希(こいねがわく)は
 
 
 ここ暫くの間降り続いていた雨が止み、久しぶりに雲一つない青空がのぞいている。
照りつける陽射しは既に夏を感じさせるものだったが、常よりも遅れ気味の天の恵みに潤い、一斉に芽吹いたかのようなみずみずしい青葉は眼にも美しく、時折吹いてくる風とも相まって爽やかな心地を抱かせる。
 
 
 ―――つい一月ほど前までの萎れきった緑の様子がまるで夢のようだ………。
 
 ふとそんなことを考えて、永泉は瞳を細める。
 
 
「永泉さん!こっちです」
 
 
 少し手前を行く少女の弾む声に、彼の笑みが深くなる。
 朱鷺色の髪を風に靡かせながら歩く少女―――あかねの姿は本当に楽しそうで、見ているだけで心が温かくなってくる。
 
 
 二人が目指しているのは京の北に広がる山の奥手にある、小さな寺。そこは元はさる貴族の山荘として建てられたものだったが、その貴族が世を去った後は訪れるものもあまりなく、静かなたたずまいを見せている。
 
 ―――鬼との戦いも終わった後、暫くは互いに忙しく、ここのところゆっくりと逢うこともままならない日が続いていた。
 そんな中、久しぶりに左大臣家を訪れた永泉を、どうしても見せたいものがあるから、とあかねが件の場所へと連れ出したのだ。
 もっとも何を見に行くのかは、あかねに尋ねても「秘密です」と言うばかりで何も語ろうとしないので、いまだに永泉にはわからなかったが。
 
 ちらちらと木漏れ日の降り注ぐ細い山道を、たわいのない話をしながら二人は進んでゆく。
 途中、道ばたに咲く野の花や、鳥の声など、あちこちに興味を示す少女の問いに、優しく永泉が答える。
 
 
 ………そうして、半時ほども歩いた頃。
 風に乗り、踏みしだく濃い緑の香りに混じって、僅かに甘い芳香が漂ってきた。
 
「この薫りは…?」
 
 二、三度瞳を瞬かせ、永泉は辺りを窺うように周囲に顔を巡らせる。
 あかねは微かに微笑むと永泉の腕をとり、勝手知ったる様子で前方に現れた道を曲がる。すると、目の前にこぢんまりとした、かつては庭であったらしい開けた場所に出る。
 あかねはその奥に現れた緑をほら、と指さした。
 
 ―――永泉が視線を転じると、そこにはいまを盛りと真っ白な花を無数に湛えた梔子の垣根が、住む者のいなくなった邸を取り囲むかのように広がっていた。
 
 
「これは…」
「すごいでしょう?こんなところでこんなに綺麗な梔子の花を見られるなんて思わなかったから、永泉さんにも見せてあげたいなと思って」
 
 鮮やかな光景に見入る永泉の隣で、優しい声が響く。
 
「この間、散歩をしていて見つけたんです。すごくたくさん咲いてるんですよ」
「散歩………ですか?」
 やや心配そうな面持ちで振り返った永泉に、あかねは慌てて付け加える。
「あっ、一人でじゃないですよ!ちゃんとお邸の人についてきてもらいましたから」
 
 一人で邸を抜け出した上にしょっちゅう危険な目に遭うことに関しては、こと前歴がてんこ盛りなことは、さすがの彼女も自覚しているらしい。
 赤くなりながら上目遣いでこちらを見上げている彼女の様子が可愛らしくて、永泉は思わずくすくすと小さく笑いを零した。
 そんな彼の反応に、つられてあかねも笑い出す。
 
 
「…あかね殿は、梔子の花がお好きなのですか?」
 梔子の花を眺めながら尋ねると、あかねは嬉しそうに大きく頷いた。
 そして細い指先で軽く花びらに触れる。
 
「このお花、すごくいい匂いがするでしょう?…なんて言うのかな、ただ甘いだけじゃなくて、心が落ち着くような薫りで。だから好きなんです」
 
 そう言うと、くるりと顔を永泉の方へ向け、悪戯っぽく翡翠の双眸を輝かせながら何か大事な秘密を打ち明けるかのように彼の瞳を覗き込んだ。
 
「それに、私がいたところでは、この花にはすてきな意味があるんですよ」
「―――どんな意味ですか?」
 
 あかねはその問いにすぐには答えず、そばの梔子の木から見事な純白の花を付けた一枝を手折ると、にっこり微笑んで永泉に差し出した。
 そして。
 
「…いまの私の気持ちと同じ、かな」
 
 小さく謎掛けのような言葉を洩らす。
 
「……………?」
 
 差し出された梔子の花を受け取りながら不思議そうに首を傾げる永泉に、あかねは少し恥ずかしそうにふふっと笑った。
 
「あのね…梔子の花の意味は、「私は幸せです」っていうんです」
 
 思わず永泉は瞳を瞠る。
 そんな彼の表情に気がついているのかいないのか、あかねは急に僅かに俯くと瞳を伏せた。
 
「永泉さん、今日、お誕生日でしょう?それで何か贈りたくって色々考えたんですけど、どうしてもいいものが思い浮かばなくて………。だから、せめてお祝いの気持ちだけでも伝えられたら、って。永泉さんに逢って、いま一緒にいられて、私、本当に幸せだから、どうしてもありがとうって伝えたくて。…本当は和歌を詠めれば良かったんだけど、上手くいかないし…それで、お花を使ってちょっと狡いことしちゃいました」
 
 
 
 …どうやらあかねは、何も贈り物を用意できなかったことをひどく気にしているらしい。
 すまなさそうに声を落とす様子に、何と声をかけるべきかと一瞬、迷う。
 
 だが、彼女がこの花にこと寄せて告げてくれた気持ちが,どれほど大きな喜びと安堵を自分にもたらしてくれたことだろう?
 
 その気持ちをどのように伝えようかと、内心で思案していた永泉は―――その時ふと、いつか「誕生日」というものについて、あかねに尋ねたときの事を思い出した。
 
 
 
『「誕生日」はね―――あなたに会えて良かった、って言ってあげる日、かな。一緒にいられて良かったって…これからもよろしくねって。だから、大切な人…家族とか、友達とか、恋人とかの誕生日はお祝いしてあげたいの。もし、その人が生まれてなかったら、出逢うことも一緒に過ごすこともできなかったはずだから…』
 
 
 
 あの時のあかねの言葉はとても暖かくて、いまも深く印象に残っている。
 
 
 
 …なぜ、彼女はいつもこんなに優しく、暖かく在れるのだろう。
 その微笑みが、その一言が、この心の澱を…そこに沈む自分の迷いも弱さも流し去る。
 
 
 
 そう思った途端、胸に微かな痛みが走る。
 
 
 
 ―――彼女の喪ったものを思えば、いまここで、こうして自分のそばで微笑んでくれることさえ、奇跡に近いというのに―――…。
 
 
 
 
 
「…あかね殿」
 永泉は俯く彼女に呼びかけると、その華奢な手を遠慮がちに捉える。
  
「私も、あなたにさしあげたいものがあるのです。…受け取っていただけますか?」
「えっ…?」
 
 不思議そうに自分を仰ぎ見るあかねに柔らかく微笑むと、永泉は先に彼女がしたのと同じように傍らの梔子の枝を手折った。そして何気なく彼の手の動きを目で追っていた彼女の指に、それをそっと握らせる。
 
 その意味に気がついたあかねは驚いたように翡翠の双眸を見開くと、うっすらと頬を染める。
 ―――だが、再び顔を上げた彼女の瞳に映ったのは、どこか苦しそうに眉根を寄せる永泉の姿だった。
 
「あの…」
 
 思わず小さく声をかけたあかねと、目線を上げた永泉の瞳が、ふと、出逢った。
 
 
「…いつか教えて下さいましたね。「誕生日」を祝う意味を―――…」
 
 
 そう言ってあかねを見つめる、深く透き通った紫紺の瞳に、切なげな影が揺れている。
 
「あなたがここに残って下さって、そしてこうして一緒に私の誕生日を祝って下さること…それが私は本当に嬉しいのです。―――…ですが、その代わりにあなたにはたくさんのものを………」
「そんなっ!私は…!!」
 
 慌てて反駁しかけたあかねを遮るように、不意に永泉が彼女の手を強く握った。
 真摯に見つめる瞳に毅い光が宿り、一瞬どきりとする。
 そのまま、とらわれたように視線を外すことが出来ないでいるあかねに、永泉は噛みしめるようにして言葉を紡いだ。
 
「それでも私は、あなたにそばにいて欲しいのです。これからもずっと。ですから、私はあなたをお守りしたい。私に出来る、すべてで………」
「永泉さん………」
 
 
 名を呼んだ拍子に、その大きな翡翠の瞳から透明な涙が一粒、こぼれ落ちる。
 
 
「あかね殿!?」
 
 
 慌てたように声をかける永泉に、あかねは頬を染めて目元に手をやると、涙を湛えたまま、にこっと微笑む。
 
「大丈夫です。嬉しくって、何だか胸がいっぱいになっちゃっただけだから…。そんな風に負い目を感じたりしないで下さい。遠く離れていても、むこうのことはちゃんと思い出が残ってるもの。―――でも私、永泉さんは思い出にしたくなかったの。いま、一緒にいて欲しくて………。だから、一人で全部背負い込んじゃわないで。これから一緒に生きて行くんだもの、二人で一緒に頑張らなくちゃ」
 
 ね?というあかねに微笑みを返すと、永泉は彼女の目元に残る涙を、白い指でそっと拭った。
 そしてそのまま、彼女の背中に腕を添え、朱鷺色の艶やかな髪に頬を寄せる。
 
 
 
 
 
 ―――彼女は、その言葉がどんなに自分に光を投げかけているのか、知っているのだろうか?
 告げられる何気ない一言一言がどれほどこの心を震わせているのかということを。
 
 どんなことも、彼女なしではもはやこの心に響くことはないだろう。
 そしてどんなにつらく、苦しむことがあっても、彼女さえいてくれれば立ち向かってゆける。
 
 もう、かつてのように自分が傷つくことを恐れてただ逃げることはない。
 自分が傷ついたとしても、どうしても守りたいものを見つけたから。
 
 
 
 
 
「………そうですね。どのようなことも、二人でならきっと、乗り越えられます」
 
 優しく囁かれた言葉にあかねは更に笑みを深くすると、彼の肩にゆっくりと額を落とす。 
 
 
「また来年も、ううん、これからもずっと一緒に見に来ましょうね?」
 
 優しく甘い声音に応えるように、永泉は彼女を柔らかく抱きしめた。
 
「ええ…必ず」
 
 そして祈るように瞳を伏せる。
 
 
 
 
 
 梔子の香の薫る風が、二人を包み込むように柔らかく吹き抜けてゆく。
 
 
 
 
 
―――――希わくは。
これからもずっと、私があなたにとっての光となりえますように―――――…。
 
 
 
 
 
FIN
2001.7.6(FRI)UP.
       永泉様、お誕生日おめでとうvv
 
 
 
 
 
 何だか微妙に途中の辻褄が合ってないような気もします…。それになぜか、最終決戦後すぐのお誕生日の話になってしまいました。…あれ??
 だからまだ「あかね殿」なんですけど。(天編六章で「あかね殿」と呼んでいたので)
結局、お誕生日の話なのか、そうでないのかよく分からなくなってしまいました。中身はないのに妙に長いし。
これ、甘いって言うのかな…(汗)。
それにしても、永泉様の気品はどこへ…(泣)。 
 
 
 
 
                         
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