◇◆◇「………まだ、怒っているのか」◇◆◇










――― Asymmetry ―――





§





 ――― 朴念仁。鉄面皮。無表情。



 日頃からその抜きん出た容姿や能力に対するやっかみ半分に、屡々(しばしば)そう評される安倍泰明は、しかし現在、心底、困惑していた。
 それも、眉根の辺りに明らかな戸惑いの風情を漂わせる程に。





 …その、困惑も色濃い双色の瞳の見つめる先には、黙々と歩く一人の少女。
 普段は優しい弧を描いている頬を軽く膨らませ、つんとそっぽを向いている。
 唇をきゅっと固く引き結んだまま、こちらを見ようともしないその横貌には、頑なな少女の意思が伺える。


 ひとの感情というものに疎い自分にさえも、はっきりと“怒っています”と主張しているのがありありと判るその表情。

 そんな少女の様子に、恐らく自分がまた何か(まず)い事を言ったのだろう、と泰明は考える。
 …そして、それが少女の逆鱗に触れたのだろうと。

 朝、土御門の邸まで迎えに行った時は、朗らかに笑って出迎えてくれた。そして今、この場には自分と彼女しかおらず、つい先程まで神子はいつもと変わらぬ様子だった ――― と、思う。
 ――― ならば、事実はそういう事なのだ。



 だがしかし、此処に至る経過は判っても、その原因というものが彼には判らなかった。
 今度は一体、何が拙かったのだろう。
 再び、泰明はこれまでの事を思い返しつつ、考える。


 散策に同行し、あちこちに興味を惹かれてどうにも気もそぞろになっている少女に、足元に注意しろと促した。
 それに機嫌良く返事をした傍から、狙ったように道端の穴に(はま)りかけた彼女を掬い上げた。

 …ここまでは良い。

 その後、何故かひどくばつの悪そうな貌で謝る神子に、泰明は問題ないと言った。
 そう、問題など無い。
 彼女は怪我がどうこうと言っていたようだが、そのような事は些末な事だ。
 神子に怪我でもされる方が困る。…気が乱れて落ち着かなくなるのだ。

 だが、神子は一瞬、何か言いたげに眉根を寄せたかと思うと、それきり黙り込んでしまい…。
 …――― そして、今に至る。



 自分では自覚はあまり無いながらも、最近になって少しずつではあるが、自分の物言いに配慮というものが足りないらしい事は理解した。彼の一挙一動、或いはその紡ぐ言葉に、それはもうはっきりと表情を変える少女によって。
 ならばそれを解消する為には、その原因を知らなければならないと思う、のだが ―――…。


 率直に、何故怒っているのかと訊くと、何故判らないのかと逆に切り返され。
 ならばと思い、素直に済まぬと謝れば、何故謝るのかと問い返された挙げ句、答えに詰まる泰明に神子はさらに機嫌を損ねてしまう。


 今まで何度となく同じ(てつ)を踏んだ泰明は、こういう場合、その行動は火に油を注ぐだけの結果に終わるのだという事をいい加減、嫌というほど学んでいた。
 加えてこの少女は優しく思いやり深い半面、なかなかに情が(こわ)い処もある。一旦、こうと決めたら、そう簡単には態度を曲げはしないのだ。





 ――― これでは、どうすればいいのか判らない…。





 これがどうという事のない者なら放っておく処だろうが、相手が神子となるとそうもいかない。
 ふと、この状態がいつまで続くのかと思い、途端に何やら胸の奥に(おもり)を落とし込まれたような心地を覚えた。
 慣れない感覚に、泰明はふっとその端正な貌を顰める。


 …それが“途方に暮れる”という事なのだとは、泰明はまだ自覚していない。




「 ――― 神子」




 どうすればいいのか判らないまま、取りあえず少女へ呼びかけてみる。


 …やはり、返事は無かった。
 それどころか、彼の声が聞こえている素振りすら見せない。
 かといって、他に術など見つからず ―――…。







「…神子」
「………」
「神子」
「………………なんですかっ」







 流石に無視しきれなくなったのか、漸くぴたりとその足を止めると、噛みつくように神子が答えた。
 それでも貌は背けたまま ――― 彼とは視線を合わせないままだ。

 けれど目を合わせなくとも、じっと双色の眸がこちらを見つめているのを、神子は肌で感じていた。
 いや、今、彼がどんな貌で自分を見ているのかさえも、手に取るように判る。きっと普段とは打って変わって、困り切った表情をありありと浮かべているに違いない。

 ――― それでも。





 …此処で(ほだ)されては駄目なのだ。あの貌を、()を見てしまったら ――― もう、この怒りが続かないのはこれまでの経験で解りきっている…。





 そうして半ば意地になって神子がぎゅっと瞳を閉じた、その時。





「 ――― 貌を、見せてはくれないのか」





 僅かに翳りを帯びた声が神子の上に落ちた。

 それから、僅かに逡巡し。
 少女の貌にかかる鴇色の髪を払うようにして、長い指先がそうっと少女の滑らかな頬に触れる。

 神子はぴくん、と肩を揺らすと、鋭い瞳できっ、と泰明の方へと振り返った。そうして視線を強めていなければ、負けそうな気がしたのだ。
 だから神子は長身の彼を下から睨み上げるようにして、精一杯の抗議の視線を送る。

 …そうして見上げた先には、困ったように眉根を寄せている泰明の貌。それはやはり彼女が想像した通りのもので。
 だがそれでも、彼の手を避けはしない神子に少し安堵したのか、少しその表情が和らいだようだった。



 何処か躊躇いがちに ――― けれど包み込むように触れてくる、指。
 いつかのように呪いでも唱えているのだろうか。触れられている場処から温かく穏やかなものが流れ込んでくるかのような…不思議な心地がした。



 その感触にとうとう堪りかねたのか、神子は微かに頬を染め、…ふ、と小さく吐息をつく。





「………も〜う…」
「神子?」





 視線だけで問うてくる泰明に、神子は微苦笑にも似た様子で瞳を和らげつつも、拗ねたように唇を曲げる。





「 ――― なんて貌、してるんですか…」
「?」





 ぽつん、と零れた小さな声に泰明は怪訝そうに眉を顰めたが、少女はそれには答えなかった。
 黙ったまま、代わりにちらりと彼女が見遣った先、頬に添えられた泰明の左の掌には、浅く走る一条の傷。

 …それはさほど深いものではなく、もうとうに傷痕の血も乾いてはいたが、紛れもなく少女を庇って付いた傷だった。それも、ただ単に足元の悪い道端で転びかけた自分を無理に支えたせいで、傍らの朽ち木の枝で切ったもの。

 こんな事なら泰明の手も届かないような処で転んでおけば良かった、などと埒も無い事を考えかけ、神子はそうじゃなかった、と思い直す。


 ――― 解っている、本当は半分くらいは八つ当たりなのだ。


 そもそも、注意されていたのに足元を疎かにして転びかけたのは自分。泰明はただ、助けてくれただけだ。
 それなのに大丈夫かと言っただけで、怒りも呆れもしない。…怪我までさせてしまったというのに。
 それでも、と思い、ごめんなさいと謝れば、今度は何故謝られるのか判らないという貌をされてしまった。


 ………泰明はずるい、と神子は胸の胎で密かに思う。
 自分自身の事にはどうしようもなく無頓着で、いつもいつも心配しているのは自分ばかりで。
 しかもそれに怒れば、平然とした貌でさらりと「神子の為だ」などと言ってのける。

 確かに、迷惑を掛けているのは自分の方で、本当はこんな事を言える立場ではないけれど。
 何度言っても解ってくれず、泰明が自身の怪我など取るに足らない事のように言うから。それが嫌で、けれどこれ以上何をどう言えば伝わるのか判らなくて、どうしようもなくもどかしい気持ちを持てあまして意地を張って。



 そうして ――― 引っ込みがつかなくなってしまったのだ。



 きっと彼は自分がどんな想いでいるのかなんて、少しも判ってはいないのだろう。
 それなのにこんな時は、いつもの淡々とした物言いも傍若無人なまでの行動力も、すっかり(なり)を潜めてしまって。整った面にも瞳の奥にも、ひどく頼りなげにも見える色を浮かべていたりして。





 …だからなのかもしれない。
 その声で呼ばれて、優しく触れられただけで、何も言えなくなってしまう…。





 頭を振り、胸の胎のもやもやしたものを吐き出すように深く吐息をつくと、神子はゆるゆると肩の力を抜いた。



「ごめんなさい。…何でもないんです」
「では何故怒っていたのだ」
「………。…ちょっと、自己嫌悪してただけです…」
「神子、それではよく解らない」



 言いにくそうに口籠もる少女の様子にも気づかず、泰明はさらに問いつめる。
 表面上はそうとは判らないが、どうやら泰明は泰明で彼女の事を少しでも理解しようと必死らしい。腰を屈めて覗き込んでくる真摯な視線に、神子はう、と僅かに腰を引く。


「…だからっ! 気をつけるように言われてたのに転びそうになったのを助けてもらって! しかも怪我までさせちゃったら…恥ずかしいじゃないですか…」


 そこまで何とか言いきると、これ以上聞いてくれるなとばかりに泰明を見る。
 少女の暗黙の訴えに釈然としない貌をする泰明。
 …が、それ以上は頑として口を開こうとしない神子に、結局、小さく息をつく。


「…だが、私の身などよりも神子の ―――…」
「すとっぷ!」
「?」


 不意に神子は泰明の言葉を封じるように大きく叫ぶと、駄目押しとばかりに彼の唇にぴたりとその指先をつけた。
 驚いたように見開かれた双色の双眸が神子を映す。
 と、間近から(つよ)い光を宿した翠の瞳が泰明を真っ直ぐに見つめ返した。




「その先を言ったら、今度はホントに怒りますよ?」
「…―――…」




 先ほども本気で怒っていたではないか、とでも言いたげな泰明の視線を感じたが、神子は気づかない振りをした。



 ――― それとこれとは違うのだ。
 今は…それを上手く伝える事は出来ないけれど。
 それでも退けない一線というものは、ある。



 だが、無論そんな神子の内心など読める筈も無い泰明は、口を噤んだまま何とも言い難い表情で固まっていた。
 一体何を思っているのか、暫し、難しげな貌で考え込み ―――…。



 ややあって、判った、とぽつりと呟くと泰明は不意に少女の手を取った。
 え?ときょとんとした貌で瞳を瞬かせた神子に、小さく頸を傾げてみせる。



「どちらも怪我をしなければ良いのだろう? ――― ならば初めから(つまず)かぬよう、手を掴んでいれば良い。…違うか?」




 泰明の行動に一瞬、唖然としていた神子は、その深い翠の双眸を見開いた。


 …予想外の不意打ち。
 もしかして彼は、今までずっとその事を考えていたのだろうか。


 そう思うと、少々目の付け処は違うような気もしたが、そんな事はどうでも良くなった。
 少女の貌に次第に抑えきれない微笑が浮かびあがる。



「…違いません」



 小さな、けれどはっきりとした声で答えると、俯き加減に頸を振る。

 その動きに合わせて緩やかに揺れる柔らかな淡色の髪に、泰明がふと空いた掌を乗せた。
 すると少女は嬉しそうに、ふわり、と可愛らしい微笑を瞬かせ。
 (おもむろ)にくるりと(きびす)を返し、照れているのか恥ずかしいのか、自分から手を引くようにして先に立って歩き出す。




「神子、あまりはしゃぐな。気を散らすとまた転ぶ」
「もうっ、泰明さんと手を繋いでるのに二回も転んだりしませんよっ」




 間髪入れずに響いた声は、何処か明るく、楽しげにすら聞こえた。
 そうしてその華奢な指をしっかりと彼と絡め、微笑みのかけらを湛えて傍らを歩く少女へ、泰明はそっと視線を送る。








――― 神子と泰明とは、見るものも感じるものも、
考え方すらも違いすぎていて。

まだまだ判らない事の方が多すぎて、
互いに手探りばかりしているけれど。

それでも…この自分の一言で、
そして行動でこの微笑を引き出せるというのなら。





―――――…悪くない。









 胸の奥を過ぎり、温めていったその想いに、泰明は知らず仄かに微笑んだ。











― 了 ―





2003.6.21(SAT)UP.
【 +++ To しゃちほこさま +++ 】



< Written by Yuki Kugami. 2003. / Site 【 月晶華 】 >

< Illustration by Shachihoko. 2003. / Site 【 素粒子 】 >










【 素粒子 】しゃちほこさまのサイトで777HITを踏み踏みして、
リクエストさせて戴いたイラストですv
「拗ねているあかねちゃんを宥めようとしてる泰明さん」という、
私のよく解らないリクエスト(滝汗)に快く応えて下さったのですが…。

拝見して、泰明さんの困り切った表情にやられてしまいましたっ///
あの、哀しげなような、切なげなような何とも言えない眼差しが〜っ!!(>_<)
泰明さんにあんな目で見られちゃうと、ぐらぐらと気持ちが揺らいじゃいます///(笑)
それにあかねちゃんの拗ね方も何とも可愛らしくてvv
しゃちほこさんの描かれるあかねちゃんは、
勝ち気だけどそこがまた何とも可愛らしい雰囲気で、素敵なのですvv

…で、また懲りずに文を書いてしまったんですけど…。
な、なんだかミョーに初々しいというか、微糖過ぎというか…あ、あれ??(滝汗)

ちなみにタイトル「Asymmetry」とは「非対称」の意味です。
泰明さんとあかねちゃん、
鏡のように対称の存在では無く、また、まだお互いの事を総て解り合っている訳でもなくて、
でもお互いの事は大切に想っていて、何処かで通じている処はある…。
そんな感じをイメージしていたんですけど。

――― イヤ、だから初々しくなりすぎたのか? もしかして。…あう〜(T-T)


しゃちほこさん、素敵なイラストをありがとうございましたvv
お礼にならない文でごめんなさいっ(T-T)


by.陸深 雪









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