《 秘想 》


― 神子 ―






§








――― 今でも、ふとした時に思う事がある。
どうして、あの時、あの人の言葉を信じてしまったのかと。





 大丈夫ですよ、と微笑まれて、私は言われるままにその人に“鏡”を向けた。
これできっと総てが終わるのだと ――― そうして、以前のように皆の元へ戻れるのだと思っていた。








――― それがその人の吐いた、これまでで最も残酷な嘘なのだとも知らずに。











§












 その瞬間。
 己の目の前で起こった事がどういう事なのか、望美には理解できなかった。
 何も考えられぬまま、その人の気配が薄れ、存在感が希薄になり、彼の姿を通してその背後にある、見えない筈の山の岩肌が次第に輪郭を色濃くしてゆくのを、為す術もなく目にしながら。

 その唇だけがぎこちなく動き、声も無いまま、どうして、と形作る。



「………大丈夫だ、って、…言ったじゃ………ないですか。それなのにっ、どうして…!」
「………仕方、ないんですよ…」



 暫し茫然と眼前の光景を見つめていた望美が漸く発した掠れた問いに、弁慶はいっそ穏やかな程の微笑を浮かべ、そう呟いた。淡く透けるその瞳に諦念と、何処か満足げにすら見える光を浮かべて、これは己に与えられた罰なのだと。

 そう。予め、総てを悟っていたかのように(・・・・・・・・・・・・・)




( …っ、初め…から、こうなるって…! )




 悟った瞬間、かっと望美の身の裡に怒りにも似た衝動が湧き起こる。


「嘘つき…っ!!」


 胸の奥から振り絞るように叫び、望美は足許から崩れ落ちるように地面に座り込む。
 後を追うように大粒の涙が眦から溢れ、ひとつ、ふたつと零れ落ちては地表に吸い込まれてゆく。
 それを目にした弁慶は驚いたように一瞬息を呑み、瞳を見開いた。これまで余程の事がない限り見せた事の無かった少女の涙に狼狽え、困惑した様子で視線を落とす。


「………済みません………」


 弁慶は何と言うべきか迷っているのか、曖昧に視線を彷徨わせつつ、ぽつりと呟く。


「望美さん、…僕、は…」


 だが望美は、そんな彼の言葉を打ち消すように激しく頸を振った。


「なんで謝るんですか…!」


 今、こんな時に。
 自身が消え逝こうとしているというのに。どうして。
 ――― この人の優しさはいつも残酷だ。


 弁慶は自分で総てを背負う事で一線を引いてしまう。決して他人を己の裡に踏み込ませず、その内心を明かそうとはしない。
 そのくせ、こんな風に済まなさそうに相手を気遣ってみせるのだ。
 それが酷くもどかしく、望美は地面をきつく見据えたまま、ぐっと歯を噛み締めた。
 謝罪の言葉など聞きたくはない。
 固く結ばれ、蒼ざめた唇が何かを堪えるように微かに震える。


「…泣かないで下さい…」


 そんな少女を痛ましげに見つめ、弁慶はそっと吐息を洩らした。 ――― その息遣いすら、今は酷くか細い。

「僕は…結局、最後まで罪を犯してしまうのか…」
「!? 違…!」

 続けられた言葉に、神子は弾かれたように貌を上げた。しかし。

 “違う。そうじゃない。”

 否定しようにも涙に震える喉では、そんな短い言葉すら上手く紡げなかった。
 これでは、何も伝えられない。
 そんなやりきれない苛立ちと焦燥に煽られるまま、望美はただ闇雲に頭を振る。


「っ、…やだ………!!」


 まるで駄々をこねる幼子のようだと思いつつ、望美はその人の手を握りしめる。少しずつ、輪郭を ――― 触れている感触すら失いつつあるその指を。
 今この一瞬、望美は弁慶が仲間を、九郎や源氏を裏切った事も、自分に幾つもの嘘をついていた事も、そうしてその手が多くの命を奪った事すらも忘れていた。
 弁慶の言った罪と罰の意味も。
 ただ、消えないでとひたすらに願う。
 もう間に合わないと…消え逝く命を留める事など出来ないと、頭の何処かでは解っているのに。



 こんな現実は、嘘だ。
 こんな運命の結末を見る為に…此処に、戻ってきた訳ではないのに。何故。



 だが否定したい思いとは裏腹に、命が喪われる瞬間を幾度も目にした少女の理性は冷酷に喪失の予感を突きつける。

 一番最初の運命では、何も判らないまま、総てを喪った。
 そんな運命を変えたくて時空を越え…けれどそれから今まで、幾度も大切な人の死を見てきた。
 それは時に無惨で、時に儚く。時にその亡骸すら目にする事も出来なかった。
 そうして今まで、どれほどの心の痛みを覚えてきた事だろう。

 ………けれど。



――― っ」



 また、亡くしてしまう。
 胸を押し潰されそうな、今まで感じた事がない程に強い恐怖に襲われ、望美は声も無く悲鳴を洩らす。


























 ………………そして、唐突に思い知る。
 自分は ―――――― この人の事を、好きだったのだと。


























( 私は、馬鹿だ。…こんな事になるまで…気づかないなんて )




 望美は胸の裡で低く呻く。
 弁慶の、必要とあれば他人の命を切り捨てる冷酷さを知りながら、此処までその後を追ってきてしまった理由。
 間近で彼の裏切りを目の当たりにし、自分も人質として平家に連れてこられていながら、それも何か理由があっての事に違いないと自身に言い聞かせていた、理由。
 その総てはこんなに簡単な事だったのに。



「…ど…うして…」



――――― 気づかなかったのだろう。


 望美はそれ以上、言葉が見つからず、絶句する。
 どうしようもなくやりきれない想いと叫びだしたいような後悔の衝動ばかりが心の中で渦を巻き、眩暈がしそうだった。 
 それでも声を上げる事も出来ず、ただ項垂れたまま掌を固く握り、嗚咽を堪える。

 と、烈しい感情の波に苛まれて震えている少女の傍らで、ふと弁慶が身動ぐ気配がした。
 はっと貌を上げた望美の翠の双眸に、柔らかく細められた淡色の瞳が映る。
 凍り付いたように動きを止めた彼女を見つめ ――― 弁慶は、緩やかに腕を伸ばした。

 ゆっくりと少女に触れる指先。
 そうしてそれが何かを確かめるように涙の伝う頬の輪郭を辿ってゆくのを、少女は身動きすらせずに受け入れる。

 既に向こうの景色すら透けて見える指先に、感触は無かった。だが、それでも…仄かな温かさが其処に息づいているように、望美には思えた。






「 …――― もしも…清盛殿の知識を得るよりも前に、この鏡の事を…知っていたら」






 何処か陶然とした面持ちで見つめる望美の前で、ぽつり、と弁慶は呟く。
 続けて何かを言おうとした彼の面を一瞬、言い知れぬ表情が過ぎった。だがそれはすぐに泡沫のように消え、弁慶は視線を外し、静かに息を吐く。
 そして。








 ………もっと…別の方法が、あったのかも…しれないな…。








 吐息のように微かな言葉を風に乗せ、彼は沈みゆく夕暮れの朱に染まりゆく空を仰いだ。
 その口元に微かな微笑が浮かび、ゆっくりとその瞳が閉じられる。
 空を焼く落日の光を受ける輪郭が次第に朧気になり、暮れなずむ茜色の夕闇に溶け込んでゆく。





 ―――――― それが、少女が目にした、弁慶の最期の姿だった。








§









 …ひらり、と仄白い欠片が視界を過ぎり、望美はぼんやりと貌を上げる。
 見るともなしに宙を仰ぐ少女は瞬きもせず、ただ虚ろに自身に降りかかるものたちを瞳に映す。恐らく、頬に落ちるそれは冷たく肌を刺すのだろうと思いながら。
 だが、風花のように見えた淡色の欠片は、柔らかな優しい感触と共に望美の頬を滑り落ちた。

「…さくら…?」

 茫然と瞳を見開いたまま、感情を喪った声で少女は呟く。
 風は身を切るように鋭く、凍えるようだというのに。雪のように空を舞う、けれど雪よりも仄かに淡く色づいた花びらは、吹き抜ける風に乗り、音も無く少女の肩に舞い降りる。
 それは消え逝く彼の人が最期に見せた微笑のように、ひどく優しく、美しくも…儚い。





 ――― その人はいつも、優しげな微笑みを湛えていたけれど。
 あんなに穏やかで澄んだ微笑は初めてで、だから ―――…。





 思い出す度に、焼け付くような衝動が込み上げて、胸が痛くなる。





 “仕方ないんですよ”

 穏やかに微笑みながらそう言って、弁慶は消えた。
 まるで、掌の上で儚く溶ける、春の淡雪のように。けれど決して消えない痛みをこの胸に遺して。


 嘘つきで冷酷で身勝手で、目的の為なら平然と他人を利用する、そのくせ脆くて傷つきやすい、優しい…人。
 何かを護る為なら、己の信じる最善の為にその手を汚す事さえ厭わない。自身の幸福を求めず、誰に何と謗られ、誤解されても…たとえ恨まれ、憎まれたとしても、自分自身が傷つく方を選ぶような、不器用な人。

 だが、彼が真実、何を思っていたのか、望美は知らない。
 自らを咎人と言った弁慶が、どんな罪をその身に負っていたのか。何が彼の罪で、何故これほどの罰を自身に科さなければならなかったのか、そんな事すら何も知らない。

 そんな簡単な事に望美は漸く気づく。………否、今更、気づいた。
 総ては、遅すぎたというのに。


 ――― また、喪ってしまった。何も出来ずに。


 胸の奥深くから込み上げてくる感情が何であるのかも解らぬままに、望美はぐっと唇を噛み締める。天を仰ぐ少女の細い肩を艶やかな髪がさらさらと滑り落ちる。

 その頭上の遥か高みに広がるのは、目に染みるように鮮やかな夕闇。何かの終わりを告げるかのような朱色(あけいろ)は、総てを喪ったあの京の(ほむら)にも似て、ただ独り、それを見上げる望美の心を締め付けるように苛んだ。


 喪う運命を変えたいと願った筈だった。
 その為に選んだ路の筈だった。
 ………それなのに。


 少女の双眸に映る茜色が不意に歪み、朧に滲みはじめる。


 その手を更に多くの無辜の人々の血で濡らし、裏切り者の汚名を着たまま ――― 総てを背負ってたった独り、静かな微笑を浮かべて消えて逝った弁慶。
 それは確かに彼自身が選んだ路だったかもしれない。だがそれは同時に、自分が時を歪めたが故に生じた運命の結末でもあったのではないか。


 烈しい後悔に苛まれる望美の胸に、ふと、自身が師と仰ぐ人の言葉が蘇る。







 “ ――――― お前に、歪みを背負う覚悟はあるか?”







 かつて、初めて時空を遡り、夏の熊野へと辿り着いた時。
 どうすれば運命を変えられるのかと訊ねた望美に、リズヴァーンは静かな瞳でそう問うた。
 あの時は真実、理解出来てはいなかった師の言葉の意味を、その重みを、今、身を切り刻まれるような痛みの中で少女は思い知る。







――― 先生…」







 …ぽつりと、呻くように一言洩らし、望美は固く瞳を閉じる。



 自分が消してしまった、一番最初の未来。変わってしまった運命。

 もしも自分が、運命を塗り替えるという事の意味を本当に理解していたなら。
 その手を更に血で染めさせる事は無かったのだろうか。
 或いは新しいこの運命の中で、弁慶の辿ろうとする運命にもっと踏み込んで行く覚悟があったなら。
 こんな結末を見る事は無かったのだろうか。

 一度歪めた運命を。
 その罪深さを知りながら、それでも受け容れられないと再び足掻く事はやはり罪でしかないのだろうか。



 望美は、赦されぬだろう路に敢えて踏み込もうとしている己を冷静に自覚する。
 或いは彼よりもずっと利己的な想いの為に、彼よりももっと確実な手段でこの運命を変える(・・・・・・・・)―――
 その為に生じる犠牲にも歪みにも目を瞑ろうとする自分は清らかな神子などではなく、人としての路すら自ら望んで踏み外そうとしているのかもしれない。
 それでももう、戻る事など、出来なかった。
 ただ、胸の裡に遺る師の声を、その言葉をもう一度深く噛み締める。







「………はい、先生」







 震える吐息を必死に抑え、零れそうになる嗚咽も呑み下し、望美は溢れる涙をぐっと眦から振り払う。

 見つめるのは、未来(まえ)だけ。
 泣いている暇など無い。

 この結末が、自分が安易に時の流れを変えたが故だというのなら…否、そうであればこそ尚、受け容れる事など出来ない。
 この運命を消す事は、戦乱の時を再び蘇らせる事。
 それは清盛もまた蘇り、仲間達の命を危険に曝し、今よりも多くの怨霊を、戦に苦しむ人を、命を奪われる者達を新たに生み出す事になるのかもしれない。
 けれどたとえ、総ての歪みがこの身に跳ね返ってきたとしても。その為にこの手が数多の罪と血に塗れ、自分がどれほどの痛みを味わい、傷つく事になっても。
 そして…この想いが届かなくても。

 ――― こんな結末は変えてみせる。





( あなたが…自分の意志を貫き通したというのなら )





 たとえ、どんな謗りを受け、どれほどの罪を重ねようとも。





( 私も私の想いを…貫き通す )






 独りで総てを背負って消えるなんて、赦さない。
 何が弁慶にあれほどの行為をさせたのか…そんな事すら誰も知らないままで、淋しく逝ってしまうなんて、認めない。





( もう一度逢いに行くから。そして…今度こそ、止めてみせる )





 ただ、願わくはその歪みの総てはこの身にだけ降りかからん事を。






 頸にかけた白龍の逆鱗をきつく握りしめ、少女はゆっくりと瞳を開く。
 決然と見開かれた両の瞳に、意思よりも強い、想いを湛えて。

















………私には、まだ………。
伝えていない事があるから。

















――― あなたに。

















【 Fin. 】





2006.3.9(THU)UP.


< Written by Yuki Kugami. 2004-. / Site 【 月晶華 】 >





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