∽∽∽紫嵐∽∽∽
《前編》
…―――逢えないことがこんなに辛いなんて、思ってもみなかった―――…。
§
「……………」
住み慣れた左大臣家の自分の部屋で、あかねはひとりぼんやりと空を眺めていた。
時は既に長月の終わり頃。
蒼くすっきりと澄み渡った空は雲一つなく、何処までも続いているかのように高く感じられる。
京の暦の上では既に秋、と言えども、陽射しはまだ強く、日中は日当たりの良いところでただ佇んでいるだけでもうっすらと汗ばんでくる。
加えて、左大臣家の養女となったあかねは、上流の貴婦人のたしなみだと言われて、近頃では以前のような気楽な水干姿でいることもあまり出来ず、小袖に単衣と袿を重ねたものに袴、という姿のため、よけいに暑さが身にこたえるようだった。
この時代の、しかもあかねほどの身分の女性の衣裳は、普段着であっても確かに色使いや柄ゆき、織りなどが凝っていて、着ること自体は楽しいし、嬉しくもある。やはり年頃の少女としては、綺麗に着飾ることには殆ど無条件で心が躍るものだ。
だが着慣れない不自由さから、この衣裳を身につけ始めたばかりの頃は、立ち上がったり歩いたりしようとして裾を踏みつけ、或いは裾が足に絡まってよろめいたことも、一度や二度ではない。
藤姫や女房達の前でだけならともかく、想い人の前でまでしでかすに至って、さすがのあかねも自分の粗忽さが恥ずかしく、呆れられるのではないかと落ち込みかけたのだが、当の想い人自身は「無理をしなくとも良い。お前はお前らしくあればいい」などと優しく微笑み、あかねの抱いている懸念など全く気にも留めていないようだった。
しかし、そう言われるとかえって気になるのが乙女心というもの。
しかも想い人はどんなことでもそつなくこなし、しかも本人は全く無意識であるのにも関わらず、なまなかな人よりもそれが決まってしまう人だった。
―――その人が、こういった見かけやしきたりに拘らないことは知っている。けれど。
このままではいつか自分の粗相で彼や周りの人々に、迷惑をかけてしまうかもしれない。
そんなことは絶対に嫌だったし、何より、彼にふさわしいと思える自分でいたかった。
かくして、「淑女のたしなみ」を身につけるべく、あかねの猛特訓が始まったのだ。
そして―――…。
京に残ってから三か月あまり。
あかねは誰もが目を瞠るほどの勢いでそれらの作法を習得した。
さすがに歌や楽器、香合わせや勉学などはさらりとこなすというわけにはいかなかったが、それでも何とか形は出来てきていたし、手蹟(て)も随分と上達した。礼儀作法に到ってはほぼ完璧と認められるまでになっていた。
もともと、やろうと思うとかなりの集中力を発揮するあかねだったが、今回の頑張りぶりは「恋の力は偉大だね」などと、手ほどきをしていた一人である橘友雅に言わしめるほどだったのだ。
―――しかし。
その成果を一番見てもらいたい人は、いま、ここにはいない。
龍神の力で穢れを祓いはしたが、それまでに生じていた天災やそれによってもたらされていた不安定な生活、疫病などにより京の治安は乱れ、農村は荒れ、京の市中でも野党などが横行していた。
そしてそれに触発されるかのように、いまだあちこちに残る念が怨霊の類へと転化し、少なからぬ害を及ぼすようになっていた。その為、検非違使と共に陰陽寮も又、その新たに現れた怨霊の退治や土地の浄化などの対応に日々追われていたのだ。
しかもかの人は稀代の陰陽師といわれる安倍晴明に師事し、その師にも比肩するずば抜けた能力を持つといわれる弟子であり、加えて今や京を救った八葉という肩書きまである。本人は何も言わないが、皆が目の回るほどの忙しさの中で、他の陰陽師よりも数段重い重責と仕事を負わされているということを、あかねは内裏に出仕している友雅や藤原鷹通、そして永泉などから伝え聞いていた。
…おかげで、ここのところひと月以上もまともに彼とは顔を合わせておらず、逢うことが出来てもほんの二言三言、言葉を交わしただけで帰らなければならないこともしばしばだった。
―――一番最近、逢えたのは、確かお誕生日の日、よね…。
どうしても彼の誕生日を祝いたかったあかねは、その日だけは、少しでいいから逢えないかと、前日に文を送っておいたのだ。
すると彼は、夕刻に彼女の下を訪れ、ほんの一刻ほどの間をあかねのもとで過ごすと、そのまま次の仕事のために嵯峨野へと出かけていった。
そして今も、彼はそのまま嵯峨野で務めを果たしている。
詳しいことはわからなかったが、皇族に縁のある貴族に依頼されたという何やらやっかいな仕事らしく、最後に逢ったときに長引くことになるかもしれないと言っていた…。
「何してるのかな…。大丈夫なのかな?」
ぽつり、と独りごちると、あかねは勾欄にかけていた腕に顎を載せ、溜息をつく。
まだ陽も高い内から濡れ縁に出て勾欄に手をかけるなど、貴族の姫君としては以ての外、藤姫あたりがみれば驚いて注意しに来ただろうが、今のあかねにはそんなことはどうでも良くなってきていた。
仄かに薄暗い部屋の中にいると、どうしようもなく気持ちが沈んでしまって嫌なのだ。
―――淋しい…。
言ってもどうしようもないことだとはわかっている。
神子として京のあちこちを歩き、その実情を知るあかねとしては、今の荒廃ぶりを少しでも早く立て直していくことがどれほど大切なのかということも痛いほどわかっていたし、自分の大切な人がその為に必要な、類稀な能力を持っていることも又、十分に承知していた。
けれど、頭ではわかっていても、心はそうはいかない。
逢いたい想いは日に日に募り…その感情に呑み込まれてしまいそうだった。
彼の人となりからするに、一言「逢いたい」と文を送れば、何を押してでも逢いに来てくれるだろうことは、あかねにもよくわかっていた。
しかしだからこそ………そんなことは書けなかった。
それは単に京の復興のためだとか、仕事の邪魔をしてはいけないとかそんなことではなく、ただ純粋に、彼自身の躰のことが心配だったからだ。
先日、自分の文を見てやって来てくれた彼と最後に逢った時。
久しぶりに逢えて嬉しかったのと同時に、あかねは酷く後悔した。
彼の顔色は冴えず、いつもよりも少し青ざめて見え、疲労と睡眠不足が重なっていることは明らかだった。
驚いて体調について問いただしてみても、なんの問題もない、大丈夫だと言うばかりで。
…そして、あかねに逢えて嬉しいと微笑んでくれた…。
その笑顔が心からのものだとわかるだけに、あかねはそれ以上何も言えなかった。
自分がちょっと我が儘を言ったばかりに、彼に必要以上の無理をさせてしまったと、そう思ったから…。
でも、ここで自分がその事を謝っても、かえって彼の負担になるだけだ。
そんな気持ち故に、結局あかねは別れ際もただ精一杯の微笑みを浮かべて、彼を見送ったのだ。
彼は優しすぎる。そして何より、自分自身に無頓着すぎるのだ。
いつだってすごく大切にしてくれて、想っていてくれて…。
自分自身よりもあかねのことばかりを案じている。
だからこそ、淋しくて逢いたいと思う気持ちと同じくらいに、心配で堪らない。
誰よりも大切な人だから。絶対に喪いたくない、無くせないひとだから、ほんの些細な変化でさえ気になってしまう。
それが、彼のように自分自身でさえ気づかぬ内に無理を重ねてしまうようなひとなら、尚更だ。
いつだって元気でいて欲しい。その為に出来ることなら何でもしてあげたいと思う。
だが、自分にも何か出来ればいいのに、とは思っても、この時代、特に身分の高い女性は屋敷内を切り盛りし、家庭のことを取り仕切るのが役割であって、自由に外出することはなかなか難しい。特に、今やれっきとした左大臣家の姫という身分をもつ自分には、そうおいそれと許されるものではない。
まして、陰陽師の後について仕事を手伝うなど…推して知るべし。
いくらこの身に以前と同じく、龍神の力が消えることなく残っているといっても、振るう場がなければなんの意味もないというのに。
ふぅ、とあかねはもう一度、溜息をつく。
―――せめて、いまどんな状態なのかだけでも判ればいいのに。
何処までも青々と広がる空を見ていると、この先の空がその人と繋がっていて、このまま自分の想いを届けてくれないか、などと思ってしまう。
…こちらに残ったことを後悔などしていないが、こんな時ばかりは、もとの世界の便利さが身に染みて感じられた。
あかねはちらり、と文机の上に置かれている、書きかけの淡香色の薄様に視線を投げる。
少々子供じみているかもしれないと思いつつも、ここの所あかねは、ほぼ毎日のように文を綴っては書き溜めていた。
そしてその内のどれも出すことも出来ないままに、ただ文箱に積み重ねられてゆく。
ここには電話などというものはない。文でさえ、届けてくれるのは人。おまけにその移動手段は牛車か馬。或いは徒歩だ。遠く離れればいつ届くのやら―――いや、そもそも出しても届くものなのかどうかすら、判然としない。
…気が向いた時に電話をかければ、すぐにその人の声を聞くことができ、手紙も同じ国内であれば二、三日もあれば届いてしまう生活に馴染んだあかねにとっては、こうなっては遠く離れたその人の「声」を聞く術など、殆ど無きに等しいようにさえ思える。
それでも、ただ心の中に想いを溜め込んでいると、よけいに塞ぎ込んで藤姫や周りの人々に心配をかけてしまうことは明らかだったため、いつからかあかねは半ば日記のようにしてつらつらと文を綴るようになったのだが。
―――躰は大丈夫なのだろうか。無理をしてはいないのだろうか。
…逢いたい。淋しい…。
言葉を、声を聞きたい。ほんの少しでいいから、顔を見たい。
文を綴っている間中、頭の中に浮かぶのは、そんなことばかり。 どんなに押さえても、当然、したためられる言葉にもそんな想いが表れてしまい…届くかどうかも分からないことも考えると、どうしてもその文を出すことが躊躇われて、結局決心がつかないままに文箱に積み重ねられる数ばかりが増えてしまうのだ。
それに…この文をもしも彼が読んでしまったら、また心配させてしまうかもしれない。そしてきっと無理をして…。
―――それだけは駄目。だから淋しくても我慢しなくちゃ…。
あかねは弱気な思考を追い払うようにふるふると勢いよく頭を振る。
自分は今、独りではない。
この邸には藤姫や仲良くなった女房達、そしてそれほどしばしば話をするわけではないが義理の父親である左大臣がおり、頼久や天真、詩紋もこの邸の一角に住まっている。
そして他の八葉も、以前ほど頻繁ではなかったが、やはり折りを見つけてはあかねを訪ねてきてくれる。
だから大丈夫。笑って待っていられる…。
…そう思い、沈んだ気分を紛らわせようとしたが、駄目だった。
確かに皆、あかねにとって大切な人たちで、一緒にいてくれればやはり楽しいし、嬉しい。
けれど、その人がいないというだけで、心の中にぽっかりと穴が空いたように虚しいような苦しいような、何とも言えない気持ちに襲われ、胸の痛みはかえって増すばかりだった。
少しでも気が晴れれば、と時に美しい庭園や澄んだ青空を見上げても、一向に気分は変わらなかった。
ただ、その美しさがいつもより色褪せて見えることが、よけいに淋しさと切なさを募らせる。
―――神子と八葉だった時は、たとえ務めを果たすためでも、今よりもずっと一緒にいられたのにな…。
眺めていても、少しも心を晴らしてはくれない青空から瞳を逸らすと、あかねは力無く吐息を洩らす。
…その時、ふと、視線を落とした先に、微風に揺れる淡い藤色が映り―――あかねは囚われたようにそれにじっと瞳を向けた。
彼が好きだと言っていた花。それは本来なら時期もすぎてそろそろ萎れてしまうはずなのに、何故かいまだに瑞々しい色を湛えて咲き誇っている。
その上品な優しい色合いと、星のような花弁をした、華やかではないが清楚な美しさは、沈みがちなあかねの心に染み入り、何故か強く惹きつける。
少し前に、彼の住まう対の前の庭にたくさん咲いている内から幾株か分けてもらったその花を、あかねは大切に世話をし、日に何度も眺めてきた。
そうしていると、その人の近くにいられるような気がしたから…。
こんなに心が惹かれるのも、もしかしたらそのせいなのかもしれない。
すらりとした姿で咲くその花を見つめながら、あかねは出かけたきり一通の文も送ってくれない、そのひとの面影を思い出す。
優しいひとだけれど、もともとそういうことには疎いひとだったから、文が来なくとも仕方がないものと思ってはいた。
今までだとて、自分が送れば必ず返事は返してくれたが、彼の方からは文らしい文など殆ど来たことはなかったのだし。
それに、仕事に関してはおよそ「手を抜く」、「怠ける」などということをしない…というよりはむしろ「知らない」ようなひとだから、本当に厄介な仕事で、それこそ文など書く暇もないほど忙しいのかもしれない…とも思う。
―――それでも、唐突に不安になる自分の心だけは、どうしようもなかった。
「…ね、元気にしてると思う?…―――私のこと、忘れちゃったりしてないよね…」
両膝を抱え込むようにしてぽつ、と目の前の藤色の花に語りかける。
言ってしまってから何を言っているんだろうと自己嫌悪に陥りかけたあかねの前で、その花が微かに揺れたような気がした。
ただの気のせいかもしれない。或いは風のせいなのかも…。
―――でも、何だか大丈夫って言ってくれてるみたい…。
そんなことを思い、心が少し軽くなったような気分がしてあかねはふふっ、と声を洩らす。
すると不意にじわ、と眦が熱を帯びた。
あっという間に翡翠の瞳に溢れた透明な雫が、白い頬に細い筋を残して一粒零れ落ち、受け止めた藤色の花びらを震わせる。
あかねははっと顔を上げると、慌てて紅と青の美しい紅葉襲の袖できゅっと目元を拭った。
そしてそのまま袖に埋めるようにして、顔を伏せる。
「………泰明さん………」
囁くようにただ一言、その人の名前を唇に載せる。
大切に、包み込むように。
…それ以上、言葉を声にしてしまったら、淋しさに負けてしまいそうな気がした。
自分の周りにいる人々は優しい人ばかりだから、皆の前で弱気な顔は見せたくない。特に藤姫はひどく心配するだろうから。
―――でも。
………逢いたい………。
そっと心の中でだけ呟かれた声を聞き届けたかのように、藤色の桔梗の花が雫を陽に煌めかせながら、ふわり、と揺れ、緩やかな風に芳しい香りを漂わせていた。
その日の夜、人々がすっかり寝静まった頃。
左大臣邸の西の対、ちょうどあかねの部屋のある辺りの庭に、うっすらと朧気に光る白い霧が漂い始めた。
その霧はゆっくりと時間をかけながら少しずつ濃さを増してゆき、細く輝く月の光を受けて、小さな、けれど眩い光を灯す。
やがてその光に導かれるように、一輪の花からすうっと濃紫色の影が生まれた。
―――それは、昼間あかねの涙を受け止めた、あの桔梗。
そこから生じた靄は白い光と合わさって次第に形を成してゆき…暫くの後、鮮やかな唐衣を纏った一人の女の姿となった。
背に流れる艶やかな髪は、淡い月光の下、青みを帯びた深い紫に輝いている。
その女は緩やかに立ち上がると、優雅に衣の裾を捌きながら足音も立てずにしずしずと歩き出す。
真っ直ぐに、あかねの部屋を目指して。
彼女の歩みの前には、草木はおろか、建物の壁や柱でさえも何の障害にもならないようだった。まるで空気のように、彼女の躰はいとも容易くそれらをすり抜けてゆく。
通り過ぎた跡すら、残さずに。
そのまま、躊躇いもなくあかねの部屋の中へと消えたその不思議な女は、暫くの後、小脇に抱えられるほどの漆塗りの小箱を手にして現れた。
そして再び庭の方へと歩いてゆくと、その奥まった辺りで淡い燐光を発しながら、まるで空気に溶けるようにして消えてゆく…。
§
―――そして。
その日したためていた文が文机の上から消えている事にあかねが気づいたのは、翌朝の事だった。
To be continued….
2001.9.27(THU)UP.