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…――― その日は、朧気でありながら、何処か温かくすら感じられる、柔らかな月の光が降り注ぐ夜だった。
立ち待ち月。
夜空にかかる、まだ上り始めて間もない下弦の月は、満月よりもやや欠けた弧を描くその輪郭を夜の闇にぼんやりと白く滲ませている。
…それは、見つめているとそのまま引き込まれてしまいそうな、夢とも現ともつかぬ不思議な輝き。
決して強くはなく、けれど包み込むかのような。
――― そんな事を思いつつ、あかねは翡翠の瞳を月や夜の帳に沈み始めている辺りのものに遣りながら、寄居している土御門邸へと緩やかに歩を進めていた。
少女の傍を掠めるように吹き抜ける風が朱鷺色の髪を優しく散らし、さわさわさわ…と微かに音を立てながら、道端の草を揺らして通り過ぎてゆく。
肌に触れるそれは連日の日照りの為に渇いてはいるが、夜の涼気を孕んで幾分冷たいほどにも感じられた。
…その風に運ばれてくるのだろうか。
夜の澄んだ空気に混じって、何処からともなく仄かに甘い花の薫りが漂っている。
それは身に馴染んだ、自分のよく知っている…そしてあるひとの好む花の薫りにも似ていて、何とはなしに心が和む心地を覚えさせた。
…そんな感覚の余韻を胸に残したまま、あかねは隣に感じる温もりに、そっと視線を送る。
傍らに在るのは、秀麗で繊細なつくりの、清冽な美貌。
しかし横顔に漂う気配は、それまで常に纏っていた頑ななものとも、つい三日前に感じた何処か張りつめたような苦しげなものとも異なり、仄かに穏やかで柔らかく、それを見つめるあかねの心を安堵させる。
それは、その澄んだ表情が彼の本質そのもののように見えたから…。
自分の感じた印象にくすぐったいような感慨を覚え、あかねは胸の中で小さく微笑を零す。
――― いつもなら、独り、誰よりも先に立って歩くひと。
行く先々の穢れを祓い、神子である自分に少しでも悪しき気の影響が及ばぬようにと。
そんな無言の気遣いに気がついたのは ――― 何時だっただろう?
その時の彼には、確かに八葉の務めとしての意識しか無かったのかもしれない。
自分も、「龍神の神子」であるらしい自分を護るという、「八葉」の一人としてしか、彼の事を見てはいなかったろうと思う。
…いや、それどころか始めのうちは、自分もそのあまりにもとりつく島もない態度に戸惑っていた。
もともとさして気後れなどしない質だったのだが、無駄を嫌い、殆ど表情を動かさず、常に淡々と行動する彼に対しては、どう対処すればよいのか全く解らなかったのだ。
凡そ遠慮や配慮というものとはかけ離れたきつい物言いに驚き、腹を立て、少しばかり傷ついた事も…ある。
けれど今思えば、そこには欠片もひとを傷つけようという「悪意」など無いのだと、心の何処かで知っていた、ような気もする。
何故なら…どんな時も、その琥珀と琅かんの不思議な双色の瞳は、これまで見たどんなひとのそれよりも、綺麗に澄んでいたから。
…彼はただ、純粋に、自分の思った事を口にしているだけ。
そして言葉を飾る事も偽る事も知らないだけ…。
その事に気がついて、その奥に隠された純粋さと不器用な優しさを知って、そして…。
――― 何時からか、自分でも気づかないうちに、目を離す事が出来なくなっていたのだ。
…あかねはもう一度、隣を歩く彼を振り返る。今度は視線だけでなく、その貌を向けて。
――― ふと、そのひとの名を呼んでみたくなった。
「…泰明さん?」
「何だ?」
躊躇いがちにそっと呼びかけたあかねに、泰明は短く答えを返す。
彼の動きに沿うように、翠緑の滑らかな髪がさらりと清水の流れにも似た微かな音を立てた。
――― 真っ直ぐに向けられる瞳。
月光に透ける、二粒の金にも似た琥珀色の輝き。
呪によって刻まれた翳りの拭われた、白皙の容貌。
その落ち着いた様子は常と何ら変わらない。
だが、彼女を見つめる瞳の奥に、そしてよく透るその声の深みに、微かだが案ずるような優しい気配が混じっているのを確かに感じる。
そして、先ほどからずっと、寄り添うというほどではなく、けれど常のように先に立って歩くのでもなく…隣に並んで歩いてくれている。
あかねの歩調に合わせるように、ゆっくりと。
その距離がいかにも彼らしく、今は嬉しい。
…自然に、貌が綻ぶのが判った。
優しく、柔らかな微笑と共に、朱鷺色の髪が少女の仕草に合わせて、月明かりに柔らかに舞う。
「ううん…何でもない…」
…今、隣にいるその人のその双眸は揃いの色に染め変えられ、白く、くっきりと刻まれていた呪の翳りも跡形もなく消え去っている。
それは、彼が「ひと」となった証なのだという。
唯一人のひとを深く、強く想う、その感情を知って初めて解ける呪なのだと。
…それを聞いた時、そしてその呪が解けたのが、他ならない自分の為なのだと告げてくれた時、どれほど心が震えたか、きっと彼は知らないに違いない。
――― 自分にとっては、呪が有ろうと無かろうと「彼」は「彼」だから。
たとえ彼がひとでは無かったとしても、この気持ちは変わらないけれど。
けれど、「生まれがひととは異なる」という事実に彼は自分自身ですら気付かぬうちに、ずっと傷つき、苦しんできたのだから。
その呪が解けた事は、あかねにとっても我が事のように嬉しかったのだ。
…でも。
ここに到るまでに、彼が一体どれほど悩んだのか。
どんなに苦しんだのか。
その総てを知る事は自分には出来ない。
課された使命を果たす為だけに在るのだと、ただそれだけを思って生きてきたひと。
「自分」という存在の特異さに、自身を『道具』だと言い、心や感情があるという事を否定して。
だからこそ、心や感情を表す事に無器用で…それ故に、何も思い悩む事など無いのかと、いつの間にか自分も何処かで錯覚していたように思う。
――― そう、泰明が自分の前から姿を消してしまったあの日まで。
火之御子社で直に言葉を交わすまで、様子がおかしい事はうっすらとは判っても、彼がどんな迷いを抱えていたのか、自分は少しも気づく事が出来なかったのだから。
…そして…彼がいなくなってしまって初めて、自分がどれほど深く惹かれていたのか、思い知らされた。
為す術も無いまま、ただ信じて…願いながら待つ事しか出来なかった時間。
もう二度と、あんな想いは繰り返したくは無かった。
――― だが、それは泰明の苦しみとは比べようもなかったものなのかもしれない。
こうして一緒に歩いている今は、その身に纏う気配すら、とても静かなものになっているのは感じられるけれど。
…これまで自覚した事すらないものを受け容れるという事が、その目醒めたばかりの心にどれほどの負担を強いたのかと思うと、締め付けられるような切なさに胸が痛んだ。
けれどそれが自分と同じ感情故のものであった事に、何処かで喜びを感じてもいる自分自身に、不意に微かな罪悪感のような胸の疼きを覚え、あかねは一瞬、瞳を伏せる。
「神子?」
不意に視線を落としたあかねに、今度は泰明が呼びかける。
出逢ったばかりの頃とは違い、近頃の泰明は彼女の様子の変化に敏感になっているようだった。
たとえ、その時々のあかねの感情を読む事は出来なくとも、何時の頃からか、ちょっとした気の変化も捉えて声をかけてくれるようになっていた事に、今更ながら改めて気づく。
――― それだけ、自分に注意を払ってくれているのだ。
あかねは気を取り直すと顔を上げ、仄かに口の端を和らげて見せた。
さらに、本当に何でもないです、と言葉を重ねるが、泰明は納得し難いらしく、柳眉を寄せてこちらを見たまま、視線を外す様子は無い。
月の光の下で目にするその瞳は、限りなく純粋なもののようにあかねの目には映った。
――― 泰明がこうして自分を気にかけてくれる事は嬉しかったが、今、考えていた事を口にするのは、あかねにはやはり気が引けた。
それは彼の目を見てしまったせいもあるかもしれない。
けれどこのまま黙っていても、彼は恐らく追求を諦めたりはしないだろう、という事も判る。
向けられる眼差しの強さを見れば、自ずと明らかだ。
…いつの間にか、互いに向き合うようにして二人の足は止まっていた。
あかねはどうしようか、と困ったように小首を傾げ、ややあって自分の瞳を覗き込むようにしている泰明の顔を見上げる。
…僅かな、逡巡。
「…明日」
意識するよりも先に、ぽつり、と桜色の唇が言葉を紡ぐ。
鈴の音のようなその声音に、迷いにも似た色を残す風情で。
「明日からは、また…来てくれますか?」
口にしてしまってから、あかねは自分の言った事の中味を改めて認識し、内心、戸惑いを覚えた。
――― 何故、唐突にそんな事を訊ねてしまったのか、彼女自身にも量りかねたのだ。
…もしかしたら、いま、こうして一緒にいる事の意味を確かめたくて。
そこに在る想いを確かめたくて。
ほんの少し、言葉が欲しくて…そんな事を言ってしまったのかもしれない。
あかねは自分自身、次に言うべき言葉も見つからないまま、じっと彼の様子を窺う。
「…お前が望むなら」
見返す、迷いの無い瞳。
低く染み透るような声が、噛みしめるように一語一語、言葉を紡ぐ。
「総てが終わるその時まで、私はお前の剣となり、盾となろう。――― お前を、護る為に」
「泰明さん…」
伏し目がちに語られる言葉と、柔らかな、しかし毅い意思を宿した彼の表情に、あかねは何故か言葉に詰まった。
…向けられるその眼差しが、あまりにも綺麗すぎて。
息苦しいような…何とも言い表しようのない不確かな感情が、不意に心の端を掠める。
――― 総てが終わるまで。
泰明の言葉が、脳裏にもう一度響いた。
それが胸に宿った不可思議な感情を更に煽るかのようで、ひどく落ち着かない心地にさせる。
あかねはその靄のようにぼんやりと、心の深い場所を締め付けるようなそれが何なのか掴めないまま、ざわざわと波立つ自分を何とか抑えようとした。
無意識のうちに袂の下で絡められた両手の指に力が籠もる。
そのまま、微かに揺らぐ翡翠の瞳であかねは泰明を見上げた。
「…傍にいて、くださいね…」
桜色の唇から零れ落ちた小さな囁きは、その日、双ヶ丘で泰明が洩らしたものと同じ響き。
それは泰明の胸に、優しい熱を伴ってゆっくりと滑り落ち、染み入ってゆく。
耳にしたものの齎す感覚に戸惑いながら、泰明は瞳を見開いてあかねの双眸を見つめ返した。
視界に飛び込んでくる萌え出づる緑を映したかの如き瞳は、濡れたような光を宿して深く澄み、ただ自分の姿だけを捉えている。
その美しさに、不意に泰明の胸の胎を、まるで自分が夢とも現ともつかぬ場に在るかのような ――― 捉え処の無い心地が過ぎってゆく。
…あかねを見つめたまま、一瞬、その奇妙な眩暈感に支配されかけた泰明の腕に、遠慮がちに華奢な掌が触れる。
その温かさに琥珀の瞳が瞬かれ、そこに映る少女の姿を捉え直した。
いつも真っ直ぐな感情を映す翡翠の瞳が微かに揺らいでいるのを見、泰明は内心で吐息を零す。
…――― どうやら、自分はまた彼女の心を乱してしまったらしい。
「愛しい」という感情を齎した、このかけがえのない少女を、そしてその心をも護る事こそが、いまの自分の存在意義だというのに ―――…。
泰明はもう一度、その翡翠の瞳と正面から視線を結んだ。
…そして、言葉で答える代わりに、自分の腕に触れている柔らかい少女の手に指を添わせ、しっかりと握る。
そう、彼女の望みは、自分の望みでもあったから。
指先に籠められる力と温もりに、緩やかに…花が綻ぶようにあかねの貌に微笑が浮んだ。
それに応えるように彼が優しげに目元を細めるのを目にし、更に心が解けてゆくような感覚が湧き起こるのを感じる。
――― いま、この時に同じ時間を共有しているのだと、そう、思えた。
…彼は、還ってきてくれた。
その名を呼べば、きちんと答えてくれる。
望めばいつでも傍にいて、自分を護ってくれる。
そして時折…あの透明に澄んだ、綺麗な笑顔で笑ってくれる。
それでいい。
…そう、今は。
それだけでいい。
こんな穏やかな時間が在るのなら、
それだけで…充分に、自分は幸せな気持ちになれるから…。
――― 或いはそれは祈りだったのかもしれない。
願いだったのかもしれない。
けれどいつの間にか、こんな時間がこの先も続いてゆくのだと、そう思っていたような気がする。
そして自分達の心は、通じているのだと。
…今、思えば。
きっと私はその時、その先の事など…考えたくは、無かったのだ。
この瞬間に感じた、微かな…形の見えない感情の事さえも。
――― それまでの物思いを振り切るように、あかねは小さく吐息をついた。
そのまま、全身に降り注ぐ月光を辿るようにして、次第に闇を濃くしてゆく深い藍色の夜空を見上げる。
不意に夜空を仰いだ少女の様子に訝しげに眉を顰めた泰明が、その視線を追って自らもそちらへと瞳を向ける。
振り仰ぐ視線の先、琥珀色の双眼に映るのは、日に日に少しずつ欠けてゆく、天を彩る真円。
…それはあたかも流れゆく時を…その限りを刻むかのように。
刻々と、光を受けて輝く己が身を削り、夜陰へと潜ませてゆく…。
惜しげなく放たれる、眩く、しかし何処か朧に揺らぐ月の光が、瞳を介して躰の胎にまで差し込んでくるかのような奇妙な錯覚を覚え、泰明はふっとその双眸を眇めた。
「…月が欠けるな…」
何気なく紡がれたかのような言葉に惹かれるように、少女が泰明の方を振り返る。
彼の瞳は、今だ月影に囚われたままだった。
その視界を遮るように叢雲が月を掠め、ぼんやりと浮かび上がるその輪郭が、僅かに翳った月明かりに透けて闇の中に溶け込むように淡く映る。
何処か遠くを見透かすかのような儚げにすら見える横顔と共に、誰に言うともなく零れ落ちたその時の一言が、何故か焼き付けられたかのように強く、あかねの胸に残った。
…――― それはまだ、二神が鬼に囚われていた、皐月の半ばを過ぎたばかりの宵の頃…。