少し面白くない気持ちでちらりと軽く睨んでそう言うと、心外だというように友雅は軽く肩を竦めてみせる。


「そんなことはないよ?君は月や花のように美しいと、そう思っているのに」
「悲しそうな顔をして言ったって駄目です」
「つれないね。私はいつも本気のつもりだけど」
「…友雅さん、目が笑ってます…」



 拗ねたように言ったつもりだったが、友雅の笑みを含んだ瞳を見ているうちに、つられたように次第にそれは苦笑に変わる。
 そうして気がつくと、くすくすと声を出してあかねは笑い出していた。





§






 ひとしきりそうして二人で笑って、やっと笑いが収まってきた頃。

 そう言えば、とあかねがふと何かを思いついたように口を切った。



「さっきの「月」と「花」の話で思い出したんですけど…ちょうどそんな感じの名前の花があったなって」
「「月」の名のつく花…『月草』ではなくて?」
「『月下美人』っていうんです」
「『月下美人』?」




 はじめて聞く名なのだろう。友雅は訝しげに首を傾げている。
 多分この世界には無いのではないかと思っていたのだが、案の定そうであるらしい。
 あかねは少ない知識を頭の中から引っ張り出しながら、何とか説明しようと話し始めた。



「ええと、確か、ちょうど今頃から秋にかけて咲くんですけど…。薄い透きとおった白い花びらが何枚も重なった、すごく綺麗な大きな花が咲くんです」



 あかねはそう言いながら、手で花の大体の大きさを示してみせる。
 その一生懸命説明する姿に穏やかな眼差しを注ぎながら、友雅は相づちを打ちつつあかねの話を聞いていた。

「…でもね、その花が咲くのは一年のうち、一日だけ。それも夜の間のほんの数刻の間だけなんです」


 そう言うと、だから名前に「月」の字が付いてるのかもしれませんね、とあかねが付け加えた。





「…ずいぶんと、儚い花なのだね」

「 ――― 儚い、ですか?」





 ぽつりと洩らした友雅の感想に、きょとんとしてあかねが不思議そうに聞き返す。
 あかねのその反応を意外に思い、友雅が逆に尋ね返した。


「神子殿はそうは思わないのかい?」


 あかねは口元に指を添え、大きな瞳を瞬かせながらうーん、としばし考え込んだ。





「私は、特にそんな風に思ったことは…。せっかく綺麗なのに、ほんのちょっとの間しか咲かないなんて、もったいないな、と思ったことはありますけど。友雅さんは、どうして儚いって思うんですか?」

「たった一日、しかも夜の間のほんの数刻しか花開かないのだろう?見ることが出来るかどうかすらわからない…束の間の夢のようなもの…」








 ――― だから儚いと、そう言うのだろうか。



 友雅の言う「儚い」という言葉からは、何かひどく淋しい雰囲気が感じられ、あかねは思わず彼の顔を見つめた。





「…そんなことないですよ」





 するり、と唇から滑り出した言葉にあかねは内心驚いた。
 そんな彼女の方を友雅もまた少し驚いたような表情で見ているのを感じ、あかねはさらに戸惑ったが、思いつくに任せて話してみようと、再び口を開く。

 自分でも何故そんなことを言ってしまったのかはよく判らない。
 ただ、「夢のように儚い」とさらりと口にする彼を見ているのが、何故か嫌だったのだ。





「…花が咲くのは、その年一度きりじゃないもの。気持ちを込めて大切にしてあげれば、きっと翌年も花を咲かせて見せてくれるし、花が咲くところだって見られます。そうやって、ちゃんと応えてくれるんですから。―――他のお花と同じ、でしょう?」





 ね?と軽く首を傾けながら、あかねがにこりと笑う。










――― “大切に思って、気持ちを向ければ、花はきっと応えてくれる” ―――…











 その言葉が、何故か深く友雅の心に響いた。
















―――…もしも私が、全ての想いを注ぎ、生涯大切にすると誓えば、
“花”は応えてくれるのだろうか。


一瞬の儚い夢ではなく、永遠の現実を与えてくれるのだろうか。


ずっと、その笑顔を向け続けていてくれるのだろうか。





………私だけに。
















 そんな想いが唐突に湧き起こり、友雅は微かに眉根を寄せる。
 心の底からじわじわと頭を擡げようとする、渦巻く感情を覆い隠すかのように、友雅はゆっくりとその深い蒼の瞳を伏せた。



「…友雅さん?」



 不意に口を閉ざした彼の様子が気になったのか、あかねがそっとよびかけてくる。
 耳に届く甘く柔らかい響きに、友雅は仄かな笑みを浮かべて答えた。



「いや…。なんでもないよ」



 あかねはそんな友雅に、まだ何か問いたげな視線を向けていたが、結局それ以上何も聞かずに口を閉ざした。
 そしてその代わりのように、ふと思いついた様子でぽつり、と呟いた。










「友雅さんは…八葉の務めが終わったら、どうするんですか?」










 あかねが洩らしたその言葉に、友雅は内心どきりとする。
 まるで、自分の心の内を見透したかのようなその言葉。






『そんなことがあるわけもない、が…』






 きっと、故郷でしか見られない花の話に、知らず知らずのうちに郷愁を誘われて、不意にそんな事が思い浮かんだだけなのだろう。
 事実、尋ねた彼女自身もどこか戸惑ったような色をその瞳に浮かべている。



 友雅は内心の動揺を綺麗に隠してさらりと答えた。



「…そうだね。今はまず八葉としての務めをするべきだろうけど…。それより先のことなど、わかってしまってはつまらないとは思わないかい?」

「そう、なのかな…。そうかもしれませんね…」

 少し首を傾げるようにして答えるあかねを視界の端に映しながら、友雅はすっと瞳を細める。








――― そうだ、先のことが今から決まっていては、つまらない…。









 声には出さずに胸の内で繰り返した言葉に、苦い想いが過ぎる。








…――― いや、違う。
ただ自分は、未来がそうならざるを得ないことを認めたくないだけなのだろう…。









 我ながら愚かなことだと、友雅は知らず、口元に自嘲の笑みを刻んだ。





 ひとときの逢瀬と別れ。
 これまで幾度となく繰り返してきたもの。





 ――― そう、「別れ」には、慣れている…。








 だからそこに特別な強い感情など無い。
 所詮、全ての物事は一瞬の夢のようなものだ。ただ、退屈を紛らわせるための。




 どんな事にもいつか終わりが来る。それもそう遠くない未来に。


 ――― その「現実」に抗うことに、何の意味があるというのだろう?



 まして、彼女が還るということは初めから判っていたことなのだ。
 今更、どんな感慨があるというのか。










“「永遠」、「情熱」、 ――――― 「桃源郷の月」”











 手を伸ばすことも辿り着くことも出来ないもの。
 ならば、それはもはや存在しないのと同じだ。
 自分には、永遠に焦がれ、それを追い求める情熱など、有りはしない ―――…。










 …それは、今まで自分が何度も胸中で繰り返してきた呟き。穏やかな諦念と共に。





 なのに今、これほどに胸が騒ぐのは何故なのだろう。
 “終わり”が来ることに。










 これまでとは違う「何か」がもたらすものに、いっこうに落ち着かない自分自身の心に苛立ちが募る。
 ――― その何かを振り切るように、友雅は敢えて今の自分の気持ちとは裏腹な言葉を口にした。





 …きっと彼女は、自分のこの言葉に、躊躇いながらも頷くだろう。
 それで、この胸の中の屈託を断ち切ってしまえばいい。

 その想いが、はっきりとした形を成す前に―――…。










「ともかく、神子殿が元の世界に戻れるよう、力は惜しまないつもりだよ。
―――早く、還りたいのだろう…?」














 それはいつかも訊ねた言葉。 かつては純粋に彼女を案じてかけた言葉。
 ただ、あの時と今とでは、その中に込められた想いは決定的に違ってしまっていたけれど。





 ――― 頷いてくれればいい。あの時のように。
 そうすれば、この心に潜む願望を目覚めさせずに済むかもしれない…。
 彼女が還りたいと思うのは当然のことなのだから。








 そんな半ば自虐的な気持ちで投げかけた問いに返ってきたのは、しかし戸惑うような長い沈黙だった。











「………わかりません………」












 ややあってその桜色の唇から洩れたのは、小さく掠れた声。
 その言葉に友雅は思わず少女の表情を窺う。

 だがあかねはそんな友雅の視線から逃れるかのように、彼から顔を僅かに背けると、伏し目がちの視線を周囲へと彷徨わせる。


 微かに震える声が、ぽつりぽつりと途切れがちに零れ落ちてゆく。












「会いたい、です。家族にも、友達にも。…でも…」













 …それ以上言葉を紡ぐことを留めようとでもするかのように、あかねは口元を指で覆った。
 もう一方の腕が、自身を護るようにその肩をぎゅっと掴む。



 迷うような言葉。頼りなげに漂う眼差し。
 そこにはいつも芯のある明るい瞳を持った、凛とした少女はいなかった。


 憂いにも似た、けれどどこか苦しげな初めて見る表情に、友雅の胸の内がざわめく。





 そんな彼の前で、あかねは一瞬、固く瞳を閉じると、顔を上げて振り返る。





「…ごめんなさい。なんだかまた変なこと言っちゃって。
――― もうすぐ白虎を解放しなくちゃいけない日だから、ちょっと不安になっちゃったのかな…」






 そう言って浮かべる微笑みは、弱々しく力が無かった。
 …まるで、心の中の何かを必死に押し殺しているかのように。
 いつもは陽の光のような、見る者の心をも暖める優しい笑顔を湛えているのに。


 その顔から目を離すことが出来ずにいる友雅の前で、その大きな瞳が次第に潤みはじめ、あかねは恥じ入るように慌ててまた下を向いた。


 それでも、少女は決して涙を見せない。
 嗚咽を漏らすことも、涙を零すことも必死に堪えて。



 それが友雅の心に疼くような痛みを生じさせる。





 ――― 彼女が何故、自分の問いに「わからない」と答えたのか。
 いま、そのことについて追求することは躊躇われた。


 それは、彼女の様子が常とは違う為だけではなく、何かの核心に触れてしまう気がして、そのことを無意識のうちに恐れたからかもしれない。












 ――― だが、声もなく泣いているかのようなあかねを、そのまま放っておくことなど出来るはずもなく…。












 気がつくと彼女へと手を延ばし、その背中から包み込むように優しく抱きしめていた。










「…無理に我慢しなくてもいいんだ…。辛いことがあるのなら、言ってしまえばいい」











 そう、彼女の耳元で囁いて。
 友雅はそのまま、宥めるように優しくその朱鷺色の髪を梳く。
 その指の動きに合わせるかのように、突然のことに緊張したように強ばっていた腕の中の少女の躰から、徐々に力が抜けていく。












「ごめんなさい…」













 しばしの沈黙の後、微かな吐息と共に只一言、そんな小さな呟きが響く。





 まだ、口にすることは出来ない、ということなのだろうか。

 だが、俯いているために少女の表情はわからなかったが、それでもその気配が先ほどよりも安らいでいることが、背中越しに伝わってくる。










 友雅は、そんな彼女の様子に、内心でそっと安堵と僅かな落胆の入り交じった複雑な吐息を洩らす。
 そして腕の中の少女に視線を落とす。










 …腕にかかる柔らかな重みと熱さが、胸に染み込んでくるようだった。





 それが、今まで心の奥底に眠らせていた願望を呼び覚ます。










………離したくない。このまま。
たとえ、八葉としての役目が終わっても ―――…。











 渦巻く想いが胸中で言葉となって、はっきりと友雅の心に刻みつけられる。
 ………もう、自分のその想いから目を逸らすことは出来そうになかった。


 自然と、あかねを抱きしめる腕に僅かに力がこもる。















――――― いつか、自分は花盗人になるだろう…。













 それは、予感。
 確信に近い予感。










たとえ、それが彼女から他の全てを奪うことになるかもしれないと解っていても。





――― 私はいつか、その花に手を伸ばすだろう。



その温もりを抱きしめるために。
春の陽射しのような笑顔を永遠のものにするために。


「彼女」という存在を手に入れるために。
































……………そう。
































――――― いつか。








































 …友雅の体温を背中に感じながら、あかねはゆっくりと顔を上げると、蒼く澄んだ空の彼方へ視線を向けた。


 一瞬細められた瞳に宿るのは、微かな不安と迷い、そしてそれを包み込むような凛とした強い光。





 それは、何かを決意した輝きにも似て ―――…。










































――――― 互いの内に潜む想いを、二人は、まだ、知らない。









【 Fin. 】





2001.8.22(THU)UP.
【 +++ To 霧刃さま +++ 】

リクエストいただいた友雅さんとあかねちゃんのお話をお送りします。

まだ気持ちを伝える直前の、特に友雅さんの逡巡みたいなものを書いたつもりなのですが…。
どう考えても「切ない」の意味を履き違えているような気が(滝汗)
ああ、しかも友雅さんの大人の魅力は何処へ…(涙)

大変お待たせしてしまった上に、なんだかお粗末で申し訳ありません〜(@_@)
100HITありがとうございましたvv

++++++ FROM 陸深 雪



< Written by Yuki Kugami. 2001. / Site 【 月晶華 】 >



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