――――― Siesta ―――――
















§









 …――― 穏やかな微睡みの中、柔らかなものがさらさらと頬をくすぐる感触を、彼は朧気に捉える。








 そして閉じられた瞼の上に投げかけられる、仄かな光の気配。
 時折そよ、と触れてゆく、僅かに湿り気を含んだ涼やかな風。
 仄かに薫る、甘く優しい薫り。








「………」








 うっすらと瞳を開けると、既に蔀戸は上げられているのか、淡い陽射しが御簾越しに房の中まで射し込んでいた。
 小さく響く鳥の声に頸を廻らせれば、僅かに朝焼けの色を残して蒼く高く晴れ上がった空が垣間見える。




 視界に飛び込んできたその澄んだ蒼に泰明は腕を掲げ、一瞬、眩しげに琥珀の双眸を眇めた。
 幾度か瞬きを繰り返し、周囲の明るさに慣れさせる。


 そして…傍らに感じる優しい重みに惹かれるように、視線を自らの腕の中へと落とした。





 …そこに眠るのはひとりの少女。

 淡い朝の光を受けて、その優しい弧を描く頬も風に微かにそよぐ柔らかな鴇色の髪も、ほの白く輝いて見える。
 いつも毅(つよ)い輝きと素直な感情を宿す翡翠の瞳も今は閉じられ、そこにはあどけなさすら感じられた。





 ――― と、不意に、泰明の胸元に添えられていた少女の指先が、微かに動く気配がした。


 不意に離れた温もりを無意識のうちに探しているのだろうか。
 少女は幾度か身動ぎをして泰明に寄り添うと、そのまま、甘えるようにその胸に頬をすり寄せる。



 ややあって…ふ、と柔らかな吐息と共に、その口元に微かな微笑が浮かんだ。
 そんな彼女の仕草に、怜悧な泰明の表情が自然、和らぐ。





 ひとが触れ合う距離は、心の距離にも通ずるのだと…そんな事を言ったのは、誰だったか。





 微笑を湛えたまま眠る少女を目にして、ふとそんな思いが脳裏を過ぎる。





 ひとは無闇に触れられる事を良しとしない。それはある意味、己を護る為の本能のようなものなのだろう。

 故に、触れられる事を畏れないのは、心を許し、相手を受け容れているからなのだ、と。





 …それを耳にした時の自分は、兄弟子達にも疎まれ、ひとに触れる事も触れられる事にも慣れていなかった。
 しかしその時の自分にはその事実に意味は無く、何の感慨も無かった。
 モノである己がひとと触れ合う事など、そもそもありはしないのだと、頑なに「心」を凍らせて。


 けれど今は ―――…知っている。


 心を通じ、想いを重ねる事も。
 互いに触れ、温もりを分かち合う事も。
 そこから生まれる喜びも、時に優しく温かく包み込み、時に激しく求める愛おしさも…総て。





 この場処は安心できると言わんばかりに彼に寄り添うように身を預け、安らかな表情で寝息を立てている少女の温もりがふわりと心の中にまで染み入るような感覚に、泰明は微かに瞳を細める。








 ――― それはまるで、柔らかな春の陽射し。
 渇いた大地を惜しみなく潤す清水。
 澱んだ澱を吹き流す涼やかな風。
 生い茂る森の翠。

 自分の胎を温め、照らし、充たしてゆくもの…。








 …これが、「心」…「愛しい」という気持ち、なのだと。
 それを実感する度、腕の中の少女の存在が奇跡にも等しく思える。








 …――― だからなのかもしれない。

 ふと、触れて、確かめたくなる事がある。

 其処にそのひとがいる事を。
 その傍に在る自分を。


 …そして、そのひとを今、この時、確かに腕にしている事を。








 泰明は、その想いに促されるまま、彼女の方へとその手を伸ばした。

 さらり、と少女の貌に降りかかる淡色の艶やかな髪を梳いた長い指先がそのまま頬へと伸ばされ…躊躇いがちに触れる。
 触れた指先から少しずつ伝わる温もりと、彼女の纏う、優しく柔らかな気配が、ゆっくりと染み通るように泰明の胎を充たしてゆく。












…それは、生まれて初めて得た筈の、
かけがえのない温もり。

だが、何故かそれは生まれる前から知っていたかのような…
まるで自分の一部ででもあるかのような、そんな身近な感覚すら覚える。








一度手にしてしまったら、もう、手放す事は出来ない ―――…。













 泰明は徐に片肘をつくとゆっくりと身を起こした。
 その動きに添って肩口から癖のない翠緑の髪がさらさらと滑り落ちる。
 降りかかった幾筋かの髪が鴇色の髪と混じり合い、少女を鮮やかに彩った。








 …だが、少女はまだ、目醒めない。
 朝陽が零れ落ち、透けるような輪郭を見せる無防備な横貌に、睫毛が色濃く影を落とす。

 琥珀の双眸に映るその光景は優しく、美しく、そして…愛おしい。








 それを見つめているうちに湧き起こった衝動に任せ、泰明はゆっくりと身を屈めた。
 そして少女の細い首筋、その耳朶の下にそっと唇を近づける。








 …白い肌に浮かび上がるように、淡い薄紅の花が咲く。
 まるで彼の胎の想いを写し取ったかのように。








「…ん…」





 その、気配を無意識のうちに感じたのか。

 伏せられた瞼を縁取る長い睫毛がぴくりと震え、小さな吐息が少女の桜色の唇から零れた。
 細い眉が微かに顰められる。





 …目を、醒ます…だろうか。





 真っ直ぐに澄んだその翡翠の瞳が自分の姿を映す様を見たいような、けれどもう少し、この柔らかな温もりを感じていたいような、どちらともつかない心地の中で泰明はじっと少女を見つめる。





 そんな泰明の心中など何も知らないだろう少女は、瞳を開ける様子も無く又身動ぎすると、その貌を隠すかのように彼の胸元に埋めてしまう。


 …それきり、少女が動く気配は無い。
 やがてゆっくりと息づき始める華奢な肩と共に、規則正しい呼吸が聞こえ始める。




 ――― どうやら彼女は再び、深い眠りに入ってしまったらしい。



 そう悟るのと同時に、どことなく淋しいような、安堵したような複雑な感慨を覚え、泰明は小さく苦笑する。
 そうして、華奢で柔らかな少女の躰を包み込むように抱き寄せると、その柔らかな髪に頬を寄せ、ゆっくりと瞳を閉じた。












 叶う事ならば ――― 愛しい少女と同じ夢路を辿れる事を願いながら。















 …それを見守るかのように。
 清かな風が優しく二人の髪を撫でながら、そっと吹き抜けていった。













§













…――――― その後。




珍しく午過ぎまで寝過ごした泰明が、
自らの耳元、覚えのある場処に同じように施された
ささやかな“お返し”に気づくのは ―――――…




まだ、もう少し、あとの事…。





















【 FIN.】





2002.9.14(SAT)UP.
< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 「月晶華」 >


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