<+++ こげこげ ぱにっく +++











+++ こげこげ ぱにっく +++



★☆★☆★





「いい天気〜…」




 からりと晴れ上がったあるぽかぽか陽気の日の午後。


 あかねは左大臣邸の自分の房の前の濡れ縁に座り込み、ぽやんと空を眺めていた。

 普段なら、真っ昼間から端近に無防備に座り込んでいたりすれば、血相を変えて藤姫が飛んでくるところだが、今、小さな星の姫君は女房と何かの用事で出払っていて、ここにはいない。
 加えてそんな時のお目付役の頼久と天真は武士団の方の仕事に数日前からかかり切り、詩紋は大事な約束があるとかで、朝早くから出かけている。


 …今は、あかねひとり。
 これ幸いと、あかねは久しぶりにのんびりと自由を満喫していた。


 と。


「…神子、失礼する」


 低い、よく透る声が響き、すらりとした長身痩躯の青年が姿を見せた。
 内心で一番逢いたいと思っていたひとの姿に、途端、あかねの顔が嬉しそうに綻ぶ。


「こんにちは、泰明さん」


 にこっと可愛らしく笑って挨拶するあかねに、泰明も仄かに微笑する。
 少女はいそいそと房の内へと引き返すと円座を取り出し、泰明へと勧めた。促されるまま、彼がすっと腰を下ろすのを見届け、あかねもその前に座る。

 …そこで、ふっと鼻先を掠めた風に違和感を覚え、彼女は、ん?と首を傾げた。


「あれ?」
「何だ?」


 少女の様子に気づいた泰明がそう問い返す。


「ん〜、泰明さんから、なんだかいつもと違う匂いがする、ような…」


 そう、それも香とは違う、なんだか美味しそうな匂いが…。


「匂い?」


 何のことだ、と一瞬、首を傾げた泰明は、次の瞬間、何か思い当たったように僅かに顔を顰めた。


 次に泰明がひょい、とその袂から無造作に掴みだして見せたのは。


 程良く全体が茶色に色づき、少々いびつな円形をした、ふかふかと柔らかそうなモノ。
 そしてふわりと香る、香ばしい匂い…。


「パン…?」
「ただの「ぱん」ではない。「こげぱん」だ」


 まさかね、と思いつつ口を突いて出たあかねの台詞を、大真面目に泰明がそう訂正する。

 確かにそう言われてみれば、少々、茶色具合が濃い、ような気もする。


「今日は、コレの事で神子に用があった」
「これ、ってこのパン、じゃなくて、焦げパンの?」
「そうだ」


 こっくりと頷く泰明に、何の事やら事態が呑み込めていないあかねは、不思議そうな顔をする。



 …何故、泰明はパンなど持って来たのだろうか。
 そもそも京にはパンなど存在しない筈なのに。
 それにそのパンの事で自分に用、とは一体、何なのか…。



 ――――― と、いきなりその手に掴まれていたモノが、むくりと動いた。



「…? え?」

 驚いてぱちぱちと瞬きをしながらよくよく見てみると、もぞもぞと動いていたソレにはほんのおまけ程度ではあったが、どうやら手足らしきものがついているらしい、事が判った。



「…!? ちょ、ややや泰明さんっ、それっ…」
「何だ?神子」
「それっ、手が、足があるっ…!」
「当然だ。「こげぱん」だと言った」
「だからなんで焦げパンに足があるんですか!! …それになんか動いてる〜!?」



 平然としている泰明に噛みつくようにあかねはそう返した。…が。



「式神は動く事が出来なければ、意味が無いだろう」



 さらり、と付け加えられた言葉にあかねはきょとんと目を瞠った。


「式神…なんですか?」
「そうだ」
「だって泰明さん、「焦げパン」だって…」
「コレにそう名づけたのだとお師匠が言っていた」


 コレを見た詩紋が「こげぱん」と言うのだとお師匠に教えたらしい、と泰明が続ける。


「詩紋君がって…ああ」


 そこで何となく得心がいき、あかねは頷いた。


(そう言えば、この間詩紋君、晴明さまがあっちの世界の食べ物にすごく興味を持ってるって言ってたっけ…)



 確かその為に今日、詩紋は実際に作って見せるのだと張り切って朝早くから晴明邸に出かけて行った…筈だ。

 そして恐らく詩紋は晴明にパンを作って見せたのだろう。
 小麦粉や塩、油はこの時代にもあるし、牛乳などもあるらしい。それだけ揃えば、何とかそれらしいものを作る事も出来るだろう。

 という事は、コレはその試作品の内の一つか何か、だろうか?


 つらつらとそんな事を考えていたあかねが、何の気なしにその「こげぱん」という名らしい式神を掴んでいる泰明の手元に視線を遣った、その時。


 ぴょこん、と唐突にソレが顔を上げた。
 予期せず、目が合う形になってしまったあかねは、思わず言葉を失う。



「…あの〜…。これ、もしかして…」



 引き攣った笑いを浮かべつつ、恐る恐るあかねがソレを指さすと、泰明はひどくイヤそうな顔をした。
 …その反応に、あかねは自分の予想が正しい事を確信する。


 少々扁平な顔の右側にあるのは、お団子のように束ねられた、どこかでよ〜く見覚えのある形の、髪の毛のようなもの。


 …そう。泰明がその手にしている式神・「こげぱん」。

 いままで全体が茶色がかっていた為に気が付かなかったが、それはまさしく、泰明の姿形を象っていた。


 あかねに物珍しげにしげしげと見つめられて居心地が悪くなったのか、泰明は日頃あまり感情を露わにしない彼にしては珍しく、きゅっと柳眉を寄せたまま苦い顔をすると、手に持っていたソレをぽとっと床に降ろした。
 と、泰明とよく似た風体の焦げパン…「こげやすあき」とでも言うべきソレは、ちょこんとお行儀よくその場に体育座りなどし始める。




 …じーっ。




 そのまま、こげやすあきは特に何をするでもなく、くきっと顔を上に向けてぼうっと何処かを見つめている。
 のっぺりとしたその顔からは、何を考えているのかは判断し難い。



 …もしかしたらなんにも考えてなどいないのかもしれないが。



 それはともかく、泰明とよく似た姿を持つソレは、全くもって驚く程のマイペースぶりまでもが何処ぞの誰かさんそっくりで、こんなモノを作る度胸のある人物はたった一人しかいないとあかねは思う。




「…ね、この子作ったの、晴明さまですよね」
「………」

 確信しているらしい口振りのあかねに、泰明は黙りこくったまま、深〜く溜息をついた。

「 ――― お師匠の考える事はよく解らない。私の形代など、このような食料で作ってどうするつもりだったのか…」


 その困惑した様子にあかねは内心苦笑した。

 生真面目で無駄や無意味なことを嫌い、地の白虎・橘友雅からは「カタいねぇ」などと言われている泰明とは違い、彼の師は非常に「柔らかい」人物だった。
 ほんの「遊び心」だと言いつつ、陰陽の力を使ったりする事もしばしばで、そういう処が泰明にはさっぱり理解出来ないらしい。



「それで、この子がどうかしたんですか?」
「…くっついて離れぬのだ」
「え?」
「無理に剥がそうとすると酷い声で、叫く」
「…はあ」


 顰め面で辟易したように答える様子に、あかねは曖昧に言葉を濁す。


 泰明をして「酷い」と言わしめ、彼を辟易させる程の叫き声…。
 …あまり、想像したくはない。


 そうしてちらりと視線を投げれば、こげやすあきは床にきちんと座りながらも、確かにしっかりと泰明の狩衣の裾を片手で掴んでいるのが見えた。


◇◆◇ぎゅっ。◇◆◇



「でも、これ…元はただのパン、ですよね? それがどうして式神になっちゃったんですか」
「…ちょっとした「みす」だとお師匠は言っていたが」

 あまり師である晴明の言を信じていないのか、どことなく疑わしげな様子で泰明が言う。

「ミス…?」
「何かの力の干渉を受けたのか、魂を得てしまったのだと。…原因は判らぬが、それが私に憑いてしまった」
「憑いたって…でも、この子悪いモノじゃないんですよね?」
「名を付けて縛ってある。だから害は無い。このような精は、名を付けて縛る事で逆らえなくなる代わりに、形を得て式神になる。…尤もコレの場合は元から形があったが」
「それで「こげぱん」って名前が付いてるんですか?」
「そうだ。しかしお師匠曰く、コレには何か欠けた所があるらしい。それがなければ完全にはなれぬのだと。だから私と同じようにコレにも顔に「呪」が施されている」


 言われてあかねはまじまじとソレを見遣る。
 と、ソレも、どことなく興味深そうな雰囲気でじっとこっちを見返した。

 …とは言っても何せ「こげぱん」なので、表情は判らず、気配でそう察しているだけなのだが、明らかにソレは自分の意思であかねの方を見つめているのは、判る。

 みょ〜な外見とはいえ、きちんと「生きて」いるらしい、などと思いながら、あかねはさらに観察する。

 片手を広げたよりも少し大きめのあんパンのような形のソレは、確かに泰明と同じように、その顔らしき部分の色が半面で双色に分かたれている。
 泰明との違いはといえば、その部分の色が黒い、という事だろう。


 あかねは眉根を寄せながら、僅かに首を傾げる。


 何の為の呪なのか知らないが、コレにも呪がかけられている、と言う。
 泰明の場合を考えるに…「呪」とはやはり、顔の左側を覆っているこの「焦げ」の事、なのだろうか。



「「呪」…。じゃあ、呪が解けたら、もしかしてもうこんな風にずっとくっついてたりしなくなる…?」
「判らない。そのような事をお師匠も言っていたが、呪を解く事もコレを剥がす事もお師匠には出来ぬらしい。私もどうすれば良いのか判らない。だが神子ならば、或いは何とか出来るかもしれないと仰っていた」
「ええっ? 私が、ですか?」
「私に出来る事は祓う事だけだ。だが…意味もなく祓う訳にもゆかぬだろう」


 溜息混じりにそう言う泰明に、あかねは…そうですね!とにこにこと答える。

 以前なら恐らくアッサリ「祓う」と言っていただろう彼の変化が、純粋に嬉しかったのだ。
 そしてだからこそ、自分に出来る事があるのなら、出来る限りの事をしてあげたいと思う。

 …とは言うものの、一体どうすればいいのやら、見当もつかない。
 欠けている所を補う為に「呪」をかけたと言うのだから、とりあえずは呪を解く事が出来れば何か判るかもしれないのだが…しかし。



 呪が解けると…どうなるのだろう。



 あまりに現実離れしたモノが相手のせいか、ついついいらぬ好奇心がむくむくと頭を擡げる。



(泰明さんの時の事からすると…やっぱり顔のお焦げが取れて、まともなパンになったりするのかな…)



 とりあえず最初に思い浮かんだのはそんな事だったが、まともなパンになったところで、それでどーする、という気もしなくもない。



 見たところ、こげやすあきには一応、自我というものがあるらしい。
 そう、ただのパンではないのだ。


 故にまさか「完全なパン」になったところで、晴明が食するという訳でもあるまい。



 …とは思ったものの、その瞬間に、にこにこと機嫌の良さそうな笑みを浮かべながら、あーん、と大口を開けてこげやすあきを口に運ぼうとする晴明の図、というちょっとグロテスクな想像に及んでしまって、あかねは、あはは…と乾いた笑いを洩らすと、ぱぱぱっと手を振って頭の中のその怪しい映像を追い払う。



(…あ、それともあん○んマンみたいになるとか〜…?)



 ふと、そのスタイルから過ぎった考えに、ちらり、とこげやすあきの方を見る。



 つぶらと言えば聞こえはいいが、何となくどこを見ているのか判らない、焦点の合っていない目。
 「縦線」としか表現のしようのない、1ミリたりとも出っ張りの無い(ちなみにあるべきハズの二つの通気孔の所在も不明な)鼻。
 これまた「横線」としか言いようのない、本当に開く事があるのかと疑いたくなるような、真一文字の口。



 …はっきり言ってちょっとコワイ。
 何処となく哀愁ともアンニュイとも言える独特の風情を醸し出すこの顔では、弱いものや小さな子供の正義の味方、と言っても誰も信じはしないだろう。


 だいたい、元が焦げたパンでは、お腹をすかせたものに顔をちぎって与えるというのも如何なものか。




 …あまり、美味しくないかもしれない。




 またしてもあまり気持ちが良くない上に、思いっきりハズれた方へ向かってしまった思考を、イヤ、そーじゃなくってとあかねは無理矢理引き戻す。



 …ダメだ。
 こげやすあきの顔があまりにも、のーん、としているせいか、どうにも思考経路が逸れてしまって仕方がない。



 そんなことを考えながらじいっ、と見ている内に、あかねはふっと昔に読んだ童話の話を思い出した。


 あのような童話の中では、魔女や魔法使いの呪いで醜い姿にされてしまったものが、一人の少女の力で元の美しい姿に戻る、という話がよくあった。
 そして晴明は泰明に、自分ならばこげやすあきをどうにか出来るかもしれないと言ったという。




 ――― まさかとは思うが…コレも、その手の類なのだろうか。

 呪が解けた途端、目の中にきらきらの星があり、妙に足の長い八頭身の何故か金色のくるくる巻き毛の美形か何かになって、





「ありがとうお嬢さん!あなたのおかげで僕の呪いは解けました★」





 …なんて事を、バック一面に深紅の薔薇をわんさと背負い、麗しい微笑を浮かべて言ったりするのだろうか。


 となると、その後に来るものは一つしかない。
 そう、お約束の「誓いのなんとやら」、だ。


 ………しかし元がコレ(実際は逆なのだが)かと思うと…それもあまり嬉しくない。
 いやいや、第一自分にはれっきとした恋人が…。







 限りなく深い妄想の渦にぐるぐると巻かれていたあかねは、ふいにスカートの端を何かが小さく引っ張るのを感じて、はっと現実に引き戻される。



 何事かと思い、下を見るとこげやすあきがスカートの端を掴んでこちらを見上げていた。
 その様子はどこかもの問いたげにも見える。



 そんなこげやすあきを見ている内に、いきなり考え事に意識を飛ばしてしまった自分を、彼(?)なりに心配してくれたのだろうか、という考えが脳裏を過ぎる。


(…けっこう、可愛い、かも…?)


 元来、「ひとではないモノ」に対しても闇雲に警戒心や恐怖心を抱かない質のあかねは、素直にそう感じた。

 その気配を察したのか、ことん、と首を傾げてあかねの様子を窺っていたこげやすあきは、徐に彼女に近づき、その膝の上に手をかけようとするかのように、短い腕を伸ばそうとし…。












 ――――― 瞬間。












 べちいっ!












 絶妙のタイミングで鋭くも小気味よい音がしたかと思うと、こげやすあきはぐら〜っと前へとつんのめり、あかねの膝に突っ伏した。
 そのまま、あっという間もなく後ろから力任せにずるっと引っ張られるのに合わせて、重力の法則に従ってこげやすあきは真っ逆さまに床へと突っ込み、顔面にべちょっと平らな木面の手痛い接吻を受ける。


 僅かな間の後、板張りの床に転がったモノから響いてきたのは、ぎゅうっ、というナニやらニブい声。












 …そのまま、気絶したかのように、こげやすあきはピクリとも動かない。

 そして眉一つ動かさぬまま、絶対零度の眼差しでソレの背後に座していたのは、他ならぬ泰明だった。












「…軽々しく神子に触るな」












 ありんこ一匹分の慈悲の欠片も窺わせない声で、淡々と泰明が告げる。
 その全身からそこはかとない怒りの「気」が立ち上っている。



 …どうやら彼が、目にもとまらぬ早業でこげやすあきの後頭部に天誅を加えたらしかった。



 と、突っ伏していたこげやすあきの躰が、突然ぴくんと震え、地面に両手を付きながら、ぐぐぐ、と渾身の力で頭を起こし始めた。
 そして何とか重い頭を持ち上げると、きっ、と凄まじい勢いで後ろを振り返る。




◇◆◇泰明VSこげやすあき◇◆◇





「………」
「………」








 …沈黙。








「…あの…泰明さん…?」





 ばちばち、と音がしそうな程なにやら真剣に火花を散らしあっている二人(…一人と一匹?)に、あかねはおずおずと声をかける。

 …が、泰明はそれどころではないのか、あかねには応えないまま、じーっと目の前のこげやすあきを凝視している。

 やがて、不機嫌そうな微かな溜息と共に、形の良い唇が開かれた。





「何か、文句があるのか」
「〜〜〜」
「煩い。先に身の程をわきまえぬ事をしたのはお前だろう」
「………!!」
「それ以上騒ぐと二度と身動き出来ぬように封じ込めるぞ」
「 ―――…」
「解ったら大人しくしていろ」





 泰明がそう言った途端、しゅん、とこげやすあきが項垂れる。





(すごい、泰明さん、こげぱんちゃんと「会話」してるっ!!)




 あかねは思わず心の中で喝采した。

 連理の賢木と意思を通わせる事が出来る泰明にとっては、たとえ相手が「焦げたパン」でも問題ないという事か。
 流石は稀代の陰陽師の最強にして最愛(…?)の弟子、といったところなのかもしれない。





 が、 ――― それにしても。





 あかねは改めて、自分をそっちのけで繰り広げられている光景に意識を戻す。



 かたや秀麗な美貌の陰陽師。
 かたや形(なり)は目の前の人物とよく似ていながら、身の丈は20センチにも満たない、全身茶色の焦げたパン。



 それがしかつめらしい様子で大真面目に睨み合っている。
 その場面はシュールでありながらも妙にほのぼのしていて、何とも可笑しい。




 堪えきれずにくすくすと笑い出したあかねに、泰明が不意に顔を上げた。


「…何を笑っている」


 声の調子から察するに、どうやらご機嫌ななめらしい。
 あかねは慌てて目の縁に滲んできた涙を指の背で拭いながら、何とか笑いを治めようと努力するが、なかなか上手くいかない。


「神子」
「だ、だって、何だか二人とも…」
「コレと私がなんなのだ」


 些か苛々した様子で問い返す泰明には悪い、と思いつつ、あかねは笑みを浮かべたまま呟いた。


「何だかすごく…可愛い」
「……………」


 あかねの言葉に、泰明は微妙に複雑そうな顔をしてみせた。



 こんな訳のわからない焦げたパンと十把一絡げで「可愛い」などと愛しい少女に評されてしまっては、恋人としては立つ瀬が無い。



 …あかねに何の悪気もないことは解っているが…面白くない。



 恋人がぶすっと拗ねてしまったらしい事を、その僅かな表情の変化から感じ取ったあかねは、慌ててごめんなさい、と謝った。
 本当に済まなさそうに上目遣いに見上げるあかねに、泰明はあっさりと表情を和らげる。





 …――― その時。





 突然にもくもくと何かが燃えているような煙と匂いが二人の足下から立ち上り始めた。



「な、何…?」



 てんてんてん…と二人の視線が匂いのもとを辿る。


 そこにいたのは、やはり相も変わらずぼへらっとした顔をした、こげやすあき。

 だが、その頭からしゅうしゅうと勢いよく、湯気のように立ち上っているのは…黒い、煙。
 それと共に辺りにほんのりと漂い始める、些か香ばし過ぎる香り。
 こげやすあき自身も、躰から立ち上る煙が煙たいのか、時折げふごほ、と妙な咳を繰り返しているのが聞こえる。







 そしてその顔一面が次第に色濃く塗り替えられていく…。







(あの口、ちゃんと開くんだ…じゃなくって! も、もしかして馬鹿にされたと思っちゃったの!?)


「や…泰明さんっ、なんだか怒ってるみたいなんですけどっ!?」




 慌てて泰明の腕を掴んだあかねをしっかり狩衣の袂で煙から庇ってやりながら、彼はいたって冷静に答える。



「いや、怒ったのではない。…喜んでいる」
「はあ!?」



 知らず素っ頓狂な声を上げるあかね。



「落ち着け。ただの煙だ」
(ただのって、もう〜!!)



 こんな時まで落ち着きを払っている泰明を少し恨めしく思いながら内心で動揺するあかねを余所に、こげやすあきから発される煙が次第に晴れてゆき…。








 煙に目を眇めていたあかねが漸く薄目を開けられるようになった時。

 完全に顔を一色に染めた、「こんがり」と称するには些か焼きすぎの観のあるこげやすあきが、そこにいた。








「呪が解けたか…」


 ふむ、と頷きながら泰明がそうコメントする。
 あかねはぽかんと口を開けた。



(えええええぇえっ? なんで〜!?)



 …確かに、顔は以前とは違い、同じ色になってはいる。
 …真っ黒焦げに。



「な、何で呪が…それになんか真っ黒焦げ…?」



 混乱し、何を言えばいいのか解らずしどろもどろになるあかねに、自分の呪が解けた時の事を思い出したのが、なにやら感慨深げな様子でぽつりと泰明が呟く。




「本心から「可愛い」と言ってもらえた時、呪が解け、コレは完全な「こげぱん」になれるのだとお師匠は言っていた。…私には「可愛い」というものはよく解らないが…」




「…は?」




 思わず、あかねの目が点になる。




 呪が解けると完全な「こげぱん」になる…?
 何故に焦げが無くなりまっとうなパンになるのではなく、焦げるのか。




 …大体、そもそも晴明がこげやすあきに施した封印とやらは何だったのか。




 ………???




 理不尽な事態に頭の中いっぱいに疑問符が狂喜乱舞する。
 先ほどの泰明の言い種ではないが、コレに関しては晴明が一体何を考えているのか、さっぱり解らない。




 そんなこんなで半ばパニック状態で考え込むあかねの水干の袖を、何かがくいっと引っ張った。


「…?」


 …その仕草に、何気なく振り返った先にあかねが見たものは。










 焦点のぼけた瞳のまま、一文字に引き結ばれている口をぎこちなく歪めた、「真っ黒こげこげぱん」なこげやすあきの顔。

 それはまさに「…にへら〜」と表現するに相応しい。










「………っ!!?」










 あまりのブキミさに、反射的にずざっと飛びすさった彼女の目の前で、ソレはいまだぶすぶすと灰色の煙を上げ続ける顔面に、器用に片方の口だけ上へと上げた引き攣ったような微笑を乗せたまま、ぽてぽてと近づいてくる。

 その一種異様な表情に、泰明ですら、凍りついたように動けないでいる。












 …こわい。

 誰がなんと言おうと、
 たとえ元はただの焦げ気味の、今や既に炭化したパンといえども、
 個々のパーツは泰明と同じような風体といえども、とにかく怖い。












 そうしている間にも、不気味な微笑を浮かべたこげやすあきがゆっくりと接近してくる。
 部屋の中に漂うのは、完全体・こげやすあきの発する焦げ臭い匂い。

 それが何故か炭水化物が焦げる匂いよりも蛋白質のそれに近いような気がして、あかねはさらに蒼ざめた。








 じり。
 じり。
 じり。









 ――――― 次第に肉薄してくる焦げついた顔。








 …逃げたい。
 一刻も早く、少しでも遠く、この場から逃げ出したい。
 それなのに躰は全く言う事を聞いてくれない。












 ――――― あかねの中で何かがぶちり、と音を立てて、切れた。




 …それは生理的な拒否反応だった。













「…いッ、いやあああああぁあぁ〜っ!!!」
「神子っっ!!!」









 天も裂けよと言わんばかりのあかねの絶叫と、すんでの所ではっと我に返った泰明の声とが、のどかな午後を満喫している左大臣邸に高々と響き渡り、そして。















 んぎぇええええええええぇええぇ………















 この世の終わりを見たかの如き、身の毛もよだつ悲鳴とも啼き声とも吼え声ともつかぬ恐ろしい「声」と共に。
 あかねの部屋から何やら黒い物体がもの凄い勢いでびゅうっと飛び出してきた。





 恐らくは投げ飛ばされたか蹴飛ばされたかしたらしいソレは、晴れやかな蒼穹を切り裂くように素晴らしい速さで遙かな高みへとかっ飛んで行き…








 きらん、と星のように光って、消えた。










 後に、何処ぞの偉大な陰陽師の住まう左京一条の邸宅の屋根に、黒焦げになったアヤしいモノが、世にも恐ろしい叫声と共にばきばきとめり込みながら飛び込んで大穴を開け、邸の主を仰天させたと言う。












 ――――― 余談だが、その後、完全体となったこげやすあきがどうなったのか…。
 それを知る者は、今のところ誰も、いない。








FIN.


2002.3.6(WED)UP.
2002.11.29(FRI)Illustration付きで再UP.


< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >

< Illustration by Kiriha. 2002. / Site 【 PLUME 】>





【 PLUME 】のMaster、霧刃さまより、
こげやすのイメージイラストを戴いてしまいましたっ♪
霧刃さまの描かれる泰明さんはとってもクールなハンサムさんなので、
こげやすと睨みあってると何とも言えない緊張感とシュールさを
よりひしひしと感じます…(笑)

「ぎゅっ」と泰明の袂を握ってるこげやすも、
可笑しいのになんだかみょーに可愛くて、
拝見した時、思わず「ぷぷ…」と笑ってしまいました。


自分の書いた創作にイメージイラストをいただけるなんて感激です(*^-^*)
霧刃さま、素敵なイラストをどうもありがとうございましたvv













・おまけ 〜その後編〜
Now writing….(書くのか、私(爆))



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