‡ ――――― 流れゆく 雲の彼方に ――――― ‡
今は遙かに遠く思えるあの地から
この場所へと時空を超えて ―――…
――――― いま、私は此処に、いる。
§
…真っ新な料紙の上にさらさらと淀みなく、精緻な文字が綴られてゆく。
几帳面なその手蹟(て)は寸分の狂いもなく、書き手の意志を次々と紙の上へと写し取る。
そこに書き出されてゆくのは、ここのところの星の動きについての簡潔な報告書である。
天文や風雲を観測し、そこに何らかの天象があればその意味を読み解き、文書にして報告する。それがいつもの“彼”の仕事だ。
彼だけでなく、今この陰陽寮にいる者達は皆、何らかの形で政や帝に関する吉凶禍福を占い、報告する務めを担っている。
もっとも、京の結界が龍神の神子によって修復されて以来、特に異変と呼べるほどのものは見られはしなかったのだが。
――― と。
それまで休むことなく動かされていたその手が唐突にぴたり、と止まった。
…そのまま、何か思案しているかのような間が暫し、その場に落ちる。
「 ――― またか」
ぽつり、と形の良い唇から溜息と共にそんな言葉が洩れた。
彼のよく知る気配が、その在るべき場所から少しずつ移動しつつあるのが、いま感じられたのだ。
軽く瞳を閉じると、彼はすっと呼吸を整える。
そのまま瞬時に意識を凝らして今し方触れてきた気配を詳しく探ってみるが、移動してゆく気配はそれ一つきり。すぐ傍に守護の式神の気配は感じるが、特に大きな気の乱れは無い。念のために、と手渡してある符が動いた様子もない。
それらのことを読みとると、彼はぱちりと瞳を開いた。
…どうやら何事かが起こったわけではなく、またいつもの“彼女”の“癖”が出た、ということのようだ。
「……………」
細く長い指が額に落ちかかる前髪をかき上げ、その下から現れたすっきりと整った柳眉が顰められる。
何故、これほど気にかかるのかは判らない。
既に鬼の影は去り、穢れも殆ど浄化されている。他ならぬ、“彼女”自身の力によって。いまこの地に留まっているものがあるとしても、それは所詮雑霊程度のものだ。
そして今もなお彼女自身の胎に宿る龍神の気の為に、悪しきものはそうそう簡単には近づくことすら出来ないことに加えて、彼女には自分のつけた式神もいる。
先ほど探った気配の様子からしても、彼女が今その式神を連れていることは間違いない。
これだけの条件が揃っている以上、余程のことがなければ、この昼日中から危害を加えられることなど、起こりようもなかった。
そして今、彼女の身に特に危険が迫っていないことは、何よりも自分の感覚が証明している。 ――― 案じることは何もないのだ。
頭の中でそう冷静に判断する自分を認識しながらも、しかし筆を持つ手は再び動き出す様子もなく、集中力は散漫になり、思考はどうしても目の前の作業には戻ってこない。
いま、自分がわざわざ動く必要など無い。自分が行かずともあの邸には頼久も天真も詩紋もいる。彼女を捜し出すことなど、特に何の問題もなくやり遂げるはずだ。
………それに、そもそも彼女も自分も“神子”と“八葉”としての務めを終えているのだ。
もはや自分が気を配らなければならない必然性も必要も無いはずだった。
………少なくとも、彼女にとっては。
それはよく解っている。 ――― だが。
彼はもう一度吐息をつくと、手にしていた筆を無造作に脇の硯へ置き、音もなく立ち上がった。
そして突然の彼の行動に何事かと呆気にとられている陰陽寮の同僚たちには目もくれず、そのまま流れるような所作で出口へと向かう。
あの少女と出会ってから、自分で自分自身の考えている事も判らぬまま、行動することが増えたように思う。
ふと気がつくと、これまでの自分なら決してしなかったような言動に出ていて、戸惑うことがままあるのだ。
…今も、そうだ。
頭では、自分が行く「必要」など無いのだと既に解っている。
それなのに何故か気が急いて落ち着かず、こうして仕事を放り出して出てきてしまった。
これまでなら何かに気を取られて与えられた役目を中途にすることなど、考えたことも無かったというのに。
さすがに最近ではそんな近頃の自分自身に違和感を感じ、色々と考えてみるのだが、一向にその理由が判らない。
そして答えは出ないまま、自分自身でも判じ得ないその曖昧な感覚は日に日に強くなってゆくようだった。
――― ただ、いつも自分の不可解な行動の先にはあの少女がいる。それだけは確かだった。
そして、今一人で考えても答えの出ないことにかまけて時間を浪費するよりは、恐らくはその原因であるはずの少女に直接、接した方が、何かが掴めるのではないか、とそんな気がしたのだ。
自身がそのような漠然とした感覚に身を委ねるのは実は初めてのことなのだとは、彼はまだ気がついてはいなかったが。
…そうこうしているうちにも、目指す気配はどんどんと京の北へと向かってゆく。迷うことなく。
泰明はその後を早足で追いながら、その進んでゆく先にある地に思い至り、ふと眉を顰める。
――― そこは北山だった。
§
――― 「北山」。
昼なお暗い、鬱蒼と樹々の茂る、洛北に広がる山並み。
其処では樹々の間を通り抜けてゆく、秋の涼気を帯びた風がざわざわと枝葉を揺らし、細かな影を千々に辺りへと振りまいている。
次第に近づきつつある気配に向けて黙々と歩いていた彼は、吹き渡る風に飛ばされて絡みついた一葉の葉を長い翠緑の髪から無造作に摘み取り、そのままふと揺れる梢に双色の瞳を向けた。
霊威さえ感じさせるほどの森閑とした荘厳さを漂わせ、奇(あや)しのものが住まうとも噂される其処は、自分にとっては縁の深い場所だが、その尋常ならざる雰囲気故に好んで立ち入りたがる輩は滅多にいない。
しかし、探し人の気配は確かに先ほどから其処に留まっている。
――― あの少女は、この様な処に一体どんな目的があるというのだろう。
足元に生える下草を踏み分ける度に濃い深緑の薫りが漂う中で、そんな疑問を抱きながら周囲に視線を巡らせていた彼の視界に、周囲から浮き上がるかのような鮮やかな藤色の衣が映る。
「神子」
近づきざま、見間違えようもない華奢な後ろ姿に声をかけると、ふわり、と肩口で切り揃えられた朱鷺色の髪と藤色の水干の袖が柔らかく翻った。
「 ――― 泰明さん?」
振り向いて驚いたように一瞬、翡翠の双眸を見開くと、あかねは見つかっちゃった、と悪戯っぽく笑う。
全く悪気の無いらしいその反応に、泰明は腕を組むと厳しく眉を吊り上げた。
いくら鬼の脅威が去ったと言えども、神子として変わらず清らかな気を纏い続けている彼女は、唯人に比べ、ずっと穢れに敏感だ。
その為、安易に独りで出歩くなとこれまでにも幾度も諭しているというのに、彼女は事の重大さをいまだに全く理解していない。
それでなくとも、京ではそれなりの身分の女や子供が供もつけずにふらふらと出歩くなど、不用心な事この上ないというのに。
…他人の心や境遇には驚くほど聡いのに、自分自身のことには呆れるほど無頓着なのだ、彼女は。
脳裏を過ぎった思いに、何故か無性に落ち着かない不安定な感覚に襲われる。
これまで、他人に対してこのように不可解な感覚を抱くことなど無かったが、この目の前にいる少女に関しては、どうも勝手が違うようだった。
泰明はきつく眉根を寄せたまま、正面からあかねの大きな瞳を見据える。
「笑い事ではない。何故お前は同じ過ちを繰り返すのだ。一人で出歩くのは危険だと言っているだろう」
「ごめんなさい。…でも大丈夫ですよ。ほら、今日は泰明さんが連れてきてくれた白澪(はくれい)もいるし」
ね?と自分の肩に止まる白鷺に笑いかけながら、けろりとした顔であかねが言う。
どうやら本気で式神がいれば大丈夫だと信じ切っているらしい。
確かに、八葉として従っていた頃、自分が傍にいない間に何かがあった時の為にと、この式神と呪を記した符を渡したのは自分だが、それとこれとは話が違う。
それらはあくまでも、万が一の時、それも一時凌ぎの為のものなのだから。
避けられる危険ならば最初から避けておくに越したことはない。
それなのにあかねは、自身がどれほど“目立つ”気配を纏っているのかなど全く自覚しないままに、「散歩」などと称してはふらふらと無防備に外を出歩き、自分から厄介事に首を突っ込んでしまうのだ。
今日はたまたま何事も起こらなかったようだが…。
彼女がこれまでにも何度となく、一人でいる時に限って災難を呼び寄せるかのような性質を遺憾なく発揮していることを思いだし、彼は思わず内心で溜息をつく。
だが当のあかねは、そんな表面には現れない泰明の内心には気付かず、笑みを湛えたまま頬に顔をすりつけてくる白澪の首筋を優しく撫でてやっている。
式神の鳥に ――― 自然に生み出されたものとは異なる、造られた形を与えられた存在に、自然に在る生命と同じように接するあかねを見ながら、泰明は不思議な思いで自らの胎が満たされてゆくのを感じる。
――― しかし彼はその奇妙な感覚を振り払うように軽く頭を振った。
そしてゆっくりと口を開く。
「それはお前が独り歩きをしても良い理由にはならぬ。…大体、この様な場所に何をしに来たのだ」
努めて意識を切り替えたせいか、いつも以上に抑揚を欠いて響く彼の声に、あかねは白澪を撫でていた手を止めた。
しかし別段物怖じする風もなく泰明の顔を見ると、ええっと、と言を継ぐ。
「…考え事です」
「考える?この様な処で?何をだ?」
「う〜ん、何かって聞かれるとよく判らないんですけど。ただ、こうやって木や空や…そんなものを見てたら、何か判るかなって」
「……………」
あかねの答えはなんとも曖昧で抽象的なものだった。…恐らく、彼女自身も自分の言動の意味を正確には理解していないのだろう。
そして彼女がこのような言い方をする時は、それ以上詳しい説明を求めても無駄なことはこれまでの経験でよく判っている。
あかねはしばしば、非常に感覚的に物事を捉えて行動することがあった。
それを彼女に言わしめると「何となく」、ということになるらしい。…それは自分には、理解し難いものだったが。
泰明は既に今日何度目なのか自分でも分からない吐息と共に一瞬瞳を伏せると、強い視線であかねを見遣る。
「だからといって何故独りで出歩く必要がある。どうしてもというのなら誰かを供に呼べば良いだけのこと。それが何故分からない?」
「だって私の個人的なことにみんなを巻き込めるわけ、ないじゃないですか!」
泰明の態度に言外に軽率だと咎めるような雰囲気を感じとったあかねが軽く唇を尖らせ、負けじと言い返す。
こちらの都合などよりも神子の身の安全の方が重要だと常々考えていた泰明とあかねとは、いつもどうしてもこの一点で意見が噛み合わない。
案外頑固なところも持つこの少女は、八葉は神子の道具なのだから上手く使えと言った時も、頑として受け入れなかった。
神子だからといって「特別扱い」されるのはおかしい、“道具”だの“仕える”だのというのは嫌だ、と。
そしてこのところ、その傾向は更に強まっているように感じられる。
――― そんなものはいらない、とでも言うかのように。
一瞬、ちくりとした痛みにも似たものをもたらしたその思考を、泰明は瞳を瞑って追い払った。
しかし訳の分からない微かな棘は抜けずに心に残り、その感覚が彼を余計に戸惑わせる。
黙りこんだまま、次第に苛立たしげな表情を見せ始めた彼の前で、ふとあかねがそれに一人の方が、ゆっくり考え事が出来ることもあるし…と何気ない様子で、小さく呟いた。
その言葉に、泰明は先ほどよりも強く、心の奥を何かに引っかかれるような感覚を覚える。
「………では、私も邪魔か」
不意に投げかけられた言葉にあかねは驚いたように大きな瞳を瞬かせる。
「邪魔?泰明さんが?どうして?」
煌めく瞳で真っ直ぐにこちらを見つめ返しながら、きょとんとした様子で問い返すあかねに、泰明の方が逆に困惑する。
「お前が言ったのだろう。他の者がいると邪魔だと」
それを聞いたあかねはう〜ん、と小首を傾げる。
「そう、ですね。…うん。確かに一人になりたい時もありますけど、でも泰明さんの事、邪魔なんて思ったことないですよ?」
ややあってそう言うと、にっこりと屈託無く笑う。
………よく解らない。
どう考えても、先のあかねの発言といまのそれとは矛盾するように思える。
だが、あまりにもあっさりと明るく言い切る様子を見ていると、それはそれでいいかという気になった。
…何より、今の彼女の言葉は決して不快ではなかったから。
――― しかし ―――…。
そこでふと、泰明の胸に一つの疑問が浮かぶ。
これほど「神子」として、彼女の言う「特別扱い」とやらをされることを嫌うあかねが、なぜいまだにこの京に留まっているのだろう。
ここにいれば、彼女はその身に纏う「神子」の力故の特質と、周囲の者の彼女を篤く遇しようとする心情から、どうあろうと多かれ少なかれ、行動を制限されざるを得ないというのに。
そしてここに召喚されたばかりの頃、あかねが自分の世界に還りたいと言っていたのを泰明は聞いて、知っている。
時折、淋しげで心細げな光を湛えた瞳で物思いに沈んでいたことも。
それなのに…。
…だが、何の不安も不満も無いかのような明るい笑みを浮かべているあかねの表情からは、その答えを窺い知ることは出来なかった。
「…お前は何故、還らなかったのだ」
不意に低く響いた声に、あかねが、え?と瞳を見開いた。
その視線の先で、泰明は両腕を組んだまま、胸の中にある靄のような何かを捉えかねながら軽く唇を噛みしめている。
「お前はこれまでもとの世界へ還る為に神子として務めを果たしてきたのだろう。…どうしてまだ、ここにいる?」
「 ――― なんでなのかな。私にも、よく判りません」
何を聞きたくて、そして何故投げかけたのか自分でもよくわからない問いに、さらりとあかねはそう言った。
その言葉の持つ意味とは裏腹に、何がしかの確信を秘めたような印象を抱かせる響きを有するその答えに、泰明は訝しげに首を捻る。
問うように向けられた琥珀と緑玉の視線にあかねは小さく微笑いかけると、両手を後ろ手に組みながら、降り注ぐ午後の陽射しを仰ぐように遙かな高みへと顔を向けた。
頭上に広がる木々の梢の切れ間からは、抜けるように蒼く澄んだ秋の空が覗いている。
…何処か、自分の知らない彼方を見つめているかのような翡翠の瞳に、ひどく遠い隔たりのようなものを感じて、泰明は微かに眉根を寄せる。
――― いま、微かに生じた締め付けられるような胸の痛み。これまで感じたことのないもの。
そして其処に宿る、寂寥にも似た、“何か”。
ひどく漠然とした、捕らえ所のないその感情。
「淋しい」 ―――…と?
そう“感じた”というのか。この自分が。
どうして淋しいなどと思うというのだろう。
そして一体、“何”が淋しいと ―――…。
自分の中にある想いに困惑し、内心首を傾げている泰明の隣で、あかねは飽きることなく空を眺めながら、吹き渡る風の揺らす樹々の梢の音に耳を傾けている。
「…ここで、すごく大切なものを見つけたような…そんな気がしたんです」
ややあって思いだしたように澄んだ声が響く。
「“ような気がした”、とは?」
先ほどから相変わらずの曖昧な言葉に、泰明が律儀にそう訊ねた。
「まだね、それがなんなのかはっきりとは判らないんです。でも、ここにあるの。それもきっと一つじゃなくて、色々なものがたくさん。それだけは判る。…だから此処に残ったんです」
「それがなんなのか見つけるために…か」
あかねはこくりと頷く。
「向こうの世界はね、何もかも、すごく忙(せわ)しないんです。自分が何をしたいのか、どうしてそこにいるのか判らないまま…今、そこに自分がいる意味もあやふやなまま、どんどん時に流されて ――― ただ、生きてる」
他の人がどうなのかは判らないけど、私はそうだったから、と言いながら少し切なげにも見える表情で、あかねは軽く瞳を伏せた。
「だから、いま還ってしまったら、ここで見つけた大切なものが何なのかも判らないまま、ここで感じた色々な気持ちも、思い出も、何もかも見失ってしまう気がして…」
「……………」
全く予想もしていなかった答えに泰明は沈黙する。
いつも、迷うことはあっても真っ直ぐに前を見つめている少女だと ――― そう、思っていた。
京に召喚されたばかりの頃は、戸惑いもあってか頼りなげな雰囲気も見受けられ、その身から神気が感じられなければ、華奢で力無い普通の少女のようにしか見えなかった。
だが、実際に神子として歩き始めた彼女は、出会った当初に垣間見せたそんな「弱々しさ」を、いともあっさりと払拭した。
自らを傷つけようとするものにも分け隔てなく注がれる、優しい眼差し。ままならぬ現状や力の無さに傷つき、苦しみながらも、それを乗り越えてゆくしなやかな強さ。
彼女が「龍神の神子」である所以も、その身に宿る力の大きさも、全て彼女が生来有する心の毅さから生ずるのだろうと、いつしか自分にそう思わせるほどに、あかねはいつも輝いていた。
…しばしば傍近く在り、実際に自分の眼でそんな彼女の姿を見てきたからこそ、あかねのいまの言葉は泰明にとって意外なものだったのだ。
いつも他人の境遇を自分のことのように捉えて、共に胸を痛めてしまうあかね。
初めのうちは全く理解できなかったそれも、今は心地よいものとして映る。
そしてそんな彼女に多くの者の心が救われているのだろう、とも。
――― だが、当の彼女自身が己の持つ「本当の力」も、自らが存在する意味も分からない、とは…。
そんな泰明の内心を知ってか知らずか、ちょっと情けないですけど、とあかねは苦笑してみせる。
「本当は…少し不安だったのかも。ここでは私には「龍神の神子」っていう役目があって、それは私にしかできないことで。だから私には、ここにいる意味があったから。今もそう。役目は終わってしまったけど私にはまだ力があって…ここでなら多分、この力を何かの為に使える」
あかねの内にいまだに残る、龍神の力。
それは穢れを祓い、邪なものを遠ざけ、時に怪我や病さえも癒す。
何よりも龍神と深い繋がりを持つその身がこの地に在るだけで、京を守護する結界を強化することに繋がるのだ。
あかねがそれを望むと望まざるとに関わらず。
あかね自身もその事はよく承知していたし、実際、今も龍神の神子が京に留まっていることは秘されているにも関わらず、何処かから噂を聞きつけた貴族の中にはその力を欲している者も多いと聞く。
それは確かに、この地に彼女が存在する意味がある、と考えることも出来る。が ―――…。
それでは本当の意味で彼女の求めているものの一つである、「そこに自分の在るべき理由」を見つけたことにはならないだろう。
あかねもその事は解っているのか、その湛えている笑みには自嘲気な色が見え隠れしていた。
しかし彼女はふっと顔を歪めると、でも、と小さく呟く。
「 ――― でも私、あっちでこれから自分がしたいことも、自分がいる意味も、まだ何も見つけられてないから。このまま還ってしまったら、また、前と同じようにただ時に流されてしまいそうで…だから。還るのが恐かったのかもしれません…」
そう言って視線を遠くの空に流すあかねの横顔は、ひどく儚げに見えた。
今までに見たこともないほど。
そして、彼女はこれまでこうして自分の思いをその内に抱え込んできたのだろうか、と今更ながら思い至る。
たった独りで…誰にも告げることなく。
「お前は ――― お前だ」
ふと零れた言葉に、あかねがふわりと振り返る。
その瞳の色がいつもよりも翳って見え、泰明は心の奥が訴える疼くような感覚を堪えるかのように、我知らず、一瞬固く指を握った。
………しかし、自分に向けられる僅かに揺れているような翡翠の眼差しに応えるかのように、泰明は強い瞳でその視線を受け止める。
あかねには彼女自身のことが判らないというのなら、自分があかねに告げればいいのだ。
それを知っている、自分が。
「初めて京に来た時も、鬼と戦っていた時も、今も、お前はお前だ。その魂の輝きは変わらぬ。そのお前の心の在り様が神子として相応しかった。だから選ばれたのだろう…」
それは、かつても一度、彼女に言った言葉だった。
鬼との最後の決戦を迎えた、あの日。水無月十日。
神泉苑へと向かう直前、皆の前で決戦への決意を新たにするあかねの力強く凛とした姿に、その場にいた者達の気と心が一瞬のうちに昂まり、一つに纏まっていくのを感じた。
そしてこの少女がいたからこそ、今この時に、京に「龍神の神子」が召喚され得たのだろうと確かに思ったのだ。
偶然や気紛れで彼女が選ばれたのではない。他の誰にも彼女の代わりなど出来ないのだ、と。
「お前は確かに龍神の神子だが、神子であること、五行の力を操る力があること…そのような事実に意味があるわけではない。それはただ、お前という存在自体にそもそもそれだけの力と意味があった事を示すだけのもの。 ――― それだけだ」
自分にとっては、あかねは「あかね」として意味を持って存在している。そしてきっと他の者達にとってもそれは同じ筈だ、と。
…かつて自分が同じ事を言ったその時の心情を思い出し、そして今、自然に紡がれてゆく自分の言葉を聞きながら、泰明は自分の内の疑問に一つ、答えが出たような気がした。
――― 恐らく、それを悟ったあの瞬間から、自分の中での「龍神の神子を護る」事の意味が変わったのだ。
今の自分にとってはこの目の前の少女が神子としての務めを担っているかどうかなど、関係がないのだろう。
そして自分が八葉という神子を護るべき役目を担っているのかどうかも又、同じ事だ。
「神子だから護る」のではなく、それが“彼女”だから…。
今日の自分の行動からしてもそうだ。
…確かに、自分は務めの最中に抜け出して、あかねを探しにここまでやって来た。
しかしそれは ――― 陰陽寮での自分の務めよりも彼女を捜すことの方が優先されると…そうすべきだと「判断」したから、ではない。
もはや、「八葉」として「神子」を護る必要は無いのだから。
ただ、彼女のことが気掛かりで、“そうしたかった”…のだ。
――― この感覚が何なのか、自分にはまだ解らない。
しかしそれが紛れもなく自分の内から生じたものであることは確かな事実だった。
…じっと真っ直ぐに泰明の方へ視線を向けているあかねの顔には、思わぬ言葉に驚いているような表情が浮かんでいた。
それが次第に緩んでゆっくりと溶けていき、柔らかな笑みへと変わってゆく。
「………ふふ」
ややあって、桜色の唇から小さな声が零れた。
「どうした?」
「ここで見つけた大切なものが何だったのか、一つ解ったなって」
不思議そうな泰明に、あかねが口元に手を添えながらそう言って、瞳を細める。
「今までこんな事をしっかり考えたことなんて無かったし、それにきちんと応えてくれる人もいなかったんです。「答え」じゃなくてもいいのに、みんな「答え」が出せないからって「つまらないことを考えるな」って言うだけで、応えてくれなくて。 ――― でも八葉のみんなや藤姫は、ちゃんと自分なりの応えを返してくれる…」
そしてその温かさがあったからこそ、きっとこれまで神子としてなんとか頑張ってこられたのだと、だからここでなら、あちらでは手に入れられなかった大切な何かも、みんなと一緒にいれば見つけられると思ったのかもしれない…と言うと、あかねは僅かに迷ってから小さく、それにね、と付け加える。
「…泰明さんが、ちゃんと「私」のこと見ててくれたんだなって思ったら、何だかすごく嬉しくって…」
何故かうっすらと頬を赤らめながらも、嬉しそうに微笑んでいる顔は温かな陽射しのようだった。
そんなあかねの様子に自然に頬が綻ぶのを自覚しながら、泰明は、ゆっくりと頭上を流れゆく雲を見上げるあかねにつられるように、その行く先を眺めやる。
――― この京で、何かを見つけたのだというあかね。そしてそれを探すのだと。
ならば自分も、この少女の傍で、同じものを見、聞き、感じることが出来れば、何かが掴めるのだろうか…。
泰明はそこでふと隣に立つあかねに視線を流した。
するとその気配を察したかのように、ちょうどこちらへと視線を向けたあかねと瞳があわさる。
――― その瞬間に心を過ぎってゆく、目には見えない何かが触れあったかのような…何かが繋がったかのような不思議な感覚。
そしてあかねの顔に浮かぶ晴れやかな微笑といつも通りの瞳の輝きに安堵している自分自身を、泰明は今度こそはっきりと認識する。
いま、自分の中に生じている変化は、全てこの少女に繋がっている。そしてきっと、その答えを持っているのも ――― 彼女だ。
それならば、いつか辿り着けるかもしれない。探し求めている、“何か”に。
あかねがこの場にいる限り。そしてその傍に自分がいられる限り。
その行き着く先に何があるのかは判らない。だが ――――…。
§
二対の視線が見つめる先に、高く青い空に浮かぶ雲が映る。
風に乗り、光を弾き、彼方へと雲は流れてゆく。
ここではない、何処かへ。
何かを追い求め、さらなる高みへと…。
―――雲の切れ間から差し込んだ陽の光に、泰明は眩しげに顔を顰める。
…細められた両の瞳が一瞬、琥珀色に輝いた。
【 Fin. 】
2001.10.27(SAT)UP.
2001.11.5(MON)加筆修正.
< Written by Yuki Kugami. 2001. / Site 【 月晶華 】 >
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