蛍月夜
辺りには夕闇が迫り、地平線に沈みゆく太陽が投げかける最後の残光が、室内を赤く染め上げている。
あかねは広い部屋で唯一人ぽつんと座したまま、夕日を受ける左大臣家の広い庭園を、見るともなしに眺めている。
―――どうしても気にかかることがあるため、あかねはここのところ、一人になるとそうやって考え込んだまま、ぼんやりと過ごすことが増えていた。
時折吹くゆるやかな風も、そろそろ六月にさしかかることもあってか、なま暖かく感じられ、それがあかねのもやもやとした気分にいっそう拍車をかける。
『………忘れて下さい………』
あの日から、ふとした拍子に頭の中で鷹通の声が蘇る。
「そんなこと、できるわけないよ…」
ぽつりと呟くと、あかねは小さく一つ溜息をついて軽く頭をふり、額に手を添える。
―――自分はあの時の言葉が気になって仕方がないのに、当の鷹通はそれ以後全くいつもと変わらず、穏やかな様子で八葉として務めを果たしている。まるで何事も無かったかのように。
それが何故なのか、あかねにはさっぱり解らない。
あまりにも鷹通の態度が自然すぎて、次第にあかねは自分一人が夢でも見たかのような気分さえし始めていた。
そうしてまた、その日も答えの出そうにない悩みに陥りかけた、その時―――…
「神子殿。ちょっといいかな?」
背後から突然響いてきた声は、先程帰った筈の友雅のものだった。
「友雅さん?どうしたんですか?」
声のした方へ振り向きつつ、小首を傾げて尋ねるあかねに軽く微笑んでみせると、友雅はそのままそばへと近づき、彼女の顔を覗き込む。
「瞳が翳っているね、姫君。何をそんなに憂いているのか………」
じっと向けられる強い視線に、何とはなしに居心地の悪さを感じて身じろぎするあかねに、友雅は笑みを浮かべたままそう問いかけた。
何か思うところがあるのか、それとも単なる気まぐれか―――判別のつきかねるその様子に、あかねはどう反応すべきか戸惑い、何も答えられないままただ視線を落とし、俯いた。
だが、そんなあかねの心中などお構いなしに、友雅はふふ、と声を漏らすと、当ててみせようか、とさらりと言う。
「そう、たとえば………鷹通のことで、何か気になることがあるんじゃないのかな」
「………どうしてわかるんですか?」
ずばりと言い当てられたことに内心動揺し、僅かに頬を染めながら、あかねは友雅を見上げる。
「それはもちろん、大事な神子殿のことだからね。それに、ここ数日の君と鷹通の様子を見ていれば、それくらいのことはすぐに察しはつくよ。」
相変わらず鋭い友雅の指摘に、あかねは一瞬どうしようかと迷う。だが、いつも通りの口調でありながら、自分を見る友雅の優しく真摯な表情に、思い切って話してしまうことにした。
「実は―――…」
§
「ふうん、なるほどね」
一通り話を聞いた友雅は、実に鷹通らしいね、と軽く笑った。
その意味が分からず思わず首を傾げるあかねに、友雅は苦笑し、僅かに瞳を曇らせる。
「―――いつか言ったろう?鷹通は、なかなか欲しいものを欲しいと言わない。………諦めることに慣れてしまっているんだよ。得られないものに我を張っても仕方がない、とね。だからきっと、今度も君に気持ちを伝えられればそれで充分だと思い込んでいるのだろう………」
小さな溜息と共に語られた言葉に、あかねは呆然とする。
『得られないもの』………私が?
私が、この世界の人間じゃないから?
いつか帰ってしまうから、だから、あんな風に―――…。
―――何も聞かずに?
「そんなの、私っ………」
自分でも何を言いたいのか解らないまま、ただ高ぶる感情にまかせてそう洩らしたあかねの頭に、友雅はなだめるように軽く手を乗せた。驚いて顔を上げたあかねに優しい視線を向けると、ゆっくりと諭すように告げる。
「後は、君次第だよ」
「私、次第………」
友雅の一言が、あかねの中で重く響いた。
―――私は、どうしたいの………?
§
翌日。
とうとうまんじりともせず朝を迎えたあかねは、連れ立って迎えに来た鷹通、友雅の二人と共に外出し、いつも通り一日を過ごした。
決戦に備えて、少しでも多くの札を集めておこうと三カ所ほどの場所で力の具現化を試した後、東寺の辺りまでやって来た頃には、陽は既に傾きはじめていた。
ここから、藤姫の館のある土御門大路までは結構な距離がある。そろそろ帰るべきだろうか、とあかねが考えていた時………。
「さて………。神子殿、すまないが私は今日はこの辺で失礼させていただくよ。どうしても外せない用があるのでね」
「えっ?」
唐突な友雅の発言に驚いて彼の方を振り向くと、何か含みを持たせた友雅の視線とぶつかった。
その視線に、昨晩の会話が蘇る。
―――後は、君次第だよ。
『まさか―――…?』
瞳を見開いて自分を見つめるあかねにふわりと優しく微笑むと、友雅は鷹通の方に顔を向けた。
「そういうことだから鷹通、神子殿のことはよろしく頼んだよ」
お望みとあれば息抜きがてら、景色でも眺めながらゆっくり帰るのもいいかもしれないよ、と言いつつ去っていく友雅に、あかねは彼の心遣いであることを確信する。
半分諦め顔で、苦笑しながら友雅の背中を見送る鷹通の横顔にちらりと視線を流し、あかねは軽く唇を噛む。
………どうしよう………。
頭の中でぐるぐると迷いが渦巻く。
「全く…。友雅殿もそれならそうと、初めから仰っておいて下さればよいものを…」
そんなあかねの胸の内などつゆ知らず、溜息と共に鷹通はそう呟くと、あかねの方に顔を向けた。
そして、いつものようににっこりと穏やかに笑う。
「どうされますか、神子殿。お疲れでしたら、すぐに屋敷までお送りしますが」
その言葉にあかねは一瞬、躊躇った後―――ややあって、何かを秘めた瞳で鷹通を見上げた。
そして静かに言う。
「―――案朱に…行きませんか?もう一度、あの蛍を見たいんです………」
§
鷹通とあかねが案朱に辿り着いた頃には、既に陽は落ち、夜空には明るい星が輝き始めていた。
生い茂る草と僅かな水の薫りが漂う中、ぽつぽつといつの間にか現れた小さな光は、次第に数を増してゆき、光の尾を引きながら、ふわふわとあちこちを漂うように飛んで行く。
その姿を、瞳を輝かせながら見て、あかねは思わず感嘆の声をあげた。
「わぁ、やっぱり綺麗!!―――私ね、こんなにたくさん蛍がいるのを見たのは、この間がはじめてなんです」
「そうなのですか?良かった。それならお連れしたかいがありましたね………。でも、今年もそろそろ見納めですね。だいぶ、数が減ったようです」
そんなあかねの姿に瞳を細めた鷹通だったが、辺りを見回すと少し淋しそうな表情を浮かべる。
………今年ほど美しい蛍を見ることはもう無いだろう、そう思うと、言葉を発するのも惜しい気がして、鷹通は辺りを舞う蛍と、その光に照らされるあかねの横顔をただ静かに見つめている。
―――月こそ無かったが、天に輝く那由多の星々と、数多の乱れ飛ぶ光の筋とが夜闇の中、そんな二人の姿を柔らかく明るく照らし出す。
緩やかに時が流れていく………。
その景色を眺めながら、どうやって話を切り出そうか、と内心で思案していたあかねは、ふわりと目の前に飛んできた一匹の蛍に興味を引かれて、そっと手をのばした。
―――すると蛍は、その掌に惹かれるように自然にその中に収まる。
それを両手で覆うようにして胸元に引き寄せ、淡い緑がかった光の明滅に顔をほころばせていたあかねは、傍らの鷹通に視線を向けると不意に問いかけた。
「鷹通さん、蛍はどうして光るのか、知ってますか?」
「蛍―――ですか?」
唐突な質問に鷹通が一瞬戸惑ったように瞳を瞬かせる。
それでもあかねの問いに答えようと、顎に手を添えて真剣に考え始めた鷹通に彼女はにこっと笑ってみせると。周囲に浮かぶ柔らかな光に顔を向けた。
「………蛍はね、光りながら飛んでいるのが雄なんです。そうやって飛びながら、雌のことを探してる。でも、雌もただ待ってるだけじゃないの。ちゃんとね、光りながら葉っぱに止まって待ってるんです。私はここよ、って。光でお互いのことを知らせてるんです。蛍の寿命ってすごく短くて…でもだから余計に一生懸命輝いて、お互いに大事な相手を捜しているのかも………」
あかねは手の内から漏れる光にもう一度瞳を向け、ややあって包み込んでいた両手の指を静かに広げると、そっと宙へと差し出した。手の中の蛍はすうっと飛び立つと、辺りをゆらゆらと舞い、やがて一枚の葉の上にゆっくりと降り立つ。
―――暫くすると、その葉の上で、二つの光が交互にゆっくりと瞬き始めた。
じっとその様子を目で追っていたあかねは、ややあって傍らの鷹通の方を振り返ると、その眼鏡の奥の深い色合いの瞳を静かに見つめる。
「………あの。この間のこと、なんですけど………」
遠慮がちに話し始めたあかねが何のことを言っているのかに思い至った鷹通は、僅かに動揺したように頬を染める。
だが、暗闇でそれは隠されてしまい、あかねは全く気がつかないまま、緊張で鼓動が早まりつつあるのを感じながら、躊躇いがちに口を開く。
「あの時、鷹通さん、私に気持ちを話してくれましたよね?―――でも、自分の気持ちだけ言って、一人で勝手に諦めちゃうなんて―――忘れろだなんて、ずるい…。ちゃんと、私の気持ちも聞いてくれなきゃ。………それとも、私の気持ちは………どうでもいいんですか………?」
「い、いえ!!………神子殿、私は………」
そんなつもりはなかったのだと続けようとした鷹通に、覆い被せるようにしてあかねは言う。
「―――私が、鷹通さんとずっと一緒にいたい、って言っても………?」
「―――え?」
あかねの言葉に不意を突かれ、鷹通はまともな返答を返すことが出来なかった。
その内容が次第に理解されるにつれ、期待と不安が徐々に頭を擡げてくる。
周囲を緩やかに飛ぶ蛍の残す淡い光の尾が、自分自身の今の心の揺れを描いているかのようで、まるで夢の中にでもいるような、不可思議な気分になる。
鷹通は胸の内に生じた高ぶりを押さえるようにそっと視線を逸らし、瞳を伏せた。
「………ですが、あなたにはもとの世界に大事な人々がいらっしゃるでしょう?家族や、友人が………」
あかねに、というよりも自らに言い聞かせているかのような様子で、鷹通は告げる。
―――期待してはいけない、と。
だがあかねは彼を真っ直ぐに見つめたまま、静かではあるがはっきりとした、迷いのない口調で答える。
「大切な人なら、京にだってたくさんいます。だから………ここに残っても、帰っても、大切な人と別れなければいけないのは、同じです」
「けれど、ここに残ったらもう二度と帰れないかもしれないのに―――…」
呟くような言葉に、あかねはふわりと笑みを浮かべた。
「わかってます。あの時―――鷹通さんと話した日から、ずっと考えてました。私はどうしたいんだろうって。確かに、ここに残ったら家族や友達とはもう会えない。でもそれでも、一緒にいたいって思ったから。………それに友達や家族は、新しくつくることだって出来る………でしょ?」
言ってしまってから、聞きようによっては意味深な内容にもとれる、ということに気がついて、あかねは急に恥ずかしくなり、顔が熱くなるのを自覚する。
一方、それまでどことなく神妙な面持ちで聞いていた鷹通は、最後のあかねの言葉に一瞬虚を突かれたような表情を浮かべ、ふいに口元を手で覆うと、そのまま彼女から顔を背けてしまった。
「あの、鷹通…さん?」
突然の鷹通の行動にあかねは戸惑い、そろそろと声をかける。
だが鷹通は横を向いたまま、微動だにしない。
―――もしかして私がさっき変なことを言ったから…?
それとも、もしかして…迷惑だった?
あまりに長い沈黙に、あかねがさすがに不安を覚え始めた頃―――…。
「すいません………取り乱してしまって。その、何だか胸がいっぱいになってしまって………」
どことなくうわずった声で鷹通がそう言った。
「えっ?」
驚いて彼の方を見やると、ようやくこちらを向いた鷹通の、光に浮かび上がるその顔が微かに上気しているのがわかった。
「本当に嬉しいのです。あなたに受け入れていただけて。今の気持ちを何と言ったらいいのか、わかりませんが―――…」
「鷹通さん………」
だが、そこで鷹通はふと眉を寄せると、自嘲げな口調で後を続ける。
「ですが、私の身勝手で、あなたを傷つけてしまっていたのですね…。あなたに、「自分の気持ちを確かめもせずに諦めている」と言われたとき、撲たれたような気がしました。………私は、あなたに負担をかけたくなくて、忘れて欲しいと言ったつもりでした。ですが本当は、ただあなたにはっきりと拒絶されるのが恐くて、逃げていたのかもしれない、と………。本当にあなたのためを思うのなら、あの時想いを告げるべきではなかった。―――でも、私は言わずにいられなかったのです…」
「そんなこと…!―――ごめんなさい。よく考えてみたら、私だって自分から気持ちを伝えようと思ったら、言えたかどうか………。本当は、私もあの時まで迷ってた。側にいたいって思ってるのは、私だけかもしれない、それなのに京に残っても迷惑をかけるだけなんじゃないかって。―――鷹通さんの言葉で、私、心を決められたんです。だからあの時、鷹通さんに言ってもらえて、すごく嬉しかった………」
頬を染めながら必死にそう言うあかねに、鷹通は上気した顔のまま、僅かに苦笑する。
「いいえ。私こそ、こうして今日あなたとお話をしなければ、また大事なことを見落としてしまうところでした…」
「………ふふ。お互い様ですね。じゃあ、謝るのはこれでおしまい」
そう告げてにっこりと笑うあかねの気遣いに、鷹通はふっと心が軽くなるのを感じた。
そして口元に手をあて、小さくくすくすと笑う。
「本当に、神子殿にはかないませんね」
と、その言葉を聞いたあかねは、不意に少し怒ったように顔をしかめると、じぃっと鷹通の顔を見た。
「―――鷹通さん。私のこと「神子殿」って言うのは、アクラムとの決着がつくまでにして下さいね?」
あかねの表情が突然変わったことに困惑していた鷹通は、その言葉に今度こそ破顔する。
そして、自らの胸の内の想いを確かめるようにそっと胸に手を当てる。
………鷹通はあかねの方へ向き直ると、ゆっくりとその手を差し出した。
華奢な、だが暖かい掌が答えるようにそっと乗せられる。
自分を見上げる、星明かりにきらきらと輝く翡翠の瞳を、鷹通は真っ直ぐに見つめ返す。
どちらからともなく、互いの指がしっかりと絡まる。
―――まるで、二人の気持ちを結びつけるかのように。
「来年もまた、ここでふたりで蛍を見ましょう―――あかね殿」
穏やかな微笑みを浮かべた彼の言葉に、あかねがにっこりと微笑みを返した。そしてこくりと頷く。
「来年も再来年も、ずっと一緒に………ね」
その言葉に、周囲を舞い飛ぶ蛍のような柔らかく暖かい光が心に灯る。
その光が失われることなく、自分を照らし続けてくれることを祈りながら、鷹通はあかねと共にその場に佇んでいた。 指先から伝わる、互いの体温を感じながら―――…。
FIN
2001.6.11(Mon)UP.
(to橘 桜様)