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…はらり、と目の前を風に散らされた、鮮やかな紅に染まった紅葉の葉が過ぎる。
ゆらゆらと、頼りなく宙に舞い、吹き抜けてゆく秋風にその身を委ねながら。
――― ただ、ゆっくりと…寄る辺無きもののように、落ちてゆく ―――…。
「……………」
あかねは室内へ舞い込んできた紅葉の葉を拾い上げると、伏し目がちにそれをじっと見つめた。
そしてそのまま簀子縁の傍まで歩み寄り、掲げられた格子越しに晩秋の風情を醸す庭へと視線を落とす。
彼女の視線の先…もうあと一、二歩踏み出せば手の届きそうな程近くに、庭の紅葉が枝を伸ばしていた。
そろそろ冬の足音も聞こえようかというこの時期、その枝は既に半ばまで葉を散らしていたが、先の方はまだ見事に赤く色づいている。
ふと、それに気を惹かれて、近寄って目の前の枝に手を伸ばしたその時、不意にざあっと音を立てて、僅かに冷気を含み始めた強い風が何処からともなく吹いてきた。
それは、思わず肩を竦めたあかねの艶やかな朱鷺色の髪を乱し、目の前の紅葉の大樹の枝を揺らして通り過ぎてゆく。
…細められた翡翠の瞳に映る景色が刹那、風に舞い踊る緋色に染め変えられる。
そして一面の大地を覆い尽くすかのように、ひとひら、ひとひらと地に落ち、その上に紅の錦を織り上げてゆく。
ぼんやりと眺めていたその様が何故か淋しく感じられて、あかねはその場に座り込むと、高欄にかけた両腕に顔を伏せるようにして、小さく溜息を洩らした。
…と。
かさり、とほんの微かな、枯れ葉を踏みしだくような足音が響いた。
あかねは何処か夢現のような感覚を抱いたまま、音のする方へと顔を上げる。
そこに在ったのは ――― つい今し方、思い浮かべていた人の姿。
先ほどの風の散らした紅葉の名残が幾葉か、いまだに宙を舞う中で、その合間を縫うように近づいてくる風に流れる翠緑の髪が一際、鮮やかだ。
「…泰明さん…?」
大きな翡翠の瞳を瞬かせるあかねに、仄かな笑みが返される。
だがあかねは、瞳を見開いて、ただただじいっと彼へと視線を注いだまま、身動きすらしない。
直前までぼんやりと物思いに耽っていた為か、それとも唐突に彼が現れた為か…彼女はどうやらまだ事態をしっかりと呑み込めてはいないらしい。
泰明は、そんなあかねの様子に思わず僅かに苦笑した。
…確かにここの所、ろくろく休みも取れないほど忙しかった為に、あかねにはなかなか逢えずじまいだったのだが。
「あかね」
そう、名を呼びかけると、泰明はそっとあかねの頬に触れる。
掌越しに伝わってくる温もりにあかねはもう一度、ゆっくりと長い睫毛を伏せた。
そして、ふわりと笑う。
「…いま、ちょうど泰明さんの事考えてたから…びっくりしました」
そう言って向けられる瞳は、いつも通りの輝きを宿してしっかりと泰明の姿を捉えている。
その様子に内心で安堵しながら、泰明は、そうか、と一言答える。
「でも、急にどうかしたんですか?何かあったの…?」
状況が判ると、今度は前触れもなく急に彼がここに現れた理由が気になったのか、あかねは心配そうな顔で、真っ直ぐな視線を向けてくる。
既に陽は中天を過ぎ、傾き始めてはいるが、いくらこの時期の日暮れが早いとは言っても、ここ暫くの彼の状況からすれば、まだ仕事が残っているはずだと思っているのだろう。
泰明は階(きざはし)に腰を下ろすと、軽く頭を振った。
「いや。お前が心配するようなことは何も無い。仕事に片が付いたので、そのままこちらへ回ったのだ。使いは一応出したのだが、それよりも早く着いてしまったようだな」
そこで泰明は濡れ縁の板敷きの上に座り込んでいる、あかねの顔を見上げた。
久しく見ていなかったようにも思える、深く澄んだ色合いの視線に、一瞬あかねはどきりとする。
「…先ほど、お前の気が乱れたのが判った。何があった」
「私の気が…?」
自分自身では全く自覚の無かったあかねは、きょとんとして首を傾げたが、泰明がそう言うのなら間違いないのだろう。
…どうやらそれで、取り次ぎを待てずに彼は庭の方から回ってきたらしい。
少々せっかちで面倒な対応を嫌うところがある彼は、これまでにもよくひょっこりと庭先に姿を現したことがある。
その度に、後であかねの元にやって来た藤姫や女房達をぎょっとさせては、きちんと取り次ぎを、と藤姫に言われているのだが、気が急いている時などは、いまだにその癖が時折出てしまうようだった。
藤姫としては、あかねが仮にも左大臣家の養女となった以上、訪ねて来るにも相応の手順を踏んで欲しい、と思っているのだろう。しかし泰明だけでなく、あかねも殆ど気にしていない為、仕方がないと諦めたのか、近頃ではいきなり泰明が現れてもただ溜息をつくだけで、何も言わなくなっていたが。
…そんな事を思いながら、あかねはそっと立ち上がり、着物の裾に気を配りつつ泰明のすぐ傍まで近づくと、ちょこんとそこに座る。
泰明の言う気の乱れ、というものがどういうものなのか、具体的にはよく判らなかったが、ともかく彼が自分のことを心配して急いでここまで来てくれたことは、その瞳を見れば判る。
…――― 案ずるようにあかねに真っ直ぐに向けられている、光の加減で金にも琥珀色にも見える、吸い込まれそうに綺麗な両の瞳。
その右目の下には、いまはもう「神子」と「八葉」を繋ぐ龍の宝珠は無い。
…けれど。
不意にふふっと小さく笑い声を洩らしたあかねに、泰明が怪訝そうに細い眉を上げる。
「何故笑う?」
「うん。何だかちょっと…嬉しくて」
ただそうとだけ言うあかねに、泰明がさらに訳が分からない、という風情で首を傾げる。
そんな彼の瞳を覗き込むようにして、ゆっくりとあかねは言葉を紡いだ。
「あのね。私の気が乱れたって気がついて、こんな風に来てくれるのは、泰明さんだけだから…」
毎日顔を合わせている藤姫ではなく。
同じ邸内に住む、天真や詩紋や頼久でもなく。
ただ ――― 彼だけが。
…それが、何より嬉しい。
そんなあかねの想いが伝わったのか、僅かに顰められていた眉が柔らかく解かれてゆく。
そんな二人の間に、ひらり、とまた一枚紅葉の葉が落ちた。
何気なくそれを手に取る泰明に、そう言えば…と、思い出したようにあかねが呟く。
「さっきはね、庭の紅葉を見ていたんです。でも、紅葉がどんどん風に飛ばされて散って行くのを見てたら、何だか急に淋しくなって。気が乱れたのは、そのせいなのかも…」
「…落ち葉を見て、淋しくなったのか」
そう言いつつ、心の奥が訴える僅かに疼くような感覚に泰明はふと瞳を細める。
そんな泰明の様子を疑問と取ったのか、ちょっとだけ、とあかねは少し恥ずかしげに笑った。
「泰明さんに逢いたいな、って思ってた時だったから。――― こうやって急に葉の色が変わって散っていくのを見てると、いま、時間が流れてるんだって事をはっきり感じて…よけいにそんな気分になったのかな」
そう言うと、あかねはそっと瞳を伏せる。
時は止まらない。いつも、どんな時も変わることなく流れてゆく。
それが長いようにも短いようにも感じられるのは、その時々の自分の心を映して見ているからだ。
楽しい事や幸せな事は、変わらずに長く続いていて欲しい。
嫌なことは早く過ぎ去って欲しいし、その辛い思い出ごと、記憶の彼方にしまい込んで忘れてしまいたいと…その為に早く時が流れて欲しいと思うこともある。
現実には自分の思いだけではどうにもならない事だと解っていながらも、不意にそんな思いに囚われてしまうのは、誰にも止めることは出来ない。
だが、毎年変わることなく忠実に、そしてあっという間に葉の色を変え、そして散ってゆく樹々の様子を目の当たりにすると、自分の思いとは無関係に均等に時を紡ぐ、自然の抗い難い流れを、否が応でも感じてしまう。
そんな時、人は自分という存在の小ささや儚さを、いつもよりも強く感じてしまうのかもしれない。
自分の願いだけではままならないものを、そうして目に見える形で認めてしまうからこそ余計に、幸せな時は早く過ぎ、辛い事や嫌な事はいつまでも続くかのように思えてしまう…。
そしてそれが、心に不意に淋しさや人恋しさをもたらすのかもしれない。
――― 自分は、“独り”ではないのだと確かめたくて。
「でも…」
あかねは泰明の手からそっと紅葉の葉を抜き取ると、握られたままだったもう片方の自分の掌を開いた。
…そこにあったのは、先に自分の部屋へ迷い込んできた一葉の紅葉の葉。
やがて、手の中の二つの紅の葉に落とされていた翡翠の双眸が、愛らしい笑みを湛えて泰明の方へと向けられる。
「いまは淋しい感じなんて少しもしなくて…ううん、それよりも、すごく綺麗に見える…」
「……………」
泰明はただ言葉もなく、あかねの顔を見つめる。
…鬼と戦っていた時、二人が顔を合わせることは、ある意味必然だった。
神子として日々、務めを果たすあかねを護る為、八葉である泰明は如何なる時も彼女の求めがあれば同行できるよう、ほぼ毎朝この邸に顔を見せることが日課となっていた。
しかし今は違う。
泰明には己の本来の陰陽寮での職分とそれに対する責任があり、あかねもまた左大臣家の養女として、それなりの知識や礼儀作法を一日も早く身につけなければならず、それぞれに忙しい毎日を送っている。
一緒にいたいと思っても、今はまだそうそう思い通りには行かない。
そうして彼女に逢えないまま日々を重ねる内に、唐突に強い不安に襲われたこともあった。
拠り所としていた大切なものがあやふやになり、見失ってしまうかのような、漠然とした恐れ。心を締め付けられるような切なさ。
…今までには感じた事の無いもの。
――― けれど。
「淋しい、とは不思議な感情だな。お前に逢えない間は、何故かひどく不安で、気が落ち着かなかった。ただ…お前に逢いたかった」
ぽつり、とそう洩らすと、泰明はそっとあかねの細い肩を抱き寄せた。
少し頬を赤らめながらも甘えるように身を預けてくるあかねを、愛おしそうに腕の中に閉じこめる。
触れあっている互いの躰から伝わる温もりと、身に馴染んだ柔らかな気配が、何もかもを優しく溶かしてゆく。
「…お前の顔を見て声を聞いて…こうして触れていると、今まで感じていたはずの「淋しさ」がどんなものだったのか、忘れてしまったような気がする…」
深い感慨を秘めた声音に、あかねはただ瞳を伏せて、小さく頷いた。
――― いま、身の胎に抱いている愛しさも、淋しさも。
その心のもたらす喜びも、苦しみも。
想いを繋げて、何度でも確かめながら、分け合って。
互いの存在をその手に掴んで、感じていられたなら。
…それだけで、ひとは幸せでいられるのかもしれない…。
そんな、仄かな安堵にも似た満ち足りた思いを抱きながら。
§
気がつくと、いつの間にか辺りは夕闇に覆われ始めていた。
…――― だんだんと沈みゆく、一日の終わりを告げる落日の光に、庭の木々も辺りの空気も、静かに佇む二人の姿も、全てが鮮やかな紅葉の色に染められてゆく。
こうして、二人一緒に何かを眺めたのは、何日ぶりだろうか。
「…美しい色だな」
不意に傍らから吐息のような呟きが零れる。
そこに滲む柔らかな響きに惹かれて、泰明の顔を振り仰いだあかねの瞳に、仄かに甘さを湛えた透明な微笑が映る。
「―――「お前」の色だ」
次いで降ってきた囁きに、夕陽を受けて常よりも幾分大人びた、美しい陰影を刻まれたあかねの雪白の頬が、さらに鮮やかな朱に染まる。
――――― その全てを包み込むように、優しい夜の帳がゆっくりと降りていった。
【 Fin. 】
2001.12.12(WED)UP.
【 +++ To 霧刃さま +++ 】
< Written by Yuki Kugami. 2002. / Site 【 月晶華 】 >
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