――― 夜想 ―――
§
――――― あかねさす 君が心を 忘れかね
ふりゆく月に 面影ぞ見ゆ ―――――…
§
空に浮かぶのは、皓々と明るい光を地上に投げかける、僅かに欠けた上弦の月。
鏡のように澄んだ湖は満々と水を湛え、宵闇の静謐の中に清らかな気配を醸し出している。
その表面に浮かぶのは、純白の蓮華。
銀の糸の如き月光に、透けるような可憐な花影を浮かび上がらせる。
――― まるで、儚い幻のように。
…ふと、月に照らされる花が切ない面影を呼び覚まし、
それを追い払うかのように彼は強く頭を振った。
――――― 神泉苑。
かつて ――― ちょうど一年前に鬼と最後に戦った場所。
彼女と初めて出逢った場所。
そして。
――――― 彼女が龍神に召された場所 ―――――…。
彼は、何かを堪えるように僅かに瞳を細めた。
その視線の先にあるのは、湖に投影される月の姿。
何処からともなく吹いてきた、湿った水無月の風がその水面をさざめかせ、
音もなくそこに映りこむ月影を千々に乱してゆく。
まるで、彼の内に生じた揺らぎを表すかのように。
――― 自分はここにいる。いつ塵となるかもわからぬ器と、冷たく冷えきった心を抱えて。
既にその在るべき理由も喪われたというのに。
彼のひとは、もうここにはいないというのに。
………あの時、あの瞬間から、自分の時間は止まってしまった………。
まるで、彼のひとが喪われたという現実を拒むが如くに。
時が止まれば、その喪失を感じなくとも済むとでもいうかのように。
だが、どんなに心を凍らせようとも、身を切るほどの喪失感も胸を焦がす烈しい想いも
たとえ僅かでも癒されることなどあろうはずもなく…想いはかえって日々に強くなるばかり。
かつて、確かにひととなったはずであるのに、もはや何ものにも心は動かされることは無く、
涙すらとうに涸れ果て ―――…
いまの自分は、まるで昔のように、ただ呼吸をしているだけの人形に戻ってしまったかのようにさえ思える。
いや………。
本当は、既に果たすべき役目もその意志も喪ってしまった自分は、
人形や道具ですら無いのかもしれないが。
………それでも月日は無情に、そして緩慢に流れ去ってゆく。
自分だけを、時の狭間に残して。
それまでじっと水面に輝く月を見つめていた彼は、
不意に鏡のように月光を弾く湖面に誘われるかの如く、
ゆっくりと湖の中へと足を踏み入れた。
そしてそのまま、膝の上まで水に浸かりながら、
それを気に留めることもなく次第に湖の中心へと歩みを進めてゆく。
唯一つ、他の花とは離れて咲く白い蓮華の前で、彼は何かを感じでもしたのか
静かに足を止めると、凪いだ湖面に映る月影と可憐な蓮華に交互に目をやり………
次いで、ふっと暗い空を見上げる。
天高く輝き、光を降り注ぐ月の姿は、
記憶の底に眠る切なくも温かい記憶を呼び覚ます ―――…。
………自分に初めて心を与えたそのひとと想いを通わせたのも、
初めてそのひとの温もりを腕に抱きしめたのも、明るい月の輝く宵のこと。
自分をひとだと ――― 心を、感情を持っているのだと言って真摯に見つめてきた、
宝玉のように輝く大きな瞳。
そばにいたいといった自分の言葉に少し恥ずかしげに頷いてくれた時の、優しい微笑み。
ふとした時に、月や自然だけは遠く隔たれた世界と変わらず美しいと懐かしそうに語ったこと。
鬼との戦いの最中の、共に在った短い日々の間に交わしたほんの些細な一言一言も、
いまなおはっきりと覚えている。
いや、そのひとのことで忘れてしまった記憶など一つもない。
その面影、細かな仕草、甘やかな声、紡がれた言葉、向けられた想い…何もかも。
そう、その最期の瞬間すらも ―――…。
§
彼のひとの願いに応えて、雷鳴轟く暗闇を貫いて一条の銀光が走る。
祈るように両手を組み合わせて佇むそのひとの華奢な躰から立ちのぼる膨大な神気が
大気を震わせ、唸りをあげて激しく逆巻く風となって湖面を叩き、
曇天を引き裂く光に引かれるようにして数多の水滴を巻き上げる。
次いで湧き起こる巨大な水柱。
それは辺りの瘴気を呑み込むようにして天へと延びてゆき………そして龍神が現れる。
そのひとは恐れる様子も無く、ただ穏やかな笑みを浮かべて、細い腕を天へと掲げる。
龍神は清浄でありながら目を焼くが如き苛烈な光を纏いながら、
真っ直ぐにそのひとの元へと降りてくる。
それまで感じたことの無い、得体の知れない激しい恐怖と焦りを胸に、
そのひとを止めようと必死に差し伸べた自分の手は、届くことなく虚しく空を切り ―――…。
ただ茫然とする自分の目の前で光の龍はそのひとを呑み込むと、
辺り一帯を優雅に舞いながら一瞬の白光と共に瘴気を祓い、そして。
神泉苑の水底深くへ還ってゆく龍神の姿と共に、そのひとも消える。
自分の呼ぶ声に一度も応えることなく、ただ微笑みだけを残して ―――…。
§
その瞬間、冴え凍る月の如き白皙の美貌に、初めて表情が宿った。
きつく顰められた柳眉の下、双眸は瞼に閉ざされ、苦悩と深い悔恨の影をその面に色濃く刻む。
胸の内に渦巻く激情を堪えるかのように握りしめられた両手は小刻みに震え、
次第に血の気を失ってゆく。
風が艶やかな翠緑の髪をさらい、結われていた髪が解けて湖面に散り、幾重にも波紋を描く。
耳の奥が痛むような錯覚すら覚える静寂の中 ―――…
いま自分の抱いている感情が怒りなのか、苛立ちなのか、それとも深い哀しみなのか、
それすら判然としないまま、目も眩むような感覚の中で、
彼はその焼けつくような烈しい痛みと苦しみの衝動を内に秘め、ただその場に立ち尽くしていた。
いつの間にか噛みしめられていた唇から、押し殺したような細い吐息が洩れる。
…彼の中の烈しい感情の熱がようやく和らぎはじめたのは、それから暫くの時が過ぎてからだった。
それまで感情に翻弄されていた思考が戻ってくるのに従って、
今まで己の精神とは隔絶されていた現実の感覚が徐々に感じ取れるようになってゆく。
だんだんと水を吸って重くなってゆく狩衣が、彼の心だけでなく躰までも
冷たく凍てつかせてゆくのをまだどこか遠い意識の中でぼんやりと認識しながら、
静かに両の瞳を開いた彼は、深く澄んだ水底を見透かそうとするかのように、
ただじっと湖へと揺れる眼差しを向ける。
――― このまま湖の底へと引き込まれれば、
或いはあのひとの元へと辿り着けるのだろうか………。
それならば、いまここに在るこの命など、惜しくもない。
ひとめでもいい、もう一度、あのひとの姿を見られるというのなら ―――…。
いっそ甘美なほどの誘惑に、心が苦しいほどに締め付けられる。
なぜ彼のひとが龍神を喚んだのか。
その気持ちが痛いほどわかっていたからこそ、これまで生き存(ながら)えてきた。
それがそのひとの願いと知っていたから。
だが結局は、自分はもう元のようには戻れないのだと思い知っただけだった。
喪失感のあまりのつらさに、彼のひとと出逢う以前のように心を、感情を封じても、
その面影を忘れることなど到底成し得ず、
人形になりきることは出来なかった。
けれど、あのひとがいないこの世界でひととして自分が在る意味など、
見つかるはずもなく ―――…。
それでも、自分は命を絶つことすら出来ないままに、今日の日を迎えた。
自分に「生きていて欲しい」という、彼のひとの最後の願いを叶えるために。
それが、あのひとを止めることも呼び戻すこともできなかった自分に、
唯一出来ることだったから。
だがそれももう…限界だった。
ただ月に面影を恋うことしか許されぬのか。
この心が砕け散りそうなほどの苦しみと後悔と、
それよりもなお強い、募るばかりの恋心を抱いたままで。
…それでも生きろ、と。
――― それはいっそ残酷だ。
自分は弱かったのかもしれない。
けれど、かけがえのないものを犠牲にして、なおひととして生きてゆきたいとは思わない。
たった一人の愛しい人とすら、もはや見(まみ)えることも叶わぬというのに、
これからの自分の生になんの意味があるというのだろう。
そもそもいまここに在るのは、その心を過去への後悔に囚われた、ただの器。
そこに宿る命はただこの器を存在させているだけのもの ――― 「生きて」など、いない。
だがそれでも、心に刻み込まれた烈しい呵責の念が、
かけがえのない人を喪った苦しみを、痛みを、忘れることだけは許さない。
――― それならば、この命の終焉をもってこの苦しみを永久に凍りつかせてしまえれば、
どんなにか ―――…。
水の中、冷えて凍えた躰から、少しずつ力が抜けてゆくのがわかる。
ゆらゆらと揺れる水面に映る自分の姿は、現とも幻ともつかぬほど、ひどく頼り無げに見える。
自分が、いま確かにここに存在しているということを、知っているのに。
………その様子はまるで、自分の心に潜む願いを見ているかのようだ。
…――― この“現実”を否定したいと ―――…。
ゆっくりと再びふり仰いだ夜空は一片の翳りもなく澄み渡っている。
その中ほどにかかる白々とした光を投げかける月は、いつの間にか中天にさしかかり、
一年前の「あの日」を今まさに迎えようとしていることを彼は知る。
冴え冴えとした月影は、彼の心の中のあらゆる物思いをそぎ落とし、
唯一つの純粋な想いだけを浮かび上がらせる。
………ああ。
たとえ月下の幻でもいい。
もう一度、あのひとのあの優しい笑顔をこの瞳に映すことが出来たなら…。
いや ――― 違う。
もう一度あのひとの姿を見たい。そして今度こそ共に在りたいのだ、自分は。
――― どうしても。
もはや現実では叶わぬと知りつつも、
日々に募る焦がれる気持ちを抑えることも止めることもできない。だから。
あのひとが自分の呼びかけに応えてくれぬというのなら……。
自分があのひとの元へゆく。
たとえ、その最後の願いを破ることになると知ってはいても。
もうこれ以上は………耐えられない。
「――― あ、かね ―――…」
白く色を失った唇から吐息と共に掠れるような声が零れる。
初めて呼んだ、その人の真名。
そのたった一つの響きだけが、いまも甘く切なくこの心を滾らせる。
龍神の神子でも、八葉でもなく。
ひとであるのかそうでないのかも関係ない。
ただ「私」が「あかね」を求めている。誰よりも、何よりも。
――― それだけだ。
躰は湖の水に熱を奪われ、とうに自由は利かなくなっていた。
それでも、その美しい月の光を宿す双眼に切なげな色を浮かべながら。
天へと向かって、彼は必死に手を伸べる。
夜空にかかる月の姿に追い求めるのは、狂おしいほどに恋い慕う、愛しい面影。
――― 胸の中にこれまで秘め続けてきた強い想いは、とうとう堰を切ったように溢れだし、
知らず知らず、唯一つの音となってその唇を震わせた。
……………逢いたい……………。
―――――――――― しゃらー…ん…――――――――――…。
その時、不意に辺りの静寂を破って、涼やかな鈴の音が響いた。
「…!?」
それを聞いた瞬間、自らの内なる想いに囚われていた彼の瞳が、驚きに見開かれる。
一瞬のうちに現実へと意識が引き戻され、彼は僅かに不安げな面持ちで柳眉を歪めた。
脳裏に、一番思い出したくない一つの光景が蘇る ―――…。
………忘れようのないその音色。
神の降臨を導く妙なる響き。
それはかつて、彼のひとが龍神を喚んだその時に、
激しい焦燥と絶望と共に聞いた音………。
『 ――― 時は満ちた…』
凛とした、荘厳な声が彼の脳裏に直接響く。
『そなたの想いが、一輪の花を目醒めさせた』
「な、に…?」
『 ――― 在るべき者は、在るべき処へと還るのが、定め ―――…』
それだけ告げたかと思うと、声は響いてきたときと同様、唐突にそこでふっつりと途切れた。
そして。
―――――――――― しゃらー…ん…――――――――――…。
再び、あの清々しい鈴の音が、何かを報せるかのように高く鳴り響く。
何が起こっているのか理解できないまま、
声の有する神気に射抜かれたように動けないでいる彼の前で、
突然天空の月の一点に眩い光が宿ったかと思うと、そこから闇を縫うようにして、
彼の目前に咲く純白の蓮華めがけて白銀の光の筋が降り注いだ。
そして光は、蓮華に達すると一瞬強く発光し、光の粒子を鱗紛のように周囲にまき散らす。
「 ――― っ!」
眩しさに思わず瞳を細めた彼の目の前で、
辺りを漂う光の粒はゆっくりと一つの形へと収束し、そして ―――…。
純白の蓮華の上に僅かに浮かぶようにして、一人の少女の姿が現れた。
不可思議な力の余波が、熱気を伴って風のようにその躰を中心として広がり、彼の頬を撫でてゆく。
少女の朱鷺色の柔らかな髪が、宙を舞う光の粒と共に肩口でふわりと揺れる。
「……………」
突然の目の前の出来事に信じられない思いを抱きながら
、彼は暫くの間、凍りついたようにその場に佇んでいた。
その瞳は、目の前の花の上に横たわる少女へと向けたままで。
ややあって、はっと気がついたように肩を揺らすと、恐る恐る少女に向かって手を伸ばす。
………幻ではないことを願いながら。
震える指先が、そっと彼女の白い頬に触れる。
眠るように瞳を閉ざした少女の呼吸と体温が、ゆっくりと指先を伝ってその生の息吹を感じさせる。
それを認識した次の瞬間、彼は冷え切って上手く動かない己の躰のことも忘れて、
夢中で少女の躰を抱き竦めていた。
光の粒子を纏った少女の躰は驚くほど軽く、華奢なその輪郭とも相まって、
一瞬彼を不安にさせる。
だが、触れている腕から、そして指先から感じる確かな温もりと鼓動が、
これが夢ではないことをはっきりと物語っていた。
「………う、ん…」
と、不意に少女の桜色の唇が動き、小さな吐息が洩れた。
それに気づいて食い入るようにその顔を見つめる彼の前で、少女は僅かに身じろぎする。
その白い頬に影を落とす長い睫毛が二度、三度と震える。
「 ――― あかね…?」
恐る恐る呼びかけると、その声に応えるかのようにぱちりと少女は目を開けた。
真っ直ぐに自分に向けられる、輝く大きな双眸は、翡翠。
その美しい深く澄んだ色に、一瞬息をのむ。
――― その時、彼は長い間忘れていた「色」というものを思い出したような気がした。
彼は声もなく、ただ腕の中の少女に真摯な眼差しを向ける。
少女の夢の中を彷徨っていたかのような翡翠の瞳が、次第に焦点を結び…。
ゆっくりと何度か瞬かせ、彼の琥珀の双眸を捉えると、驚いたようにその瞳が瞠られた。
「………やすあき、さん…」
吐息のように零れた甘い声に、
躰の奥からこみ上げてくる言いようのない想いで胸が熱くなるのを彼は感じた。
知らず、抱きしめる腕に力がこもる。
もう二度と、この腕の中からすり抜けることの無いように。
「わたし………?」
自分の躰を力強く抱きとめる腕を感じながら、
頭の中にかかる靄(もや)を払うように、あかねは意識を巡らせようとする。
『そうだ。 ――― 私、龍神を喚んで、そして ―――… 』
もっと深く思い出そうとした瞬間、切ないほど懐かしい人の声が耳に響いた。
「還ってきて…くれたのか…?」
まだ、どこか茫然としたように紡がれる、低く掠れた声。
そこにひどく心細く、頼り無げな雰囲気を感じ取り、何か応えようとしたあかねの頬に、
熱い雫が一粒、零れ落ちた。
はっと上を見上げた少女の瞳に、透き通る双眸を潤ませたまま、
真っ直ぐに自分を見つめる端正な面立ちが映る。
陶器のように滑らかな肌を伝って、月の光を弾きながら流れ落ちる透明な珠に、
あかねは思わず指を伸ばした。
「………泣かないで………」
自分でも自覚しないままに、気がつくとあかねはそう呟いていた。
――― 誰よりも一番大切な、守りたかったひと。
自分の全てを賭けて愛している、唯一人のひと。
龍神を喚んだのも、ただこのひとを守りたかったから。
………けれど自分のしたことは、ただの独りよがりだったのかもしれない。
声もなくただ静かに涙を流すそのひとの姿に、あかねの心に深い後悔の念が湧き起こる。
いま、はっきりと思いだした。
龍神を喚んだあの時、
必死に手を延ばしながら自分を呼んだ泰明の悲痛な声を。その眼差しを。
全身で「行くな」と叫んでいたことを…。
このひとに、いまこんな表情をさせているのは…これほどに苦しめてしまったのは、
紛れもなく自分なのだ。
頬を伝う涙を拭おうとさしのべた指先に触れる冷たく冷えきった肌が、
これまでの彼の孤独と心の傷を表しているかのようで、彼女は思わず大きく顔を歪める。
瞼裏がじわりと熱を帯びるのを感じ、あかねはそれを堪えるようにきつく歯を噛みしめた。
――― 私は、守るつもりで、
大切な人を苦しみと長い孤独の中にたった独り、置き去りにしてしまったの ―――…?
あかねは胸が締め付けられるような気持ちで、そっと彼の頬を伝う涙を拭う。
「ごめん、なさい…ごめんなさい………」
知らず知らずに唇から洩れた言葉に触発されたかのように、翡翠の瞳から大粒の涙が溢れだす。
あかねは細い両腕を投げかけるようにして泰明の首筋に回すと、きゅっと抱きついた。
ほかにもっと伝えたいことがあるはずなのに、何と言えばいいのか、あかねにはわからなかった。
ただひたすら、ごめんなさいと呟きながら、
少しでも彼の凍えた躰と心を温めることが出来るよう、祈るような気持ちで抱きしめる。
…小さな声で何度も繰り返し囁かれるあかねの言葉が、優しく彼の凍てついた心に染み通り、
ゆっくりとその氷を溶かしてゆく。
言葉に込められたあかねの想いとその躰の温もりに、これまでの孤独も苦しみも…
何もかもが全て、少しずつ癒されてゆくのを感じ、
一瞬瞳を伏せた泰明の唇から、自然に安堵に似た吐息が零れた。
――― いまやっと、自分はかけがえのないひとをこの腕に取り戻したのだ。
「あかね…」
自分の首筋に縋りつくようにして嗚咽を堪えながら、細かく震える細い肩が愛しくて、
泰明はそっと少女の肩に手を添え ――― そして優しくその柔らかな朱鷺色の髪を梳いた。
「もう、一人だけ先に行ったりするな…。私を置いて、行かないでくれ…」
耳元で囁かれた懇願するような、どこか熱のこもった切ない声に、あかねの心は震えた。
息苦しいほどこみ上げてくる感情で胸がいっぱいになり、ただ声もなく頷くことしかできない。
「あの時………龍神様を、喚んだ時………泰明さんの声が、聞こえたの。「行くな」って…。
私も「還りたい」って、思ったのを覚えてる。
でも…あの時はもう、その力が、無かったの。意識も殆ど無くて…」
泰明の肩に顔を埋めたまま、途切れ途切れながら、ぽつぽつとあかねは語る。
龍神を喚ぶことに、神子はその時に持てる全ての力を注ぎ込む。
それが癒されるには永い時を必要とし ――― 眠っている間に龍神の意識と同化してしまい、
ひととして存在し得なくなることもしばしばあった。
それこそが「汝を捧げよ」という、龍神の言葉の真意。龍神を喚ぶことの代償 ―――…。
「もし、あのままだったら…躰の力が元通りになっても…きっと、意識は戻らなかった。
………でも、泰明さんがもう一度、私のことを呼んでくれたから…。
だから、目を醒ますことができたの」
――― 眠っている自分の心に直接響いてきた、自分の「名」を呼ぶ声。
そしてそこに込められた想い。
それが、永い微睡みにたゆたい、薄れかけていた自分の意識を解き放ってくれた…。
あかねはゆっくりと顔を上げると、涙で潤んだ瞳を向け、ふわりと微笑みを浮かべた。
まだ、自分のしたことへの後悔に胸は痛んでいたけれど、それでも…
心からの想いを込めて、告げる。
「呼んでくれてありがとう。泰明さん。………嬉しかった………」
その言葉とあかねの愛らしい微笑みに引かれるように
、泰明の顔が徐々に綻び、柔らかな笑みを形作る。
泰明のあまりに綺麗な微笑に、あかねはまた涙が溢れてくるのを止めることが出来なかった。
龍神を喚んで使い果たした力を癒すため、眠りについていた間 ―――…
彼女の意識は夢現のような状態でどこともつかぬ場所を漂っていた。
そうして眠っていた間中、とてもつらく悲しい誰かの夢を見ていたような気がする。
泣きたいほど苦しくて、求められているのがわかっているのに、助けたいのに、
応えることも手を差し伸べることも ――― どうすることも出来なくて、
それがどうしようもなく歯痒くて。
心が押し潰されそうなほど、つらかった。
―――― いま思えば…あれはきっと、泰明の心の苦しみだったのだ。
それほどまでに自分を想ってくれていることが嬉しくて…
けれど一番大切な人を今まで苦しめたことが胸に痛くて。
どうすれば、これまでの彼の苦しみに報いることが出来るのかはわからないけれど、
少しでも自分が傷つけてしまった泰明の心を癒したかった。
彼のために自分が出来ることがあるなら、きっとどんなことでもするだろう。
――― そう。
もしも彼が、今もまだ、自分を必要だと言ってくれるなら ―――…。
あかねは内心に渦巻く後悔と不安に苛まれながらも、
それをも上回る、目の前の人に抱く強い想いに堪えきれなくなり…
胸の奥から絞り出すようにして、たった一つの願いを小さく問いかけた。
「 ――― ずっと、そばにいさせてくれますか………?」
どこか不安げな、けれど切ない想いを含んで響く澄んだ声に、
泰明は胸を突かれるような感覚を覚え、
驚いたように一瞬、その双眸が瞠られた。
自分の腕の中でこちらを見上げている少女の、僅かに揺れるひたむきな眼差しに、
自分の中の彼女への想いが押さえきれないほど一気に募ってゆくのがわかる。
知らず、泰明の笑みが深くなった。
二人の視線が結ばれ、琥珀と翡翠の瞳に互いの姿だけが映る。
泰明は抱きしめる腕に力を込めると、全ての想いを込めて低く囁く。
「…嫌だと言っても、もう絶対に離さない」
僅かに掠れ、熱っぽく紡がれた言葉が、あかねの心に甘い響きを伴って染み込んでゆく。
「――― はい ―――…」
ぽろぽろと涙を零しながら震える声と共に頷くあかねに泰明は顔を寄せ、
そっとその目尻に口づける。
「もう、泣くな、あかね…」
「いいの。いま、すごく幸せだから………。
苦しいくらい嬉しくて胸がいっぱいで…止まらないだけだから………」
頬を染めながら、あかねはけぶるような笑みを可憐な面に湛えて、
涙で潤んだ大きな瞳で泰明を見つめる。
その微笑みと眼差しに胸が熱くなるのを泰明は感じ ―――…。
見つめ合う瞳がどちらからともなく閉じられ、ゆっくりと唇が重なる。
互いの存在を、その想いを確かめ合うかのように。
――― そして、二人の時が動き出す。
――――― 天空にかかる月の柔らかな琥珀色の光が、
見守るかのように優しく二人に降り注いでいた ―――――…。
【 Fin. 】
2001.7.18(WED)UP.
2001.7.25(WED)加筆修正.
< Written by Yuki Kugami. 2001. / Site 【 月晶華 】 >
最初の和歌(もどき)は、私が見よう見まねで作った自作です。
体裁、文法等の間違いもあるかと思いますが、どうかご容赦下さい(汗)
≪ ≫