§
…――――― ふわり、と。
仄かに冷たく、だが柔らかな欠片が、滑るように頬に触れた。
薄蒼に霞む冬空に浮かび上がるかのように、淡く陽光を弾くそれは、
羽のように柔らかく舞い降りる ―――――…。
「…―――?」
久しぶりに特に急ぎの仕事もなかった為、気を整える為に北山へとやって来ていた泰明は、不意に袂を揺らして通り過ぎた冷たい風の齎らしたものに瞳を細めた。
――― 今、微かに肌に触れ、そして溶けるように儚く消えた、仄かな感触。
何故かそれに気が惹かれ、そのままその場に足を止めると、緩やかに頸を廻らせる。
その視界に映るのは、辺りに生い茂る丈高い樹々に降り積もり、彼の踏みしめている地面をも覆う一面の白雪。
それは頭上を覆う樹々の梢の隙間からちらちらと洩れる光に、柔らかな白さを見せている。
昨夜の内に降り積もった雪のせいもあってか、深山に漂う空気は午(ひる)前とは言え普段以上に清澄で身を切るようだった。
だが、射し込んでくる光は薄陽の中に仄かに陽気を含んで明るく辺りを照らしだし、枝葉の合間から僅かに覗く冬空も、淡く透きとおった蒼い色を湛えているのが見える。
…そんな中、風が降り積もった雪の欠片を散らして行ったのか、或いは何処からか運ばれてきたのか…。
深い色を宿した双眸が見つめるその先で、幾つかの白い欠片が花のように柔らかに宙を舞っていた。
それは今し方吹き抜けた風の名残のように、ゆっくりと舞い降りながら、零れ落ちる陽の光に小さく瞬いて純白の世界に彩りを添える。
総てを包み込むかのような雪の静寂にひっそりと沈む、冬枯れた樹々の狭間に風花が煌めく様は彼の目を惹きつけ、何処か幻想的な趣すら感じさせた。
…あの少女もまた、このような景色を「美しい」と…そう、言うのだろうか。
感情を素直に顕す、澄んだ大きな瞳を輝かせながら。
白華を散らす、遙か高みに広がる空を仰ぐ泰明の脳裏を朧気にそんな思いが過ぎる。
同時に思い浮かんだものに、徐に、ふっとその柳眉を顰められた。
――― 或いは、それは予感、とでも言うべきものだったのかもしれない。
「…―――…」
泰明は何事か思案する様子で、その場で暫し腕を組む。視線は冬の空へと向けたまま。
そして細い吐息と共に一瞬、瞳を伏せると、踵(きびす)を返し、迷いのない足取りで歩き出す。
………風花は、既に止んでいた。
§
それから暫くの後 ――――― 左京一条土御門邸・西の二の対。
北山の地からさほど時を置かずして其処へと辿り着き、慣れた様子でその対の主の房を目指して渡殿を抜けた途端、「それ」は泰明の眼に飛び込んできた。
一番奥まった房の前、まだ陽も高いというのに貌を隠すでもなく濡れ縁に佇んでいる、小さな人影。
寒さ避けなのか、丈の短い袿を羽織って立っているその傍らを時折擦り抜ける冷気を孕んだ微かな風に、肩よりも幾分伸びた鴇色の髪が上気した頬を撫でるように揺れている。
勾欄に両手を掛け、上体を預けるようにして空を窺っている少女 ――― あかねは、こちらに背を向けている為か、それとも完全に目の前の一面の雪景色に気を取られているからか、泰明には全く気付く様子もない。それどころかこのまま放っておけば、そう幾らもしない内に、例の「散歩」と称して外に飛び出して行きかねない。
( ――― 案の定、と言うべきか…)
内心でそんな感想を洩らしつつ、泰明は一つ息を吸うと、徐に唇を開いた。
「 ――― 神子」
「!!」
背後から唐突に響いた、ひどく聞き覚えのある低く抑えられた声に、あかねはびくり、と肩を震わせ、勢いよく振り返った。
泰明の声によほど驚いたのか、まじまじとこちらを見返している翠の瞳は大きく見開かれている。
「や…泰明さん?」
漸くそれだけ声を押し出した少女の前で、泰明はちらりと庭の方へと視線を流す。
「何をしていた?」
質問というより確認に近い声音に、あかねは一瞬、答えに詰まる。
「…あの、…ええっと…」
曖昧に視線を彷徨わせながらぼそぼそと呟くあかね。
対する泰明は眉一つ動かす気配も無く、ただじっと琥珀の双眸を向けている。
その視線の強さが何やら微妙に不機嫌さを表しているようで、何とも言えない居心地の悪さを覚える。
(ま、まだ未遂、なんだけど…)
そう、言い訳がましく胸の中で呟いてみるが、口に出す事は出来なかった。
もともと陰陽師という職業柄か、八葉の中でも群を抜いて勘の鋭い処はあったが、それに加えて近頃の泰明は自分の言動に関しては妙に聡いのだ。
まるで予測していたかのように、先手を打って釘を差される事もしばしば。
今にしても、こうして濡れ縁から身を乗り出している姿まで見られては、どう考えても言い逃れは出来そうもない。
先程から物言いたげに此方を見ている泰明の様子からしても、もうすっかり自分の思惑などお見通しなのは明らかだ。
それに何と言っても彼の機嫌を損ねるのはやはり…何よりも堪える。
――― ならばこういう場合には、早く謝ってしまうしかない。
「…ごめんなさい」
あかねはちょこんと素直に頭を下げた。
泰明は腕を組むと、決まり悪げに肩を竦めて俯いているあかねへ視線を落とす。
「………」
横たわる沈黙が、耳に痛い。
思わず様子を窺うようにそうっと貌を上げると、仕方がないといった風情で溜息を零した泰明とちょうど目が合ってしまった。
何処か緊張したような…不安げな貌でこちらを見上げる少女を目にした途端、何故かそれ以上、口にする気が失せてしまい、泰明は内心でそんな自分に苦笑した。
何度言っても一向に無鉄砲を改める様子の無い彼女に、このような事はするなと誡めるべきなのに、どうにもその先を口にする事が出来ない。
「…ともかく、このままでは風邪を引く。中に入れ」
素っ気ないが幾分和らいだ声に、あかねはほっとしたようにはい、と頷くと泰明の傍らまでやって来た。
吹き抜けてゆく寒風に思い出したように小さく躰を震わせたあかねの細い肩を、泰明はそっと引き寄せ、そのまま御簾際まで下がらせる。
――― と、その時、二人の視界をふわり、とひとひらの小さな白い影が、緩やかに横切った。
次いで、あかねの肩に添えていた手の甲に落ちたひとひらの残した、僅かに濡れたような感触に、その来し方を追うように視線を上げる。
見上げた空は、先程のそれに比べて淡い靄がかかったかのように霞み、今は雪空に近い相を呈していた。
房の内へと流れ込む風に乗り、天を仰ぐ彼の頬に、髪に、そして纏う衣にと降る風花は少しずつその数を増し、差し伸べた指先に触れたその一瞬に星の煌めきにも似た様々な形を垣間見せ、仄かな冷たさを残して消えてゆく。
「綺麗…」
「…――― 六の花、か」
風に舞い、何処かへと消えてゆくその真白き欠片。
風花へと腕を伸ばしながら、大きな瞳を輝かせるあかねを目にしているうちに、何故かふとそんな詞が泰明の胸に浮かんだ。
不意に小さく呟かれたその名に、あかねが不思議そうに小首を傾げる。
「…むつのはな、ですか?」
「雪の事だ。…六花、とも言うが」
幾つもの姿を持つ雪の結晶のその形が花に似ている処から来たのだろう、などと誰かが言っていた事を思い出しながら、泰明は鈴のように涼やかな声に答え、すいと視線を少女へと戻す。
そこでまだあまり得心がいっていないらしい事をあかねの表情から悟り、彼女の掌に指先でその呼び名を象ると、あかねは嬉しそうに微笑い、頷いた。
そうしてまた楽しげに舞い降りる雪を目で追う少女の姿に、泰明はそっと瞳を細める。
あかねの感情はひどく素直だ。
ほんの些細な事でさえ敏感に感じ取り、それは言葉にしなくとも、その時々の感情が気の色に、纏う気配の温度に ――― 何よりもその表情に表れる。
喜びも。
戸惑いも。
そして怒りや哀しみや優しさも。
それぞれの感情の持つ温度も、その柔らかさも烈しさも、驚くほど素直に伝わってくる。感情など無いと思っていた、この自分にさえ。
それとも…そう思うのは、誰よりも彼女の心を解りたいと自分が思っているからなのか。
だが何にせよ、その変わりゆく様は鮮やかで、見飽きることがない。
そう、それはまるで ―――…。
「…ああ」
「?」
思い出したかのような小さな呟きに、少女が彼の方を振り仰ぐ。
見上げる翠の瞳に気づいているのかいないのか、ふと琥珀の双眸が和らいだ。
「この雪は ――― お前に似ているな」
「えっ…」
吐息と共に洩らされた柔らかな声に、あかねは視線を逸らす事も出来ずに固まった。
と、泰明は何を思ったか、口を噤んだまま、じっとそんな彼女を凝視する。
まじまじと見つめられてあかねが思わず顔を紅くしかけた頃 ―――…。
「神子も一所(ひとところ)に大人しく留まっていた試しがない」
さらり、と何やらズレた言葉が降ってきた。
さらにその上、とどめのように、すぐに何処かへ消えてしまう処がよく似ている、としれっとした貌で続ける泰明。
言われたあかねは頬を赤らめたまま数瞬、絶句し…ややあってがくりと肩を落とした。
――― 思わずちょっと期待してしまった自分が、何だか哀しい。
気恥ずかしい気分を抱えたまま、あかねは何も言い返せずに沈黙する。
何か一言言いたいのはやまやまなのだが、上手く言葉が出てこないのだ。
そうして、なんとなく面白くない気分で、ふと横目で泰明の様子を窺えば。
泰明は悪戯っぽい瞳でこちらを見ながら、僅かに口の端を綻ばせていた。
…どうやら彼は、あかねの表情の変化を観察して楽しんでいるらしい。そう、確信犯なのだ。
つまりは ――― 完全にからかわれている。
いつもなら容赦ない口調で抜け出した自分を窘(たしな)める筈の泰明が、今日はあまりきつい事を言わなかったので油断していたが…。
もしかしたらこれはやっぱり、まだ少し不機嫌なのかもしれない。
まさかこういう反撃が待っていたとは。
確かに、元々言いつけを守らなかったのは自分なのだから、強い事は言えない。
言えない、のだけれど…。
少しばかり、照れ隠しの八つ当たりが混じっている事を自覚しながら、あかねはふい、と横を向く。
「…私、雪みたいに溶けて消えたりしませんけどっ」
「そうだな」
あかねの可愛らしい憎まれ口に、泰明はあっさりと頷いた。
そして ――― 。
…ふわり、と。
あかねは背中から温かな温もりに包まれる。
そして耳元で響く低く透る艶やかな ――― 声。
「 ――― でなければこうして掴まえてなどいられない…」
「………!!」
二の句も継げす、目を白黒させて硬直している少女を余所に、泰明はあかねの細い肩に回した自分の腕にもう一方の腕を絡めると、そっとあかねの瞳を覗き込む。
…と、再び澄んだ双眸に至近距離で見つめられたあかねが、堪らないといった様子で音を上げた。
「あっ、あのっ…」
「どうした?」
「〜〜もうっ、泰明さんっ、わざとでしょう!」
「…さあな」
「泰明さんのいじわる〜っ!!」
けろりとした様子でその華奢な躰を封じ込めるように、ぎゅっと抱きしめる腕に力を籠めた泰明を、あかねは真っ赤に頬を染めたまま上目遣いに軽く睨む。
拗ねているように見せようとしているのか、きゅっと唇を引き結んでいるのが却って愛らしく、泰明は笑みを零した。
甘さを含んだその微笑を目にしたあかねは、とうとう観念したように顰めていた眉を解く。
――― と、泰明が抱きしめていた腕の力をゆっくりと緩めた。
「…すまない。怒っているか?」
「怒ってません。…敵わないなぁって…思っただけです」
そっと囁いた泰明に苦笑して、あかねは柔らかく頸を振る。
同時に、その細い肩から力を抜けた。
「お前は時々、不思議な事を言う…」
あかねを柔らかく両腕に包み込んだまま訝しげな貌をしている泰明に、少女は思わずくすりと小さく笑った。そのまま、ことんと彼の胸に寄りかかる。
…ややあって、腕の中の少女が安心したかのような緩い吐息を洩らすのを泰明は感じる。
――― それが、彼にも何とも言えない安堵感を齎した。
出逢う度、新しい表情を見せ、惹きつけられて目を離せない少女。
その身に纏う、清浄で鮮やかな存在感。
それなのに、ふと、この一瞬が夢ではないかと…瞬きの間に消えてしまうのではないかという、胎から凍りつくような畏れを覚え、その温もりを確かめたくなってしまうのは…得難い幸福の中に在るからだろうか。
そしてそれを喪う事を、心底畏れているからこそ。
そう思うと、切なくも温かい、言いようのない心地がこみ上げてくる。
あかねに出逢うまで、喪う事の真の意味すら、知らなかったというのに。
…――――― 一瞬の内に変わりゆく様々な感情を、想いを、
かたちにして紡ぎ出す。
儚くも鮮やかに「心」を映し、
見る者の胎(うち)を潤す花 ―――――…。
…彼女こそが、雪の結晶だ。
泰明の胸の胎だけで紡がれたその言葉を、少女が耳にする事は無かった。
ただ、彼の腕に身を預けたまま、その手の上に柔らかく重ねられた細い指先が、沁みいるように温かい。
…――――― 二人が静かに見守る中で、やがて空を舞う風花は、緩やかに降り積もる雪へと変わり。
真白の大地に静かに、柔らかく舞い降りていった。
【 FIN.】
2003.1.15(WED)UP.
< Written by Yuki Kugami. 2003. / Site 【 月晶華 】 >
*壁紙提供…【 ピトリさま 】
――― Postscript 〜 後記 〜 ―――
お年始創作第壱弾という事で、ほのぼの風を目指してみました。 悩んでない強気な泰明…なんだか久しぶりな気が…(笑。問題あり?) そのせいか感覚が戻ってません〜〜、ああ〜(T-T) 気持ちにゆとりがあって明るいイメージを書いてみたかったんですけど、 何やら「麗月・弐」泰明ver.のようになってしまった…ような。
…でも今回の泰明って、これじゃもしかして電波…?(笑) しかもピュアっ子でなく"いぢわる"っぽい?(汗)
――― ま、まあ時にはいいかな〜?という事で。
実は泰明はいつもより「したたか」っぽく、あかねは「可愛い」っぽく、がコンセプトだったり。 (←「ぽい」なのか(爆))
…それにしてもこの出来は…(滝汗) やはりドーピング(註:風邪薬)でぼうっとした頭で書いたのは、マズかったかも〜(>_<)
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