午睡
玄武を封印した後、帝に事の次第を報告しに行くという永泉と途中で別れたあかねと泰明は、どうしても、というあかねの希望に従って、船岡山へと来ていた。
京を造る時の基準とされたというそこからは、夕焼けに赤く染まる、京の町全体が見渡せる。
玄武の解放と共に降り始めた雨もいまは止み、湿り気を帯びた風が頬を撫でてゆくのを感じながら、あかねは見るともなしに眼下の景色に眼をやり、じっとその場に佇んでいた。
「………神子?どうかしたのか」
ぼんやりとしたあかねの様子に、傍らにいる泰明がやや気遣わしげな色を浮かべて彼女を見やる。
あかねはふっと彼の方へ顔を向けると、困っているような笑みを彼に返した。
「…ちょっと、考え事をしていたんです」
「明日のことが、気になるのか?」
「気になる、というか………。私にいまどれくらいの力があるのかな、と思って」
そう言うとあかねは自分の両手に視線を落とす。
力がない、とは思わない。けれど、それが具体的にどの程度のものなのか、自分ではよく分からなかった。
いままではとにかく無我夢中で、自分の中の五行の力を使う時もどの程度の力が必要か、などと考えたことは殆ど無い。
自分にとって、龍神の力を行使することはある意味本能的なもの、と言ってもよかった。
―――いま、私に大切なものを守れるだけの力が、あるんだろうか………。
ふと脳裏に浮かんだその考えを追い払うように、あかねは勢いよく顔を上げると、泰明の方へ向き直り、にこっと笑った。
自分自身を勇気づけるように。
「でも、私、負けられないから。守りたいものがあるから、だから―――…」
あかねの言葉に、泰明もまた表情を和らげる。
「案ずるな。お前は充分に力をつけている。私の中の力も強くなっているのを感じる…心さえ強く持てば、問題ない」
…すると、じっと彼の方を見ていたあかねの表情がほころんだ。
「…ふふっ」
「なにを笑っている?」
「だってね、何だか泰明さんの言葉を聞いた途端に安心しちゃったから」
「…?私は特別なことを言ったつもりはないが―――そうなのか?」
「うん。泰明さんは気休めみたいなこと、言わないでしょう?それが本当に「できる」時しか、大丈夫なんて言わないもの。だからね、問題ないって泰明さんに言ってもらえると、絶対大丈夫!って思えるんです」
いつものように明るく笑ってそう言うあかねに、泰明はそうか、と頷いた。
そして。
「お前が安心した、と言うのならそれでいい。―――神子は私が守る。お前さえいれば、負けるはずがない。私は神子のものだからな」
「う………/////」
至極まじめな顔でそう言われ、あかねは思わず真っ赤になった。
いまの言葉が、初めの頃に彼が言っていたような「道具」という意味ではない、ということがその表情や声音から伝わってくるだけに、どうしていいかわからなくなる。
「どうした?」
返す言葉に困っているあかねの様子が気になったのか、すぐ近くまで顔を近づけると、泰明はあかねの瞳を真っ直ぐに見つめる。
あかねはこれに更に慌てた。
僅かに身を引いて、恥ずかしさを隠すようにひらひらと手を振る。
「―――な、何でもないです。ただ………」
「ただ?」
「泰明さん、時々真顔ですごいこと言うから、困るな…って」
「―――?私は思ったままを言っただけだが」
なぜ困るのかわからない、というようにどこか訝しげに眉を顰めてさらりと言う泰明に、あかねは思わず言葉を無くしてしまう。
わかってはいるのだ。そういうひとだということは。
言葉を飾るということをせず、また感情を表現することにまだ不慣れな彼は、とにかくある意味、言動が非常に純粋なのだ。
その分、発される言葉は彼の心が直接伝わってくるようで、嬉しいのは確か。―――でも。
「え、っと、その、何て言うか…嬉しいんですけど…」
………何だかとても恥ずかしい。
『すぐそばまで顔を近づけて、あの声であんな事言われたら、どう反応していいかわからないよ………』
頬が次第に熱くなっていくのを自覚しながら、あかねは内心で思わず、そう洩らす。
初めの頃は殆ど感情を伺わせない口調だったので気がつかなかったが、泰明も、友雅とはまた違った美声の持ち主なのだということを、あかねはつい最近知った。
初めて、感情のこもった声をすぐそばで聞かされたときは、一瞬腰が抜けるかと思ったほどだ。
しかもその声で、自覚もないまま、とんでもなく直截的な物言いをする。その言葉に全く誇張がなく、素直に思っていることを告げてくれていると知っているから、本当はすごく嬉しいのだけれど、だからこそよけいにどきどきしてしまう。
更に彼には、何かというとあかねの顔を覗き込む癖がある、らしい。本人は、くるくると表情の変わる様子が面白いからだと言うのだが、突然あの綺麗な顔を近づけて、澄んだ瞳でじいっと見られては、緊張することこの上ない。
………声はともかく、顔を覗き込むことについては、知らず知らずのうちに自分の癖が彼にうつっているのだとは、全く気付いていないあかねだった。
だが、なんにしろ、あかねはとことんその二つに弱かった。
『いつも私ばっかり、どきどきさせられてる気がする………なんかずるい』
嬉しいやら、照れくさくて恥ずかしいやらであかねは内心かなり狼狽えているのに、対する泰明は、顔を赤くしながら何となくもじもじしている彼女を見ながら僅かに頬を弛め、「神子は面白い」などと言っている。
『う〜〜っ、もうこうなったら………』
横目でちら、と泰明を見ると、あかねはなかば開き直った気分で、彼の腕に自分の腕を絡める。
「神子?」
唐突なあかねの行動に、泰明が不思議そうな視線を向けてくる。
あかねはまだうっすらと頬を染めたまま、そんな彼の顔を覗き込んだ。
「………私も、泰明さんがそばにいてくれたら大丈夫です。―――絶対、負けません。だから、ずっとそばにいて下さいね?」
恥ずかしそうに、けれど意を決したように真剣な表情でそう言うあかねに、泰明は目を見開いたが、ややあって、こくりと頷いた。
「約束する」
そして、ふわりと微笑む。
滅多に見られない、あまりにも綺麗で無垢なその微笑みに、あかねは一瞬目眩を覚えた。
そして再びかぁっと顔が赤くなるのを自覚し、思わず地面に視線を落とす。
『ああ〜、だめ。やっぱり全然ダメ。絶対勝てないよ………』
泰明の微笑みにものの見事に見入ってしまった自分に、あかねはとうとう音を上げる。
先刻の自分の言葉も態度も、半分は照れ隠し、半分は意趣返しのようなもののつもり、だったのだが。
…結局、自分がどれほど彼に弱いのか、思い知らされただけのような気がする。
けれど、どきどきしたり、見惚れてしまったりしているのが自分ばかりなのは、ちょっと淋しいような悔しいような、複雑な気分だ。
「何だか、ちょっと反則………」
ちら、と少し恨みがましげな視線を送りつつ思わずぽつりと呟いた言葉に、泰明が軽く首を傾げる。
「はんそく、とは何だ?神子」
「え?えーっと…」
何となく答えに詰まったあかねだったが、こういう場合の泰明がそう簡単には諦めないこともよく知っている。
好奇心旺盛な彼は、興味を持ったことはその場で追及しないと気が済まない。加えて、一旦質問すると、ある程度納得するまで決して引き下がらないため、延々と説明する羽目に陥ることもしばしばあった。
…とは言っても、泰明が疑問を持つと彼女にすぐ尋ねるのは、実際は自分にも教えられることがあることが嬉しくて、「何でも聞いて下さいね♪」と言った挙げ句に、問われるたびにどうしても断りきれずに懇切丁寧に―――但し、わかりやすいかどうかは別である―――答えてしまう、というこれまでの経験があるせいなのだが、とりあえずその点は棚上げにしているあかねだった。
とにかく、この調子ではいつものように「反則」の意味についてさんざんつっこまれた後、「で、何が反則なのだ」と聞かれることは目に見えている。
いくら何でも今日だけは、それはちょっと………遠慮したい。
そんなことを考えている間にも、興味津々といった様子の泰明の視線を感じる。
これはもはや素直に白状した方がいいかもしれない。
別に、どうしても隠さなければならないわけではないのだから。
…ただ自分がそれを言うのが照れくさいだけで。
『ああっ、もう!』
あかねは観念して、くるりと躰ごと泰明の方を振り向いた。
軽く頬を膨らませて、泰明を見る。
「…私は泰明さんと一緒にいるとしょっちゅうどきどきしたり、見惚れちゃったりしてるのに、泰明さんは平気そうな顔をしてるから、ずるいって思ってたんです!」
すると泰明は心底意外そうな顔をした。
「見惚れる?神子が私に?………なぜだ?」
「な、なぜって………」
どうやら本当にわかっていないらしい泰明の問いに、あかねは一瞬絶句する。
「一番好きな人の、一番好きな顔をこんなにそばで見ちゃったら、嬉しくって誰だってどきどきするし、見惚れちゃいます!!」
「…そういうものなのか?」
「そういうものです!」
僅かに一呼吸遅れて発された問いに、半分どころか完全に開き直ったあかねがやけにきっぱりと断言した途端、泰明は不意に顔を伏せたかと思うと、口元に手を当てた。
「泰明…さん?」
突然黙り込んでしまった泰明に、心配になったあかねが声をかけ、その顔をそっと覗き込む。…と。
『うそ…』
そこには、僅かに顔を紅潮させている泰明の顔があった。
伏し目がちの視線は、やや落ち着かなげに揺れていて、どう見ても明らかに照れている。
『…どうしよう!?えーっと、えーっと………?』
初めて見る泰明の表情にまず唖然とし、次いでなぜか狼狽えてしまったあかねの頭の中を、意味もない言葉だけがぐるぐると回り続ける。
そして。
「………神子は、いつも予想もつかないことばかり言う」
暫くの沈黙の後、穏やかな吐息と共に、誰にとでもなく泰明はぽつりとそう洩らした。
―――あかねの言葉が、存在が、どれほど自分を救っていることだろう?
私が「ひと」として存在する意味とその意志を与えてくれた人。
…自分自身を「道具」だと思い込んでいたかつては意識すらしたことの無かった、何の損得もなく「自分」という存在自体を受け入れ、求められるということの喜び。
いまの彼女のたった一言が、自分にその胸のつまるほどの幸福をもたらしたのだということを…彼女はまだきっと知らないに違いない。
―――いつも、そうだ。
あかねの告げる言葉を聞いて、初めて自分がどれほどその言葉を欲していたのかを悟る。同時に、自分がいかに彼女にとらわれているのかも。
彼女はまるであらかじめ知っていたかのように、苦もなくこの心に足りないものを―――求めているものを注ぎ込んでゆく。
そしてそれが、自分を支える力となる。
だからこそ、無くせない。離せない。
「…やはり、神子にはかなわない」
「……………?」
きょとんとした顔をするあかねの愛らしい様子に顔をほころばせると、泰明は柔らかく彼女の躰を包み込む。
「…!? や、泰明さんっ??」
突然の事に焦ったあかねが思わずぱたぱたともがくと、今度は明るい笑い声が微かに漏れる。
泰明が声を立てて笑うことなど滅多にないので、あかねは一瞬目を丸くしたが、そのあまりに楽しげな雰囲気に自分も嬉しくなってきて、自然にその面に笑みが浮かんでくる。
泰明はそんなあかねの髪に頬を寄せると、はっきりとした声で、けれど優しく囁いた。
「―――お前は、私が必ず守る」
「………はい」
頬を染めたまま、花のほころぶような笑みを湛えてこくり、とあかねが頷く。
この人さえいてくれれば、きっと大丈夫。
そう思える自分がいる。
いつだって、口には出さなくとも全身で支えてくれていることを知っているから。
そばにいてくれるだけで、不安が吹き飛ぶ自分自身を知っているから。
だからきっと、自分も大切なものを守るために頑張れる。
この場所を、大切な人達を―――そしてこの人を。
遠く北山の稜線にかかる沈みゆく夕陽が、二人の姿を鮮やかに紅く染め上げる。
―――――決戦の日は、明日。
FIN.
2001.7.6(FRI)UP.
(永泉様のお誕生日に、泰明さんのお話UPしてどーするんだ私…(笑))