§ ――― 時折そよ、と吹く、頬に触れる風は、まだ僅かに冷気を孕んでいるようだった。
あかねは端近に寄り、彼女の頼みで庭を眺められるよう、少し巻き上げられている御簾の下から、月明かりに浮かび上がる庭園と、それを照らす月に視線を向けた。
夜空に浮かぶ、昇りかけの月の放つ金色の光は柔らかく、どこか暖かささえ感じられる。
曇りのない天に瞬く無数の星々が、その美しさにさらに彩りを添えている。
「きれい…」
ぽつり、と自分の口から洩れた言葉に、ふっとあかねはかすかな苦笑を浮かべる。
月がこんなに綺麗なものだと知ったのは、京に召喚されてからのこと。
よくよく考えてみれば、あちらの世界ではこんな風にゆっくりと月を眺めたことなど無かったし、晴れている時でさえ、濁った空気と明るすぎる人工の光に遮られて、その姿はいつもどこかぼんやりと霞んでいた。
むろん、星などまともに見えるはずもない。
だから、これほどくっきりと美しく輝く月も、それぞれに微妙に異なる色の光を湛えて、今にも降ってきそうなほどに頭上を覆う星も、あかねが今まで慣れ親しんできたものでは無い。
――― それなのに、眺めていると、時折たまらなく懐かしい思いがするのは何故なのだろう?
「そうやって月を眺めている姿は、まるで月の姫のようだね。 ――― 神子殿、還りたいかい?」
不意に艶やかでよく透る、魅力的な声が響き、あかねは物思いから意識を引き戻された。
驚いて振り返った先には予想通り、橘友雅がその端正な面立ちにどこか謎めいた微笑を湛えて、佇んでいる。
「友雅さん…?どうしたんですか?」
まだ宵の口とはいえ、日が暮れてからそれなりの時間が経っている。普通なら、何か突発的なことでも起こらない限り、滅多に誰かが部屋に訪ねてくることはない。
それに確か友雅からは、今朝、急に内裏での仕事が入ったため、数日の間は同行できないという連絡があったと藤姫から聞いている。それなのに。
――― なにか、あったのだろうか。
そんな不安が表情に表れてしまったのだろうか。友雅はくすっと笑うと、まるで彼女の心の内を読んだかのように、神子殿が心配するようなことは特に何もないよ、とさらりと言った。
「仕事の都合で先ほどまで左大臣殿とお会いしていたのでね、帰る前に姫君のご機嫌を伺いに来たのだよ」
「…そうなんですか? ありがとうございます」
律儀にお礼を言うあかねを柔らかな笑みを湛えて見ていた友雅は、ふと気がついたように彼女に問いかけた。
「ところで…神子殿は月を見ながら、何を物思いに耽っていたのかな?」
「えっ?」
突然の友雅の言葉に、あかねは戸惑った。
始めは、ただ月の美しさに誘われて、何とはなしに眺めていただけだった。
けれどそのうちに、何故か元の世界のことが思い出されて………それから ―――…。
「この間の………百夜通いの話のことを考えていたんです」
ぽつりとそう言うと、あかねは空にかかる月を仰ぐかのように、再び外へと顔を向け ―――一 瞬、その眩しさに眼を細める。
「彼女はどうしてその時、あんな条件を出したのかな………って。文塚を作って、供養をするような人だもの。きっと意地悪だとか、そんな軽い気持ちで言ったんじゃないと思うし………」
何処か心ここに在らずといった様子で、独白のように呟くあかねにふと興味を引かれ、友雅は彼女のそばまで歩み寄ると、自らもその傍らに腰を下ろした。
「 ――― それで、答えは出たのかな?神子殿」
友雅の問いにあかねは我に返ったように、え?と声をあげて振り向いた。そして軽く居住まいを正すと、思案するように小首を傾げながら、大きな翡翠の瞳を二、三度瞬かせる。
「そうですね………。答え、というか、私が勝手に想像しただけなんですけど………」
「よかったら、聞かせてくれないかな?姫君が憂い顔で月を見ながらどんな物思いに耽っていたのか…私としても、とても気になるところだからね」
「もうっ、またそんなこと………」
笑みを含んだ友雅の言葉に、あかねは軽く頬を染めてそう返しながらも、特に気分を害した様子は無く、その口元に少し困ったような笑みを浮かべる。
涼やかな春の夜気が庭から運んでくる微かな花の香りを感じながら、少女はそっと瞳を伏せると、ゆっくりと口を開いた。
「私 ――― その女の人は、つらい恋をしてたんじゃないかって思うんです。どんなにお互いが想いあっていても決して実らないような………。そんな、つらい恋を………」
あかねの少し恥ずかしげな、だがしっかりとした口調に、友雅は新鮮な驚きを覚える。
「なぜ、そう思うんだい?」
「それは ―――…」
少女は一瞬口ごもったが、やがて伏せていた顔を上げると、彼の方へ視線を向けた。
「もし、私だったら、って考えてみたんです。私が同じように「百夜通えば受け入れる」って言うとしたら、どんな気持ちの時なんだろうって。そうしたら ――― もし、すごく好きな人がいて、相手も自分のことを想ってくれていて、それでも何かの事情でどうしても一緒にいられない ――― そんな時だったら、私も彼女と同じように言うかもしれない。そう思ったんです。だって、たとえ決して結ばれないとわかっていても、相手と心が通じていたら ―――… とてもじゃないけど、そう簡単に諦めることなんて出来ないでしょう?でも、このままただ想い続けていてもどうにもならないことも、わかってるし、かといってどうすればいいのかもわからない。そんな時に、もしもすごく自分のことを好きだって言ってくれる人が現れたら ―――…」
ふとそこで言葉を途切れさせると、あかねはそっと口元に手を添え、何処か遠くに思いを馳せるかのように視線を漂わせる。
「”もしかしたら、その人を受け入れたら幸せになれるかもしれない。はじめから自分の縁は、今好きな人じゃなく、もう一人の人の方と繋がっていたのかもしれない ―――…”私ならそんなことを考えたかもしれないなって。 ――― きっと誰だって、幸せになりたいって思うことは止められないから………」
半身を明るい月の光に照らされながらそう語る少女の顔は、これまでの印象とはうって変わってひどく大人びて見える。
「 ――― では、神子殿は、彼女は男に百夜通いをさせることで、その縁があるのかどうかを証明させようとしたんじゃないかと思っているのかい?本当に、自分との縁があるのかどうかを」
「ううん、証明、というより………彼女は自分自身と賭けをしたんじゃないのかな………」
「『賭け』?」
あかねの思わぬ言葉に友雅は思わず尋ね返した。
「その男の人が、どれくらい自分のことを想ってくれているのか試したい気持ちも…男の人が「簡単には諦めきれない」って言う気持ちがわかるからっていうこともあった、とは思います。でも、もしもその人が百夜通いをやり遂げたら、そういう運命だったんだって諦めようって思ってたんじゃないかって。 ――― 本当は、運命なんて信じてなかったかもしれないし、それで諦められるとも思ってなかったと思う。だけど………これからもずっと、実らなくても今の人を想い続けるか、それとも百夜通ってくれた人を受け入れるか、多分その時、彼女は迷ってた。………決められなかった。だから………」
心の奥では、いつも遠い人を想っている。けれど ――― 時折よぎる、人並みの幸せを求める気持ちが彼女自身を迷わせる。
もしも、自分の幸せが ――― 運命が別の人と共にあるのなら、どれほど困難があっても結ばれるのではないか。そしてそれだけの困難を乗り越えても自分を想ってくれるなら、自分もいつか相手を愛せるかもしれない。
それに ―――…。
「 ――― もし、その話が噂になれば、彼女の想ってる人から何か反応があるかもしれない。今のどうしようもない状況を変えられるかも ―――…。そしてきっとそれが一番強い希望だったんじゃないか、って………」
「だから『証明』ではなく『賭け』だったと神子殿は思うのかい? ――― 彼女は自分の恋が実るかどうかの賭けをした、と」
あかねは友雅にこくりと頷きを返す。
「やり方は必ずしもよかったとは言えないと思いますけど…。彼女も、自分の身勝手で相手の人を試したようで後悔して………それで文塚を作ったんだろうし。でも、そういう気持ちだったのならわかるな、と思って」
とは言っても、そこまでするほど誰かを好きになるっていうのも、ちょっと恐い気がしなくもないんですけど…、と、半ば独り言のようにそうも言うと、あかねは急にはっと気付いたように、あの、私の勝手な想像ですから、と恥ずかしげに付け加える。
「ふうん………なるほどね」
「あの、友雅さん?」
珍しく真面目な表情で相づちを打つ友雅に、あかねが戸惑ったように声をかける。
「うん?ああ、いや…。まだまだ幼い姫君かと思いきや、いつの間にかずいぶん大人びたことを考えるようになったのだな、と思ってね。 ――― 一体、どういう心境の変化かな?」
にこやかに笑いながらもずばりと確信を突く指摘に、あかねは心を見透かされたように感じ、思わず、う、と詰まると顔を赤らめる。
――― だが、実際に友雅は内心では非常に驚いていた。
あかねの語った百夜通いの話は、少し前に、気分転換にとあかねと出かけた随心院で友雅が話して聞かせたものだ。
ただ ――― その時は、彼女は通い続けた男の方にひどく同情していて、女の方には特に興味を持っていない様子だった。だからこそあの時は、それを少女らしい、純粋で可愛らしい反応だと微笑ましく思ってもいたのだ。
しかし、今のあかねの言葉は明らかに恋をしている女性の心理を意識している。
この短期間の間に、何が彼女をこれほどまでに大人びさせたというのだろう………?
「 ――― やっぱり、友雅さんにはかなわないなあ。何でもお見通しなんだもの」
友雅の思いをよそに、あかねはふぅ、と小さく溜息をついてそう洩らした。そして、う〜んと唸りながらくるくるとよく動く翡翠の瞳をしばたたかせる。
「これといってはっきりとした何かがあるわけじゃないんですけど ―――… 最近、自分がこの世界にいることに、殆ど違和感を感じなくなってることに気がついたんです。………天真くんや詩紋くんとも話してたんですけど、ただ慣れた、っていう感じじゃなくて………まるで昔からずっと住んでいたような、そんな感じがすることがあって。八葉のみんなや藤姫、左大臣家の人たち…他にもイノリくんの友達の子たちや、お寺の人たちや、町の人たち………そんな、京に住んでいるたくさんの人たちとも仲良くなって、京のこともどんどん好きになって…。でも、ほんとに時々、ふっと急に元の世界にすごく帰りたくなることがあるんです。 ――― あっちの世界にいる、家族や友達のことを、思い出すんです ―――…」
切なげに眼を細めてそう語ると、あかねは軽く首を傾けて友雅を見る。
忙しなく二度、三度と瞬かれた瞳は常よりも潤んで見え、友雅は一瞬、いまにも涙が零れるのではないかと思い、僅かに心の奥がざわめくのを感じる。
だが、あかねは気丈にそれを堪えてみせた。
そして仄かな笑みを頬に刻む。
「…そうしたら、何だか恐いというか ――― わからなくなっちゃったんです。今はまだ、多分、帰りたい気持ちの方が強いけど、そのうちにもっと京のことを好きになって、この世界の人たちのことを好きになっちゃったら ――― 私、どうするのかなって。自分では、この世界を好きになる気持ちを止めることもできない、どっちの世界を選ぶこともできない。でも、最後にはどちらかを選ばなくちゃいけない ――― そんな時、どうするんだろうって………。そんなことを考えてたら、何故かわからないけど友雅さんの話してくれた百夜通いの話を思い出して………」
後はその女の人の方に考えが脱線しちゃったんですけど、とあかねは苦笑する。
友雅はそんな彼女に視線をやりながら、ぱらりと手にしていた檜扇を開くと、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「そうかい?私はてっきり、この世界で神子殿に想い人でも現れて、そんな憂い顔をしているのかと思っていたのだけれどね」
「 ――― ええっ?! そんな、違いますよ。そんな人、いませんってば!」
真っ赤になって慌てて否定するあかねに、おやおや、と友雅は返す。
「神子殿の隣はまだ空席か?それなら私にも機会はあるのかな」
「もうっ!友雅さんってば、またそうやってからかうんですから!!」
「はははは。ごめんごめん。少し冗談が過ぎたかな?」
小さく口を尖らせて真っ赤な顔で憤慨していたあかねは、友雅のその言葉にもう一度小さくもうっ、と洩らすと、気分を落ち着けようとするようにゆっくりと息を吐き出した。
深く息を吐いてどうやら心を落ち着けたらしい様子を見計らって、友雅は思い出したように、それはそうと、と口を開く。
「 ――― 先のことに、今からそれほど思い悩まなくともいいのじゃないかな。未来の事など、今いくら考えてみたところでわかりはしないんだ。その時になってから、自分の心に正直に決めればいい。………それが一番神子殿らしいと私は思うけどね」
「自分の心に正直に………?」
「そうだよ。『いつも通り』にね。その純粋で素直なところが君の魅力なのだから」
「……………」
またしても軽く頬を染めたあかねの姿を、友雅は暫くの間ほほえましげに見つめていたが、ややあってすっと立ち上がった。
その気配に気付いて顔を上げるあかねに、ふわりと微笑む。
「そろそろ夜も更けてきたからね。私は退散させていただくよ。あまりに長居すると、また藤姫にお目玉をくいそうだからね」
軽く片目を瞑ってそう言う友雅にあかねは一瞬きょとんとしたが、次にぷっと吹き出すとくすくすと笑う。
大方、いつぞやの朝、彼が唐突に訪ねてきたときの藤姫とのやりとりのことでも思い出したのだろう。
朗らかな声をたてながら明るく笑うあかねの様子を見ていた友雅は、そんな彼女の頭に優しく手を載せた。
「友雅さん?」
「…やっと、微笑んでくれたね、姫君」
不思議そうに見上げるあかねに、穏やかにそう言葉をかける。
驚いたようにその翡翠の大きな瞳が瞠られ、 ――― ややあって、あかねは今度こそ花のほころぶような笑顔を浮かべた。
「友雅さん、今日は色々話を聞いてくれて、ありがとうございます」
「ふふ、これくらいは何ということもないよ。私も神子殿と話が出来て楽しかったしね。 ――― ではね、神子殿。よい夢を」
「はい。おやすみなさい」
柔らかなあかねの声を背に受けつつ、友雅は部屋を後にした。
外へ出た途端、自らを明るく照らす光に一瞬瞳を細めた友雅は、その光に惹かれるようにふと頭上を見上げる。
視線を向けた先の夜空には、既に高く昇った月が明るく輝き、眩い光を辺りに投げかけていた。
――― その月の輝きは、どこか先ほどあかねの見せた屈託のない微笑みに似ていた。
「これ以上、京のことを好きになるのが恐い、か ―――…」
月を見るともなしに見ながら、友雅はぽつり、と先程の少女の言葉を呟いてみる。
異世界から召喚された少女は、思いもかけない言動でいつも自分を驚かせる。
百夜通いの話にしても、特別な意図があったわけではなく、彼女と話をしているうちに興に乗って、何とはなしに語ってみただけのことだった。
――― いや、或いは、彼女がどのような反応をするのか、知りたかっただけなのかもしれないが ―――…。
何にしろ、他人から聞いた話を自らと結びつけて真剣に考えるなど、自分には想像もつかないことだった。
所詮は他人の、しかも過去のことなのだ。我が身と引き比べてみることにどれほどの意味があるというのだろう。
しかしあの少女は、既にこの世にいない女や男の心情を思い、その行動の意味を彼女なりに必死に理解しようとしていた。
それは、何故なのか。
何かのきっかけがあったのは確かだろう。あの少女は本質的に、自然に他人の心を理解し、思いやる気質を持ってはいるが、先程の彼女の様子から察するに、それだけではないような気がする。
もしかしたら、少女自身にあの話を思い起こすような何かの変化が起こったのではないのか ―――…。
本人はまだ、気がついていないようだったけれど。
………彼女は『この世界』と言っていたが、果たして本当にそうなのか。
『この世界』ではなく、『この世界の誰か』に惹かれる ――― 或いは既に惹かれ始めている事を無意識のうちに、その特有の勘で感じ取っているのではないのか。
でなければ百夜通いの悲恋の話の女を連想したりはしなかっただろう…。
――― そこまで考えて、友雅はふっと唇を歪めた。
そしてゆっくりと頬にかかる艶やかな髪を掻き上げながら、小さく吐息をつく。
どうにも、先ほどから埒もないことばかりを考えているような気がする。
それも、自分が思い悩むべきことでは無いようなことばかりを ―――…。
「…どうかしているな、今日は。月に惑わされたか ―――…」
一つ頭を振ると、友雅は苦笑を浮かべたままそう洩らした。
空にかかる望月の発する金色の光は、自分を呑み込んでしまうのではないかと思わず錯覚するほどに眩く、それ自体に常ならぬ強い力が宿っているようにすら感じられる。
…そうだ、どうかしている。自分が、まだ幼さの残る年端もゆかぬ少女の些細な一言に囚われるなど ―――…。
月から視線を外すことが出来ないままに、内心でそんなことを思いながらも、少女の心にひっそりと住まう面影が誰なのか、知りたいようなそうでないような、何故か複雑な気持ちを友雅は覚えていた………。
【 Fin. 】
2001.6.11(MON)UP.
2001.8.7(TUE).加筆修正.
友雅さん、お誕生日おめでとう〜vv
< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >
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