…――――― それは 優しく、愛おしい ひとときの夢 ―――――――… ![]() § ――― 梢の揺れる音に混じって、上空高く啼き渡る鳥の声が耳に届く。 其処に根を下ろす樹々は空高くその青々とした枝葉を茂らせ、さながら 既に初夏の気配を色濃く漂わせ始め、 …――― ゆっくりと胎へと染み込み、その奥の澱みを流し去ってゆくかのような清々しいそれに、少女は口元を和ませる。 その森の色を宿す双眸は、温かな光を湛えて一点へと優しく注がれていた。 傍らの ――― 束の間の眠りをたゆたう穏やかな面影を、見護るかのように。 § その日。 からりとした陽気と風に誘われて、漂う透き通るような空気と美しい緑を楽しむようにゆっくりとその森の中をそぞろ歩いていた神子は、視界の端に認めたものに思わず、その足を止めた。 明るい陽の光に輝く翠の瞳が、驚きに大きく見開かれる。 其処にいたのは、確かに泰明だった。 殆どひとの手の入れられていない、何もかもが在るがままの姿を見せているその森の奥まった場処。歳を経た大木が ――― 彼はそのうちの榊の樹の幹に 怜悧な印象を与える磨き抜かれた玻璃の双眸は今は伏せられ、長い睫毛がその目元に深い影を落としている。降り注ぐ木洩れ陽がその白皙の面にゆらゆらと朧な淡影を刻み、珍しく、解かれたままになっている絹糸のような髪がその肩から流れ落ち、頭上から零れる陽の光を受けて艶やかに輝く。 …そうして軽く片膝を起て、僅かに俯いて無造作に両の腕を組んだだけの姿は、いつもの凛とした立ち姿に比べてあまりにも無防備に見えた。 神子はそんな泰明の姿に瞳を見開いたまま、暫しの間、時を忘れて見入っていた。 ややあって、ふと思案するように小首を傾げると、そうっと足音を忍ばせつつ、彼の下へと近づいてゆく。 だが、すぐ傍まで近づいて様子を窺ってみても、閉ざされた瞼はぴくりとも動く気配は無かった。 (…うそ…ほんとに眠ってる…?) 少女は口元に手を当て、まじまじと繊細に整った横貌を見つめた。 元々人前で眠る事は勿論、そもそもうたた寝というもの自体する事があるのだろうかなどと思わせてしまうような印象が、泰明にはある。 それは絶えず気を張りつめている、というよりは普段から隙が無いという方が近いかもしれない。しかも彼はひどく「気配」というものに敏感なのだ。 それもこれも皆、泰明の陰陽師としての (どうしよう、かなぁ…) 少女はその場に立ち尽くしたまま、暫し迷う様子で考え込む。 こうしてうたた寝をしている泰明は珍しい、というだけでなく、静かに目を閉じている彼は常よりも纏う空気が和らいで…とても心地よさそうに見えた。 それに友雅や鷹通あたりからちらりと聞いた処では、陰陽師はとても忙しい職なのだという。それも晴明の直弟子ともなれば、持ち込まれる仕事の量は他の陰陽師などの比ではないらしい。 加えて、無駄な事は嫌うが手を抜く事は知らないようなその性格。 …ひどく疲れているのかも、しれない。 ならばこのまま、彼が自然に目醒めるまで…。 この空間を、壊したくなかった。 だが、そんな事を思えば思うほど、それ以上近づき難くなり、彼女は立ち往生してしまっていた。 気に敏感な泰明の事、これ以上不用意に動けば何時、目を醒ましてしまうかもしれないと思うと躊躇ってしまうのだ。 かといって穏やかに微睡んでいる彼をもう少し見ていたい誘惑にも抗い難く ―――…。 ――― このまま立ち去るべきか、それとも。 少女は二度、三度と躊躇って。 とうとう息を詰めるようにして一歩、二歩と近づき ――― その傍らにちょこん、と座り込む。 それからそろそろと隣から貌を覗き込み、目覚める気配の無いのを確認すると、神子はほっと胸をなで下ろした。 …それからふと、やけに緊張していた自分に気づいてくすりと笑みを零す。 少女は、泰明の凭れている樹の幹に自分も背を預けて腰を落ち着かせると、頭上の遙か高みに広がる空を振り仰ぐように頸を廻らせた。 初夏の風の吹き渡る其処は、大地もまた青々とした緑に覆われ、しっとりと湿った下草は柔らかく、辺りには濃い緑の薫りが漂っていた。見上げた先、新緑の葉が折り重なるその合間から覗く空は高く澄み渡り、目にも眩しい程の蒼色を映している。 そんな中、神子と傍らで眠る泰明の頬を撫でるように、背後から 髪を梳くように擦り抜けてゆく涼やかな感覚に柔らく細められた双眸が、穏やかな光を宿した。そして再び泰明を振り返る。 そこで、風に煽られたのか、彼のその白い頬に一筋の翠緑の髪がかかっているのが目に留まる。 ふとそれが気になった少女は、彼を起こさないように細心の注意を払いながら、華奢な指先で柔らかな髪をそっと払い、肩へと梳き流した。 …と。 その時、…ふ、と微かに泰明の貌が綻んだように見えた。 それを見た神子の貌にも知らず仄かな微笑が浮かぶ。 ――― 何か、良い夢でも見ているのだろうか…? 思わずそんな事を考えた時、泰明の伏せられている睫毛が、微かに動いたように ――― 見えた。 「…泰明さん…?」 我知らず呼びかけてしまってから、神子はしまった、と口元を覆った。 ――― が。 ほんの数呼吸ほどの間を置いて。 閉じられている瞼を縁取る長い睫毛が、もう一度緩やかに瞬いた。 眩しげに細められた琥珀色の瞳に陽の光が射しこみ、澄んだ光を放ち。 そして ―――…。 「…――― 神子」 低く零れ落ちた声と共に、泰明はふわりと微笑った。 起こしてしまった事を謝ろうとしていた神子は、間近でそれを目にして言葉を失う。 大きな瞳を見開いたまま、瞬きもせずに自分を見つめている少女に、泰明は微笑を納め、頸を傾げた。 「神子?」 「…!? あ、はいっ?」 はっと我に返ったように目を 「あの…ごめんなさい、起こしちゃって」 思い出したようにあたふたと返事を返す少女に、泰明は何か問いたげな貌をしつつも、いや、と緩く頭を振った。 「神子のせいではない。…お前が来た時に目は醒めていた」 「でも…」 申し訳なさそうにしながらも、頸を傾げて問い返す少女に、泰明は仄かに瞳を和ませた。 「神子の気が心地良かった。だからもう少し感じていたくなった」 「………は、はぁ」 臆面もない泰明の言葉に恥ずかしげに視線を泳がせた神子は、…なぁんだ、と安堵とも落胆ともつかぬ複雑な表情で溜息をついた。 確かに、気配にも気づかず熟睡していたというよりは泰明らしいと言えるとは思う。 とはいえ、そうだとすると起こしたくはないけれど離れがたくて くるくると表情を変えつつ、なにやら考え込んでいる神子。 傍らの泰明は何を言うでもなく、何処か興味深そうな貌つきでそんな少女を眺めている。 と、ふと思い出したように神子が彼の方へ振り向いた。 その視線に泰明は頸を傾ける。 「何だ?」 「…え? いえ、今更なんですけど、泰明さん、どうして此処にいたのかな、と思って」 「ああ。私は ―――…」 問われるままに答えかけた泰明は、そこで不意に口を噤んだ。 自分は…別段、此処に特別な用があってやって来た訳では無かった。 ただ、何故か午後になって急に、何処かで消耗した己の気を整えてこいと晴明に陰陽寮から追い立てられたのだ。 確かに、ろくに満足な休息も取れぬほど、ここの処仕事が立て込み、多少の疲労と気の乱れを感じてはいた。だが泰明とて師に指摘されずとも、己を律する術くらいはとうに心得ている。 それ故、晴明の言は彼としては釈然としなかったのは当然だが、有無を言わせぬ調子で追い出されてしまっては是非もない。 ――― そうして足の向くまま、何気無く立ち寄ったのが、此処、糺の森。 そこに前触れもなくやってきた神子。 …これをただの偶然だと言えるのか。 一体、何が偶然で、何がそうでないのか。あの飄々とした人物が何処まで 何やら自分でも気づかずにいたものを見透かされたようで、何とも言い表し難い心地を覚える。 「 ――― お師匠め」 「や、泰明さん?」 ぽつり、と溜息混じりに零れた呟きに少女が目を丸くした。 訳が判らないのだろう、きょとんとした貌で、それでも何処か心配そうにこちらへと貌を近づける。 間近で響いた神子の声に、泰明はふっと貌を上げた。 視界に映る真っ直ぐに自分を見つめている深い翠の大きな瞳に、泰明の口元に、次第に微苦笑にも似た表情が浮かぶ。 ――― 普段なら、恐らくはまた無断で邸を抜け出したのだろう少女に、不用心だとでも窘めている処なのだろう。 だが、今は何故かそのような気は起こらなかった。 そんな事よりも、少女の存在が 姿を見、温かな気配を感じ、その澄んだ声を聞き ――― そして。 …泰明は、不意に何かに惹かれるように神子の方へとその腕を伸ばした。 細い少女の肩に触れた手が、そっと彼女を引き寄せる。 「………!!」 突然、抱き寄せられた神子は目を見開いて硬直した。 だがそれには構わず、もう一方の腕も廻してしっかりと抱きしめる。 腕の中の華奢な躰は柔らかく、温かく。 その温かさが触れている処から滲み入ってくるような不思議な感覚と共に、泰明の胎に穏やかな、安らぎにも似た心地が充ちてゆく。 そして鼻腔を掠めるのは、自分の纏うそれよりも幾分甘く、柔らかな菊花の香。 ――― 神子の、薫り。 「…やはりこの方が良いな…」 「な…!?」 微妙な発言に真っ赤な貌で慌てふためく少女を余所に、泰明は抱きしめたまま、額を彼女の細い肩に預けて瞳を伏せる。 驚きと羞恥でさらに目を白黒させた少女は、何か言いたげに泰明へと視線を落とし。 ――― ふと、唇を噤んだ。 頬に影を落とす睫毛も数えられそうなほど近くに見える泰明の横貌は、ひどく穏やかで ――― あの微睡んでいた時よりも、ずっと安らいで見えた。 とても気持ちよさそうに自分を抱えている彼の表情のあまりの柔らかさに、それを見つめている神子の肩から少しずつ力が抜けてゆく。 こうしていると、とても心を許されているような…何とも言えない気持ちになる。 それは普段の泰明から、何処かひとに触れる事も触れられる事にもあまり慣れていないような…そんな雰囲気を感じるからだろうか。 とはいえ、普段はさらさらそんな素振りなど見せないでいる癖に、こういう時はいつも不意打ちなのだ。 …その度、どぎまぎしてしまう。 「…――― もう。今だけ、ですよ」 「…そうなのか?」 照れ隠しに小さく呟くと、それを耳ざとく聞き咎めた泰明がちらりと神子を見遣る。 夢現のようでいながら、何処かからかうような光を湛えた瞳。 だが真摯なまでに外される事のないそれに根負けしたように、神子はやがて口元を緩めて小さく吐息をついた。 間近に見つめる澄んだ琥珀の双眸の奥に映る自分の困ったような貌を見つけて、くすりと笑う。 「………ずっと、傍にいますから…」 ふる、と首を振りながら、頬を染めたまま、小さくそう言うと。 少女は躊躇いがちに解かれたままの泰明の髪に指を滑らせる。 ――― ゆっくりと触れてくる、少女の指先。 緩やかに繰り返されるそれは、寄せては返す波にも似ていて。 まるで真綿が触れるかのような繊細な感触に、意識が融けそうになる。 「…神子」 「はい?」 なんですか?と頸を傾げた少女の貌を、暫しの間じっと見つめると、泰明はすうっと瞳を閉じる。 「…いや。 …―――… 」 「え?」 ぽつり、と微かに囁かれた声は空気に溶けて、神子の耳には届かなかった。 問い返してみるも、泰明は少女の肩に額を預けたまま、応えない。 と、不意に肩に乗せられていた重みが増した。 驚いた神子は慌ててその躰を支えようと泰明の背へと腕を廻す。 その耳元で深く静かに繰り返される呼吸。 固く閉ざされた瞼。 力を失い、自然に寄りかかってくる躰。 …どうやら完全に熟睡しているらしい。 「………もしかして………」 ――― 寝惚けてた、…とか? 唖然として暫し、泰明の貌を見つめたまま、神子は半信半疑で呟く。 あの泰明がまさか、とも思うが、嘘のようにこうも思い切りよく熟睡されてしまうと、あながち的外れとも思えなくなってくる。 まだ少々照れた貌のまま、暫し泰明の寝貌を見つめていた神子は、しかし結局、まあいいか、とそれ以上追求するのをやめてしまった。 それよりも今は、心ゆくまで休ませてあげたかった。 彼が言いかけた言葉の続きは、何時でも訊く事は出来るのだから。 そんな事を思いながら翠緑の髪を梳いていた指が、 …触れて、その温もりを確かめて。 次いで彼の口元が仄かな微笑を湛えて綻んでいるのを見、くすぐったいような心地を覚えながら神子は瞳を伏せる。 こんな表情を見せられると、いつも護られているばかりの自分でも彼に何かをしてあげられるのだという気がして、素直に嬉しかった。 普段は誰よりも冷静で、凛とした風情を見せているのに。 自分を護ってくれる背中も、抱きしめてくれる腕も、低く囁く声も、何もかもが大人の男性を感じさせるものなのに。 時々、ひどく可愛らしく思えるのが不思議だった。 それでも ――― 深い眠りに落ちていても、自分を抱きしめている腕の力は変わらない。 神子は暫く彼の貌を見つめていたが、やがて包み込むように、柔らかく抱きしめた。 それからそっと自分の貌を泰明の頬へと寄せる。 「…目が醒めたら、ちゃんと教えて下さいね…」 歌うように涼やかな、そして優しい声が眠る泰明の上に緩やかに落ちる。 …――― まるで、その言葉に応えるかのように。 さわ…と微かに吹く風が枝葉をそよがせ、少女の前髪をさらさらと揺らして通り過ぎていった。 【 光射す庭 】 ― 了 ― 2003.6.1(SUN)UP. < Written by Yuki Kugami. 2003. / Site 【 月晶華 】 > *Title画像&壁紙提供…【 NOIONさま 】 (※タイトル画像のお持ち帰り&転載は禁止です。) |