∽∽∽紫嵐∽∽∽

≪後編≫

 

 同じ日の夜更け ――― 嵯峨野の山中にある、とある貴族の別邸。
 ふと周囲に張り巡らせていた意識に微かに触れるものを感じ、泰明は眉を顰めた。


 何かが、いる。


 彼の感覚を裏付けるかのように、風も無いのに目の前の紙燭の炎がゆらりと揺れる。

 泰明は音もなく立ち上がり、部屋の外へと足を向ける。
 近づいてくる気配からは特に悪しき気は感じられなかったが、それがひとの気配ではないこともまた確かだった。
 御簾の傍近くまで来、辺りの様子を窺いながら、宙の一点を見つめて徐々に気を澄ませてゆく泰明の前で、視線の先の空気に白く、濃い靄のようなものが漂い始め…少しずつその濃さを増してゆく。


 ………やがて、巻き上げられた御簾の向こう、宵闇の中に姿を現したのは、二藍に青の桔梗襲の唐衣を纏った妙齢の女。
 月影に青みを帯びて見える長く艶やかな髪を肩に流したその女は、濡れ縁に佇んだまま、淡く透ける眼差しでじっと泰明を見る。


「お前は…」


 ――― 式神、ではない。

 普通、式神…特に人形を取るものは、有する能力の高さから、背かぬように術者に「名」による呪をかけられ、その身を支配されているはずだった。
 だが目の前の女からはそんな様子は全く感じられない。
 気配ははっきりと、その女が人外の存在であると伝えているのに。
 だがその女の気配には何処か懐かしく、また神々しいものが微かに混じっているようにも感じられ、泰明はふっと眉を顰める。


 ………この気は…どこかで…。


 心当たりを記憶の中から手繰ろうとした瞬間、女は泰明に向かって、恭しく辞儀をした。

「御文を言付かって参りました」
「…文?」

 訝しげな表情は、女から差し出された漆塗りの文箱を見た途端、驚きへと変わる。
 その文箱の纏う、清々しく柔らかな気は…。

「あかね…?」

 半ば茫然と呟く泰明に、女はにっこりと微笑む。
 文箱を受け取り、急いで紐解いた中にあったのは、菊花の香が焚きしめられ、丁寧に折り畳まれた淡香色の薄様と、見事な桔梗の花が一輪。
 その桔梗からは、あかねの気配と共に、晴明邸の自分の住まう対に面した庭に植えられていた花と同じ気配がする。

 それを見た泰明が、何かに気がついたかのようにすっと視線をあげた。

「…そうか」

 得心がいったかのような呟きに女は何も応えぬまま、仄かな微笑みを湛えている。
 その表情に泰明はふっと頬を緩めた。

「惹かれたか」
「…あのようにお心の澄んだ優しきお方にお会いしたのは、初めてでございます故」

 全てを悟ったらしい泰明の簡潔な言葉に、女は伏し目がちに肯定する。



「無意識とはいえ、花精まで捉えるとは…」

 その場に静かに控えている花精に視線を落としつつ、泰明は苦笑しながらそう呟く。

 恐らく、この花精は長い間、晴明邸や左大臣邸で晴明や自分、そしてあかねの強い気を受け続けて力を得たのだろう。
 そして、あかねという存在に惹かれて人形(ひとがた)を取って現れた…。

 どうやら、彼女の穢れの無い優しい心は、人にあらざる者さえも惹きつけてしまうらしい。何の誓約も代償もなく、精霊に認められることなど普通はまず有り得ないことだ。

 そこまで考えて、あかねが時に怨霊にさえも心を傾けていた事を思い出し、泰明は思わず小さく溜息を零す。



 …しかしこれでは、気掛かりで目を離すことなど、出来たものではない…。



 どことなく落ち着かない気分を振り払うように、泰明は頭を軽く振ると、文箱からあかねからの文を取り上げる。
 綺麗に折られた淡い色合いの薄様を開くと、優しい女文字が現れる。
 初めは筆を持って字を綴ることすら四苦八苦していたのに、ここ三月ばかりで、あかねの手蹟はずいぶん美しくなっていた。



 あかねからの文を読み進むうち、次第に泰明の白皙の頬に赤味が差し…。
 ややあって、ゆっくりと琥珀の双眸が閉じられた。


 そしてふ、と吐息をつくと、柔らかな微笑みを浮かべる。


「…あかね…」


 囁くように、甘く優しい声音が零れた。
 そして泰明はまだ暗い夜空を見上げる。遠く、想いを馳せるように。



 ――― お前は今、何をしているのだろう。そして何を想っているのだろう…。



 温かく、切ない想いと共に見つめる琥珀の双眼に映るのは、糸のように細く輝く銀色の月。


 ――― 明日は晦(つごもり)。

 京を立った時は美しい望月だった。
 月影の下、「気をつけて」と微笑みながら見送っていた、あかねの顔が心に浮かぶ。

 その時の笑顔とあかねからの文に、不意に泰明の胸は痛んだ。
 ――― そこには淋しさを抑えながら、それでも自分のことを気遣う優しさが溢れていたから…。

 確かに左大臣邸には、義理の妹である藤姫や、もとの世界からの友人である天真や詩紋、その他にも大勢の人間がいる。それでも、長く逢えない日が続いたりすると、自分を迎えるあかねの瞳に淋しさと安堵の入り混じった色が浮かぶのを、泰明は知っていた。
 彼女に逢えず、淋しいのは自分も同じだ。だが、本来の生まれた世界とは異なるこの地に身を置く彼女は、自分以上に心細いこともあるに違いない。

 そんなことにも気づかず、長い間、逢いに行けないまま、文を送ることにすら気がつかなかった自分自身に呆れ、額にかかる前髪をかき上げると思わず大きく息をつく。


 …泰明は一瞬瞳を閉じると、視線を再び花精に移した。

「お前の名は?」
「紫於音(しおね)、と」
「そうか。では紫於音、私からお前の主に渡したいものがある。頼まれてくれるか」
「はい」
「準備が出来たらまた呼ぶ」

 泰明の言葉に紫於音は頷きを一つ残し、すうっと霞のように姿を消した。
 同時に、彼が手にしたあかねからの文に添えられていた桔梗の藤色が鮮やかさを増す。
 しっとりとした深い色を花びらに宿した桔梗を見、泰明は室内へと戻ると、文机に向かった。






 …――― 暫くの後、泰明は文箱を手にして、再び桔梗の花精の名を呼んだ。
 一拍の間の後、朧な燐光が現れ、そこから霧が凝るようにして人影が現れる。

 泰明は現れた紫於音にこれを、と一言告げて、文箱を手渡した。
 そして少しの間逡巡した後、ぽつり、ともう一言付け加える。


「お前の主を…あかねのことを頼む」


 自分以外のものにあかねのことを任せてしまうのは少々業腹だったが、この際それは致し方ない。
 それに彼女に惹かれて自ら形を取ったこの花精ならば、十分に役目を果たしてくれるだろう…そんなことを思いながら、泰明は紫於音を見る。


「…何事もあかね様のお心のままに。それが私の願いでありますれば」

 そんな泰明に微笑を浮かべながら涼やかな声で応えると、桔梗の花精、紫於音は文箱を携え、すっと頭を垂れてから現れた時と同様、空気に溶け込むようにして姿を消した。





§






 翌朝。
 いつも通りに目を覚まし、身繕いを終えたあかねは、綺麗に整えられた文机に目をやりながら首を捻っていた。

 昨日書いていた文が何処にも見当たらないのだ。

 桔梗の花を見ながら暫しぼんやりしてしまった後、日が暮れ始めたのを見て慌てて放ってあった文を書き終え、いつも通りに綺麗に折り畳んでそのまま文机の上に置いてあったはず、なのだが。
 なまじ、綺麗に折ってあったりしたために、藤姫かそれとも女房の誰かが、出すつもりなのだと勘違いして気を利かせて持っていってしまったのだろうか。
 あかねが誰に文を出すかなど決まりきっているので、そんな可能性も無いとは言えない。

 けれど、それならばまだいいが、もしも風で飛ばされたりしたのだとしたら…。

「どうしよう〜〜〜」

 拾われて誰かに読まれたら…などと想像して、それはいくら何でも恥ずかしすぎる、と思わず唸ったその時、失礼致します、という静かな声が響き、桔梗襲の唐衣を纏った女房装束の女性が中へと入ってきた。
 初めて見る女房だった。整った優しい顔立ちをしているが、どこか普通の「ひと」とは違う雰囲気が感じられて、あかねは瞳を瞬かせる。
 そんなあかねの様子を知ってか知らずか、その女性はあかねの傍で控えると、すっと漆塗りの文箱を取り出した。

「安倍泰明様から、御返事の御文をお預かりして参りました」
「泰明さんから?…お返事って?」

 ――― なぜ、泰明から文の「返事」が届くのだろう?

 たとえ、昨夜のうちに本当に誰かが自分の文を持っていったのだとしても、返事が届くには早すぎるのでは、と訝しげなあかねの問いかけに、音もなくそこに佇む女性は、どこか困ったような風情でおっとりと微笑む。
 その様子がふと、記憶の端に触れ、あかねは首を傾げた。
 それは何処かで ――― それもつい最近、目の前にいる女性(ひと)と同じ仕草を見たような、強い既視感。

 ――― 私、この女性(ひと)を知ってる…?

 あかねの物問いたげな様子に気がついたのだろう。女性は深く頭を垂れると、口を開いた。

「私は桔梗の精…紫於音と申します。あかね様」
「桔梗の精…?」

 不思議そうに問い返してから、あかねは先刻からの既視感の正体に気がついた。

 ――― 桔梗の精。その、風に靡くかのような緩やかな仕草。淡い藤色に透ける優しい瞳…。

 それらの目の前の女性の持っている雰囲気は、自分が泰明から分けてもらって始終眺めていたあの桔梗の花と同じだった。

 今までにも、精霊という存在を見たことはある。それは桜の老木の精で、穢れに触れて怨霊になってしまっていたものだったが…長い年月を経たものや、何か強い力を得たものは、そうして自我を持ち、人の形を取ることがあるらしい。

 それなら、あの桔梗の花の精というものがいたとしてもなんらおかしくはない。そう考えれば、先ほど「ひととは違う雰囲気」を感じた理由もわかる。
 あの桔梗には何度となく話しかけていたから、あの時の自分の言葉を聞いて、こうして姿を現し、自分の文を届けてくれたのかもしれない。

 それに精霊ならば、ひとには無い力で文を携えてここ左大臣邸と嵯峨野の間を行き来することが出来たとしても、不思議ではないように思える。


「そっか…。あなたが泰明さんに届けてくれたんだね」
「勝手なことを致しまして、申し訳ありません」
「ううん。そんなこと無いよ。それにこうやって泰明さんからのお返事も届けてくれたんだもの。ありがとう。…すごく、嬉しい」


 にっこりと笑うあかねに、少し恐縮した様子で佇んでいた紫於音は、安心したようにふわりと微笑みを返し、では…と一言残して、ゆっくりと頭を下げる。
 そのまま次第に姿を薄れさせてゆく花精を見送ると、あかねは漆塗りの文箱を持って、室内へと引き返した。

 そして文机の上にそれを載せると、どきどきしはじめる心を抑えながら文箱の蓋をそっと持ち上げる。


 …中に入れられていたのは、葉の先端が淡く色づき始めた、紅葉の枝だった。
 赤から黄、そしてまだ色濃い緑色の鮮やかな三色に彩られた紅葉の葉は、目にも美しい。
 その枝の中ほどには、きちんと折られた白い紙が結わえられている。

 それを眼にしたあかねの顔がゆっくりと綻ぶ。

 あかねは紅葉の枝を指先で回すようにして暫く眺めた後、結わえられていた文を取り上げた。
 真っ白な紙はその手触りから上質なものであることは窺えたが、普通、文に用いる薄様ではない。
 仕事のために出向いた先にそんなものを携えてなどいなかったのだろうということが容易に想像できてしまって、それがいかにも泰明らしく、自然に笑ってしまう。
 くすくすと小さく笑いながら丁寧に結び目を解いて広げると、これまでにも幾度か眼にしたことのある、流麗で精緻な手蹟が現れた。


 ――― 後二日で帰る。


 そこに綴られていたのはただそれだけの、短い文章。
 雅な和歌が書かれているわけでも何でもない。
 けれどこうして一番知りたかったことを書き送ってくれたことが、あかねには何よりも嬉しかった。

 あかねは大切そうにその文を胸に抱えると遠く西に連なる山々の稜線に瞳を向ける。
 彼のいる方角は…あちらだろうか。


「うん。待ってるね…」



 小さな声が朝の澄んだ空気の中に静かに零れて、溶けていった。




§






 紫於音の手であかねのもとに泰明からの文が届けられた日の、さらに翌日。
 前日から急に明るくなったあかねの様子に周りの者が首を傾げる中、当の本人はにこにこと嬉しそうに手習いや習い事などに取り組んでいた。
 ここの所ついぞ見なかった朗らかな雰囲気に、内心心配していた者達は一応、安堵したものの、やはりその原因が気になって仕方がないらしい。藤姫などは何度となく不思議そうに、一体何があったのですか?などと尋ねてくるのだが、あかねが秘密、と言って教えたがらないので結局誰にも理由は分からずじまいだった。

 別に教えると困ることがあるという訳ではないが、あかねとしては何となく自分一人の胸の内にしまっておきたかったのだ。

 それは、二人だけの秘密…というあの心境に似ていたのかもしれない。

 ともかく、後二日で仕事が終わり数日の間に逢えるのだと分かると、待つことすら退屈でも淋しくもなく、心が浮き立つような楽しい気分でいられるのだから不思議だった。


 ――― そんな中で、あかねは他に人のいない時に姿を見せるようになった紫於音と時折言葉を交わしながら、昨日、今日と習い事に精を出していた。

 文机の上に広げられているのは有名な和歌の本で、和歌を覚えるのと、手習いの練習とを兼ねて数日前から写しを始めたところだった。写す合間に、あちらにいるとき学校で習ったことのある歌などを見つけて眺めたり、時々様子を窺いに来る藤姫と話をしたりしているうちに、気がつけば、その日も既に陽は頂点を過ぎ、ゆっくりと傾き始めている。


「もう陽が暮れてきてるの…?何だか最近、暗くなるのが早くなったよね…」
 

 うっすらと赤く染まり始めた空を御簾越しに見上げながら、あかねが誰にともなくそう呟いた時。


 ――― そよ、と吹いてきた風に乗って、自分を呼ぶ声が聞こえたような、気がした。
 驚いたように、筆を持つあかねの手がぴたりと止まる。


 ――― ずっと聞きたかった声。でも、まだ聞こえるはずの無い声。
 だって彼はまだ遠くにいるはずだから。これから仕事を終えて、京への帰路につくはずなのだから…。


 そう思いながらも気になって手を止めていたあかねの耳に、もう一度、呼ぶ声が響く。今度はさっきよりも強く、はっきりと。



 ――― 庭からだ。



「 ――― 泰明さん!?」

 慌てて筆を置き、御簾を持ち上げて外へ出ると、徐々に夕陽に染まり始めた庭に泰明が佇んでいた。
 すらりとした姿勢の良い立ち姿が、何故か懐かしくさえ思える。
 濡れ縁に出、勾欄の傍まであかねが急いで移動すると、泰明もあかねの方へと歩み寄って来た。
 そしてあかねの顔を見つめると、ふわりと微笑む。


「今、戻った」
「えっ?いま、って…」


 一瞬きょとん、としてからあかねはその言葉に引っかかりを覚える。

 彼は確か、嵯峨野にいたはずだ。
「後二日で帰る」という文を見た時は、嵯峨野からここまでの距離や日中にどれくらい移動できるか、などと色々と考えて、「後二日で仕事が終わる」という意味なのだろうと思っていた。
 だから逢えるのはもう少し先になるのだろうと。

 しかし今日は、泰明からの文をもらってからちょうど二日後。正確にはまだ一日半しか経っていない。
 そして泰明はいつも、「事実」しか口にしない。それが口から発される言葉でも文に綴られる言葉でも「言葉そのまま」の意味で、裏表など無かったのだということに、あかねは今になって思い至る。


 ――― まさか。


 何となく脳裏を過ぎった予感に、あかねはそっと泰明の顔を観察する。
 …思った通り、夕暮れの朱の光の下でも彼の顔は青ざめていて、出かけていく前よりも顔色が悪かった。


「…泰明さん、どうやって帰ってきたんですか…?」
「徒歩(かち)だ」
「もしかして夜中も?ずうっと歩いて?」
「そうだが…」
 次第にあかねの声が沈んでゆくのが何故なのか量りかねているのか、泰明は軽く首を傾げている。
 あかねはきゅっと唇を噛みしめると、泰明の方へ顔を近づけた。

「…この間の私の文、読んでくれたんですよね…?」
「ああ」
 嬉しかった、とそう続けようとした時、唐突にあかねの顔が歪み、翡翠の瞳からぽろぽろと大粒の涙が零れ落ちた。
 泰明が驚いたようにこちらを見つめているのが見えたが、あかねは構わずに精一杯視線を強める。

「だったら!どうしてこんな無茶するんですか!!そりゃ、私だって早く逢いたかったですけどっ、でも、泰明さんが倒れちゃったりしたら…!その方が私はいやです!!」


 一息にそこまで言うと、あかねはしゃくり上げるようにしながらごしごしと目元を袖で拭う。


「…あかね」


 困惑した様子で名を呼ぶと、泰明は彼女の頬をそっと包み込むようにして手を添える。

「私は大丈夫だ。無理などしていない」
「何言ってるんですか!そんなに真っ青な顔してるのに…」

 皆まで言えず、あかねは声を詰まらせた。
 真っ直ぐに泰明を見上げる翡翠の双眸は、まだ涙を湛えたまま、きらきらと輝いている。
 泰明は片手をあかねの首筋に回すとそのまま彼女を引き寄せた。



 ――― ふわっと柔らかく、暖かいものが唇に降ってくる。



「もう、治った」
「………!!!」



 全開の笑顔と共に告げられた言葉に、あかねの雪白の頬がみるみる染まる。
 触れられたところに残るぬくもりと甘い感覚に、眩暈にも似た感覚を覚える。





 …けれどここで言うべき事はきちんと言っておかないと、このままうやむやになってしまい、また同じような無茶を繰り返すかもしれない。
 何が何でもそれだけは止めなければという一心で、あかねはくらくらする頭を必死に支えながら、ぐっと泰明の袖を掴んだ。



 ――― そして。




「…ダメですっ!ちゃんと休んでくださいっ!!」




 半泣きで叫んだあかねの有無を言わせぬ異様なまでの迫力に、さすがの泰明も一瞬言葉を失った。


 そのまま何か思案するように沈黙し………ややあって素直にこくりと頷く。


「…わかった」
「ほんとですか?もう絶対無茶したりしません?」
「しない。お前をまた泣かせたくはない…」


 あかねの言葉に何か思うところがあったのか、泰明は神妙な面持ちで答える。

 だが、その返事にあかねが彼の袖を掴んでいた指を離して、ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間。
 突然、ふわりとした浮遊感を感じたかと思うと、急に視界に映る景色が揺れ、視点が高くなった。

 ――― そして目の前には泰明の顔。



「…えっ?」



 間近で泰明の琥珀色の双眸を覗き込む格好になってしまって、何が起こったのかすぐには理解できず、あかねは大きな瞳を見開いて何度か瞬きをする。


 ――― どうしてこんなにすぐそばに泰明さんの顔が…って、え、ええっ!?


 漸く自分の状態に気がつき、真っ赤になって狼狽えているあかねの様子などお構いなしに、泰明はあかねを抱き上げたまま、すたすたと歩き始める。


「や、泰明さんっ!何処に行くんですか!?」
「邸に帰る」


 さも当然という雰囲気で、泰明はさらりと答える。
 邸に帰る。それはわかる。自分がさっききちんと休息をとって欲しいと言ったのだから。けれど。



 ――― それなら、今の自分のこの状態は、何なのか。



「あ、あの、何で私…?」

 あかねは、混乱と気恥ずかしさでしどろもどろになりながら問いかける。


「このまま帰れば、また暫くあかねと逢えなくなる。だが私は、お前に傍にいて欲しい」


 ――― つまり、このまま邸まで連れて行くということらしい。


 何だかとんでもないことを言われているような気がしたが、抱き上げられていることでただでさえ混乱しているのに、至近距離から綺麗な瞳でじっと見つめられて「嫌か」と聞かれてしまうと、もうどうしていいのかわからなくなってしまう。
 何とも言えない恥ずかしさで心臓は音が聞こえるほどどきどきしているし、思考は完全に停止状態で、あかねは今度こそ本当に卒倒しそうな気分になった。


「〜〜〜〜〜っ」


 抱え上げられた状態で暴れるわけにもいかず、代わりに声にならない声と視線で抗議してみるが全く通じない。
 反対に注がれている視線から目を離すことが出来なくなって、かえって顔の熱さが増してくる。



 ――― 大体、これまで泰明のあの綺麗な笑顔と瞳に逆らえた試しなど無いのだ。
 それに、一緒にいたいのは、自分も同じだから…。



 あかねは結局抵抗することを諦め、はにかみながらもきゅっと彼の首に両腕を回すと、赤く染まった顔を隠すようにしてふるふると首を振った。
 その仕草に泰明が愛おしそうに柔らかく微笑む。




 …――― このままお前を一人にしておいたら、次は何を惹きつけるか分からぬからな ―――…。




 風に乗って小さく洩れてきた言葉に、あかねが不思議そうに首を傾げる中、庭に植えられている桔梗の花がさわさわとさざめいていた…。




§





 それから半刻ほど後 ――― 左京北辺、安倍晴明邸。

 久々に仕事から帰ったという泰明を労(ねぎら)おうと、彼の師である安倍晴明は泰明の住まっている西の対へと向かっていた。

 ――― さて、一体どんな成り行きがあったのやら…。

 邸内の雑事を任せている式神から、泰明があかねと式神らしき者を連れて戻ったと聞いた晴明は、何とも苦笑を禁じ得ない心境だった。
 仕事が終わり、自分への報告が済んだかと思うと休む間もなく、あっという間に龍神の神子の処へ直行してしまい…左大臣邸から帰ってきた途端にこの事態なのだから、それも無理はない。

 泰明があかねを連れてきてしまったのか、あかねが自分からついてきてしまったのか(二人の性格とこれまでの経験からすると、そのどちらも否定できない)は分からないが、今頃左大臣邸では大騒ぎになっているのではなかろうか。
 とは言え、そもそも何でも真面目に受け取ってしまう愛弟子に、「れっきとした左大臣家の姫となった神子姫に妻問いするにはそれなりの身分が必要だろうね」、などと言って仕事をせっせとこなすよう焚きつけてしまったのは他ならぬ自分だった。その手前、泰明が仕事に忙殺されていた間、泰明だけでなくあかねも随分淋しい思いをしていただろう、などと思うと今の泰明の状態にはさすがの晴明も少々、責任を感じていたし、今回の行動も必ずしも責められないのだ。

 加えて当の本人は全く気がついていないようだが、いい加減、泰明の疲労が目に見えてひどくなってきていることも気に掛かる。
 何しろ、もともと自分の躰のことなど殆ど気遣わない質なのだ。このままではいずれ参ってしまうのは明らかだった。
 そろそろ何とか手を打って無理矢理にでも休ませなければならないか、とは思うのだが、特にあかねに関わることで泰明に言うことを聞かせるのはなかなか骨が折れることだった。

 あかねが今ここに訪れているのなら、この際、このまま暫くの間こちらにいてもらった方が泰明も素直に休む気になっていいかもしれない…などとつらつらと考えながら歩みを進め、泰明の住まう対へと到着した晴明は、中に入るなり常日頃沈着冷静な彼にしては珍しく、一瞬、その場で固まった。






 ――― そこには、柱に背を預けるようにして眠る泰明と、その傍らで彼の手を握ったまま、その肩に寄りかかるようにして眠り込んでいるあかね、そして二人を見守るように楚々として座している、女房装束を纏った妙齢の美女の姿があった。






 しばし、どうしたものか、といった困惑した表情で立ち止まっていた晴明だったが、二人の方へ視線をやると、ふっとその顔が和やかになる。






 …まるで話し疲れてそのまま眠り込んでしまったかのように、仲良く肩を寄せ合っている二人の、小さな子供のように無邪気な表情…。

 夕日に照らされて微睡んでいるその顔は、とても安らかでこの上なく幸せそうに見えた。






 起こすのが気の毒に思えるほど気持ちよさそうに熟睡している様子に、晴明は思わず瞳を細める。

 …今回の自分の心配は、どうやら杞憂に終わったらしい。

 その事に安堵しながら、視線を朱鷺色の髪の少女へと移す。


 …龍神の神子。その務めを終えた今もその胎(うち)に龍神の力を秘めている娘。
 こうして見ている限りではまだ時に幼さも見せることのある少女だが、その身に纏う気と魂からは、確かに深い慈愛と優しさが感じられる。


 この少女がただその傍らに在るだけで、泰明は癒されているのかもしれない…そんな思いを抱きながら、晴明は泰明の翠緑の髪に手を伸ばした。

 そして二度、三度と、指先でゆっくりとその頭を撫でる。






「…良い夢を見なさい、泰明…」



――― 決して醒めることなく、色褪せることもない「現」の夢を。






 穏やかな微笑と共に囁くと、晴明は後は頼む、というように二人の傍に座っている花精…紫於音を見、そっと足音と気配を消して立ち去ってゆく。


 お前はこれからどんな風に変わってゆくのだろう…と楽しげに考えながら。



§





………そんなことなど露知らず眠り続ける二人の姿を包むように、柔らかな紅の陽射しが降り注ぐ。
 遙か遠くの山並みにかかる靄が、一日の終わりを告げる鮮やかな夕陽を受けて次第に深い濃紫色に染まってゆく。






…――― 涼やかな秋の風が、夢路を辿る二人の髪をさらさらと靡かせていった ―――…。







FIN.



2001.9.27(THU)UP.
To.橘 桜様vv
〈 Written by Yuki Kugami.2001 〉





とても長い間お待たせしてしまってごめんなさい…。

泰明さんとあかねちゃんのお話を、というリクエストを戴いたのに、
何故かこんなお話になってしまいました…。しかも中身が薄い割に妙に長いし。。
いつもお世話になりっぱなしなので、頑張ってみたつもりだったのですが(泣)。

しかも、今回は「可愛いあかねちゃんを書こう!!」という目標があったのに、その反動か、
泰明さんが後半どんどん我が道を突っ走って(?)しまって、シリアスなのかほのぼのなのかギャグなのか分からなくなってしまって…(滝汗)。

あかねちゃんお持ち帰りを決行した挙げ句のこのオチ…申し訳ないです(涙)。

1000HIT、ありがとうございましたvv


From 陸深 雪





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