《 露時雨 》











§









 日も暮れて、急に冷え込んだ為か、辺りの草木には一面に露が降り、しっとりと濡れている。
 細い輪郭を夜空に描く、姿を現しはじめたばかりの上弦の月は、淡く頼りないぼんやりとした光を辺りに投げかけている。
 そんな心許ない弦月の灯りの下では、深閑とした宵闇は更に濃く、何か得体の知れないものを秘めて沈んでいるかのようだった。


 …少し疲れてきた目を休めようかと読んでいた書から視線を外した泰継は、掲げられた格子から暗がりに淡く浮かび上がる庭の緑へと双色の瞳を移す。
 そのまま、ただ静かに外を眺めていた彼の耳に、不意に何かを告げるかのような羽音が響いた。
 泰継はふっと眉を顰めると、するりと立ち上がり、庭に面した簀子縁の方へと近づいてゆく。

 そうして微かな月明かりに照らされた一際立派な松の大木の枝に顔を向け、そこに浮かび上がる白い姿を認めると、泰継は首を傾げた。


「霜夜…?」


 そこにいたのは、彼が星の姫の邸に、何か事が起こった時の連絡用にと預け置いていた式神だった。
 訝しげに瞳を細めた泰継に応えるかのように、霜夜と呼ばれた白い梟の姿をした式神は小さくほう、と鳴くと、ばさりと羽ばたいて、差し伸べられた泰継の腕にふわりと舞い降りる。
 そして嘴にくわえた花と淡い色の紙を彼に向かって差し出した。


 泰継はそれを受け取ると、肩へと移動した霜夜を乗せたまま、室内へと戻る。
 先ほどまで書物を読んでいた文机の前に座り直しながら、ゆっくりと手にしている紙を開いてゆく。

 丁寧に折り畳まれ、花に結わえられたそれは、星の姫の庇護下にある風変わりな少女からの文だった。
 開いた先に現れたのは、まだ習いたての童が綴ったかのような辿々しい拙い字。しかし、一字ずつ丁寧に記された文字に、ふと必死に慣れない筆を手に文を書く少女の姿が思い浮かび、泰継は僅かに表情を和ませる。


「そうか、明日は物忌みか」


 燈台の灯りにかざすようにして文字を目で追っていた泰継は、そうぽつりと呟く。

 星の姫によれば、龍神の神子は五行の力を自在に扱える力を有するが故に、五行の力に敏感で、日の五行属性と己のそれとが合わない日に外気に触れると、それだけで穢れを受けることもあるのだという。
 神子の物忌みについては確かに、先代の書き付けにそのような記述があった…などとそんなことを考えながら、この文の送り主…星の一族の末裔である紫姫が「龍神の神子」だと示す、花梨という名の異世界から来た件の少女を、泰継は思い浮かべる。




 肩にもつかぬ長さの、艶やかな淡紅の髪。
 丈の短い風変わりな衣に華奢な身を包んだ、まだどこか幼さの残る娘。


 ―――だが、何よりも印象的だったのは、その瞳だった。

 突然それまでいた処とは異なる世界に放り出された淋しさと不安を宿しながらも、真っ直ぐにこちらを見上げてきた若草色の大きな瞳。



 それは全てをありのままに映すが如く、深く澄んで、輝いていた。



 加えて、まだよく知りもしない自分に何のてらいもなく、あの少女は純粋な笑顔を向けてくる。
 それは私の陰陽の力を目にしても変わらなかった。驚きこそすれ、忌避する様子は全く見せなかったのだ。
 京の者でさえ、陰陽師の操る式神にすら嫌悪感や恐怖を露わにする者が多いというのに。

 …大したこともしていない自分に真っ直ぐな瞳を向けながら、助けてくれてありがとうと、嬉しそうに顔を綻ばせるのだ。



 ―――その様子は、私に今までに感じたことのない温かさをもたらした。
 いつの間にかその変化を心地よくすら感じている自分に、何より彼自身が驚いている。




 …そして…。




 泰継はそこでふっと手元の文に視線を落とす。


 文字が綴られているのは、淡香色の薄様の料紙。それに添えられた女郎花の花。仄かに薫る香。

 …どれも、自分が好むものばかりだ。


 北山を一人彷徨っていた彼女を見つけ、そこで龍の宝珠を得たことから、彼女が真実「龍神の神子」であるのかを判断するためこれまでにも幾度となく少女とは接してきたが、当然の事ながら、少女は京の風習など全くと言っていいほど知らなかった。



 それなのに、自然にこの様な気遣いをする。



 確かに何かの折りに、文の出し方や花の事について訊ねられた記憶はあるが、その時自分が教えたのは、ただの一般常識だけにすぎない。







 ――――とにかく、何処か不可思議な少女だ。





 だが、今は―――…。





 泰継はゆっくりと瞳を閉じると、ふっと白皙の面にあえかな笑みを浮かべる。







いまはまだ、この温かなものに身を委ねていてもいいかもしれない。
 …決してそれは不快なものではなかったから。









 湧き起こるそんな思いと共に再び見上げた夜空には、次第に高みへと昇りゆく、眩いばかりの光を放つ上弦の月。


 部屋の奥深くまで差し込む白い光が、自身の胎にまで染み通ってくるかのような奇妙な感覚を覚えながら、泰継は静かに筆を取る。











…―――――そうして訪れた「光」が自身の胸にもたらしたものを、彼はまだ、知らない。










【 Fin. 】





2001.11.19(MON)UP.


< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >


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